< 1. 現在も繰り返されるファシズム >
前回、軍人が暴走する様子を見ました。
今回は最も重要な「日本はなぜファシズム化したのか?」を検討します。
はじめに
ファシズムを広辞苑より引用します。
「全体主義的あるいは権威主義的で、議会政治の否認、一党独裁、市民的・政治的自由の極度の抑圧、対外的には侵略政策をとることを特色とし、合理的な思想体系を持たず、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を宣伝する」
ファシズム化の三段階を想定します。
A: 人々は社会と政治に絶望していた。
B: 人々は対外的なものに不安を感じ、かつ対外的なものにこそ活路があると信じ始めていた。
C: 人々は、この絶望と不安を解消し、一気に解決してくれるカリスマ的指導者を待望した。
これを同時期のドイツと比べてみます。
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A: 絶望。
長く続いた元勲や軍閥の政治から政党政治に変わっても政治状況は良くならなかった。
人々が期待した政党政治(2、3党)も金権腐敗(賄賂、癒着、利権)と罵り合いに明け暮れるだけで、社会と経済は良くならなかった(既に見ました)。
1921年から1931年までは日本初の政党政治の開花時期だったが、未成熟なところに運悪く最悪の経済状況が圧し掛かり、うまく対応出来なかったことで混乱に陥った。
1920年代に連続した災厄や恐慌の半分は政府に起因したものではなかった。
また日本は集約農業から一気に重化学工業(資本主義経済、都市化)への転換と巨大な軍事費に喘いでいたので無理からぬものがあった。
私が注視するのは、累進性の無い苛税と貧弱な社会資本投資の為に農民が困窮し続けて、貧富の差が目立ち、やがて蓄積された不満のエネルギーが爆発したことです。
この状況はドイツの方がひどかった。
B: 対外的なものに抱く不安と活路。
明治維新以来、帝国列強の侵略と、1910年代以降、海外で吹き荒れた共産主義革命への恐れがあった。注釈1.
急激な都市部の発展に連れて盛んになる労働運動(一部過激なテロまで進む)、それを煽る反権力の新聞は政府や軍部にとって邪魔ものでしかなかった。
政府は体制批判に繋がるすべての社会運動と言論の封じ込めを強化していった。
一方、裏で左翼を嫌う右翼(国粋主義者)の利用と容認も進んだ。
こうして議会は国民が待望した普通選挙法を1925年(28年実施)に成立させる一方、同年に治安維持法を成立させた。
この言論弾圧の体制は徐々に進行していて、この治安維持法の前身となる法は議会で一度廃案になっていたが、緊急勅令(23年、天皇許可)で成立していた。
かつて憲政の父、尾崎行雄が、桂首相を罵倒した時も「・・玉座をもって胸壁となし、詔勅(天皇の意思)をもって弾丸に代えて、・・」と指摘したように、天皇の口添えは幾度も繰り返されて来たことでした。
こうして国民は望むはずもない首輪を自らの首にかけることになった。
これにより政府転覆(左翼革命)への恐怖を取り除いたかに見えた。
これを望むのは、概ね体制を維持することで権益を守り発展させることが出来る人々です。ドイツなどでは中間層(保守層)がファシズムを支えたことがわかっています。
当然、このような形で社会への抑圧が進む時、二つのことが起きた。
一つは、底辺の人々の訴えと生活が無視されていくことになった(貧富の差拡大)。
不思議な事に、ファシズムのスローガンとは逆の事が起きて行きます(ドイツも同じで本質的)。
今、一つは敵対者を暴力で排除する社会になったことです。
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一方で、1910年までに日清・日露戦争と朝鮮併合を終え、日本国民は植民地での抗日闘争の激化もあり、異民族への嫌悪を深めていた。
政府は植民地での都合の悪い事実を隠蔽・捏造し、さらに武力による制圧を繰り返す内に益々、両国において憎悪と蔑視が深まることになった。
軍部の考えは世界一を決する日米対立が最大の焦点であり、ソ連の恐怖は二の次とした。注釈2.
ソ連との決戦は満州に出ることにより必然となるが、当時ソ連は革命中で、外征は眼中になかった。
さらに政府は、平和ボケした米国が日本を相手に戦う気は無いと楽観していた。
中国については、相手にもしていなかった。
予測はすべて見事に外れるのだが。
当然、これら情報は必要に応じて針小棒大に喧伝された。
こうして、希望の実現の為に暴力で不安と恐怖を排除する合意が出来上がりファシズム化が始まりました。
人々は、一致団結して海外の不埒な民族を武力で制圧することで、国民は新たな天地を得て絶望から脱せると信じ始めた。
当時、五族共和とか大東亜共栄圏と謳われ、多くの人々が願いまた信じたが、結果は一方的な武力制圧に終始したので侵略に他ならなかった。
この経緯はドイツと日本では多少異なるのですが、暴力と外征に向かう状況は一緒でした。
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C: 立ち上がった軍人達がいた。
ここから日本とドイツのファシズムに大きな違いが出て来ます。
この前段階の「絶望」「対外的な不安と活路」は基本的に同じと言えます。
ドイツと異なるのは、右翼勢力(ナチス)を率いる独裁者(ヒトラー)が日本には存在せず、多数の軍人(文民政治家も)が入れ替わり立ち替わり戦争拡大を担ったことです。
言い方を変えれば、「皆で渡ろう・・・」(集団無責任体制?)に似ている。
ヒトラーは絶望する民衆に「かつての大帝国の復活(領土を取り戻す)、ユダヤ人排斥、反共産主義」を訴えることで国民の絶大なる信認を得た。
日本も「大帝国を築く(満州からアジア全域)、他民族の上に立つ(五族共和)、反共産主義」と、基本的なスローガンは一緒でした。
ドイツでは社会主義革命以降、既に国軍(幹部は貴族出身)が政権を握っていたが、初めヒトラーを信用しておらずファシズムとまでは言えなかった。
ヒトラーは初めこそ労働者の不満を利用したが、政府転覆の為に資本家と国軍トップに擦り寄り、ナチス独裁を成し得た。
日本では長らく軍事大国への道を突き進み、成功体験もあり、さらに未発達な民主主義の下、クーデターの混乱に乗じ軍閥が再度政権をより完璧に掌握することが出来た。
国民の一致団結に必要なカリスマ的指導者に、ここでも天皇が祭り上げられた。
こうして、この象徴の下に一丸となって進むことが出来た。
この軍閥を中堅将校が暴走し牽引する形で、容易に戦争を拡大させ、ここにファシズム体制が完成した。
日本では、右翼の存在は左翼潰しと言論封じ込めに利用され、混乱を招いて軍閥政治移管に利用されただけに見える(ドイツに比べて)。
次回で最終話になります。
注釈1: 今回のテーマでは一貫して海外列強の脅威を大きく扱っていません。
これは重要なのですが、話が複雑になることもあり割愛しました。
それに変わるとも劣らない大事なことがあります。
日本が日清戦争から太平洋戦争へに至る過程で、敵国が初めから立ちはだかっただけでなく、日本の侵略行為が相手の敵愾心を増大させたことです。
例えば太平洋戦争中盤(1943年)になると、米国は日本の北方領土割譲を餌にソ連の参戦を促しました。
このように自国の軍事行動が戦争拡大を招くる過程はあらゆる戦争、ベトナム戦争、ユーゴ内戦、イラク戦争などで見られます。
もう一つは、戦争が敵国の存在云々よりも自国の内部要因により起こることが多々あります。
その典型がドイツのファシズムです。
したがって国内状況の分析が非常に重要なのです。
注釈2: 1920年代以降の帝国国防方針、石原莞爾の「我が国防方針」、陸軍幕僚による木曜会の満蒙領有論から推察した。