20210219

国境の島、対馬を訪ねて 6: 厳原の街を歩く 4

  


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朝7時から8時まで城下町を散策しました。

早朝の対馬を感じ取ることが出来ました。

また対馬と神々、朝鮮半島の深い繋がりを知る事が出来ました。

 

 

 

< 2. 散策ルート、上が北 >

赤線が今回紹介するルート、茶色線と黒線が次回紹介するルート。

下の対馬ホテル前から歩き始め、国分寺で撮影は終了。

上側の赤矢印が桟原城跡(陸上自衛隊駐屯地)、青矢印が旧日新館門。

左下側の黒矢印が金石城跡と万松院です。

つまりこの範囲が対馬藩時代の城下町になります。

 

 

 

 

< 3.ホテルから八幡宮神社まで >

 

上: 振り返ると右側にホテルが見える。

朝、ほとんど人を見ず、静かな通りというか寂れている気がした。

 

下: 八幡宮神社の鳥居が見えた。

後ろが清水山で、神社の前を左右に通るのが馬場筋通りです。

 

 

 

< 4.馬場筋通り >

 

上: 西側を望む

右手側に金石城跡がある。

 

下: 東側を望む

石塀や武家門が残る通りは、右手側にあります。

 

 

 

< 5. 八幡宮神社 1 >

 

一つ目の鳥居を抜けると、大きな駐車場があり、その奥に二つの鳥居がある。

山の麓まで森が延び、神社は木々でなかば覆われている。

 

上: 左側の鳥居を抜けると天神神社(今宮若宮神社)がある

ここには安徳天皇と菅原道真公が祀られていたが、後に小西マリアが合祀されました。

彼女は関ヶ原の戦いの翌年に宋義智に離縁されおり、後に怨霊を恐れてこちらに祀っられたようです。

 

 

下: 上の写真の右側の鳥居

この鳥居を真直ぐ抜けると宇努刀神社、右に行くと神門、八幡宮神社に至る

 

ここには社がつあり、由緒は古く日本書紀に始ま

境内にある八幡宮神社と平神社は延喜式神名帳(平安時代中期)に記載されていた。

ただ当時は八幡宮神社でなく和多都美神社であった。

この経緯は面白いので後で説明します。

 

 

 

< 6. 神門と宇努刀神社 >

 

上: 階段の上の神門を右手に抜けると八幡宮神社

 

下: 宇努刀神社が見える

この左に天神神社があります。

 

 

 

< 7.八幡宮神社と宋義智公の像 >

 

上: 八幡宮神社の拝殿

この左奥に本殿があります。

 

下: 小さな公園に宋義智公の像が立っています。

これから公園右手の路に入ります。

 

 

 

 

< 8.中村地区 1 >

 

城下町の風情が石垣や門から感じられる。

 

上: 宋義智公の像がある公園

 

下: 半井桃水館

彼は明治期の新聞記者・小説家で、樋口一葉の師として知られている。

 

 

 

< 9.中村地区 2 >

 

通りを南北に望む。

 

 

* 八幡宮神社から見えて来る対馬の古代

 

平安時代延喜式に記載された神社(官社、式内社)が九州全体で98社あったが、うち約3分の1にあたる29社が対馬に集中し、九州最多で、壱岐の24社を加えると、両島で九州の半数を超えていた。

この理由は、和多都美神社を紹介する時に説明します。

 

この八幡宮神社は以前、対馬に三つあった海神を祀る和多都美神社の一つでした

祭神が変わったのは、対馬で国防意識が高まり、三韓征伐を成し遂げた神功皇后を武神として祀るようになったからと考えられる。

 

日本が朝鮮半島に出兵したのは大きく四回ありました。

最初が神功皇后による三韓征伐、次いで天智天皇の白村江の戦い、豊臣秀吉による朝鮮出兵、日清戦争がありました。

すべてについて対馬は橋頭堡となりました。

一方、本土が朝鮮半島から攻められたのは元寇だけでした。

対馬に限れば、上記外に幾度も攻防がありました

 

八幡宮神社の社伝によれば、

「神功皇后が三韓征伐からの帰途、対馬の清水山に行啓し、この山は神霊が宿る山であるとして山頂に磐境を設け、神鏡と幣帛を置いて天神地祇を祀った。」

とあります。

 

 

 

 

 

< 10. 三韓征伐 >

地図

https://www.tsushima-net.org/wp-content/uploads/2020/08/tsushima_shrine_guidebook.pdf

 

三韓征伐は、神功皇后が自ら新羅出兵、新羅・百済・高句麗を服属させたとされる戦争です

日本書紀などに記載されたこの戦争は2~3世紀と推定される。

これが伝説だとしても、この前後の6世紀間に亘り、倭国は新羅や百済などの王朝と深く関わり、幾度も半島に出兵していることは事実です。

 

 

上: 三韓征伐の絵

 

下: 神功皇后の航路

青破線が行き、赤破線が帰りの航路。

 

ここで興味深いのは、朝鮮半島と九州との往来は、対馬を島伝いに北の比田勝港と南の厳原港点にし、行きは東海岸、帰りは西海岸を使っていることです。

なぜ対馬は朝鮮半島により近いのに、倭国の文化圏に入ったのか?

この答えのヒントになりそうです。

 

これは対馬海流が年中、対馬の両側を南から北へ流れ、流れは8月が最も強く、2月が最も弱く、半分にもなり、冬になると季節風が朝鮮半島から対馬に向かって吹いてくることと関係していると考える

 

おそらく夏は九州から海流に乗り壱岐を経て対馬へ行くことは容易だったのだろう

帰りは、冬の季節風(北西風)を待てば、海流も弱く追い風で帰れたのだろう。

さらに対馬の西側(朝鮮海峡)の海流は東側に比べ弱いことが、朝鮮半島からの往来が不利になったのだろう

この時代はまだ帆船を使っていなかったから、櫂で漕ぐとなればなおさらだった。

 

神功皇后10月に朝鮮半島に渡り、12月には福岡に戻っていた。

これはほぼ理に叶った航海時期と言えるかもしれない。

 

おそらくこうして対馬は倭国、日本の文化圏に属したのだろう。

 

 

< 11. 対馬の神社と神話 >

https://www.tsushima-net.org/wp-content/uploads/2020/08/tsushima_shrine_guidebook.pdf

 

下図: 現在、対馬の神社130社の位置

江戸初期、対馬には神社が455社あった。

この地図では、平地が少ない対馬らしく、社は海岸に近い所に多いが、かつては山頂などにも多かった。

 

上表: 日本神話と対馬の神々の関り

日本神話の神々と広く関りがあるが、豊玉姫などの海神とのかかわりが強いようです。

後に詳しく語ります。

 

 

次回に続きます。

 

 

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