20191129

中国の外縁を一周して 8: 廈門を訪ねて 4




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今回は廈門の住宅事情と中国経済の実情を紹介します。


 
< 2. 廈門一等地の高層マンションにて >

上: これは廈門島の中心部にあるマンションの外観です。
このマンションが建つ一帯では、中の一戸が日本円で1億円を超えるものがある。
それもここ十年数年で値上がりしたようです。

下: この一室から、大きな湖に囲まれた美しい白鹭洲公园が眺望できる。
湖の向こうに廈門の高層ビル群が見える。
この一室で、ある経営者にインタビューすることが出来ました。


* 面白い経済の話が聞けました

彼の事業は、父親の代から続くブランド帽子の製造販売です。
父も彼も台湾出身ですが、30年ほど前から製造を中国で、主な輸出先は日本だそうです。
彼は営業事務所をここに定め、日本に行ったことはないが、日本語はペラペラでした。
気安く何にでも答えてくれた彼に感謝します。


幾つかポイントだけを紹介します。

A 偽ブランド問題 
彼の発言:
中国国内のネット通販で、この会社の偽物が出回ることがある。
大手ネット通販に訴えても、「個々の参加会社についてタッチしないし、個人情報なので・・・」との返答で、埒が明かない。
諦めているが、最近の傾向として、中国もブランド志向になって来たので助かっている。

B 製造拠点は中国で良いのか?
彼の発言:
コスト的にはベトナムなどが良いが・・・。
移転するなら20年前に決断すべきだった、今さら遅い。
しかし、中国は製造ネットワークが整って来たので、中国残留でもメリットが出せる。

C 店舗販売とネット販売
彼の発言:
我々は日本や店頭販売に重きを置いている。
ネット通販拡大を脅威とは思っていない。

私の感想
Aについては、予想通りで、あまり当局による規制が進んでいないように思う。
ただ他の場所で得た情報では、食品の安全性については規制が功を奏しているようです。

Bについては、製造ネットワークの向上が良い状況を生むだろうとは感じていたので理解できた。
しかし産業構造を二次産業から三次産業へ、高付加価値製品へと代えなけらばならい。

Cにつては、負け惜しみともとれた。
彼のグループの全製造員が減少傾向にあるので影響があるようだ。
但し、人数減については生産性向上が寄与しているのかもしれない。

やはり台湾企業は、直ぐ隣りにあり、気候と言語が同じ廈門を進出先に選び易いのだろう。




 
< 3. 廈門の裏町の安アパートにて >

今度は場所を代え、安アパートに訪れました。
ここは大きな道路に面した建物群(上の写真)から一歩裏に入った所にあるアパートです。
三階建てですが、一戸はそれぞれの階のそれぞれ一部屋に過ぎず、部屋にはトイレとシャワーがあるだけです(廈門では湯船を使わないのかも)。
部屋の広さは独身であれば狭くないが、台所はない。
給与の相場から考えると、家賃は重荷になるだろう。

やはり地方から来た人には、都市部の高騰する住居費は厳しい。



 
< 4. 厦门市图书总馆 >

上: 図書館の前から反対方向を見た。
ここは大きな文化広場で、文化館、博物館、科学館、ショッピングセンターなどが集約されている。

下: ここは廈門島の中心部にある図書館で、正面に入り口があります。
中に入りましたが写真は撮っていません。

一番の特徴は、広々としており、書架が低いこと、そして中央に大きなジャングルのような中庭があることです。
また読書・自習用の机が書架の横に数多く広がっていることで、オープンな感じがしました。

本の貸し出し手続きは、皆、読み取り器を使いセルフでやっているようで、合理化が進んでいた。



 
< 5. 夕食は海鮮料理 >

ここは島の北部、内海に面した厦门夏商国际水产交易中心に隣接する巨大な海鮮レストラン街の一つ兴旺海鲜城です。
ここで待望の海鮮料理を味わいました。

中に入って驚きました。
十数年前に入った2軒の海鮮料理レストランとはまったく趣と規模が違いました。
前回は、川に浮かぶ小さな船上の食堂と、外人向けの高級海鮮料理レストランでした。
前者の味は素朴で、後者は洗練された味でした。

どちらにしても、これほどの大量の生け簀を前にして、食材を選ぶとは凄いの一言です。
値札に16円/元を掛けたら日本の金額になり、これら食材を何種類か選んで、料理方法を伝え、2階のレストランで食べます。
2階レストランは広いにも関わらず、また水曜日の夜だと言うのにお客で一杯でした。
これらは中国の日常の食費からすれば高いのですが、よほど生活が豊かになったのでしょうか。

以前、韓国の市場で海鮮料理を食べたことがありました。
市場で食材を選んで、食堂で料理を頼むことをしましたが、規模が違います。


 
< 6. 店内とレストラン街 >

どのレストランも繁盛しているようでした。


次回に続きます。




20191128

晩秋の北関東をドライブしました 2: 史跡足利学校


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今回は、旅行の最初に訪れた史跡足利学校を紹介します。
当初、期待していなかったのですが、見応えのあるものでした。
さらに素晴らしい秋晴れと紅葉が迎えてくれました。
また北関東の歴史を少し知ることが出来ました。


 
< 2.地図、概ね上が北 >

上:  足利市大観、鳥瞰図 
南側の西から東に渡良瀬川が流れており、その北側中央に足利学校があります。
中央の山の奥、北側に宇都宮、日光があり、昔は日光街道、さらには奥州街道に至り、逆に向かえば江戸に至る。

下: 足利学校の地図。
現在の姿は平成2年に復元されたものです。
堀に囲まれた、凡そ一辺120mの敷地に様々な建物があります。
ここは日本遺産、近世日本の教育遺産群として全国で4カ所、内関東で二ヵ所の水戸の弘道館と共に足利学校が認定されています。


 
< 3.足利学校の全景 >

下: 学校を陸橋から見下ろした。


 
< 4. 同じ陸橋から南北を望む >

上: 北側を見ている。
左に足利学校、さらに奥に足利氏館跡・鑁阿寺(ばんなじ)がある。

下: 南側を見ている。
直ぐ手前、大きな銀杏の木がある所が無料駐車場です。
さらに向こうには渡良瀬川が流れている。


 
< 5. 足利学校に入る >

上: 最初の門、入徳門です。
ここを入ると右手に料金所があります。

下: 次いで学校門です。



 
< 6. 中に入った >

上: 学校門を内側から見た。
この反対側には孔子廟があり、その前に杏壇門(きょうだんもん)があるのですが、工事中でした。
実はこの孔子廟が重要な役割を果たしていたのです。

下: 上と同じ撮影場所から方丈(ほうじょう)と庫裡(くり)を望む。
方丈とは禅寺の本堂です。







 
< 7. 方丈と築山のある庭 >

庭の銀杏が黄色に輝いて美しかった。


 
< 8. 庫裡から中に入る >

庫裡は竈のある土間と板敷きの台所がある所ですが、館内見学はここから入ります。
入って左側に方丈の大広間が見える。


 

< 9. 真直ぐ進むと書院に至る >

上: ちょうど市民による論語の書写体験が行われていました。
 
下: 書院の外観。
庫裡から書院にかけて、足利学校の歴史が展示されています。




 
< 10. 書院の景観 >


 
< 11. 方丈の大広間と庭先 >

上: 大広間ではちょうどかるた会が行われていました。

市民が文芸に関心を持ち、ここを利用していることに感銘を受けました。
歴史の重みを感じます。




*足利学校に想う
16世紀、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして最も有名な坂東の大学」と称したのが足利学校です。

なぜここに日本最古と言われる学校があるのか?

このような北関東のさらに北部の山裾にあり、中山道や日光街道からも少し外れているこの地に、なぜ。

ここのボランティアの説明員に問うと、幾つか理由を挙げてくれた。
その中で気になったのが、この地は足利氏発祥の地であり、交通の要衝だった、また昔から文芸を大事にする土地柄との答えでした。

ここは源氏姓足利家発祥の地であり、後に将軍家足利尊氏が出ることになる(生誕の地は異なるが)。
足利学校誕生の経緯は定かではないが、大まかに言うと以下のようでしょう。

古くは平安時代、足利家がここに学校を建てたらしい。
後に将軍家に連なることが存続に幸いしたことでしょう。

室町時代に転機が訪れます。
関東管領の上杉氏が、この学校の再興に尽力し、孔子の儒学を中心とした教育を行います。
彼は金沢文庫も再興している。
この後、学徒三千といわれる事実上日本の総合大学、最高学府となって行きます。
しかし江戸時代には既に足利家が滅んでいたこと、また学問が時代遅れになっていたことで衰微していった。

ポイントは、当時から足利氏の荘園が関東で優勢であったこと、またこの地が文芸に造詣が深い関東管領上杉氏の領地になったことが大きいようです。
さらに中山道と日光街道から離れているとは言え、江戸時代、その両街道を結ぶ日光例幣使街道が足利を通っていた。
つまり、ここは渡良瀬川もあり古くから交通の要衝だったのでしょう。



 
< 12. 昼食 >

足利学校の門前にある「麦とろ銀丸本店」で昼食をとりました。
ここを選んだのは、足利学校内でボランティアの説明員の方に、足利の名物と聞くと、蕎麦だと言われ、この店を薦めてくれました。




 
< 13. 二人が頼んだ蕎麦のセット >

かなり待たされたが、手の込んだ美味しい料理でした。
店の作りと雰囲気も良かった。


 
< 14. 渡良瀬川の上流を望む >

川の上流に赤城山が見える。
その遥か遠くに、今日の宿泊地、草津温泉がある。

茨木空港から足利に来るまでの高速道路沿いの紅葉は綺麗だったのですが、自分が運転しているものですから写真が撮れなくて残念でした。

次回に続きます。






20191127

中国の外縁を一周して 7: 廈門を訪ねて 3





 
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今回も引き続き、廈門島を紹介します。
写真は2019年10月16日(水曜日)の
10:30~14:00に撮影したものです。





 
< 2. 开禾路 1 >

こちらは前回紹介した新民菜市场より規模が大きく、水産物の品揃えが豊富でした。
それも生きている魚や海老、貝が狭い店内に大量に並べてあった。
の通りから300mほどで河口なので可能なのでしょう
地元の人が行き交い、多くの人が気楽に買って行く。
生活が豊かになっている印象を受けた。



 
< 3. 开禾路 2 >


 
< 4. 高架の正体 >

上の写真: 私は右の高架は高速道路と思っていたが、違った。
以前は無かった。

下の写真: この高架には駅があって、見に行くことにした。
ここは先ほどの开禾路(市場)のすぐ近くです。

 
< 5. 新交通システム >

上の写真: 階段とエスカレーターを使い、途中の階にある駅で切符を買い、最上階まで上がった。
そこはバス専用のレーンでした。
試しに一駅だけ乗りました。

現在、廈門ではこのような新交通システムや地下鉄が続々建設中です。
廈門島内の移動は、友人の車駐車場が少ないのでタクシーを利用したりまたこのバス出来立ての地下鉄を使いました。

 


< 6. バス駅付近の景観 >

この辺りは古い町並みと高層マンションが混在しています。


 
< 7. 廈門大学  >

上の写真: 門をくぐって振り返ったところ。

実はこの門をすんなりと入れなかった。
門の前で、この大学の職員と待ち合わせし、一緒に中に入ろうしたら、警備員が制止し
一緒の職員が交渉して、やっと入れた。
中に入ると、意外にも多くの中国人観光客が団体で見学していました。

廈門大学は国立大学で中国の国家重点大学42校の一つです。
ここは有名大学でもあるのですが、緑に覆われ、キャンパスが広く、武漢大学と並んで『中国で最も美しい大学』と言われています。
かつてニクソン大統領が廈門を「東洋のハワイ」と称えたことがあるのですが、正に大学はそれに値します。


 

< 8. 構内を行く >

先ず歩いて気付くのは、東南アジアの留学生が多いことです。
全学生4万人の内、海外からの短期研修生や留学生は4千人ほどいるそうです。
これは廈門大学が他の大学より国際交流に力を入れているからで
これもかつて廈門が諸外国の共同租界地(コロンス島)だったことそしてこの大学が華僑のリーダーによって創立されたことに起因しているのでしょう。

写真に写っているのは学生寮や食堂、講義室などです。
かなりの学生が寮で生活し、キャンパス内に食堂が10棟以上あるそうです。
寮費や学費は安い。
建物は新旧あるが、古いものにが感じられた。


 

< 9.図書館 >

下の写真: 中に入りたかったのですが、写真撮影を断られたので諦めました。


 

< 10. 南普陀寺 1>

この寺は唐の末から五代にかけて禅寺として始まり、今は在外華僑の信仰を集めているそうです。
現在は僧侶の教育機関として残っている。

この日の昼食は、ここで精進料理を食べました。
ここでもスマホの洗礼を受けることになった。
大きくないレストランなのですが、お客さんは店内のテーブルに居ながらスマホで料理を注文しているのです、皆が。
当然支払もスマホでした。

十数年前にも一度訪れているが、相変わらず寺への訪問者は多かった。
この寺の裏山は少し登ると景色が良く、前回は多くの中国人観光客が列をなして登っていた。
ちょうど中国国民が、国内旅行に行き始めた頃でした。

当時、このことで感動したことがありました。
私が友人に連れられて厦門の海岸に着くと、砂浜に沿って無数の中国人が海に向かって立っていました。
そして夕陽が沈み始めると、一斉に歓喜の声を上げたのです。

友人の話では、彼らは海の無い奥地の貴州省からの観光客だそうで、海が珍しいかったのです。
しかし今や、中国人の国内旅行者数は50億を超え、また海外旅行者数は年間1億5千万人になった。
恐るべき急激な変化です。

私達は、中国人の日本での爆買いに目を奪われがちですが、その底流にあるものにも気付くべきです。




 
< 1. 南普陀寺 2 


次回に続きます。


20191124

晩秋の北関東をドライブしました 1: はじめに





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念願の草津温泉と日光東照宮を訪れ、
二十数年ぶりの北関東をドライブしました。
時は晩秋で、爽やかな快晴の中、絶景と美しい紅葉に出会えました。
これから数回に分けて紹介します。


*旅行の概要

トラピックスのホテル+航空券+レンタカーのセットを申し込みました。
宿泊は草津温泉と鬼怒川温泉です。
飛行機で神戸と茨木空港の往復です。
レンタカーは丸三日間利用で、総走行距離は730kmぐらいでしょうか。

訪れたのは2019年11月17日(日曜日)から19日です。
少し曇った時もあったが、全般に快晴で風が心地よかった。

今回の狙いは、観光としては温泉と紅葉、日光東照宮です。
また北関東の街並みや山野の風景、そして歴史遺産を訪問し、北関東をよく知りたかったからです。


 
< 2. 旅行のルート、上が北 >

上: 赤線が飛行機、茶線がドライブルート、赤線の四角が宿泊地です。

下: 拡大図。
地図の番号に従って訪問地を紹介します。

1. 史跡足利学校: 最も古い学校として知られ、平安時代の足利家に由来する。

2. 富岡製糸場: 日本初の官営製糸場で世界遺産。

3. 草津温泉: 「にっぽんの温泉100選」で第一位。

4. 吹割の滝: 知名度は高くないが、川床が割れた滝で、渓谷が紅葉で覆われ美しかった。

この間、標高1840mほどの峠を越える時、道路脇の日陰に雪が残っていたのでヒヤリとしました。

5. 戦場ヶ原: 中禅寺湖の上にある湿原、この時期は枯れ野に過ぎないが。
  
6. 中禅寺湖と華厳滝: いろは坂も紅葉は過ぎていた、残念!

7. 鬼怒川温泉: 「にっぽんの温泉100選」で第二十一位。

8. 弘道館: 水戸藩の藩校で、藩校の中では最大規模。
   水戸学発祥の地であり、徳川斉彬・慶喜との因縁が深い。

9. 予科練平和祈念館と雄翔館: 海軍航空隊での活躍を目指した若者が、時代に翻弄され特攻隊員として散っていた。これを記録展示している。

10.日光東照宮と輪王寺: 徳川家康と家光の霊廟があり、世界遺産です。

1~7までは番号順に訪問しましたが、日光は鬼怒川温泉宿泊の翌日、朝一番に訪れ、その後、8,9と訪れました。



 
< 3. 足利学校と富岡製糸場 >

足利学校は地元の人によって今も文化と教育の場としての伝統が守られていました。

富岡製糸場には入らなかった。
元々時間が足らなかったが、駐車場のある駅前で秋祭りをやっていて、祭りのだんじりを見たからです。



 
< 4. 草津温泉の湯畑 >

非常に多くの観光客が、夜にも関わらず訪れていました。
ライトアップされた湯畑は、冷気もあってか、身震いするほど素晴らしかった。



 
< 5. 吹割の滝と戦場ヶ原 >

吹割の滝は想像以上にスケールが大きく、紅葉も最高潮でした。

高度が高い戦場ヶ原の周辺は既に紅葉が完全に終わり、広大な枯れ野は冬の到来を待つだけのようです。


 
< 6. 中禅寺湖 >

正に晩秋の湖、失恋の詩が似合う景色でした。


 
< 7. 華厳滝 >

到着した時は陽が沈みかけており、色合いが残念でした。


 
< 8. 鬼怒川温泉 >

朝、温泉の湯船に浸かっていると至福の時が流れます。


 
< 9. 東照宮の陽明門 >

さすがに豪華絢爛の陽明門!
大修理が終わった後なので、ラッキーでした。
境内は紅葉の盛りで、これまた幸いでした。


 
< 10. 水戸の弘道館と霞ヶ浦の予科練平和祈念館 >

弘道館は江戸時代の建物がそのまま残っており、尊王攘夷の志士や慶喜などの息遣いが伝わってくるようでした。

予科練平和祈念館と雄翔館は、かつてあった霞ヶ浦に面しています。
若者の壮絶な死に涙し、出た頃には霞ヶ浦は真っ赤な夕陽に包まれていました。


次回に続きます。


20191123

中国の外縁を一周して 6: 廈門を訪ねて 2




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今回から廈門の訪問地を紹介します。
訪れたのは2019年10月16日(水曜日)で、
写真は朝7時から10時半に撮ったものです。



 
< 2.全总休养中心・杏林湾大酒店 >

私達はここに2泊しました。
ここは友人が手配してくれました。
この宿舎は普通のホテルと異なり、政府所管の休養センターです。
詳しくは分からないのですが、政府に関わっている人や下の写真の看板にあるように労働模範者の為のようです。


 
< 3. 全总休养中心の前の内海 >

上から順番に北から東、そして南を見ています。

上の写真: 全長8.5kmの杏林大桥が見える。
この橋は大陸と右側の廈門島を結ぶ5本の内の一つです。

中央の写真: 干潟の向こうに廈門島が見える。
島の南部には低い山が有り、廈門大学や南普陀寺がある。

下の写真: 大きな河口を挟んで大陸側が見える。





 
< 4. 干潟の様子 >

広大な干潟を少し歩くと、そこには自然が残っていた。
白鷺やハゼなどの小魚を見ることが出来た。
水は泥を含み濁ってはいるが、悪臭は無く汚水とまでは言えない。
また見渡してもゴミは少なかった。
清掃されているのか、下水処理が進んでいるのか、おそらく後者が大きな理由なのだろう。

干潟には人口の水路や畔のような堤で囲まれた池が無数に広がっていた。
その中で数人が漁をしているようだった。
その一人が大量の小魚を持って帰って行くのが見えた。



 
< 5. 全总休养中心の朝食 >

宿泊所での朝食は敷地内の大きなビュッフェレストランでした。
ビュッフェの料理は、今まで宿泊した中国のホテルでも良い方だと思います。
私の一番のお気に入りは、上の写真のコーナーでの初めて食べた泉州麺ででした。

外国人で食事しているのは私達二人だけで、すべて中国人のようでした。
ここで少し気付いたことがありました。

私はツアーで海外旅行をしていると、中国人観光客の傍若無人さに閉口していたのですが、ここではすべてが落ち着いており、紳士的なふるまいをしていた。
ここの利用者は、どうやら大きな団体客ではなく、家族などの少数のグループらしい。
どちらにしても、違いを感じた。

この後、中国国内を一周するのですが、至る所で「模範工」などの掲示板を見ることになる。
この事と、中国人のマナー向上や親切さは関係しているのだろうか?



 
< 6. 高層ビルが並ぶ中心部 >

十数年前に廈門を訪れた時は、このような高層ビルはほとんどなかったと思う。
当時はせいぜい5階ぐらいまでの建物が並ぶだけで、落ち着いた街並みの印象があった。
それでも眺望の良い所には高層のマンションが出来始め、すでに不動産価格の上昇は始まっていた。


 
< 7. 中山公園にて 1 >

友人に、市民の暮らしぶりがよくわかる所に案内して欲しいと頼んで来たのがこの公園です。
入場したのは平日の9:30頃でした。
公園は無料です。

上の写真: この1枚の写真は私にあることを連想させたが、後に大きく覆されることになった。
それは北欧を旅して知った、男性の育休の多さでした。
男性が平日にベビーカーを押して街中を行く姿を多く見た、女性よりも多いかも。

しかし、この公園を抜け、併設の小さな動物園(無料)に入ると、異様な光景を見ることになった。
そこは数歳の子供一人と、それをあやす老人夫婦で一杯でした。
若い夫婦と子供の姿はほとんどなかった。


下の写真: 予想していたとは言え、音楽に合わせ踊る女性達の如何に多いことか。
至る所で異なるグループに分かれ合わせて踊っていた。
中国に来る度に、踊ると言うか、体操と言うか、その演目に変化が見られる。
昔は太極拳などの古典的な体操が主流だが、今は軽快なダンスと言ったものが多い。




 
< 8. 中山公園にて 2 >

上の写真: 木立の陰では、そこらじゅうで男性が卓上で中国将棋などのゲームを楽しんでいた。


 
 
< 9. 中山公園にて 3 >

上の写真: 池の端の建物から、多くの人による朗々とした歌声が聞こえて来た。

下の写真: 近づいてみると、人々の見ている譜面は西洋式の五線譜ではなかった。

友人がその一人に聞いてみると、彼女は参加して日が浅く、譜面は読めないが聞いて歌っていると出来るようになるとのことでした。
彼女は譜面を買って自由に参加しているそうです。


これは友人に聞いた話ですが、この公園で土日になると集団見合いが始まるそうです。
一人娘や息子の為に、それぞれの親が公園に集まり、互いに情報を交換し、見合いにこぎ着けるそうです。
娘や息子が、このことに同意しているかはお構いなしに進められるようです。



 
< 10. 新民菜市场 >

ここは中山公園の近くにある昔ながらの庶民の市場です。
三十年来、この手の市場を見て来ましたが、その様子は変わっていないように思う。
私には相変わらず不衛生に思えるのだが、多くの生鮮食品が並び、買い物客でごった返していた。
海の近くのせいもあり、魚が多かった。


* 知り得たこと

実は、公園や動物園に居た人々のほとんどは50~60歳以上の男女でした、数歳の子供を除いて。
これは中国の定年が、女性では50~55歳、男性で60歳以上だからです。
定年後は年金を毎月3万円は貰っているそうで、大企業や公務員勤めでは、定年が遅れたり、年金などの上乗せがあるそうです。

この公園に来る人は、昔から廈門の中心部に住む人々です。
住居は既にあり、食費・交通費は非常に安く、衣類も安いのがあります。
従って、月3万円で暮らすことに問題はないようです。
(昔は、公社が従業員に住居を安い家賃で与え、最後には買取も許した。土地は手に入らないが)
そして60~70歳以上の入場料などが無料と優遇もされている。

だから子供夫婦が働きに出た後、その両親が孫を引き取り、公園などで遊ぶことになる。
これで待機児童の問題も解消し、退職した親も余生を孫育てと公園での愉しみに費やすことが出来ると言うわけです。
端で見ていると、両親と子供夫婦と孫は皆、親密なようです。
孫は甘やかされているとも言えるが。

北欧とは異なるシステムだが、人生を優雅に過ごすシステムが中国にあったことに驚いた。

ただ気になる事もある。

一つは、地方からの転入者にとって住居費は今、非常に高いので、この年金で都会暮らしは出来ないだろう。

今一つは、既に中国の生産年齢人口が減りつつある中で、定年が50~60歳なのは不合理だろう。
おそらく定年延長が必要になるだろう。


次回に続きます。