20210328

没落を食い止める! 20: 日本だけが没落せざるを得ない要因 1

  


*1

 

これまで、先進国衰退する要因を見て来ました。

これから没落を早める日本固有の要因を見て行きます。

私達はこの二つの悪弊を取り除かなければならない。

道のりは厳しいが、家族や人々に豊かな日本を残したい。

 

 

* 日本固有の問題とは?

 

現在、多くの欧米先進国が一様に衰退しているのは、新自由主義による経済政策と金融偏重と(放任主義のグローバル化)、そして蘇り肥大化した富裕者による金権政治と言えます。

しかし日本だけがさらに没落を早めているのは、日本固有の要因があるからです。

 

ここで日本と他の先進国を簡単に比べます。

 

日本の格差は先進国でもっとも酷い米英に次いで悪く、近年猛追しています。

日本は失業率こそ低いが、経済成長率は長年最低、累積債務は最悪です。

国民の大半の所得減り続け、多い自殺者が不景気時にさらに増える。

良いのは治安と長寿命でしょうか。

かつて先進国の評価基準である多くの経済・社会指標ランキングで日本は20位以内もあったが、とうの昔に多くが30位を越え150以下もある(幸福度、ジェンダー、政治腐敗、報道の自由度など)

 

日本固有の悪化要因は、政治経済だけでなく文化まで多岐にわたります。

なぜこんな国になってしまったのか?

それは大陸に近い島国と最古層農耕文化(エマニュエル・トッドが指摘)、さらには敗戦後に米軍に占領されたことが大きい。

もっとも現在、悪化を押し進めているのは自民党と鉄のトライアングル(政官財)ですが。

 

口惜しいのは、敗戦後国民の努力が実った時代あったにも関わらず、国民自ら没落の道を選んでしまったことです。

 

 

* ここで日本の没落を実感してもらいます。

 

私が推測するに、日本固有の問題に起因する経済損失は年間10~20兆円だろう(直感)

大したことないじゃないか!

高々、GDP550兆円の1.8~3.6%に過ぎないと思われるかもしれない。

 

それでは下のグラフを見て頂きたい。

 

 

 

 

https://toyokeizai.net/articles/-/269822?page=3

 

このグラフは両国を1990年時点で100として重ねたものです。

もし日本が1990年以降もアメリカと同じだけ成長していれば、2018年で今よりGDPは1.55倍、550兆円が850兆円になっていたことになる。

この差は28年間、日本の成長率が米国より1.6%低いだけで生じていた。

 

つまり、年強(10兆円強)でも恒常的に経済を悪化せる要因があれば、致命傷のです。

 

 

* ここで質問です。

 

経済成長を左右する最も重要な要因は何だと思いますか?

 

国民や企業の意欲

政府の政策(国の経済システム)

世界の状況

 

答えは簡単ではありませんが、多くの文明や国が衰退する時、ある共通のパターンがありました。

それは経済システムが機能不全に陥っていたことです。

これは同じ文化を持民族でありながら分割された(米国アリゾナ州とメキシコに分割された都市ノガレス、朝鮮半島など)を比較することで明確になっている(「国家はなぜ衰退するのか上・下」参考)

 

要は、主に政治腐敗などにより、通常の製造や販売以外の違法な行為で暴利を貪ることが横行し、やがて人々は経済活動への意欲を無くしてしまったからです。

例を挙げれば、賄賂で国から専売権を得て、暴利を貪るようなことです(歴史上限りない)。

また企業団体が、自らの生産性向上を放棄し、議会を動かし他国の最新技術の国内流入を阻止するなどです(19世紀の英国)。

要は金・軍事・政治力を持つ者が、互いの利の為に権力者と結託して、社会経済を歪め、腐敗させていくのです。

当然、人々はまともな創意工夫などしなくなり、悪事と格差が蔓延し、遂には没落します。

 

つまり、今の日本の没落は腐敗した政府の政策が悪く、国民や企業が意欲を無くした状態と言えます。

敗戦後の一時期は互いに好影響を与えあったのでが。

さらに世界の状況も悪いと言えます。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

20210327

没落を食い止める! 19: 誰がこんな世界にしたのか 5: 国民が貧乏くじを引いた!

  








*1

 

 

没落は1980年代から始まった事、それを仕掛けた人々の動機も確認しました。

しかし没落を進めた政権を選んだのは国民でした。

残念ながら、このような事は幾度も繰り返され、今、さらなる危機が迫っている。

このことを見ておきます。

 

 

* 米英日のレーガン、サッチャー、中曽根政権誕生の背景

 

米英のレーガンとサッチャーには共通する点がある。

二人はスターウォーズ計画やフォークランド紛争で保守・右派として面目躍如を果たした。

この二人は、大戦の実戦経験がなく、野党からの政権交代を成し遂げていた。

 

一方、中曽根は大戦経験最後の首相でした。

(海軍経理として戦地で輸送に関わっていた)。

自民党は長期政権なので政権交代はなかったが、彼は一線を画した。

国土防衛では一歩踏み込んで米国との関係を良好にし、さらに原子力活用に舵を切った(よく言えば先進的、悪く言えば米国追従)。

 

(私は中曽根の視野狭窄に失望した。当時、日本の太陽電池産業は世界に先駆けて勃興し始めていた。ローマクラブの警鐘もありグリーンエネルギーへの以降は必至でした。しかし彼はこれを葬り去り、甚大な被害を生む原発に舵を切った)

 

この時代、国民の多くは戦争とは無縁になっていた。

戦前の激しい労働運動を知り、戦争の悲惨さを知った人々は、そろそろ現役を引退し始めていた。

戦後の人々は、努力が報われる時代に生きていた。

 

そんな中、国を没落に向かわせる政策とはつゆ知らず、国民は勇猛で甘い言葉につられて大転換を受け入れてしまった。

 

 

* なぜ人々は、無謀とも言える大転換を受け入れたのか?

 

これはスタグフレーション(不景気とインフレの同時進行)が労働者の賃上げにあると喧伝され、国民が信じたのが大きい(実際は原油高騰)。

 

確かにスト頻発、合理化反対、大労組組合員の怠慢などの問題があり、是正すべき点はあった。

しかし賃金上昇は景気後退の主因どころか、経済発展に欠かせないものでした。

 

国民が受け入れた背景には、保守(経済界)と革新(労働界)、タカ派とハト派の対立に煽られてしまったことが大きい。

 

米英は既に経済に陰りが見えていたので、日独に対して逆転を目指す必要があった。

それに加え強国再帰へのタカ派的な訴えは平和慣れしていたことで、甘美に捉えらた。

 

一方、日本は経済発展中だったので、転換の必要は無かったが、米国に追従せざるを得なかった(要求に逆らえず真似しかできない)。

 

 

ここで扇動に振り回されて来た米国を概観します。

 

 

 

*2

 

* 米国に見る、煽りと分断の歴史

 

最初に扇動した人物は共和党上院議員マッカーシーでした。

彼は1948年頃より、共産党シンパの排除を始め、一大センセーションを巻き起こした。

その魔の手は政府・軍部内から映画界にまで及び、多くの人が職場から一掃された。

彼の強硬な姿勢は国民(保守層・保守的キリスト教徒)から絶大な支持を得て、レーガンもこれに加担して人気を博した。

 

しかし、やがて手法が違法で民主主義を破壊するものとして批判され、数年で終焉を迎えた。

 

 

 

*3

 

1972年、ニクソン共和党大統領によるウォーターゲート事件が起きる。

これは政敵である民主党本部への盗聴をホワイトハウスが命じたものでした。

 

 

次いで、後に下院議長となる共和党のギングリッチが出現した。

彼は南部の下院議員で、レーガン政権後沈滞していた共和党の再建に取り組んだ。

1994年、彼の活躍で、共和党は中間選挙で大勝し、上院と下院で多数党となった。

彼は保守政界のキーパーソンになっていた。

 

彼の選挙戦略はそれまでとは一線を画したものだった。

彼は政治を戦争と訴え、絶大な人気を得て、共和党執行部も戦闘態勢に入っていた。

 

民主党のある議員は彼をこう評した。

「彼はアメリカ政治を『たとえ意見が一致しなくとも相手を尊重する』というものから、『反対者を不道徳な悪人として扱う』ものに変えた。」

 

この後、民主党も対決姿勢を強め、憲法違反裁判、最高裁人事、弾劾裁判、選挙区変更などで互いに自党を有利に導く争いに陥っていくことになる。

 

さらに折からの規制緩和が扇動を致命的にした。

政治献金の自由化(無制限)は選挙を富裕層に有利した(合憲との判決)。

また「報道の公正」の規制解除が、偏向し扇動するメディアを勢い付けた

FOXニュースなど)。

こうして政党への信頼が低下する一方、多くの人々が扇動されることになった。

 

 

 

< 4.トランプとギングリッチ >

 

こうした中、希代のアジテーター、フェイク男、トランプの誕生となった。

彼は2017年、大統領を去る事になったが、彼を待望する人は依然多い。

 

既に政治は正義や科学的な論理とは無縁になりつつある。

(正義は、法の理念であり人類社会が培って来たものです)

そこには、両者が話し合い、政策を調整し、協力し合う姿はない。

あるのは敵か味方の区別だけであり、一度どちらかに着くと、破局まで突き進む。

 

実は、これは第二次世界大戦前のドイツや日本で起きた事であり、現代の日本にも当てはまる。

私はキナ臭いものを感じてしまう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

20210325

没落を食い止める! 18: 誰がこんな世界にしたのか 4: 誰が得をしたのか?

  


*1

 

前回、1980年以前は、

米英日の労働者にとって夢に近づいた時代でした

それでは大転換で誰が得をしたのか?

彼らこそが今も没落に拍車をかけている。

 

 

* 憤慨した勢力は立ち上がった

 

彼らとは、半世紀前までは順風満帆だった富裕層や企業家、投資家でした。

俗に不労所得を得ていた人々です。

 

かつて投機に対する規制は緩かったが、世界大恐慌以降、規制は強化され、投機家の旨味は減っていた。

さらに二度の大戦は富裕層への累進税や相続税を著しく高めていた。

また企業家は、労働者や農民の権利要求と賃金上昇に頭を痛めていた。

 

そこに高インフレが10年以上も続き、富裕層の莫大な資産が見る見るうちに目減りして行った。

例えば、インフレ率10%が20年続くと現金1000万円は120万円に目減りするので、資産家は背筋が寒くなったことでしょう。

 

そこで一大キャンペーンが張られた。

「労働者の賃上げが、インフレを招き、国民の暮らしを圧迫している」と。

 

一方、大多数の国民(労働者)はどうだったのだろうか?

当時、概ね賃金はインフレ率以上に上昇していた。

例えば、持ち家を建てる場合、インフレによる高金利で借金しても、持ち家の価値が上がり、返済額もインフレで目減りしていくので、遅れて買うより早く買う方が得策でした。

当時、労働者の給与は上がり続け預金金利も高かったが、現在は給与は下がり続け預金は零金利でまったく増えない、まったく上手く出来ている。もっともインフレで実質増加はそれほではなかったが、今よりは良かった。

 

こうして経済成長は続いていた。

最後にはスタグフレーション(不景気とインフレ)が起きたが、いまのデフレ時代を長く経験すると当時が懐かしい。

 

当時、政府と経済界はしきりにインフレが悪夢だと喧伝しており、私も不景気を意味するデフレの方が良いのではと思うことがあった。

ところがアベノミクスではインフレが待望され、リフレ派はかつての好況を夢見たが、賃金低下をまったく無視していたので完全に失敗した。

如何にも間が抜けていて、天才と馬鹿は紙一重の好例です。

 

とにかく、憤慨し立ち上がった人々の狙いは、不労所得の減少を食い止め、かつてのように資本が資本を生み出す時代に戻すことだった。

 

しかし、これだけではなかった。

その後、富裕層が富を集中させるに伴い政治は国民から乖離して行った。

そして格差拡大と成長の長期減退が始まった。

さらに金融危機が繰り返すようになった。

 

これらの結果を、当時のトップや勢力が望んだと思わないが、今は既得権益を手放したくないので、国民を洗脳し逃げ切りに必至です。

国民が気付くまでは・・・。

 

 

* データーで大転換の実態を見る

 

 

 

< 2.所得格差の推移 >

 

赤矢印は大転換政策の時期を示す。

各国の上位1%、10%の所得階層の所得が全体に占める割合を示す。

すべて同じ1980年代より、上位階層の所得が急激に増加し、今も続いている。

 

上図: 大転換政策を率先した米英日で格差が拡大している。

 

下図: 米英では上位1%の所得上昇がさらに激しく、格差は歴然だ。

それに比べると北欧やフランスは格差を抑えている。

 

 

 

< 3. 最高所得税率の推移 >

 

青線はF.ルーズベルト、赤線はサッチャー政権の時期です。

米国と英国の税率の上下と、図2の格差の上下が逆向きに対応しているのがよくわかる。

 

 

 

< 4. イギリスと世界の資本の役割 >

 

ピケティ著「21世紀の資本」より借用。

赤矢印の濃い赤がサッチャー政権。

サッチャー登場の半世紀前は、世界的に労働運動が盛んで、

労働所得は上昇し、資本所得(不労所得)は減り続けていた。

 

上図: イギリスでもその傾向は歴然としている。

 

下図: しかし、サッチャーらが大転換政策を実施すると、資本所得の収益率が増え、それまで上昇していた成長率が逆に下がった。

 

 

これこそが大転換の狙いであり結果だったのです。

 

 

次回に続きます。

 

 

20210324

没落を食い止める! 17: 誰がこんな世界にしたのか 3: なぜ米英は大転換しなければならなかったのか?

  

 

*1

 

前回、1980年代、米英日何が起きたかを見ました。

しかし疑問が残る。

なぜこれらの国は大転換を行わなければならなかったのか?

この狙いから没落の本質が見えて来る。

 

 

* 大転換の前は国民には最良だったが

 

労働者にとって天国は経済界と富裕者にとっては地獄だった。

このことが大転換に向かわせるのですが、この背景の説明には、半世紀ほど時代を遡らなければならない。

 

20世紀初頭、米国とドイツは急速に経済を発展させていた。

さらに第一次世界大戦の軍需特需が米国経済を押し上げた。

産業構造の変化と大戦が、先進国の労働者(男女共)に権利意識を目覚めさせた。

そして労働者の権利向上と賃金上昇が進み、人類始まって以来の平等へと近づくことになる。

 

そして1929年、過度な投資ブームから米国発の大恐慌が発生した。

経済を立て直す為に、F.ルーズベルト大統領(民主党、1933/3-1945/4)がニューディール政策を行った。

この政策のポイントは大規模な公共投資と労働者の賃金上昇を図ったことでした。

経済は上向き始め、後半は第二次世界大戦の軍需特需で好況となった。

彼の人気は絶大で、大統領を13年も勤めた。

これが他の先進国にも広がり、労働者の権利と賃金が改善されていった。

 

彼は反対勢力に対しては大統領権限で強引に事を進めた。

反対勢力とは、企業家や富裕層を代弁する共和党と南部の上流階級です。

なぜなら、労働者や農民が日に日に力を付け、特権的な領域(不労所得)を浸食していたからでした。

そこで、彼らは金にあかして反ニューディールキャンペーンを徹底的に行った(研究所や学者を使い今も継続中)。

それでも功を奏せず、F.ルーズベルトの急死まで待つしかなかった。

 

第二次大戦後20年も経ずして世界に驚きが走った。

それは敗戦国の日本とドイツの急回復でした。

一方、米国はベトナムや中東の戦争に深入りし、経済は弱体化(空洞化)し、財政と貿易の双子の赤字に苦しみ、金兌換停止とドル安を求めることになる(このニクソンショックとプラザ合意は日本に痛手)。

既に英国は19世紀末には没落していた。

 

これらが大転換前の趨勢でしたが、さらに激震が襲います。

 

前述の労働者の賃上げ攻勢で定常的なインフレが起きていた。

そこに突如、石油価格の暴騰が加わり、世界は猛烈なインフレに晒された。

この巨大インフレは、戦争を拡大させる米国への抗議の為に中東産油国が一致団結した結果でした。

 

 

 

< 2. 歴史上初めて格差が大幅に減少していた >

 

大戦前、英米のトップ10%の所得シェアが全所得の45%を占める時代だったが、この時代30%へと落ちていた。

つまり格差が人類史上初めて大幅に減少したのです。

 

 

* まとめ

 

1960〜70年代は先進国の労働者にとって夢と希望が実現して行く時代でした。

特に、戦後復興を成し遂げた日本には最良でした。

一方、放漫経営が祟った米英は衰退を感じていた。

特に、英米の富裕層・保守層にとっては、旨味が減り続ける中での巨大インフレ到来が、絶対の窮地となった。

この事が彼らに牙をむかせることになった。

 

 

* データーで当時の状況を説明します

 

 

< 3. 世界各国のインフレ率の推移 >

https://chem.libretexts.org/Courses/Lumen_Learning/Book%3A_Principles_of_Macroeconomics_(Lumen)/07%3A_Module_5%3A_Measuring_the_Price_Level_and_Inflation/07.4%3A_Inflation

 

赤矢印が中曽根政権期。

第一次オイルショックが1973年に起き、凄いインフレが日本と英国を襲った(年率20%越え)

これは、米国らが中東戦争に介入した為に起きた。

中東産油国はイスラエルを支援する米国らへの経済制裁として、初めて団結し(OPEC、石油価格の上昇を図った(米国は巨額の兵器援助を行っていた)。

これが現在まで続き、当時、原油1バレル3ドルは、今や140~50ドルになった。

米国は産油国だったのでインフレの影響は軽微だった。

しかし以後、米国は世界の石油支配(メジャー)から手を引かざるをえなくなった。

1979年に第二次がまた起きた。

 

 

 

 

< 4. 日本の勤労世帯の実収入の推移 >

https://news.yahoo.co.jp/byline/fuwaraizo/20190305-00116564/

 

赤矢印が中曽根政権、黒矢印がそれ以前を示す。

黒矢印の時代が、如何に国民、勤労世帯にとって給与が上昇し続ける夢の時代であったかは一目瞭然です。

つまり大転換は不要だった。

 

 

 

 

 

< 5.日本の失業率推移 >

https://www.mhlw.go.jp/houdou/2004/12/dl/h1216-2d1.pdf

赤矢印が中曽根政権期。

彼の政権期でも失業率が漸次上昇し、その後バブルで急降下したが、バブル崩壊で、失業率はより激しく急増した。

元の木阿弥どころではない。

 

 

 

< 6. 日本の住宅建築数 >

 

中曽根政権の前まで、住宅建築数は増加傾向にあった。

しかし減速し始め、バブル崩壊と共に持ち家の夢は潰えた。

 

最悪のバブル崩壊はなぜ起きたのか?

この大きなバブルは日本だけに起き、かつ中曽根内閣(82-87年)に起因していた。

事の発端は、85年のプラザ合意(中曽根政権)が円高が不況をもたらし、その対策に政府・日本銀行の金融・財政政策による内需拡大と称した巨大な景気刺激策がバブルをもたらした。

(すべてレーガン政権による強い圧力による。レーガンと中曽根の親密さをロン・ヤス関係と日本は湧いたが、実態は従属に過ぎない)

 

これが後に30年以上、現在までのデフレの元を作った。

 

 

 

< 7. 「暮らし向き」について、日本の世帯主の世論調査 >

 

グラフの「中の中」が37から60%に拡大しており、国民の中流意識が向上している、つまり豊かさを実感していた。

インフレが定常化し、1973年に巨大インフレも起きているが、中曽根政権誕生前(1982年-)の日本は、如何に国民にとって希望のある社会だったかがわかる。

 

 

次回に続きます。

 

20210323

国境の島、対馬を訪ねて 7: 厳原の街を歩く 5

  


*1

 

 

今回が、厳原紹介の最後になります。

朝鮮通信使の所縁の地も訪ねます。

 

 

 

< 2. 散策ルート >

 

今回紹介するルートは茶色線と黒線です。

始めは、赤線と茶色線の交わった所から茶色線に沿って北上し、黒矢印辺りで折り返し、次いで黒線を南下し茶色矢印まで行き、終わりました。

 

ピンク矢印: 対馬藩家老(氏江家)屋敷跡。

黒矢印: 高麗門

青矢印: 旧日新館門

赤矢印: 桟原城跡(陸上自衛隊駐屯地)

茶矢印: 国分寺

 

 

 

< 3. 大歳神社から始める >

 

上: 大歳神社

大きなクスノキと石の鳥居、石塀に囲まれた小さな社が、川沿いに祀らていた。

江戸時代の大火を機に子宝の神から防火の神として敬われているようです。

 

下: 小川沿いを北上する。

ちょうど小学生の朝の登校時間で、一時賑やかになりました。

 

 

 

< 4. 馬場筋通りに出た >

 

上: ちょうど馬場筋通りに出たところ

北側を見ている。

 

下: 馬場筋通りの高麗門を過ぎた辺りから北側の桟原城跡の方を見ている。

ここからまた戻る。

 

 

 

< 5. 対馬藩家老(氏江家)屋敷跡 >

 

馬場筋通りの西側に面して立派な石壁と門がある。

家老屋敷跡に、今は長崎県対馬支庁や対馬振興局がある。

 

上: 長屋門

 

下: 長屋門に掲げられていた地図。

これは江戸後期の厳原の地図で、赤矢印が家老氏江家の屋敷でひときわ大きい。

馬場筋通り沿いに武家屋敷が並んでいる様子がわかる。

 

 

 

< 6. 高麗門と氏江家屋敷の石塀 >

 

上: 高麗門は馬場筋通りの東側にあります

これは桟原城の高麗門を復元移転したもので、市立厳原幼稚園の前に建っています。

 

下: 氏江家屋敷の石塀

場所は、先に紹介した家老屋敷跡、長屋門の北側にあり、西に延びています。

風情があります。

 

 

 

< 7.旧日新館門 >

 

ここは散策ルートから外れているのですが、観光バスから撮影しました。

馬場筋通りの西側に面しています。

ここは対馬藩主宗氏の中屋敷門でしたが、幕末には藩校日新館に用いられた。

江戸末期の大名家の格式を備えた武家屋敷門としては、長崎県唯一のもので、立派でした。

この日新館は幕末、勤王党の拠点になり、内紛で多くの藩士が命を無くした。

 

 

 

< 8. 地図の黒線に沿って歩く >

 

上: 川沿いを南下

 

下: カレイの日干し。

かつて対馬はイカが大量に取れて、大量に干されていたが、今は減ったそうです。

 

 

 

< 9.国分寺の山門 >

 

ここが朝鮮通信使の客館があった寺です。

1807年、徳川家斉の将軍襲職を賀す朝鮮通信使が来ることになり、ここに客館と山門が建立された。

その後、国分寺は焼失したが山門は免れ、客館は明治時代に解体された。

 

 

< 10.国分寺の境内 >

 

山の麓に墓地が広がり、山門との間には広い敷地がある。

かつては大きな寺や客館があったのだろう。

何せ江戸時代の通信使は、500人ほどが朝鮮半島から渡海して来たのだから。

 

 

 

< 11. 朝鮮通信使 >

 

私が、朝鮮通信使に興味を持ったのは滋賀県の近江八幡を訪れた時でした。

近江八幡の狭い道を散策していると、此処を朝鮮通信使が通ったと記されていた。

朝鮮通信使は対馬藩1500名を加えて、2千名近い人数で大阪から江戸、あるいは日光まで陸路を行ったのでした。

遠路はるばると大行列が海路と陸路を行ったのです。

しかも1回に100万両を費やした(100万石大名の1年分)。

 

朝鮮通信使は室町時代に始まり、途中中断はあったが、江戸時代には主に将軍の代替わりに計12回来ている。

江戸時代、日本は鎖国し、中国とヨーロッパの4ヵ国とは貿易をしていたが、国交を持ったのは琉球と李氏朝鮮だけでした。

 

徳川幕府にとっては、通信使は将軍の権威を誇示する儀礼として、あたかも朝貢使のように見せようとした。

一方、朝鮮にとってはかつての倭寇や秀吉の朝鮮侵略の経験から日本を監視する意図があった。

また朝鮮半島の大陸側では異民族の脅威があり、日本と友好を保つことに価値があった。

それでは小さな一藩に過ぎない対馬にどんな意義があったのか?

既に紹介したように関ヶ原の戦いの後、生き残るには家康が希望する朝鮮半島との国交と貿易再開が必至だった。

当然、貧しい対馬が生き残るためにも貿易は最重要だった。

 

対馬は幾度も朝鮮半島と日本の紛争の狭間で生き延びて来た。

そして朝鮮半島との国交と貿易では日本で唯一の窓口となり、繫栄することが出来た。

対馬は朝鮮半島に数ヵ所の貿易所を有し、認可を受けた貿易船が対馬と朝鮮を行き来した。

対馬は藩の貿易から重臣らの私的貿易、密貿易、さらには朝鮮王朝から下賜される形で高価な品物を手に入れることが出来た。

朝鮮通信使を介して、漢学、儒教、医学などの知識も入って来た。

 

こうして対馬、特に厳原は江戸時代、朝鮮との橋渡しで重要な役割を果たしていた。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

20210321

没落を食い止める! 16: 誰がこんな世界にしたのか 2: 始まりは何か

  




*1

 

これから先進国没落の起源を探ります。

皆さんは知って驚くはずです。

巷に流布されている事とは真逆なのですから。

これこそ、この没落の恐ろしさです。

 

 

没落を仕組んだ人々には悪意があったのだろうか?

否、彼らに悪意は無かったと信じたい。

 

当時、結果的に没落を招くとこになる大転換を推進した人々は輝きを放っていた。

それは主に三人の先進国の首脳でした。

彼らは、世界を悪の国から守り、自国の低迷した経済を救う救世主と見なされていた。

ただ、すべての先進国がこれに倣ったわけではなく、自制的であったり拒否する国もあった。

 

当時の私は期待せず、いずれ失敗すると見ていたが、概ね世論は好意的であり、今も突き進んでいる。

しかし、じわじわと経済と社会を疲弊させ、今頃になって取返しがつかない状況に至ったと一部の人は気付き始めた。

 

彼ら首脳は当時、何を変革しようとしたのか?

 

一言でいうと、国家による福祉・公共サービスを縮小し、大幅な規制緩和を行う事でした。

彼らは、新自由主義と呼ばれた経済思想=小さな政府と自由市場こそが経済を復活させると信じた。

実は、これはそれまでの半世紀間の先進国の流れを全否定し、大転換を図るものでした。

 

その三人とは米英日のレーガン、サッチャー、中曽根で、起源は1980年代の政権誕生に行き着く。

政権期間は、中曽根1982/11-1987/11、サッチャー1979/5-1990/11、レーガン1981/1-1989/1でした。

 

 

 

< 2.三ヵ国のGDPの推移、1870-2008年 >

https://www.nippon.com/en/in-depth/a04003/

三本の横線は各国の政権期間を示す。

GDPの推移からは大転換の必要性が特にないことがわかる。

 

 

 

< 3.三ヵ国のGDPの推移 1980-2012年 >

http://stockbondcurrency.blog.fc2.com/blog-entry-87.html

三本の横線は各国の政権期間を示す。

このグラフからは、大転換に特別な成果があったように見えない。

逆に日本は、1980年台後半にバブルを招き、その後の崩壊が祟って成長を止めてしまった。

 

当時、私が胡散臭いと感じたのは、レーガンの大減税と軍拡、サッチャーの徹底した国営企業と労働組合の解体でした。

中曽根(と読売社主渡辺)は忠実に二人をお手本にした。

 

 

 

 

 

< 4. 財政赤字の推移、GDP比率 >

http://stockbondcurrency.blog.fc2.com/blog-entry-87.html

 

結局、三ヵ国の財政はどうなったのか?

米国と日本は財政赤字を増やし始め、英国は財政赤字を減らしたが、この間に失業率を増大させた。

当初、結果は三ヵ国で違ったが、リーマンショック後は同じになった。

 

この三人には上述の政策以外に共通するものがあった。

 

それは保守派・右派(軍拡)であり、マネタリズムの重視でした。

マネタリズムは貨幣供給量の増減で経済や物価を制御することであり、政府と中央銀行が管理する事になる。

(米国の経済学者フリードマンが自由市場とマネタリズムを主導した。私には疑念がある。一方で小さな政府を標榜しながら、他方で大規模な政府の介入を必要とし、商品市場は自由だが貨幣市場(発行)を管理する。)

 

実は、このことは当時目立たなかったが、後に最大悪弊の一つになった。

そして国民は、経済を二度と正常に取り戻すことが出来なくなった。

 

 

上記の大転換を視点を替えて見ると。

 

福祉・公共サービスの縮小は、大半の労働者、低所得層の国民を切り捨てることになった。

自由市場は切磋琢磨を連想させるが、その結果は強大なものがより強大になるだけでした。

グローバル化の推進も、悪弊を加速させることになった(良い面はあるが、放置すると悪い面が際立つ)。

 

三ヵ国の保守とは自民党、保守党、共和党で、その政策は経済界や富裕層を優遇して来た。

マネタリズムには長短があるが、その結果は金融依存、金融危機誘発、超富裕層の誕生を招き、より格差を拡大させた。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

20210317

没落を食い止める! 15: 誰がこんな世界にしたのか 1: はじめに

  


*1

 

これまで、日本と世界の惨状を見て来ました

これから、なぜこのような惨状が生まれたのかを説明します。

ここで大事なことは、人が歴史(没落)を創って来たという事実です。

少し、確認しておきます。

 

 

* いつもの苦渋

 

様々な人と現状の問題を話し始めると、直ちに絶望的な壁に突き当たる。

例えば、原発、政治腐敗、二大政党制、福祉国家、ジェンダーなど。

 

A. 左右両極に対立し、前提条件が噛み合わない

B. 外国事情や世界史の話が通じない

C. 日本は特別な国で、今のままが良い

 

私が問題点を指摘し始めると、ある人々は頭から否定する。

そこで、私が諸外国や世界史から説明を加えようとすると、

その人は「日本は特別だ、外国の真似は必要ない」と言って話は終わる。

 

このケースは極端だが、多くの人にこの感覚は通じるでしょう。

 

しかしこの感覚は致命傷です。

一つは事実に反するから、より重要なのは、変化を拒む言い逃れになっており、概ね洗脳の結果です。

(感化され易い心性の違いはありますが)

 

 

* 事実とは

 

上記に関連して人類史と生物史から言えることがある。

 

地球上の人類に共通する歴史的メカニズムがある。

(これを否定すると社会科学を否定することになる)

一方で地域毎の個性(文明や国民性)も存在する。

ただこの個性も、前述のメカニズムから逃れることは出来ない。

 

理由は簡単で、歴史を創るのは社会であり人で、結局のところ、進化で生まれた人類に共通する脳の働きによる。

それは40億年かけて、環境との関りで変化した遺伝子が生み出したものです。

心理や社会性に影響を与える遺伝子の変化は数十万年単位以上でしか起きないことは進化学から判明している。

 

そうは言ってもピンと来ないかもしれない。

 

 

* 歴史から幾つかの例を見ます

 

宗教や神話は世界各地で様々です。

 

しかしユダヤ教からキリスト教さらにプロテスタント、バラモン教から仏教さらに大乗仏教への分岐は、希代の改革者と民衆の望みが一致したからでした。

そこには同じ変革の力が働いていました。

 

また日本で今なお持てはやされている王権神授説(現人神は原初的)は、世界各地の古代王国で存在し、王家が創り出したものでした。

 

今、法と憲法は広く世界に受け入れられている。

 

しかし、かつて法(成文法)すらない社会があり、憲法は高々800年前に創られ始めたに過ぎない。

社会の大多数の人々が自ら社会のあり方を決めるようになったのは、2500年前に過ぎない(民主制)。

民主主義の発達は古代ギリシャが有名だが、200年も続かなかった。

初期に造られた憲法は、社会の変化に適応すべく修正が続いている。

怠れば廃れ、改革はいつも必要でした。

 

国民の大多数が選挙に参加できるようになったのは高々150年前からです。

また労働組合のストが合法になり、男女や人種の平等が法に規定されてからまだ百年も経っていない。

 

上記の民主化が遅れた日本の政治文化(三バン主義)は特段優れた特有のものだろうか?

選挙の票の見返りに、利益誘導と身びいきの互恵関係は、南欧やアフリカ部族社会で広く見られたものでした。

 

地域による違いは、優れたものとは限らず、むしろ遅れているかもしれないと疑うべきです。

地域毎の特徴は、長短を併せ持つものであり、自覚して事に当たることが必要です。

例えば高い帰属意識(村意識)を持つ国は、強国になり得るが、独裁化し暴走し易い(日独)。

 

古くは王権神授説に始まり、太平洋戦争やベトナム戦争のように、為政者は隙あらば国民を洗脳しようとするものです。

 

 

* まとめ

 

私達が社会を造って来た。

しかし、その維持を怠ると、社会の崩壊や衰退を招きます。

また人類社会には共通点が多く、謙虚になって学び、反省と改革を進めるべきです。

 

 

次回に続きます。