20170606

フランスを巡って 6: 小国モナコ






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今日は、高級リゾート地として知られるモナコを紹介します。
私達が訪れたのは断崖絶壁の上にあるモナコヴィルです。
ここは旧市街と宮殿などがあるところです。


モナコ
訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。
エズ村の香水工場に立ち寄った後、観光バスから地中海を見下ろしながら進むと、近代的なビル群に囲まれた湾が見えて来ました。
そこが2k㎡にも満たないモナコ公国でした。

崖やビルに挟まれた曲がりくねった道を抜けてモナコヴィルの地下駐車場に入ったのは18:10頃で、観光を終えてモナコを離れたのは1時間後でした。

ここでも予約のトラブルがあり、無駄な時間を費やしました。
今回は、空港からのバス手配ミスと言い、最初につまづきが続いた。
添乗員は大勢を従え、苦労していました。
しかし、その後は順調な旅となりました。



 
< 2。 モナコの地図 >

上の写真: モナコ公国周辺。モナコ公国は黒線内。
上が真北です。
王宮のあるモナコヴィルを赤矢印、エズ村を黒矢印で示しています。
私達は左側のエズEzeから来ました。

中央の地図: モナコ公国の全景。
方角を変えています。
赤矢印がモナコヴィルです。

下の地図: モナコヴィルを拡大。
Sは徒歩観光のスタート位置で、一周してまたここに戻って来ました。
地下駐車場からエスカレーターとエレベーターを乗り継いで、この地上に出ました。
赤線は徒歩ルートです。
奥に大公宮殿があり、その右手が湾を見下ろす展望台です。
黄色の線は5月25日から始まるモナコF1グランプリのコースをバスから眺めたルートです。


 
< 3。 眼下にモナコ、バスから >

上の写真: 左手奥の断崖の上がモナコヴィルです。

下の写真: モナコの一角、住宅街でしょうか。


 
< 4。 モナコヴィルの下、バスから >

上の写真: モナコヴィルの下。

下の写真: 見上げると、モナコヴィルの大公宮殿の城壁が見えた。



 
< 5。  モナコヴィル観光の始まり >

上の写真: 海洋博物館と水族館。
地図のSの直ぐ近く。

下の写真: 王家親族の住居。


 
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上の写真: モナコヴィルからモナコの西側を見下ろす。

下の写真: モナコ大聖堂。
古い様式(ロマネスク・ビザンチン)だが1875年建築の教会で、グレース妃が結婚式を挙げ、また眠る所でもある。



 
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上の写真: 大聖堂の横の小さな通りを進みます。
左中央は裁判所。

下の写真: 大公宮殿前広場に面した建物。



 
< 8。 大公宮殿 >

上の写真: 大公宮殿。
陽が山際に迫っている。

下の写真: 大公宮殿前広場の北側展望台。
ここから湾が一望に見渡せる。


 
< 9。 展望台からの眺め >

上の写真: 湾手前の青色の観客席がモナコF1グランプリのもの。
湾の向こう右手にカジノや高級ホテルが並ぶ。

下の写真: 如何にこのモナコヴィルが急峻な断崖の上にあるかがわかります。
標高は60mぐらい。


 
< 10。 広場から戻る道 >

途中にもレストランや土産物屋はあったが、数はそれほど多くはない。
モナコヴィルの最大長さは700m、最大幅200mに過ぎない。



 
< 11。 バスでモナコF1グランプリコースを見た >

ほんとうに小さな国だが、繁栄しているようだ。
不思議の一言に尽きる。


モナコの不思議
モナコ名の由来はギリシャ人の入植地に由来する。
歴史が動き出すのは13世紀、イタリアのジェノヴァがこの地に要塞を建設した。
半世紀後、現在の王家の始祖(ジェノヴァ人)が修道士に変装し、この要塞を占拠したのが公国の始まりでした。

その後、スペインやイタリアなどの干渉を受けながらも、領土を切り売りしフランスの庇護の下で主権を維持した。
1860年代より、カジノや高級ホテルを作り、富裕階級向けの高級リゾート地へと転進した。
現在、タックス・ヘイヴンであることから住民は外国籍が多く、モナコ国籍は16%しか過ぎない。

モナコは国連加盟国で最小でありながら、領土防衛をフランスに委ね、特異な経済政策により、世襲による君主制であり続けている。

次回に続きます。




20170605

フランスを巡って 5: 鷲の巣村エズ



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今日は、最初に訪れた期待に違わぬ鷲の巣村エズを紹介します。
このような険しい山頂に小さな村があるとは驚きでした。
この要塞化した村は、3千年に亘る戦乱に生き延びた証なのでしょうか


エズ村
訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。
ニース空港に到着しトラブルで少し遅れたが、無事観光バスで出発した。
エズに16:00前に到着し、約40分間徒歩観光しました。


 

< 2. エズの地図 >

上二つの地図: 地図の上が真北。
赤矢印がエズ村の位置です。

下の地図: エズの観光地図。
黄矢印は歩き始めた駐車場で、緑線は徒歩ルート、赤矢印は登り詰めた頂上です。
エズの頂上は427mある。
雲は多かったが、雨が降ることはなかった。

 
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上の写真: 駐車場辺りから、今から登る頂上を見上げている。

下の写真: 坂と階段を上がった先に要塞のような門が見えた。
ここをくぐると村に入る。


 
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石組の古い家並みが急な細い階段の両脇に続く。
所々に踊り場のような小さな広場がある。


 
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上に登っていくと民家が途切れ、視界が広がった。

上の写真: 左側(東方向、モナコ側)を見ると、深い谷を挟んで無数の住宅が張り付く尾根が見える。

下の写真: 右側(西方向、ニース側)を見ると、海岸に沿った山の斜面に村が見える。

ニースからバスで来る途中、小高い丘や斜面に建つ多くの住居を見た。
平地が少ないからのだが、それにしても不便だと思った。


 
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上の写真: 真下を見ると、エズの赤茶色の屋根、その向こうに地中海が広がっている。
クルーズ船も見える。

下の写真: 振り返って見上げるとサボテン公園が広がっており、その向こうに、頂上の展望台が見える。
サボテン公園は1949年に造られた。
元来、頂上には要塞があったのだが、破壊された後、今では公園として整備されており、入場は有料です。


 
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上の写真: 要塞跡の頂上。 
ほぼ360度、見渡せる。

下の写真: 村の教会を見下ろした。
その向こうに私達が登り始めた駐車場が見える。


 
< 8. 先ほどの教会 >

帰国後、調べてわかったのですが、この教会の十字架がエジプト様式だそうです。
エジプト様式の十字架は中央上部の突き出し部分がリング状になっています。
私の写真では確認できなかった。
かつて北アフリカの人々がこの地に足跡を遺したのだろう。


 
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上の写真: 教会の前の広場から頂上を見上げた。

下の写真: 下っている。


 
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上の写真: この要塞化した村には、いくつもの門、トンネル状の通路があった。

下の写真: モナコに向かうバスから撮ったエズの全景。
西側を見ている。


エズの歴史
観光ガイドの説明では地中海に沿ってこのような鷲の村が多く作られたのは、サラセン人(イスラム勢力)の侵入に備えたからだと言うことでした。
それを聞いて私は少し驚き違和感を持った。
帰国後、この地域に何があったかを調べました。

大きな流れを見ます。
エズ周辺は紀元前2000年頃に居住が始まり、やがてギリシャ人が植民し、ニースなどが出来た。
紀元前後からローマ人が支配したが、衰退後、ゲルマン人、次いでフランク国が支配した。
しかし9世紀のフランク王国の分割後、フランス勢、ドイツ勢、イタリア勢、スペイン勢がこの地を奪い合い、領主は小刻みに変わり、境界は大きく東西に動いた。
この地が、今のフランス領に確定したのはナポレオンが負けた後の1861年のウィーン会議以降のことです。

エズについて
973年、中部フランク王国の流れをくむプロヴァンス王国が約80年間のムーア人(北西アフリカのイスラム教徒)支配を断った。

1338年まで、エズイタリア勢のサヴォイア家の管轄下にあった。
サヴォイア家は西隣りのニースに備えるためにエズを要塞化した。

伝承によると1706年、フランス王ルイ14世(太陽王、ヴェルサイユ宮殿建設)の兵士がエズを破壊したと言う。

この辺りは地中海交易の要衝の地であり、両サイドを大国に挟まれた険しく狭隘な地であった為、長く帰趨が定まらず戦乱に巻き込まれることになった。
こうして、この地には多くの鷲の巣村が生まれたのだろう。


次回に続きます。








20170604

フランスを巡って 4: 古都ボーヌ



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今日は、中世の施療院オテル・デュ―観光に立ち寄ったボーヌの町を紹介します。
ここには思わぬ中世の町の風情が残っていました。
この地の風景はワインとブルゴーニュ公国、修道院によって作られたと言えます。




< 2。 ボーヌの旧市街地図 >

上が真北です。
城壁で囲まれたボーヌの旧市街は直径約800mと小さい。
私達が歩いた範囲は赤線で、ほんの一部です。
黒の矢印は観光のメインである施療院オテル・デュ―を示している。
青線は観光後、昼食の為に丘の上のレストランに行った時のバスルートで、この時、撮った写真も紹介しています。


ボーヌの町



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上の写真: バスのフロントガラス越しに。
ボーヌの旧市街に向かっている。

下の写真: 駐車場から施療院オテル・デュ―に向かう途中。



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上の写真: 施療院オテル・デュ―。
下の写真: 施療院オテル・デュ―の前の広場から。
この町の建物の屋根や瓦組に特徴がある。





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この写真からNo8の上の写真までは自由散策で歩いた時の写真です。
No.2の地図の赤線部分です。


 
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下の写真: 観光後、城壁の外側をバスで通過した際に撮った写真。
No.2の地図の青線上で撮影。



 
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No.8の下の写真と同様。
古い堡塁や城壁、門が残っている。



 
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丘の上のレストランに向かう途中の風景。
旧市街を離れると、直ぐにブドウ畑が広がった。
ここはブルゴーニュ・ワイン産地の真っ直中です。


ボーヌとブルゴーニュ
後にボーヌの施療院オテル・デュ―を紹介しますが、この施療院設立には興味ある歴史的背景があります。
この地の歴史はワインとブルゴーニュ公国、修道院と深く関わっている。


 
< 11. ボーヌの歴史 >


左上の地図: フランスのワイン産地。

右の地図: ブルゴーニュ・ワインとボージョレ・ワイン産地を拡大。
一番上に黒丸で示した都市ディジョン、次いでボーヌ、一番下にリヨンがあります。
二つの修道会発祥の地を赤枠で示しています。
上からシトー会、下ってクリュニー会です。

左下の地図: 15世紀に最大版図を誇ったブルゴーニュ公国。


 

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A: ブルゴーニュ公国の紋章。
B: イエスとワイン。
C: この地にクリュニー修道院が最初に建てられた。
D: この地にシトー修道院が最初に建てられた。


ボーヌは古代ローマ時代からの足跡を残し、11世紀にデイジョンが首都になるまで、ブルゴーニュ公の居所だった。
フランス王家と連なるブルゴーニュ公国(843-1477年)はフランドル(注釈1)を手に入れてフランス王家に次ぐ勢力を誇るようになった。
一方、フランス王家は英国と百年戦争(1337-1453年)を戦っており、弱体化していた。

ブドウ栽培はローマ時代、地中海沿岸に広がり、アンフォラ(素焼きの壷)でヨーロッパ各地に供給されていた。
しかし2世紀以降、寒冷地用の品種が作り出され、ブドウの栽培はローヌ川からソーヌ川を北上していった。

さらに二つの修道会がこの地域の発展に貢献した。
10世紀初め、ブルゴーニュ公の寄進により荒地のクリュニーにクリュニー修道院が創建された。
これは12世紀の最盛期には1200もの修道院を管轄下に置いた。
だが、この繁栄は堕落を生んだ。

11世紀末、これに異議を唱え、徹底した禁欲と難行苦行を行う一人の修道士が葦の原に小修道院(No.11の右地図のシトー会)を作った。
これがシトー修道会となり、ブルゴーニュ公や多くの人々から尊敬を集めるようになった。

これら修道院は寄進された多くの土地を自ら開墾し、農作物栽培とワイン醸造の改良を行い、農民を指導した。
キリスト教徒にとってワインは聖餐においてイエスの血であり、修道院にとっては旅人や訪問客をもてなす重要な飲料であった。

こうして、ブルゴーニュは三つの要素が組み合わさり、その景観と歴史を形作って行った。
そしてボーヌはその中心に位置し、ワインと公国の歴史を背負っているのです。


いずれ施療院オテル・デュ―を紹介します。



注釈1
フランドルはオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域。
中世に毛織物業を中心に商業、経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄した。



20170603

フランスを巡って 3: セーヌ川クルーズ




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今日は、セーヌ川クルーズを紹介します。
乗船するまでは期待していなかったのですが、始まると気分が高揚していきました。
思い出深いパリとなりました。


クルーズの概要




< 2. クルーズの航路 >

上の地図: グーグルアースの画像。上が真北です。
下の地図: 主な建物と航路を示します。

クルーズはエッフェル塔の下の埠頭Sから始まり、北側のサン・ルイ島を過ぎた所Rで折り返し、戻って来ます。
行きは黄線で、帰りは赤線です。
所要時間は約1時間、30分毎出航。


クルーズの始まり
10日目、5月26日(金)、20:20頃に出航しました。
写真は撮影時間順に並んでいます。



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上の写真: 後ろを振り返った。
いよいよ出航。
この日は陽射しがきつく暑かったが、夕暮れになると過ごしやすくなり、船が走り始めると川風が心地良かった。
寒くはなかった。

下の写真: 結婚披露宴で貸し切られているクルーズ船が数隻あった。
人々は華やかで如何にも楽しそうで、すれ違う時、私達も互いに手を振り、喜びを分かち合った。




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上の写真: すれ違うクルーズ船。

下の写真: 私達のクルーズ船。
私は2階デッキの中央で楽しんだ。
進行方向の右側にオルセー美術館が見える。



< 5.ノートルダム寺院 >

上の写真: 左側はシテ島。
橋の左奥にノートルダム寺院の正面が見えて来た。

下の写真: ノートルダム寺院の真横。

この時、海外からの旅行客と触れ合うことが出来ました。

私達のツアー仲間が、船上である外国人夫婦の写真を撮ってあげました。
するとその外国人男性が、私に「何処の国ですか?」と英語で聞いてきました。
私が「日本」と答えると、彼の奥さんが「東京?」と聞いてきました。
私は「大阪」と答え、逆に、その男性に「何処か?」と聞くと、彼は「カリフォルニア」と答えました。
私は「ロサンゼルス? サンフランシコ?」と聞くと、「サンフランシコ、ナパ(?)」と答え、さらに「ワイン農家」と付け加えてくれました。
私は「ワインで有名な所」(ナパはカリフォルニアワインの産地)と返しました。

私は奥さんに「インド?」と尋ねましたが、「イエス」の後の言葉を聞き取ることが出来ませんでした。
最後に握手をしました。

その風貌や年齢から察して、おそらくはインドからアメリカに移住し、ワイン栽培で成功し、夫婦でフランス旅行に来ていたのだろう。
苦労の末に成功を得た落ち着きのある夫婦に思えた。

今回の旅行では、様々な場面で移民と移民の国を実感できた。

英語が出来れば、もっと語り会えるのだが・・・。





*6

上の写真: 河岸には本当にたくさんの人々が春の宵を楽しんでいました。
 
中央の写真: この一角で集団になってダンスが興じられていた。
この並びでは、数か所で異なるダンス、社交ダンスなどが演じられていた。

下の写真: ちょうどサン・ルイ島を過ぎた所で、これから左旋回して戻っていくことになる。
前の橋の右側に明日散策するアラブ世界研究所のビルが少し見える。





< 7. 宵を様々に愉しむ人々 >

若いグループが多いのですが、若い男女のカップルや年配の夫婦、様々な人々がラフなスタイルで談笑していました。
その服装から彼らは旅行客ではなく、市民のようでした。
またその顔立ちから察するに、まさに様々な国からの移民の国を彷彿させるものでした。
彼らが飲んでいるのはビールではなくワインでした。
如何にもフランスらしい。

このクルーズが最高に楽しめたのは、彼らの多くがクルーズ船の私達に笑顔で手を振ってくれたからでした。
それがずーっと続くのです。
まさにセーヌ―川一体が世界の人々の共感の場になっていました。

私は各地での自由散策の度に、多くのフランス人の親切と笑顔に出会った。
まさにフランス人の気安さが最高に盛り上がった時でした。




*8

上の写真: 後ろを振り返った。
サン・ルイ島を抜けたところです。

下の写真: 夕陽が水平線に近づいて来た。




*9

上の写真: 後ろを振り返った。
右側はシテ島で、写真中央に見える建物はコンシェルジュリー(革命時代の牢獄)です。

下の写真: アレクサンドル3世橋をくぐって、振り返った。




*10

この日の日の入りは21:39だが、21:17のエッフェル塔は茜色に輝いて見えた。


いずれパリの別の顔を紹介します。