20170415

平成イソップ物語 14: 津波とモグラ

  

*1


昔々、ある所にモグラがたくさん住んでいました。
そこは山と海に囲まれた平和な所でした。
しかしある日から事態は急変しました。



 
*2



モグラ達がたくさん集まっています。

一匹の白いモグラが大声で皆に訴えています。
「皆、聞いてくれ!
津波が来たら、我々の住んでいる所は海に沈んでしまうぞ!」

誰かが聞きました。
「そんなことが起きたら大変だ。 どうすれば良いのですか?」


白いモグラが答えました。
「それは海岸に堤を作るしかない。
そうすれば海からやって来る大きな波を防ぐことが出来る。
私達は土を掘って集めることが出来る。
今やらなくて何時やるのだ!」


皆は騒ぎ始めた。
「この話は本当かな?」
「しかし万が一、津波が来たら終わりだぞ。」


この時、一匹の子供モグラが母さんに言いました。
「以前、僕は地中を深く掘っていた時、底の方で水が流れているのを見たことがある。」

お母さんは言いました。
「山にたくさん雨が降れば、洪水になるかもしれないね。」

母さんは周りのモグラに危惧を伝えましたが、皆は口を揃えて言いました。
「お前は津波の恐ろしさを無視するのか。話にもならない。」


やがて皆は力を合わせて堤を造ることにしました。

そんなある日、その親子はこの浜を去り、離れた高台に住み始めました。

やがて数年が過ぎて、雨が降る日が多くなりました。

ついに川が増水を始め、堤で囲まれた浜は水没してしまいました。

とうとう津波は来ませんでした。



 
*4






20170412

海外旅行のすすめ 3: 初めてのヨーロッパ 2





< 1.クリスマスの飾りつけ、イメージ >
この記事に使っている写真はすべて借用で、イメージです。


今日は、北欧2カ国で感じた事をお伝えします。
私はここで人々の暮らしや働き方が日本と大きく異なることを実感しました。


私達は3泊4日で、デンマークとスウェーデンの合計4つの会社を訪問しました。
バスの車窓から見た街並み、工場見学、現地の人々の話などから北欧の社会や文化が少し見えて来ました。
古い話になるのですが、当時、衝撃を受けたことを覚えています。


灯りについて
巻頭の写真は、観光バスがコペンハーゲンやストックホルムの郊外住宅地を走っていた時の様子をイメージしています。
訪れたのはクリスマスの1ヵ月前で、都市部ではクリスマスイルミネーションが見られました。
私が素晴らしいと思ったのは、住宅街の個人宅の通りに面した出窓の飾りつけでした。
それは、出窓に飾られた花などが灯りに照らされていて、行き行く人々の眼を楽しませていることでした。
夜に浮かび上がる飾りつけに、人通りが少ないだけに一層、この人々の共に祝う気持ちの強さを感じました。

これから30年後に、日本でも個人宅の外周にクリスマスイルミネーションが普及したようです。



< 2. 曇り空とレストランの灯り、イメージ >

実は8日間の旅行で、晴れ間を少しでも見たのは一度きりの数時間だったと記憶しています。
雨が降るわけではないのですが、ヨーロッパ全体が厚い雲で覆われているのです。
私達がストックホルムからガブルへ向かう途中、一瞬だけ雲間から青空が少し覗きました。
この時、バスのほぼ全員が歓喜の声を挙げました。
もちろんすべて日本人ですが。

多くの日本人にとって、太陽の陽射しは有り触れたものに過ぎない。
しかし、冬の北欧にとって太陽の恵みは少なく、そのありがたみは格別なのでしょう。

食事をしたレストランの照明は、私にとっては何処も薄暗く、赤みを帯びた白熱照明でした。
始めは戸惑ったのですが、慣れていくと、これが味わい深いものに思えて来ました。

私は、また日本に帰ってから半年以上は夕食の際、わざわざ白熱球の下で食事をしました。



 

< 3. 北欧の街並み、イメージ >


町並みから
バスの車窓からウィークデーの繁華街の様子を見ていると、日本と大きく異なっていることに気付きました。
おさらくスウェーデンだったと思うのですが。

日本で言う赤ちょうちんやパチンコ屋などがなく、夕刻なのに勤め帰りの男達がたむろしていない。
仕事を終えた男達は何処に消えてのだろうか?
時たま見かける人達と言えば、カップルでした。
後に、この謎が解けることになりました。

スウェーデンでは男女平等と言うか、男女同一賃金でほとんどが共働きなのです。
これがおそらく一人当たりの国民所得が高い理由の一つなのでしょうが。
この為か、男だけが夜な夜な歓楽街に遊びに行くことがなく、出かけるなら夫婦共になるそうです。
こうして日本のように男で賑わう繁華街を見ることが出来なかったようです。

このことがまたライフスタイルに違いを生んだようです。


 

< 4.スウェーデンの家、イメージ >



たしかスウェーデンの大会社だったと思いますが、見学中、急に製造現場の従業員がそわそわしだしました。
そして終業ベルと共に、皆がそそくさと現場を立ち去りました。
日本の工場では考えられません。

次の日、別の工場見学のおり、現地の技術者と談笑する機会がありました。

私は聞きました。
「皆さんは、日頃、休みや余暇では何をしておられるのですか?」

皆さん、色々な趣味やスポーツに励んでおられているようでしたが、一番印象に残ったのは、自分で何年もかけて家を建てる人がいることでした。

日本では考えられないことです。
私達、特に団塊の世代は、がむしゃらに働き、仕事に生きがいを求め、会社に人生を捧げる節がありました。
それに比べ、スウェーデンの人は心豊かに暮らしていると感じました。
この働き方で、時間当たりの労働所得が遥かに日本より高いのですから羨ましいかぎりでした。

当時、日本は高度経済成長を終えて、一人当たりの国民所得が世界に伍するまでにはなっていたのですが、それでも北欧よりは低かった。
さらに時間当たりの労働所得で差が開いた理由は、日本のどこに原因があったのだろうか?
一つ言えることは、サラリーマン(男性)の会社への滅私奉公が所得を向上させてはいたが、一方で、女性の低賃金と機会損失がそれを相殺していたことです。
北欧はこれがなかった。
日本はやっと今頃、動き出した(男女機会均等法、育児休暇制度など)。

他の要因は、後に判明することになりました。



< 5. 本屋と飛び出す絵本、イメージ >


本屋を訪れて
ストックホルムで空いた時間に、一人で中心街を散策しました。
この時、私は生まれて初めてマクドナルドと海外の本屋に入りました。

本屋の中はクリスマスもあってか、心が弾むような飾りつけになっていました。
それでいて、けばけばしくなかったように思います。
この時、私は子供の為に絵本を数冊買いました。
一冊は北欧神話トールが主人公でした。
他は飛び出す絵本で、中世の城が飛び出すものでした。
当時、日本では見かけることのない類の本でした。
スウェーデン語なので理解できないのですが。

これ以降、海外に出ると本屋に寄り、面白い本を探すようになりました。


次回に続きます。








20170402

Bring peace to the Middle East! 74: Why was it exhausted ? 12: When did the world stand at a crossroad? 3

中東に平和を! 74 なぜ疲弊したのか 12: 何が岐路になったのか? 3




< 1. Tel Aviv in Israel  >
< 1. イスラエルのテルアビブ >


As we have seen, the country that has been exhausted was once a colony or a communist country.
This time, we deepen the understanding a little more.


今まで見て来たように、疲弊が進んでいる国はかつて植民地か共産主義国家でした。
今回は、もう少し理解を深めます。


Introduction
Why were those countries exhausted if it became a colony or a communist country?
It was severe domination that one thing was common to both two groups of those countries of those days.

In the colony, immigrant different ethnic group had been depriving everything from the majority of indigenous peoples.
In the communist country, a part of bureaucrats were depriving the freedom of all citizens.
The important thing is that the domination of both groups extended over everything from politics to economy, and military affair, etc.
This is the big reason why these countries are hard to get out of exhaustion even if they became a independent or constituted a departure from a communist regime.


はじめに
植民地にされたり、共産主義国家になるとなぜ国家は疲弊するのでしょうか?
両者に共通していたことは過酷な支配が定着していたことです。

植民地では異民族が大多数の先住民からあらゆるものを収奪していました。
共産主義国家では一部の官僚が全国民の自由を奪っていました。
重要な事は、両者の支配は政治・経済・軍事などあらゆるものに及んでいたことです。
このことが、せっかく独立を果たしても、また共産主義体制から離脱しても、なかなか疲弊から抜け出せない理由です。


Let's see a clear example
In Israel, many Jews immigrated in a short period and made the country from scratch.
There was not a system of deprivation among the Jews who account for 75% of the population.
And the economic force of this country is high, the stage of the corrupt government is low, and the income gap is small. Annotation 1.
Now, we are hard to imagine the Jews had been despised in the past.
Unfortunately they are depriving many lands from the indigenous Arab.


端的な例を見てみましょう
イスラエルでは、多数のユダヤ人が短期間に移住して国を一から作りました。
人口の75%を占めるユダヤ人の間には収奪する制度が生まれなかった。
そして、この国の経済力は高く、政治の腐敗度は低く、所得格差も少ない。注釈1.
あれだけ蔑まれたことがまるで嘘のようです。
残念なことに彼らは先住のアラブ人の土地を収奪し続けているのだが。





< 2.  Egypt of Arab Spring >
< 2. エジプトのアラブの春 >


How about Egypt and Turkey in the same Islamic area?
The per capita income of Egypt is one third of that of Turkey.
Turkey separated religion from politics a hundred years ago, is advancing modernization, and is a favorable economy.
Meanwhile, Egypt tried to push forward modernization from half a century ago, but fell into a military dictatorship, and the economy stays stagnant due to repeated wars.
The difference is that Egypt once was dominated by different ethnic Turkey, next was dominated by the UK, on the other hand Turkey had never been dominated.


同じイスラム圏のエジプトとトルコはどうだろうか?
エジプトの一人当たりの所得はトルコの3分の1です。
トルコは百年前に政教分離を行い近代化を進め順調です。
一方、エジプトは半世紀前から近代化を推し進めようとしたが軍事独裁に陥り、その後は度重なる戦争などで低迷している。
この違いは、かつてエジプトは異民族のトルコ、続いて英国に支配されたが、トルコは支配されたことがなかったことにある。


What is wrong?
After all, we knew that country's exhaustion - a faltering economy, political corruption, or income disparity - is not decided due to difference of ethnicity, religion or race, but rather is decided due to whether it has received severe domination over the long term.

Then, if white people became to be a majority in the colony such as the US, Australia and Chile, why are the countries not exhausted ?
Some people must think that this represents a white people's excellence.


何が悪いのか
結局、国の疲弊-経済の低迷や政治腐敗、所得格差-は民族や宗教、人種の違いではなく、過酷な支配を長期間受けたかどうかで決まることがわかりました。

しかし、それでは米国やオーストラリア、チリのように、なぜ白人が植民地で大勢を占めると疲弊しないのか。
これこそ白人の優秀さを示してると考える人もいるはずです。




< 3. a gap between the rich and the poor in South Africa  >
< 3. 南アフリカの貧富の差 >

For example, in South Africa that was a British territory, white people dominated nine-fold black people.
The white people did not admit free passage, land ownership, and voting rights of black people, and overworked them with low wages.
At those times, the per capita income was higher in Africa, because the income of the white people stood out.
Although the racial discrimination policy was abolished in 1994, the number of murders is still large and the economy is still sluggish.



例えば、英国領だった南アフリカは白人の入植者が9倍ほどの黒人を支配していた。
白人は黒人の自由な移動や土地所有、選挙権を認めず、低賃金で酷使した。
当時、一人当たりの所得はアフリカでは高い方であったが、それは一部の白人の所得が突出していたからでした。
1994年に人種差別政策は撤廃されたが、今も殺人件数が多く、経済は低迷している。





< 4.  settlement of the American West of the US  >
< 4. 米国の西部開拓時代 >

On the other hand, why do the three countries not get exhausted?
This is the result that they had to work hard themselves rather than doing deprivation from the indigenous people at the founding of the countries, because the indigenous people was few.
In other words, they could not organize a system of deprivation.
However, the US seems to have become a country that tolerates large income disparity, as they were using black slaves and usurping the land of indigenous peoples.

In sum, this key point is also a presence of the system of deprivation.
Mankind often discriminate alien people even if they treat their relatives in an equal way.


一方、前述の三ヵ国はなぜ疲弊しなかったのでしょうか。
これは建国初期に先住民が少ないか減少した為に、収奪ではなく自ら働く社会を作らなければならなかった結果なのです。
しかし米国は、黒人奴隷の使役や先住民の土地を収奪していたこともあり、大きな所得格差を許容する国になったと考えられます。

つまり、ここでも収奪制度の有無がポイントでした。
人類は、往々にして身内には平等であっても異なる人々を差別します。





*5


There is still doubtful thing
Should they drag things of such old colonial era for all time?
There are persons thinking they should make a recovery by self-responsibility.

For example, when was the French Revolution that was begun in 1789 completed?

I think It was in 1870, when the Third Republic was established after overcoming repeated counterattacks from the ancient regime and obstruction by neighboring countries.
For nearly a hundred years, they were dropping a lot of blood, then they left off the royal government, and separated religion from politics.


まだ疑問が残る
そんな昔の植民地時代のことをいつまで引き摺っているのか、自己責任で立ち直るべきだと思う人がいるはずです。

例えば、1789年に始まったフランス革命は、いつ完成したのだろうか。

それは、度重なる旧体制側からの反撃や周辺諸国からの妨害を乗り越えて、第三共和政が樹立された1870年ではないだろうか。
つまり、ほぼ百年の間、多くの血を流して王政を脱し、政教分離を手にいれたのです。




*6


When did Japan that had achieved the Meiji Restoration in 1868 become a truly democratic country ?

Although Japan became a powerful country, on the other hand, could not suppress the armed faction and the company syndicate, and rushed toward the great war.
After the defeat of 1945, under the occupation of the US military, the company syndicate and the armed faction were dismantled, women's right to vote was permitted, and finally Japan became a democratic system.

In other words, it is not easy for a country to switch from a system of deprivation to a democratic regime.

This continues to the next time.


1868年に明治維新を成し遂げた日本が真に民主的な国になったのは何時の事だろうか?

富国強兵で強国となったが、軍閥と財閥の肥大化を抑えることが出来ず、大戦へと突き進んだ。
そして1945年の敗戦後、米軍の占領下で財閥や地主の解体、女性選挙権の開始が進められ、やっと民主的な体制となった。

つまり、一つの国が収奪的な体制から民主的な体制に転換することは生易しいものではないのです。


次回に続きます。


注釈1.
イスラエルの建国は他の例と異なり、豊富な資本が集まり、また高度な技術者が集まった。
このことが今の経済や産業を支えている大きな理由です。


20170330

平成イソップ物語 13: 熊と狐



*1




ある所に、秋になると鮭がたくさん遡上してくる川がありました。
そこでは熊と狐と多くの動物が仲良く暮らしていました。
しかし鮭の量が減り始めていました。



*2


熊以外の動物達が鮭の漁について話し合っています。

「皆、熊だけに鮭の漁を任しておいて良いのだろうか?」
「しかし、我々は熊が採ってくれた残り物を貰って暮らしている。」
「我々が鮭を漁することは難しいし、第一、熊が我々の漁を許さないだろう。」
「しかし、このままでは鮭が減っていくのは確実だ。」



*3


狐と他の動物達は熊の所に話しに行きました。
すると熊は皆を威嚇しながら言いました。

「お前たちは、これから鮭が遡上してくる川に近づいてはならない。」

皆は仕方なく引き下がりました。




*4



やがて月日は流れました。

熊の数が増え、また密漁する動物も増えて鮭の数はどんどん減っていました。

皆は危機感を持ち、対策を話し合いました。

「やはり、我々がこの川を守るべく鮭の漁を規制すべきだ。」
「皆を集めて、熊の所へ行こう!」





*5


この時、狐のリーダーが言いました。

「今、熊を怒らすのはまずい。ここはやはり熊に従うべきです。」

この狐は熊とこっそり話をしました。

「どうか我々狐にだけは鮭の残り物を確保して下さい。」

それを聞いた狐達はリーダーに大変感謝しました。

一方、足並みの乱れた他の動物達は規制を諦めざるを得ませんでした。


そして、また月日が流れました。

とうとうこの川に鮭が遡上しなくなり、熊も狐も、他の動物も死に絶えてしまった。



追記
これは核兵器禁止条約と核拡散防止条約における日米の姿勢を揶揄したものではありません。



20170329

海外旅行のすすめ 2: 初めてのヨーロッパ 1






< 1.当時の飛行機 >


私は33年前に初めてヨーロッパを訪れました。
この時、私はヨーロッパの街並みに感動し、異文化と接することに興奮しました。
当時の感動と興奮を紹介します。



 

< 2. 旅行の地図 >

上の図: この時、私達はルフトハンザ機に乗って伊丹空港から成田、そしてアンカレッジ経由でフランクフルト空港に辿り着き、やっとヨーロッパに入った。
しかし、すぐさまコペンハーゲンまで飛び、ここでヨーロッパの1泊目となりました。

下の図: ヨ-ロッパ内の移動経路。
1=フランクフルト。 2=コペンハーゲン。 3=ストックホルム。 4=ガブル。 5=ニュールンベルグ。 
この番号順に移動し、番号2から1までの順で宿泊した。
黒線は空路、茶色は鉄道、橙色はバスです。


旅行の概要
これはヨーロッパの優良企業を視察する研修旅行でした。
参加者は多くが中小企業の人で約40名になりました。
期間は、1984年11月18日から8日間でした。
訪問したのはドイツ、デンマーク、スウェーデンの計6社でした。

観光する暇もなく、飛行機とバスで移動を繰り返しました。
しかし、得たものは非常に多かった。
実際に工場を見学し、さらに現地の人と話を出来たことが良かった。
ホテルでの体験やバス移動時の車窓の風景は強く印象に残りました。

一番は、当時、疑問に思っていた日本と西欧の違いについて、私なりの答えが得られたことでした。
そして海外旅行が私の最大の楽しみになったことです。

残念ながら、この旅行の写真が残っていませんので、イメージとして借用した写真を使いますのでご了承ください。



 
< 3.ストックホルムからガブルへ >


旅の思い出
この旅で最も印象深い景色はストックホルムからガブルに行く途中のバスからの景色でした。
ストックホルムを北上して3時間ほど走って港町ガブルに着いた時は、既に真っ暗でした。

ガブルに近づくに連れて一面の収穫後のジャガイモ畑から、遠くに非常に背の高い杉の森が現れ始め、やがて一面が雪に覆われる景色へと変わっていきました。
陽が暮れた森の所々に、1軒の尖がり屋根がちらほら見えるようになりました。
暗い森を背景に、雪を被った家の窓から暖かい光がこぼれ、白い雪が少し赤みを帯びていました。

正に、幼い頃に夢見たサンタクロースの世界がそこにはありました。



ホテルでの経験
最初に泊まったのがデンマークの首都コペンハーゲンの中心部のホテルでした。
当時のホテルはシェラトン-コペンハーゲン・ホテルでしたが、今回調べてみると、外観は当時のままですが、スキャンディック・ホテルに変わっていました。

到着が遅かったので、食事して寝るだけになりました。
それでも私にとっては、ヨーロッパ最初のホテルでした。
一番、印象に残ったのはフロント係りの女性の美しさでした。
未だに、私はヨーロッパ各地の人種(ゲルマン、スラブなど)の見分けが定かではないのですが、これは北欧女性の美しさと思いました。



 
< 4. 北欧のホテル >

上左の写真: コペンハーゲンのスキャンディック・ホテル。
上右の写真: 当時のガブルのグランド・セントラル・ホテル。
私達が泊まったこのホテルは2005年に焼失し、現在はスキャンディックCHのホテルに変わっています。

下の写真: グランド・セントラル・ホテルの当時のレストランらしい。


私はこの旅行で幾つかのカルチャーショックを受けたのですが、このグランド・セントラル・ホテルの経験はインパクトのあるものでした。

このホテルは駅前に建つ非常に立派な建物で、大理石がふんだんに使われており、驚いたものです。
三人で写真のような地下のレストランに行き夕食を食べた時のことです。
このレストランは半地下で、上部の小さな窓から月明りが微かに差し込んでいました。
実に趣がありました。

最初の経験を紹介します。

一つ料理を注文したら、出てくるのに30分はかかりました。
2回目も3回目も、同じように時間がかかり、私はいらいらしていました。
私は食事に普通15分以上はかけていませんでしたので。

しかし周りを見ると、現地の様々なカップルが談笑しながら、時間をかけて楽しんでいました。
テーブルの仲間と話し合い、これは料理を作るのが遅いのではなく、歓談の間合いを考えての給仕だという結論に達しました。
この時、大いに私は自分のせっかちに反省したものでした。
日本に帰ってからも半年ぐらいは、食事をゆっくり食べるようにしたものですが、すぐ元に戻ってしまいました。
去年のクルーズの食事でも、始めは1時間半ぐらいかけていたのですが、途中から、時間がもったいなくなり、ブッフェに通うにようになった。

この夕食の後、さらに恥ずかしい経験をしました。
私達同行メンバーはほとんど男性でしたが、夕食後、大挙してこの地下のダンスホールに乗り込もうとしたのです。
ダンスホールでは沢山の西欧人が社交ダンスを踊っていました。

一人では行けないのですが、皆で酒の勢いで突入しました。
ところがボーイが私達を制止し、入れてくれないのです。
誰かが「ここは男女のカップルでないと入場出来ないぞ!」と言い、皆、急に酔いが醒めて引き下がりました。

今、思い起こすと、ロシアからバルト三国の旅行で出くわした集団の中国人観光客
の振る舞いに閉口したもですが、昔の私達もよく似たものだったのかもしれません。

こうして3泊目の夜は更けて行きました。


次回に続きます。