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今回は、雲南省博物館の展示を紹介し、簡単に雲南の歴史も見ます。
今回で、中国の訪問地の紹介を終えます。
ちょうど旅行から1年が経ちました。
< 2. 雲南省博物館 >
上: 外観
中国の革新的な姿勢を感じます。
下: 中に入り、2階から入り口側を望む。
1階フロアの右端に見える青銅器は「战国牛虎铜案」の巨大なレプリカです。
戦国時代(紀元前5~3世紀)の副葬品。
親子の牛と虎が巧みに組み合わされた高い技術を擁する青銅器です。
< 3.展示品、銅鼓など >
左上: 銅鼓
多くは直径1mほどあり、鼓型の青銅器で、儀礼の際具として使用された。
当時は表面が金色燦然(青銅器は皆)と輝き、人々はそれを叩いた時に発する音に神秘性を感じたことだろう。
日本の銅鐸に似た役割を持っていたのかもしれない。
これは紀元前5世紀頃、この昆明地方から始まり、北部ベトナムから東南アジア全域に広がった。
古くから高い青銅器製作技術があった。
私は日本を発った時は、この博物館で銅鼓を見るのが楽しみだった。
しかし麗江の木府内でさり気無く展示されている多くの銅鼓を見ていたので、興味は半減していた。
一方、雲南省博物館は銅鼓の展示を重要視していないようだ。
右上: 前漢時代の地図のようだ
赤矢印に滇池が見え、そこには益州郡と記されている。
当時、中心都市(昆明)は滇池と呼ばれていたようだ。
左下: 時代は不明だが、この地の王が中央政権の特使から何か御下命を受けているシーンのようだ。
例えば8世紀、唐の官吏と南詔の王かもしれない。
右下: 茶葉古道の再現
雲南は辺境ではあったが、東南アジアやインド・チベットへと通じる西南シルクロードの要衝でした。
このことが古くはインド文明を中国に伝え、太平洋戦争では連合軍から中国への補給路となった。
< 4. 石窟と鄭和 >
上: 八大明王窟の実寸大レプリカ
この石窟は大理にあり、南詔王朝末期に始まり、唐後期から南宋の時代にかけて造られた仏教遺跡。
16の洞窟に140体ほどの彫像がある。
下: 鄭和が使った船のレプリカ
鄭和は明の時代、総員3万人、60艘の大船団をもって東南アジアを経てアフリカまでの大航海を7度も果たしている。
彼は昆明にムスリムの子として生まれた。
彼の祖先は、この地にモンゴル帝国が侵攻した折、チンギス・ハーンに従って来た。
この祖先達は重要な官職を得て、ここに定住していた。
彼が活躍した14~15世紀、彼が航海したインド洋と接するアフリカ、アラビア半島、インドと東南アジアの島嶼(マラッカ海峡)はほとんどがイスラム圏になっていた。
これも彼が抜擢された一因になったのだろう。
< 5. 古地図と銅像 >
上: 昆明の城郭地図
地図の城郭内に「昆明県」の文字が見えることから、この地図は元朝以降、おそらくは明朝のものと思われる。
下: 宋代の大理で造られた像
小さな像だが精巧に造られている。
左下の明王像にはチベットの明王像を連想させるものがある。
雲南は、永らくチベット(吐蕃など)と交戦し、また交易や同盟を結ぶ関係にあった。
< 6. 少数民族の楽器と仮面 >
右上: 楽器
下: 仮面
目や口、色彩はバリ島の仮面と似ているが、冠はチベットの仏像に似ている。
この地は、インドや東南アジアの文化が強く影響している。
< 7. 小さな像 >
上: ナシ族の祭祀用で泥偶
下: 清末の石細工
< 8. 民族衣装と新石器時代の村 >
上: 民族衣装
下: 新石器時代の村の様子
雲南の地に、新石器時代の中国の古代文化に類するものがあったとは知らなかった。
しかし、この展示の説明には、この地に仰韶文化(紀元前5000年前~)に一致する文化圏があったと記されている。
その当時の村を再現しているようです。
中国で稲作が始まったのは1万年前の長江中流域だとされている。
そして、その長江上流には雲南がある。
一時、稲作は北東インド(アッサム地方)から長江沿いに伝わっと考えられていた。
そうとすれば、雲南に最古層の定住村があっても当然かもしれない。
今でも、この地には野生種の稲があるそうです。
< 9. 第二次世界大戦の痕跡 >
上: 大戦末期、中国軍がビルマを北上してくる日本軍と国境近くで戦ったと言う展示らしい。
日中戦争で、日本軍は援蒋ルートを断つために、桂林を越えて南下していた。
しかし、戦線が延び切って苦戦を強いられ雲南には至らなかった。
このことを以前、桂林を旅行して始めて知った。
しかし、太平洋戦争で、日本軍が援蒋ルートを断つために、南方から雲南に侵攻していたとも知らなかった。
こんな隔絶された高原の地が、激しい戦いの要因になっていたとは。
旅行で世界各地を訪れると、このようなハットするような歴史を知ることがある。
下: 連合軍が中国を支援する為の軍需物資の運輸ルート(援蒋ルート)四つの内二つを示す。
赤い矢印が昆明、緑の矢印が大理です。
実線の援蒋ルートが最も重要で、ミャンマー(ビルマ)のヤンゴン(ラング―ン)から昆明、雲南に至る道でした。
ビルマを中心にしたこの一帯で、史上最悪の作戦と言われたインパール作戦(インド)や、映画「戦場にかける橋」になった泰緬鉄道建設(タイ)が行われた。
この博物館には他にも色々見所はあるのでしょうが、私は胃腸の調子が急に悪くなり、存分に楽しむ事が出来なかった。
例えば、青銅製の貯貝器があります。
貨幣として使われたインド洋産の貝殻が貯えられていた。
特に、その容器の蓋に付けられた青銅製の造形物(人や馬・牛など)が面白い。
当時の生活が見えてくるようです。
< 10. 博物館近くの町並み >
博物館を出て、バスでホテルに戻る予定だった。
しかし、路線番号を間違えて乗ってしまった。
途中で気付き、行き過ぎたバス停で下車し、本来のルートまで徒歩で戻り、乗り継いでホテルに着いた。
この時、スマホで百度地図による位置の確認が出来て良かった。
お陰で時間に間に合った。
次いでホテルに預けておいたスーツケースを引取り、ホテルのすぐ前から発車するリムジンバスに乗り、昆明空港に向かった。
昆明空港からは直行便で関空に無事着いた。
こうして15日間の中国旅行は、大したトラブルも無しに終えました。
次回からは、中国旅行で感じた事などを記します。
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