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前回に続いて、明治維新後の社会で重要な2点を見ておきます。
< 2. 天皇が下賜された教育勅語 >
明治維新に見る日本的な心理
明治維新後、素早く先進国の諸制度を取り入れ、憲法制定も行った。
しかし、「仏を作って魂入れず」だったのかもしれない。
1890年、教育勅語を憲法発布の翌年に発布している。
これは儒教道徳と愛国心を鼓舞する短い文書だが、これには欧米の近代国家が生みの苦しみを味わった憲法の理念「国民の権利を守るために根本の統治機構を規定し、国家権力を制限する」と相容れないものがある。
取り急ぎ西洋の制度を真似たが、すぐに日本古来の思考に戻っている。
組織優先とトップに依存する心理、例えば、天皇を戴くことで国がまとまると期待することです。
この心理は社会の混乱を防ぎ団結力を生むかもしれないが、一方で衰退と暴走を生み易い。
これが弾圧や軍事国家への道をより加速させたのだろう。
天皇への絶対服従を強調する軍人勅諭(1882年下賜)も大戦終了まで軍人の心得として陸軍では全員暗誦させられていた。
何でもあることだが、良いと思える国民性が一方で災いすると自覚することが我々には必要です。
< 3. 西南の役、1877年 >
なぜ戦争へと突き進んだのか
王政復古は世界中で見られる政変劇であり、明治維新は西欧で起こった市民革命とは異なる。
明治維新は軍事クーデターとも言えるが、各藩の改革を担った下級武士達が協働で主導したことが重要でした。
しかし、軍事クーデターの主役である武士団が政権を担うと、その出身である薩長閥の専横が始まった。
このことが、富国強兵に始まり軍事独裁から侵略へと進む運命にあったのかもしれない。
解雇され不平を持つ40万の士族を抑える為に征韓論が沸騰し、西南の役で鎮圧せなければならなかった。
結局、徴兵制による大きな直轄軍を編成しなければならず、旧来の武士団は近代的な軍隊に置き換えられた。
当時、世界は大国に蹂躙されていた。
日本にとって、欧米、特に隣国のロシアは脅威だった。
食うか食われるかにあって、日本は先手を打った。
そして、弱体化した中国、革命で混乱していたロシアに勝利し、さらに第一次世界大戦で戦うこと無しに中国の領土を得た。
ここまでは順調に見えたが、やがて泥沼にはまり込んで行くことになる。
< 4. 日露戦争、1904~1905年 >
日本は一度も侵略されなかったが、次から次へと派兵を繰り返し、広大な領土を手に入れた。
一方で、莫大な戦費は経済の足枷となり、この苦境を脱するには新たな領土と権益が必要になった。
結局、軍首脳は問題解決に外交や平和的手段を省みず軍事的手段に頼った。
戦争は侵略国があってこそ起こると信じられているが、戦史を振り返ると往々にして、自ら敵を作っていることが多い。
ベトナム戦争やイラク戦争は、その分かりやすい例です。
< 5. 満州事変、1931年 >
この過去の戦争が現在に尾を引いているのが隣国への蔑視感情です。
既に政府首脳にはあったかもしれないが、地方の民衆には無縁な感情だった。
この起源はそう古いものでは無く、主に日清戦争以降と言える。
大陸侵攻の過程で、戦地での親族の戦死が郷里に伝わるにつれて、隣国への憎しみが深まっていく様子が、当時の一東北新聞の調査により判明している。
次回に続きます。
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