20200502

中国の外縁を一周して 34: 夜の四方街を愉しむ





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今回は、麗江古陳の中心、四方街の夜を紹介します。
なかなか味わえない雰囲気があります。
飛んでエキゾチック・チャイナ! 


 
< 2.麗江古陳の散策ルート、上が北 >

黄色線が前回紹介したホテルから黑龙潭のルートです。
赤線が今回紹介するルートです。
玉河広場から四方街までは460mほどです。
白の四角枠はホテルです。
今回の写真は夜6:00から8:30までの撮影です。


 
< 3. 銀細工の店 >

銀細工の店が多かった。
銀細工の飾りは、中国南方の少数民族にとって非常に重要でした。
かつての花嫁姿は豪華な銀製の冠、胸飾り、ブレスレットで覆われていました。
特に有名なのが貴州省のミャオ族で、今でも祭式で女性が身に着けます。
銀飾りは婚資であり、移動可能な財産、身分の象徴でした。


 
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< 5. 四方街 1 >

四方街から幾本もの通りが放射状に延び、その両側には店が並んでいます。
そして観光客で溢れています。

 
< 6. 四方街 2 >

人が増えて来ました。


 
< 7. 大石橋 1 >

下: 大石橋が見えます。
この川の両側にはレストランがひしめき、どこも客で一杯でした。
この一角の雰囲気は、他の通りとは異なります。
レストランが、フランスの洒落たテラス席のように、川に沿って開放的になっています。
ちょうど菊が満開で、さらに夜の明かりが華やかさを増しています。

ただ私としては少し残念だったのですが、流れる音楽が中国ポップと言うか、けたたましいのです。
ライブハウス付きレストランとでも言えるのでしょうが、落ち着かない。
しかし中国の人は、当然楽しんでいるのですが。


 
< 8. 大石橋 2 >

 
< 9. 大石橋 3 >

 
< 10. フードコート 1 >

大石橋の近くにあるフードコートです。
前回紹介したフードコートと造りは似ていますが、こちらは二階もあります。
ここで2回目の夕食です。
いつも通り、妻に注文を任せて、私は撮影です。


 
< 11. フードコート 2 >

 
< 12.フードコートでの料理 >

味は絶品とはいかないが、様々な味付けと食材を愉しめれば満足です。

 
< 13. 四方街に戻って来た >
この夜景を綺麗に撮りたかったのですが、うまく行きませんでした。
写真はスマホによるものです。
凄い人だかりです。
中国人の観光熱と雰囲気を味わって下さい。


 
< 14. ホテルに戻って来た >

このホテルは古風な木造風2階建てで、丘の端の広い敷地に建っています。

上: 入り口。
下: 二階から丘の南側を望む。
ライトアップされた木造風のホテルが並んでいる。


 
< 15. ホテルのテラス席から >

ホテル内の東側、丘の上に喫茶店風のテラス席があり、そこから玉河広場の賑わいを撮影した。
ここでも音楽がけたたましく鳴り、多くの人が夜を楽しんでいた。


* 感じたこと *

30年以上前、大都会の台北や広州の夜を歩いたことがあるが、隔世の感がある。
当時、人々は平日、夜遅くまで働き、週末の夜になると家族で街に繰り出す。
人々は通りを埋め尽くし、レストランや小さな食堂に流れて行った。
その熱気は凄かった。
そこには麗江のような華やかさはなく、只々、一時の休息と憩いを得ようとする人々の姿があった。

ここは実に楽しく、高揚感のあるエキゾチックな観光地です。
日本の皆さんにお薦めです。

昔は、なかなか行けなかったのですが、今は昆明まで飛行機、そこから新幹線で麗江に時間を掛けずに行けます。
安い正規割引の航空券があり、新幹線も高くありません。
(航空券=関空-昆明、一人片道21500円、4時間。新幹線=麗江-昆明、一人2等3300円、3時間。空港-昆明はリムジンバス、40分間、一人400円)

また飛行機で成都まで行き、そこから麗江に飛ぶことも出来ます。
65歳以上なら、多くの観光地の入場料は半額または無料になります。
ホテルも欧米に比べれば、中国の朝食付き二人の宿泊料金は1/4~1/2ほどです。
ちなみに二泊した嵌雪楼客栈は朝食付き二人で一泊6000円でした。
このホテルの評価はTrip.coで4.5/5で良い方です。
さらに地元の食事は安い(高級店は別だが)。

是非とも、皆さんに中国の今の活気を感じて欲しい。


次回に続きます。



20200501

福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる 3: 福知山城





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今回から、福知山の中心部、福知山城と城下町を紹介します。
今回は主に福知山城です。


 
< 2. ドライブルートと由良川、上が北 >

上: ドライブルート
元伊勢内宮を出発して、福知山城横の駐車場までのドライブルートです。
ほとんど宮川と由良川沿いを走ります。

下: 由良川、太い青線、赤矢印が福知山。

京都府、滋賀県、福井県の府県境に源を発し、西向きに流れ、福知山で急激に折れて、北東に向きを変え、若狭湾に注ぐ。

福知山は東の綾部に続く盆地にあるが、標高の低い所では10mに過ぎない。
しかし福知山城から由良川が注ぐ若狭湾まで直線で30kmもある。
この事と折れ曲がっている事で、福知山の城下は幾度も洪水に襲われていた。


 
< 3. 由良川の眺め >

由良川の東岸から撮影。
上から順に、下流側、真横、上流(福知山城方面)を見ている。


 
< 4. 旧山陰街道と明智の丹波攻め、上が北 >
赤矢印が福知山。

上: 旧山陰街道
京都から亀山、福知山を抜け、山陰側の鳥取、米子を通り、次いで山陽側に向かい津和野、最終、山口小郡に辿り着く。
福知山から若狭湾に出て丹後に近い旧宮津街道もあった。
福知山は交通の要衝だった。

下: 明智の丹波攻め
福知山が発展する端緒は明智光秀がここに「福智山城」を造ったことにある。

16世紀後半、明智は信長に命じられ、丹波攻略を始める。
最初、福知山城(旧横山城)の南にある強敵の黒井城を攻める。
しかし背後から八上城の裏切りに遭い苦戦し、信長の命で石山本願寺との戦いに向かいます。
再度、亀山城の攻略から始め、西に順次、城を落とし、最後に黒井城を攻め落とし、丹波攻略を3年かけて終えます。

そして亀山城と福知山城を築城し、光秀は亀山城を丹波攻めの拠点とし、娘婿に福知山城を与えた。
光秀は福知山城築城の際、大規模な治水工事を行い、善政を敷いたことでで住民から慕われ、今に「福知山音頭」に唄われ続けている。

福知山音頭(江戸時代に出来た)
「 福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ
明智光秀丹波を拡め ひろめ丹波の福知山
お前見たかや お城の庭を 今が桔梗の花ざかり
・・・・・・・・               」

その二年も経たない内に、近畿一円を任されていた光秀は本能寺の変を起こし、滅亡した。

江戸時代、福知山城は福知山藩の居城でした。


 
< 5. 福知山城に到着 >

上: 城のすぐ横にある無料駐車場。
売店やレストラン、トイレもあります。

下: 駐車場から太鼓橋を渡って城に向かう。



 
< 6. 太鼓橋の頂点から >

上: 太鼓橋の頂点からの眺め

下: 城壁の坂道に来た。
これを登って、天守閣に向かい直ぐに着いた。


 
< 7.天守閣 >

天守閣にはコロナの関係で入場出来ませんでした。
この天守閣は1986年に再建されたものです。
構造は鉄筋コンクリート造ですが、外観は忠実に再現されているとのことです。
木張りの外壁が美しく、優しさすら感じる。



 
< 8. 転用石 >

天守台と本丸の石垣は当時のもので、「野面積み」「乱石積み」「穴太積み」と呼ばれる自然石をそのまま利用している。
また寺などの石造物が大量に使用されており、「転用石」とも呼ばれている。
下の写真の所々に見られる。

私は天主台の石積みにある小さな自然石に触ってみたが、今にも抜けそうで不安に感じた。
逆に言えば、素晴らしい石積み技術と言える。


 
< 9.表側 >



 
< 10. 豊磐井 >

上: 井戸の深さは50mあり、海面下7mに達する。


 
< 11. 天守閣の敷地から望む >
見ている方向は、次の地図の矢印通り。

上: 黒矢印、ほぼ東を望む。
中央: 赤矢印、由良川の上流を望む。
下: 茶色矢印、城下町を望む。
遠くに由良川の堤が見える。
私が散策するのは、主にこの写真の右半分です。


 
< 12. 福知山の中心部、上が北 >

矢印の中心に福知山城があり、東側から来た由良川が急激に折れ曲がって北上し、さらに土師川(ハゼ)が南側から合流している。


 
< 13. これから城下町を散策 >

上: 城を下って、北側に進みます。
写真の奥に見える小さな陸橋を渡り、由良川の堤に向かいます。

下: 旧松村家邸宅。
これは堤から迫り出した土地に建っています。
明治時代以降、大規模な築堤工事を請け負った松村組が、堤防の安全性を証明するために、この地に家を建てたそうです。




 
< 14. 明智藪(蛇ヶ端御藪) >

光秀が福知山城を築城する際、由良川の向きを変え、巨大な築堤を行い、
城下を洪水から守ろうとした。
さらに堤防の前に、この竹藪を造り、由良川の水流の衝撃を和らげるようにした。

これだけでも、光秀はなかなかの知恵者だったと思った。


次回に続きます。



20200429

中国の外縁を一周して 33: 东巴文化博物馆から麗江古陳まで






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今回は、ナシ族の文化・宗教が分かる东巴文化博物馆を紹介します。
その後、黑龙潭の東岸から玉河广场へ戻り、さらに丽江古陳の中心部、四方街へと向かいます。
途中、1回目の夕食場所も紹介します。


 
< 2.东巴文化博物馆 >

ここは黑龙潭の北側の門を出た所にあります。
小さな建物ですが、納西族(ナシ)、東巴教(トンパ)、トンパ文字の資料が丁寧に展示されています。

上: 入り口。

左下: 納西族の民族衣装。
庶民の普段着のようです。
町で見かけましたが、今は観光用に着ている。

右下: 火葬罐(缶なら金属容器のはずだが、土器のようだ)
説明文が読めないので定かではないのですが、これは火葬後の骨や灰などを収めた壺でしょう。
実は、この壺にナシ族の特徴が現れています。

中国は古来より土葬で、特に儒教によって強まりました。
(現在は衛生上の理由で禁止されています)
火葬の風習は、火葬が盛んであったインドで誕生した仏教が中国にもたらしました。
この地はチベットに隣接し、茶葉街道による交流も盛んだったので、チベット仏教の影響を受けていた。


ナシ族の人口は30万人で、雲南省の西北部から四川省西南部にかけての山間丘陵部や山間低盆地に住んでいる。
麗江古陳はかつて少数民族のナシ族の王都で、現在でもナシ族の人々が多く居住している。
またナシ族のほかに幾つかの少数民族が居住し、漢族より少数民族人口の多い地域となっている。
現在、麗江市の人口は110万人で、観光地、リゾート地として発展しており、外部からの人口流入が多いようです。

 
< 3. トンパ教 >

トンパ教はナシ族の宗教で、当地のシャーマニズムとアニミズムを起源に、チベット仏教などの影響を受けて出来た。
宗教儀式を司るトンパ(シャーマン)のみが、象形文字のトンパ文字を使い教義や伝承を代々伝えて来た。
したがって一般に使われる文字ではなかった。

左上: シャーマンの衣装だろう。

右上: ナシ族の兵装だろう。
この装束は、横山光輝の「三国志」、孔明の南征(雲南北東部)のシーンで、描かれたいたような気がする。

左中央: 仏教で言う卒塔婆のようなものでしょう。
トンパ文字が記されています。

右中央: トンパ文字が書かれた書物、おそらくトンパ教の経典でしょう。

下: 降魔杵
おそらくシャーマンが使う魔除けの道具でしょう。




 
< 4. シャーマンと儀式 >

上: トンパ教の祭式場を再現。
これから言うとトンパ教の寺院らしいものは無く、必要に応じて庭先などで行われたのだろう。

左下: 代々のシャーマン。
冠の形がチベットの仏像のものとよく似ている。

右下: 儀式の一つ。


 
< 5. 湖の東岸を戻って行きます >



 
< 6. 古楽器を演奏する人々 >

上: アンプを使用しているので、絶えなる音色が湖面を渡って広がっていた。

下: 麗江で紅葉を期待していたのですが、あまりなかった。


 
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< 8.锁翠桥 >

上: この橋の下が、湖から麗江古陳へと流れる川の始まり。


 
< 9. 玉河广场に戻った >

上: 広場の人だかりは出発時よりも増えていた。

下: 玉河广场のすぐ横にある中国風のフードコート。
日本の大型スーパーのフードコートと形態は似ているが、木造なのが良い。


 
< 10. 軽く夕食 >

出来るだけ色々食べ歩きたかったので、この日はここも含めて夕食を3ヶ所で食べた。
夕方5時頃でしたが、客は少なかった。
料理の種類は多いが、多くの食材が不明、味も分からない。
それでも妻が翻訳機を使い、色々注文してくる。
数皿食べたが、美味いと言うより、珍しく面白いに尽きる。


 
< 11. 玉河广场から四方街への通り >

この通りがメインで、道幅が広い。
菊が盛大に飾られており、実に綺麗です。
ツアー客が、どんどん増えて来た。
どうやら夜が、四方街観光の愉しみのようです。


 
< 12. 通りの両側は売店で埋め尽くされている >

民族衣装、宝飾品、食べ物、民芸品など多彩です。
ショッピング好きにはたまらないでしょうね。
ここでは中国製だから安いと言うことはない。


 
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黑龙潭からの川の流れです。


次回に続きます。




20200428

世界が崩壊しない前に 22: 様々な危機







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身近に迫っている危機とは?
被害の大きなものをリストアップします。



 
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1.  地球温暖化
2.  生態系の破壊
3.  農水産資源の枯渇
4.  地下資源の枯渇
5.  森林破壊
6.  水不足
7.  海洋汚染
8.  貧困と所得格差
9.  平和の破壊
10.  パンデミック
11.  巨大化する自然災害
12.  先新技術の誤用
13.  移民・難民
14.  暴走する経済活動
15.  金融システムの崩壊
16.  暴走する社会・国家
17.  細るエネルギー供給
18.  教育と情報の格差



 
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幾つかの被害例を見ます。

*「平和の破壊」とは、戦争、内戦、テロ、核戦争などです。
犠牲者はベトナム戦争で800万人、一度核戦争が勃発すれば地球全滅で75億人でしょうか。

*「パンデミック」とは、伝染病のコロナウイルスなどです。
スペイン・インフルエンザによる死亡者は世界で4000万人でした。
この時の感染数は世界人口の30%と言われています。

*「金融システムの崩壊」の代表例は、ほぼ10年毎に繰り返されているバブル崩壊ですが、今後、別の崩壊が起きる可能性もあります。
リーマンショックでは、米国だけで1800兆円の家計正味資産と退職勘定資産の1/3を瞬時に失った。
当然、被害は世界に及んだ。


被害規模は甚大になると思われるが、予想しづらいものも見ておきます。

*「地下資源の枯渇」で切実なものは、埋蔵量が後20年ほどしかない幾つかのアースメタルやレアメタルです。
さらに1~3ヶ国に産出シェア70~90%を握られている資源もある。
経済封鎖が起きれば大国と言えども一溜まりもない。

*「先進技術の誤用」で心配なのは、遺伝子操作やバイオ技術でしょう。
金融技術や情報通信技術などは非常に有用だが、間違えば社会を傾ける可能性がある。
半世紀前に誕生した原発は、安直に突き進んで方向転換出来ない残念な例です。

*「情報格差」で目立つものは、巨大プラットホーマー(Googleなど)によるビッグデータ利用や国家の諜報活動で、監視社会が進む可能性がある。
また教育と情報の多寡が経済活動の優劣を制し格差を助長する可能性が高い。


残念なことに日本は、長期の経済衰退を招いている政治経済社会の沈滞が深刻で、上記の様々な危機に対応出来る体力が無い。
今回のコロナ危機で明白になったと思います。


次回に続きます。

20200427

福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる : 神秘的な元伊勢内宮






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今回は、宮津街道沿いにある元伊勢内宮皇大神社、日室ヶ嶽遥拝所、天岩戸神社を紹介します。
そこには山岳信仰の神髄が集約されているように思える。


 
< 2. 散策マップ、上が北 >

ピンク線が散策コースで、黒四角の駐車場から半時計周りに、赤四角で示す元伊勢内宮皇大神社、日室ヶ嶽遥拝所、天岩戸神社を順番に巡りました。
茶色線が大江山から下って来た宮津街道です。

伊勢内宮は小高い山の中腹部、そこを西側に少し下って遥拝所、さらに宮川まで降りて天岩戸に辿り着きます。
この宮川は前回紹介した「日本の鬼の交流博物館」の横から流れています。

地図に見える神社の左にある城山が、日室ヶ嶽遥拝所から望む山のはずですが、その名称がおかしい。
この城山は日室ヶ嶽や岩戸山と呼ばれているらしく、グーグルマップでは日室ヶ嶽は別にある。

散策時間は、途中で弁当を食べて1時間と少しかかりました。


 
< 3. 駐車場から歩き始める >

参拝口の近くに大小駐車場が2ヶ所あります。
門前町らしいものはなく、村の端の階段から登って行きます。



 
< 4. 京都丹後鉄道宮福線の車両が走って行く >

静かな所なので、列車の音が谷間に響いていました。
また宮川の流れも、発電所があるためか、よく聞こえました。


 
< 5. 森の静寂に包まれた階段を登る >

おそらく高低差100m以内の、緩い傾斜の階段が巨木の杉の森の中を進む。
境内が見え始めた。


 
< 6. 本殿が見えた >

広い境内に幾つかの伝統的な神社の建物が建っている。
訪れている人は私達以外に一組の夫婦だけでした。

上: 奥に見えるのが元伊勢内宮皇大神社の本殿です。

下: 本殿の内部。


 
< 7. 参拝を終え、日室ヶ嶽遥拝所に向かう >

少し下るが、道は広く勾配も少なく歩きやすい。

上: 至る所に巨木の盛り上がった根があり、それらが苔むしている。
深い森、群生するシダ、せせらぎの音、木漏れ日の道、実に、深山幽谷の神社を訪ねる趣がある。
それも手軽に味わえるのが良い。

下: やがて三角形の山頂が見えて来た。
これが日室ヶ嶽(城山、岩戸山)です。


 
< 8. 日室ヶ嶽遥拝所 >

上: 遥拝所より日室ヶ嶽を望む。
この山が元伊勢内宮皇大神社の御神体です。
頂上付近には岩の祭祀跡があるとされる。
夏至の日には日室ヶ嶽の山頂に太陽が沈む神秘的な光景も見られるそうです。
実に、この展望台は日本人好みの山がちょうど西側にあると言う好立地です。

下: 遥拝所から天岩戸神社までは、急な下り坂が折り返しながら続きます。


 
< 9. 宮川に辿り着いた >

上: 宮川沿いの道に出た。
右奥に見える小さな社は、龍燈明神です。

左下: 宮川に降りる階段が見える。

右下: 途中の踊り場から階段を見上げた。


 
< 10. 踊り場からさらに下る >

上: 踊り場にある鳥居。
この鳥居を抜けてさらに、急な階段を川まで降りる。

左下: 降りる階段を見下ろしている。

右下: 階段を降り切った所から上流側を望む。
残念ながら水嵩が増しており、道が冠水して天岩戸神社の下まで行けない。


 
< 11. 天岩戸神社 >

上: 降り切ったところから下流を望む。

左下: 同じ場所から天岩戸神社を見上げる。
身を乗り出して何とか見ることが出来た。
社殿は岩盤の上に建てられており、裏手に御座石がある。
参拝するためには備え付けの鎖で登る必要がある。
私達が弁当をここで食べている間に、一人の若者が熱心に礼拝に来ていまっした。

右下: 踊り場に戻ると、小さな参拝所があり、そこから天岩戸神社を撮影。


 
< 12. 踊り場から谷を望む >

上: 谷底を見下ろす。

下: 目の前の木立の新緑に目を奪われた。
生命力を感じさせる素晴らしい淡い緑が谷を覆っている。

きっと紅葉の時は美しいだろう。


 
< 13. 駐車場までの戻り道 >

緩やかな道が1km弱はど続きます。
但し、車でここに入って来ると、対向車を交わすのが困難だと思います。

この元伊勢神宮はお薦めです。
豊かな自然の中にある神秘的な三つの場所、大きな神宮、山を見上げる展望台、渓谷の社が素晴らしい。
日本の神道、山岳信仰をコンパクトに体験できます。


* 元伊勢内宮について *

なぜこの地が伊勢神宮と関りがあるのだろうか?
これが福知山に惹かれた理由の一つです。

調べてみると天照大御神を祭る元伊勢内宮は、中部地方から山陽までに数十ヶ所もあります。
それは、崇神天皇がそれまで居所内に祀っていた天照大御神の神霊を娘に託し、約1世紀かけて遷座を繰り返し、今の伊勢神宮に落ち着くことなった神話と関りがあります。
それは約2000年前の事とされています。

そして遷座の位置は説によって異なり、その一つがここなのです。
この宮津街道を南に3km行った所に元伊勢外宮がありますが、これも同じような理由で遷座しています。
元伊勢外宮は神体が異なります。


次回に続きます。