20170608

フランスを巡って 8: 大リゾート地のニース



< 1. 小雨降るプロム―ナド・デザングレの朝 >


今日は、フランス最大のリゾート地ニースを紹介します。
エズとモナコに続いてコート・ダジュールの目玉の観光になります。
早朝は小雨が降っていたが観光の途中から止み、やがて快晴になった。


 

< 2. ニースの地図、共に上が真北 >

上の写真: ニース観光を終えて、Sからバスに乗り青線のルートで次の観光地に向かった。

下の写真: ニースで観光した場所。
ホテルからバスでSまで行き、赤線に沿って徒歩観光し、Rからバスに乗り、次の観光地に向かった。
青線はバスのルートです。


ニースの観光
2017年5月19日(金)、旅行3日目です。
ホテルを8:00に出発し、10分後には徒歩観光を始め、9:10過ぎにはバスに乗りました。
観光したのはニースのほんの一部に過ぎません。


 

< 3. 朝のニース >

上の写真: 6:30頃のホテル近く。

下の写真: ホテルからのバスより。


 
*4

上の写真: マセナ広場、地図のM。2枚共、バスからの撮影。
中央の通りがジャン・メドサン通りで、奥が北側、私達のホテル側です。

中央の写真: マセナ広場の海側の噴水。

下の写真: 旧市街地と海岸の間にある小さな公園。
この季節、フランス各地で花が咲いていました。



 

< 5.プロム―ナド・デザングレ >

せっかくのコート・ダジュール(紺碧の海岸)とプロム―ナド・デザングレ(英国人の散歩道)が厚い雲と小雨で台無しでした。
それでも、その大きさと林立するホテル群から賑わいを想像することが出来ました。
以前、スペインのマラガで見た紺碧の海岸が目に浮かびます。
散歩する人やジョギングする人、サイクリングする人が行きかっていました。


 

< 6. 印象に残ったもの >

左上の写真: 海岸沿いの建物の鎧戸。
フランス南部ではこのような鎧戸が必ず窓に付いていました。
多くは古びた木製で、強い陽射し除けだそうです。

右上の写真: サレヤ広場から海岸に通じるトンネル。

下の写真: サレヤ広場の海側レストラン街の屋上への階段。
屋上には行けませんが、踊り場から次の写真を撮りました。


 

< 7. 旧市街のサレヤ広場、地図のSa >

上の写真: 踊り場から西側を望む。
奥が旧市街のサン・フランソワド・ポール通り、右手にサン・フランソワド・ポール教会の鐘楼が見える。

下の写真: 踊り場から東側を望む。
サレヤ広場の周囲をパステルカラーの建物が囲み、奥には城跡公園の丘が見える。
一番左側のカーキ色の建物はミゼリコルド礼拝堂で1740年のバロック建築です。

ここで少し驚いたことがありました。
ドイツの哲学者ニーチェの名を冠したテラスがこの城跡公園にあると後で知りました。
実は紹介していなかったのですが、エズ村の入口近くに「ニーチェの散歩道」の標識があり、海岸までの急峻な山道だそうです。
それを聞いた時は信じていなかったのですが、ニーチェは病気療養のために夏はスイス、冬はイタリアやフランスのここニースやエズで過ごしたことがわかりました。


 

< 8.サレヤ広場の市 >

妻と期待して花市の自由時間を楽しもうと8:30頃に乗り込んだのですが、まだ店開きを始めているところで、少し拍子抜けでした。
本来は6:00から開いているはずなのですが、雨のせいかもしれません。
それでも果物とこちら名産のお菓子を買い、後で食べることが出来きて満足でした。

この市は長さ250mの広場にテント張りの店が3列びっしりと並んでいました。
店の多くは花、お菓子、果物、野菜で、土産物なども売っていました。
困ったのは公衆トイレが閉まっていたことで、フランス旅行ではトイレの場所をいつも把握しておかなければなりません。
無ければカフェなどで借りなければなりません。
ツアーの観光中は添乗員が前もって教えてくれますが、自由散策では注意が必要です。



 

< 9. サン・フランソワド・ポール通り >

上の写真: 右手にサン・フランソワド・ポール教会の正面が見える。

下の写真: 中央の建物がオペラ座です。

この通りを抜けると二本の道路に挟まれた大きく長いアルベール1世公園に出ます。
ここからバスに乗り、西に向かって次の観光地に向かいました。





 

< 10. 高級ホテルが並ぶ海岸沿いの道プロム―ナド・デザングレから >

以下の写真はすべてバスの車窓からの撮影で、地図の青線上からです。

上の写真: 1913年創業の5つ星のホテル・ネグレスコです。
2016年7月、84名の死者を出したニーストラックテロ事件はこの賑わう海岸の通りで起こりました。

下の写真: これらのホテルや別荘群は海岸に沿って5kmも続いています。
西にいくほどモダンな建物になって行きます。


 

< 11. ヴァール川を越えて西に走る >

川を渡ったのは9:40頃で、最後の写真のように20分も走るとほぼ快晴になりました。
悔しい!!
しかし、この後、当初の長期天気予報が外れ、素晴らしい天気と強い陽ざしに見舞われました。

こうしてコート・ダジュールの三つの観光地を後にし、これから陽光溢れるプロヴァンスを2日かけて4つの観光地を訪れます。


ニースについて
ここは人口34万の地中海に面する世界的な保養地です。
これから訪れるプロヴァンスと異なり、北にアルプスの山々を控え、南仏特有の強風から守られている。

ニースは紀元前5世紀頃ギリシャ人によって建設され、古代には交易植民都市ニカイアとして知られていた。
その後ローマ人に占領され、その後支配者が何度もかわり、多くの戦争に苦しめられた。
中世にはプロヴァンス伯領に属し、その後フランスに帰属した。
また近世にはエズを要塞化したサヴォイア公国やスペインに帰属した。
1860年、サヴォイア公国の後継国(サルデーニャ王国)がイタリア王国の成立をフランスに承認してもらうため、再びニースはフランスに割譲され、今日に至る。

この結果、この温暖で気候が安定しているニースが外国人(特にイギリス人)の避寒地として発達し、多くの王侯貴族や文人が訪れるようになった。
この中に19世紀後半に活躍したニーチェがいた。
そして、第2次大戦後はバカンス客で賑わうことになった。


次回に続きます。 


20170607

フランスを巡って 7: 旅行2日目のまとめ


< 1. ニースのノートル・ダム教会 >


今日は、旅行2日目、5月18日(木)の他の体験を紹介します。
この日はニースの空港に着いてから、エズとモナコを観光してニースに戻り、中心街のホテルに泊まりました。
時間を追って紹介します。


 

< 2.2日目のコースの地図 >

上の地図: 青線が行きのバスルートで、赤線がニースに戻るルートです。
上が真北です。
1: コートダジュール空港。14:00頃に到着。
2: エズ村。
3: モナコ。
4: ニース。私達のホテルは中心街にある。
空港からモナコまでの直線距離は19kmです。


 

< 3. 空港の様子 >

他の空港と違うと感じたのは、出国ゲートで待つツアー関係者やタクシー運転手の多くが黒のスーツを着ていることでした。

 

< 4. 空港からエズ村までの景観 >
近代的なビルが並ぶ空港周辺を過ぎると平野部は無く、起伏のある丘陵地帯の至る所に民家が建っている。


 

< 5. エズ村からモナコまでの景観 >

バスは断崖絶壁の道を縫うように走った。


 

< 6. ニース中心街に向かう >

上の写真: モナコから戻って来て、眼下にニースが見えて来た所。
下2枚の写真: ほぼニースの中心部。



 

< 7. ジャン・メドサン通り 1 >

このメインストリートにあるホテルに20:00頃に着いて、夕食のレストランに歩いて向かう時に撮影した。

上の写真: ノートル・ダム教会。20:40撮影。
日没まで、まだ十数分ある。

下の写真: 今回最初の地元の人の笑顔です。
何処に行っても、フランス市民に親し気な対応して頂いた。


 

< 8. ジャン・メドサン通り 2 >

この通りにはトラムが走っている。
この通りにはデパートや大型スパーがあるのですが、この時間には皆閉まっていました。


 

< 9. レストランで夕食 >

今回の旅行で、初めてフランスで食べる食事です。
左の料理はニース風サラダです。
今回の旅行の料理はすべて三品で、最後がデザートでした。


 
< 10. レストランからホテルへ帰る途中 >

22:00の撮影です。

この季節の旅行は非常に日が長いので、朝も夜もホテル周辺の街歩きが出来る利点がある。
しかし、いい気になってがんばっていると疲れてしまった。
また、夜景やライトアップを撮るには10:00~10:30を過ぎないと行けないので、これがまた疲れます。

こうしてフランス1泊目の夜は更けて行きました。


次回に続きます。




20170606

フランスを巡って 6: 小国モナコ






*1

今日は、高級リゾート地として知られるモナコを紹介します。
私達が訪れたのは断崖絶壁の上にあるモナコヴィルです。
ここは旧市街と宮殿などがあるところです。


モナコ
訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。
エズ村の香水工場に立ち寄った後、観光バスから地中海を見下ろしながら進むと、近代的なビル群に囲まれた湾が見えて来ました。
そこが2k㎡にも満たないモナコ公国でした。

崖やビルに挟まれた曲がりくねった道を抜けてモナコヴィルの地下駐車場に入ったのは18:10頃で、観光を終えてモナコを離れたのは1時間後でした。

ここでも予約のトラブルがあり、無駄な時間を費やしました。
今回は、空港からのバス手配ミスと言い、最初につまづきが続いた。
添乗員は大勢を従え、苦労していました。
しかし、その後は順調な旅となりました。



 
< 2。 モナコの地図 >

上の写真: モナコ公国周辺。モナコ公国は黒線内。
上が真北です。
王宮のあるモナコヴィルを赤矢印、エズ村を黒矢印で示しています。
私達は左側のエズEzeから来ました。

中央の地図: モナコ公国の全景。
方角を変えています。
赤矢印がモナコヴィルです。

下の地図: モナコヴィルを拡大。
Sは徒歩観光のスタート位置で、一周してまたここに戻って来ました。
地下駐車場からエスカレーターとエレベーターを乗り継いで、この地上に出ました。
赤線は徒歩ルートです。
奥に大公宮殿があり、その右手が湾を見下ろす展望台です。
黄色の線は5月25日から始まるモナコF1グランプリのコースをバスから眺めたルートです。


 
< 3。 眼下にモナコ、バスから >

上の写真: 左手奥の断崖の上がモナコヴィルです。

下の写真: モナコの一角、住宅街でしょうか。


 
< 4。 モナコヴィルの下、バスから >

上の写真: モナコヴィルの下。

下の写真: 見上げると、モナコヴィルの大公宮殿の城壁が見えた。



 
< 5。  モナコヴィル観光の始まり >

上の写真: 海洋博物館と水族館。
地図のSの直ぐ近く。

下の写真: 王家親族の住居。


 
*6

上の写真: モナコヴィルからモナコの西側を見下ろす。

下の写真: モナコ大聖堂。
古い様式(ロマネスク・ビザンチン)だが1875年建築の教会で、グレース妃が結婚式を挙げ、また眠る所でもある。



 
*7

上の写真: 大聖堂の横の小さな通りを進みます。
左中央は裁判所。

下の写真: 大公宮殿前広場に面した建物。



 
< 8。 大公宮殿 >

上の写真: 大公宮殿。
陽が山際に迫っている。

下の写真: 大公宮殿前広場の北側展望台。
ここから湾が一望に見渡せる。


 
< 9。 展望台からの眺め >

上の写真: 湾手前の青色の観客席がモナコF1グランプリのもの。
湾の向こう右手にカジノや高級ホテルが並ぶ。

下の写真: 如何にこのモナコヴィルが急峻な断崖の上にあるかがわかります。
標高は60mぐらい。


 
< 10。 広場から戻る道 >

途中にもレストランや土産物屋はあったが、数はそれほど多くはない。
モナコヴィルの最大長さは700m、最大幅200mに過ぎない。



 
< 11。 バスでモナコF1グランプリコースを見た >

ほんとうに小さな国だが、繁栄しているようだ。
不思議の一言に尽きる。


モナコの不思議
モナコ名の由来はギリシャ人の入植地に由来する。
歴史が動き出すのは13世紀、イタリアのジェノヴァがこの地に要塞を建設した。
半世紀後、現在の王家の始祖(ジェノヴァ人)が修道士に変装し、この要塞を占拠したのが公国の始まりでした。

その後、スペインやイタリアなどの干渉を受けながらも、領土を切り売りしフランスの庇護の下で主権を維持した。
1860年代より、カジノや高級ホテルを作り、富裕階級向けの高級リゾート地へと転進した。
現在、タックス・ヘイヴンであることから住民は外国籍が多く、モナコ国籍は16%しか過ぎない。

モナコは国連加盟国で最小でありながら、領土防衛をフランスに委ね、特異な経済政策により、世襲による君主制であり続けている。

次回に続きます。




20170605

フランスを巡って 5: 鷲の巣村エズ



*1

今日は、最初に訪れた期待に違わぬ鷲の巣村エズを紹介します。
このような険しい山頂に小さな村があるとは驚きでした。
この要塞化した村は、3千年に亘る戦乱に生き延びた証なのでしょうか


エズ村
訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。
ニース空港に到着しトラブルで少し遅れたが、無事観光バスで出発した。
エズに16:00前に到着し、約40分間徒歩観光しました。


 

< 2. エズの地図 >

上二つの地図: 地図の上が真北。
赤矢印がエズ村の位置です。

下の地図: エズの観光地図。
黄矢印は歩き始めた駐車場で、緑線は徒歩ルート、赤矢印は登り詰めた頂上です。
エズの頂上は427mある。
雲は多かったが、雨が降ることはなかった。

 
*3

上の写真: 駐車場辺りから、今から登る頂上を見上げている。

下の写真: 坂と階段を上がった先に要塞のような門が見えた。
ここをくぐると村に入る。


 
*4

石組の古い家並みが急な細い階段の両脇に続く。
所々に踊り場のような小さな広場がある。


 
*5

上に登っていくと民家が途切れ、視界が広がった。

上の写真: 左側(東方向、モナコ側)を見ると、深い谷を挟んで無数の住宅が張り付く尾根が見える。

下の写真: 右側(西方向、ニース側)を見ると、海岸に沿った山の斜面に村が見える。

ニースからバスで来る途中、小高い丘や斜面に建つ多くの住居を見た。
平地が少ないからのだが、それにしても不便だと思った。


 
*6

上の写真: 真下を見ると、エズの赤茶色の屋根、その向こうに地中海が広がっている。
クルーズ船も見える。

下の写真: 振り返って見上げるとサボテン公園が広がっており、その向こうに、頂上の展望台が見える。
サボテン公園は1949年に造られた。
元来、頂上には要塞があったのだが、破壊された後、今では公園として整備されており、入場は有料です。


 
*7

上の写真: 要塞跡の頂上。 
ほぼ360度、見渡せる。

下の写真: 村の教会を見下ろした。
その向こうに私達が登り始めた駐車場が見える。


 
< 8. 先ほどの教会 >

帰国後、調べてわかったのですが、この教会の十字架がエジプト様式だそうです。
エジプト様式の十字架は中央上部の突き出し部分がリング状になっています。
私の写真では確認できなかった。
かつて北アフリカの人々がこの地に足跡を遺したのだろう。


 
*9

上の写真: 教会の前の広場から頂上を見上げた。

下の写真: 下っている。


 
*10

上の写真: この要塞化した村には、いくつもの門、トンネル状の通路があった。

下の写真: モナコに向かうバスから撮ったエズの全景。
西側を見ている。


エズの歴史
観光ガイドの説明では地中海に沿ってこのような鷲の村が多く作られたのは、サラセン人(イスラム勢力)の侵入に備えたからだと言うことでした。
それを聞いて私は少し驚き違和感を持った。
帰国後、この地域に何があったかを調べました。

大きな流れを見ます。
エズ周辺は紀元前2000年頃に居住が始まり、やがてギリシャ人が植民し、ニースなどが出来た。
紀元前後からローマ人が支配したが、衰退後、ゲルマン人、次いでフランク国が支配した。
しかし9世紀のフランク王国の分割後、フランス勢、ドイツ勢、イタリア勢、スペイン勢がこの地を奪い合い、領主は小刻みに変わり、境界は大きく東西に動いた。
この地が、今のフランス領に確定したのはナポレオンが負けた後の1861年のウィーン会議以降のことです。

エズについて
973年、中部フランク王国の流れをくむプロヴァンス王国が約80年間のムーア人(北西アフリカのイスラム教徒)支配を断った。

1338年まで、エズイタリア勢のサヴォイア家の管轄下にあった。
サヴォイア家は西隣りのニースに備えるためにエズを要塞化した。

伝承によると1706年、フランス王ルイ14世(太陽王、ヴェルサイユ宮殿建設)の兵士がエズを破壊したと言う。

この辺りは地中海交易の要衝の地であり、両サイドを大国に挟まれた険しく狭隘な地であった為、長く帰趨が定まらず戦乱に巻き込まれることになった。
こうして、この地には多くの鷲の巣村が生まれたのだろう。


次回に続きます。