20151127

社会と情報 66: 戦った報道 23



    

前回、ファシズムを牽引した右翼と軍人の言説を見ました。
今回は、政府首脳が当初から抱いていた大陸感と中国の状況を見ます。




< 2.桂太郎(左)と大隈重信 >


外征は初めから首脳たちの念頭にあった  
前回見た石原や軍の中堅将校が、なぜ焦ってまで満蒙に火を着けたのだろうか?
その淵源は明治維新の攘夷論まで遡ることも出来るだろうが、ある時期から政府首脳の言説に明確に現れ始めた。

日清戦争後の1896年、桂太郎台湾総督(長州閥、陸軍軍人、後に首相)の提出した「台湾統治意見書」より。
「ロシアの脅威を朝鮮半島、日本海以北に阻止して日本の安全を確保し、台湾を立脚地として清国内部に日本の利益権を扶植し、これが完成すれば、さらに南方群島に発展していく」

日露戦争後の1906年、政界で活躍していた大隈重信(後に首相)の雑誌の特集「戦後経営」への寄稿より。
「日本国民は、これからは航海業、商業、移民業を拡張していかなければならない。商業的に発展していく地域は、東亜から・・南北アメリカである。移民を待ち受けている地域は、人口希薄な南北アメリカ、・・・、満州である。・・日本は戦勝の結果として得た満州における利益を基礎として、大陸に向かって経済的に発展していくべきである」

二つの戦争を勝利してロシアへの脅威が薄れ、また多大な犠牲を払ったことも加わり、首脳達は台湾や満州を手始めに拡大策を公然と訴えるようになっていた。

しかしこれは大きな危険を孕んでいた。
大陸侵攻が拡大すれば、中国やソ連、さらには欧米列強を次々と敵に回すことになる。
そうなれば日本の国力では太刀打ち出来ないことは国防戦略の立案者には明らかだった。
一方で、最強の複数国と戦うにはアジアの資源と商圏も絶対必要だった。
そこで軍の戦略立案者はある制約条件「最大の敵は攻めてこない」と「敵一国だけとの短期決戦」を設けざるを得ず、他は想定外とした。
さらにまずい事に薩長閥以来の遺恨が続く陸軍と海軍で敵国(ソ連か米)の想定が異なった。
こうして軍首脳は現実に目をつむり、勝ちたいとの思いだけで、一貫した戦略なしで右往左往しながら、沼るみに足を取られるように深入りしていった(注釈1)。

私が奇異に思うのは、勝つ可能性がゼロに等しく、莫大な消耗をもたらす敗戦に向かっているのに、最高のエリート集団の作戦本部や軍令部から誰一人として疑問の声が上がらなかったことです。
少なくとも国民には国益の為と公言してはばからなかったのですから。
始まった戦争のブレーキ役を軍人に期待出来ないのかもしれないが、これは異常です。
これは今も続く実に日本らしい精神の原風景で原発産業にも見られる組織文化です。





< 3. 中国の勢力図 >
解説: 上の地図は日露戦争後の中国、下の地図は1910年代の中国の勢力図。
この勢力の変化は、第一次世界大戦と世界恐慌、民族独立運動によって起こったと言える。
 
当時、中国北部(満蒙)は狙い目だった
軍部はなぜ満蒙を真っ先に狙ったのか?
満州事変が始まる前、1930年前後の世界と中国の状況を確認します。

第一次世界大戦と世界恐慌が尾を引き、欧州は国内政策で手一杯、ドイツではヒトラーの大躍進で暗雲が立ち込め始め、欧州勢はあれほど奪い合った中国から手を引いていた。
そこで欧州は日本の満蒙侵略を国連で批難はするが、躍進する共産国家ソ連を東方に釘付けする役割を日本に期待した。
ソ連はまだ革命の混乱が続き、スターリンが体制固めに奔走している時期であり、外には目が向いていなかった。
一方、米国は深刻な経済不況で貿易額を往時の30%に落とし、平和志向に戻り日本との貿易継続を重視した。

日本は日露戦争で南満州鉄道を租借した後、満州の軍閥に肩入れし傀儡政権樹立によって世界の批判をかわしながら権益を拡大して来た。
第一次世界大戦以降、青島(山東省、上地図の青塗り部)を手に入れ、対華21カ条要求により中国全土にも権益(商圏)を拡大していた。

中国は、1911年の孫文による辛亥革命以降、内戦状態に突入にしていた。
北部(満州)では軍閥が割拠し続けていたが、やがて中央で共産党軍と覇権を争っていた国民党軍が北伐を1926年に開始し、北部の軍閥は日本の手から離れようとした。
そこで関東軍は1928年、傀儡軍閥の張作霖を爆殺した。
こうして、満州事変へと繋がっていった。


まとめ
軍の中堅将校の思想で一番重要なのは以下の点です。

最強の国になることが国を災厄から守ることであり、その為に隣国の莫大な資源と商圏を領有し、自給圏と軍需産業を早急に育成しなければならない。
それは同時に国民の窮状を救うことにもなる。
その為に、少ない損害で勝利を確実にする奇襲や謀略による侵攻を当然と考えた。
この考えは、太平洋戦争にも持ち込まれ、これが逆効果になるとは露ほども考えなかったようです。
彼らは欧米や中国の干渉と反感を抑える為に満州に傀儡政権を立て、国内の反戦気運を削ぐために国民には虚偽報道で戦意を煽ることも忘れなかった。

ここに長年の軍事大国化が生んだ弊害を見ることが出来る。
戦争を牽引し、反乱事件を操った当時の陸軍将校はすべて陸大のエリートでした。
満州で謀略を行った板垣、河本、石原らはいずれも1980年代生まれで、日清戦争から日露戦争の間に14歳前後で陸軍地方幼年学校に入校し、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業している。
首相となった東条英機も彼らと同様でしたが、彼の父は軍人(陸軍中将)で、彼は軍人2世でした。
彼らは、小さい時から軍人だけの隔離された学校社会で、また戦争の世界で出世を夢見て来た人々でした。
そう単純ではないが、日本流の組織文化に生きる精神がそうさせたとでも言うべきでしょうか。
軍人としては優れていても、視野狭窄になりやすい。

善意に解釈して、憂国の士であった彼らは現状打開の為に先ず戦端を開くことに賭けた。

次回から、最後の問題、政治の何が国民を大陸侵攻に向かわせたかを探ります。

注釈1: 二つの相反する戦略があり、陸軍は対ソ連戦想定で満州以北への「北進」で、海軍は対米戦想定で東南アジアへの「南進」であった。日本の国力から見ればどちらかに限定すべきだったが、両者の対立に折り合いが着かず両論併記で国防方針が決まっていった。常識的に見て、この時点で国力の違いから戦争続行は不可能であり、軍首脳や戦略立案者の脳裏には「破れかぶれ」が去来したことだろう。

参考文献
「日本を滅ぼした国防方針」黒野耐著、文芸春秋刊、p23、26.
「中国文明史」エーバーハルト著、筑摩書房刊、p319~333。
「近代国際経済要覧」宮崎編、東京大学出版会刊、p116.
「集英社版日本の歴史19」
「集英社版日本の歴史20」p19~59。
「図説日中戦争」河出書房新社刊。
「図説ソ連の歴史」河出書房新社刊。
「アジア太平洋経済圏史1500―2000」川勝平太編、藤原書店刊、p145~164。
「Wikipedia」<石原莞爾><日本改造法案大綱>
「世界大百科事典」<石原莞爾><日本改造法案大綱>




20151126

I visited colored leaves of Nara prefecture 2


奈良の紅葉を訪ねて 2



< 1.  A main hall in the right side and A main gate in the left >
< 1. 右が本堂、左が楼門 >

I introduce Chogakuji temple of Nara prefecture.
I went to see colored leaves, but our sightseeing time was over by an explanation by a picture of hell almost.
However, this was very good.

今日は奈良県天理市の長岳寺を紹介します。
紅葉を見に行ったのですが、ほとんど大地獄絵の絵解き説法で観光時間が終わりました。
これが非常に良かった。



< 2. the main gate >
< 2. 楼門 >

This is the oldest main gate with bell house that a bell once was set up the upper part of, and was built in the last of the 12th century of the Heian era.

日本最古の鐘楼門で、上層に鐘を吊った遺構があり、平安時代末期頃(12世紀頃)の建築です。




< 3. a view of prayer hall from the main hall >
< 3. 本堂前から拝堂側を見る >



< 4.  a view of a pond from the main hall >
< 4. 本堂の縁側から放生池を望む >



< 5.  a view of the main hall from the pond >
< 5. 放生池から本堂を望む >



< 6.  Amida Triad statue in the main hall >
< 6. 本堂にある本尊の阿弥陀三尊像 >

Zocho-ten that was one of the Four Guardian Kings is seen to the left, and there is Tamon-ten that was one of the same in the right side.

向かって左に増長天が見え、その右には写っていないが多聞天がある。

About Chogakuji temple
This temple was built in 824, and there were as many as 48 sub-temples and about 300 Buddhist monks at the peak.
Amida Triad statue was made in the last of the Heian era (about the 12th century),
And Zocho-ten and Tamon-ten was older than it.
Now, this temple became little, but seasonal flowers in the vast precincts seem to be famous.

I was surprised that I can look near the 5 statues being National Important Cultural Property.

長岳寺について
ここは真言宗の寺で、創建は824年と古く、盛時には48の建物、僧侶300名ほどを要したそうです。
阿弥陀三尊像は平安末期(12世紀頃)、増長天・多聞天は平安中期と更に古い。
今は寂れた寺だが、境内12000坪の花が有名だそうです。

私が驚いたのは、国指定重要文化財の5体の仏像を間近でじっくり味わえることでした。



< 7.  the left is the Amida statue, and the right is Tamon-ten >
< 7. 左が阿弥陀如来像、右が多聞天像 >

When I sat near front of Tamon-ten and I heard the explanation by a chief priest about a picture of hell along with seeing it, I was overcome by deep emotion.
The exposition of the picture of hell is limited at this time of year.
Once, Many believers would feel an intimate connection with a crime and the Pure Land by seeing a similar picture of hell, and they would be assured of Buddha’s help with seeing gentle Amida Buddha and rageful Tamon-ten.

多聞天の直ぐ前に座り、壁に掛かった地獄絵を見ながら住職の絵解き説法を聞いていると
感慨深いものがあった。
大地獄絵の御開帳はこの時期に限定されています。
かつて、多くの信徒が地獄絵で罪と浄土を身近に感じ、憤怒の多聞天と柔和な如来に接して救いを確信したことだろう。



< 8.  large picture of hell >
< 8. 大地獄絵 >

The main story of this picture: After cremation, dead persons go through Hades in numerical order, and it judged whether they are sent to hell or the Buddhist paradise at the last.

地獄絵のストーリー: 死者は火葬された後、番号順に冥界を進み、最後に地獄か極楽行きかが決まる。

About large picture of hell 
This was drawn in the early of the Edo era (the 16-17th century), the mean size of 9 hanging pictures is about 90 cm in width, and about 250 cm in length.
The story of this picture originates in Buddhist scripture "Ojoyoshu" of the 10th century, and furthermore its origin is from the Pure Land Faith birthed in India in about the first century.

この大地獄絵について
これは江戸時代初期(16~17世紀)の作で、一つ掛け軸の巾約90cm、縦約250cmで9幅の連作です。
地獄絵のストーリーは10世紀の源信の仏書「往生要集」が元になり、さらにその起源は1世紀頃に生まれたインドの浄土信仰(大乗仏教の経典「阿弥陀経」など)に遡る。



< 9.  the main points of the large picture of hell >
< 9. 大地獄絵の要点 >
Upper picture:  In upper part of No. 5, Emma Daio judges merits and demerits of a dead parson.
Central picture:  In central part of No.6, person having had crime gets dropped into the blaze hell.
Lower picture:  In central part of No.9, Buddha comes to pick up good person to the Buddhists' paradise.

“ Keep on doing good deeds” of Buddhism and “devote to own parents” of Confucian still are living teachings in our mind.


上図: 掛け軸5番の上部。閻魔大王が、死者の功罪を審判している。
中央図: 掛け軸6番の中央部。 罪ある者は火焔地獄などに堕とされる。
下図: 掛け軸9番の中央部。 善行ある者は如来が極楽浄土へと迎えに来てくれる。

今も日本人の心に、仏教の「善行を積む」と儒教の「孝徳を尽くす」の教えが息づいている。



< 10.  A sacred book and Buddhist invocation
< 10. 経典と念仏 >

Very roughly speaking, the Japanese Buddhism was divided into popular religion of believers chanting the Nenbutsu (Buddhist invocation) and Zen Buddhism of samurai attaching importance to discipline own mind.
I think the Nenbutsu became very popular among the common people under favor of the picture of hell and "Ojoyoshu".   
The Pure Land Faith preached the Nenbutsu as means to go to the Buddhists' paradise.
On the other hand, sacred books of Buddhism had been written in Chinese character, and many people were not able to read.
Thus, the explanation by a picture of hell became very popular across the whole country by street performers and priests in the Edo era.

Afterword
Accidentally, I was surrounded by Buddhist statues of the Heian Period and could hear the explanation of a picture of hell.
I could contact a Japanese culture descending from ancient times.


日本の仏教は大雑把に言って、念仏を唱える民衆の宗教と、精神修養を重視する武士の禅宗に別れました。
南無阿弥陀仏など、仏の名前を唱える念仏が広まったのは、「往生要集」と「地獄絵」のおかげとも言えます。
浄土信仰は、極楽浄土に行く手段として念仏を説いていた。
一方、仏教の経典は中国の漢字で書かれており、多くの民衆は読むことが出来なかった。
こうして地獄絵の絵解き説法は江戸時代には大道芸人や僧侶によって全国に普及するようになっていた。


あとがき
私は偶然にも、平安時代の仏像に囲まれて地獄絵の絵解き説法を聞くことが出来ました。
いにしえからの日本の文化に触れる思いがしました。








20151125

社会と情報 65: 戦った報道 22



< 1. 憂国の志でありファシズムを牽引した人々 >

今回は、軍部や右翼がなぜ大陸侵攻(満州)を目指したかを見ます。
この地は経済的にも重要だったのですが、それ以上に軍事的な狙いがありました。
この事を当時の軍部と右翼の思想などから探ります。

何がくすぶっていたのか
1931年に満州事変が起こり、国内で1932年の血盟団事件と五・一五事件が発生した。
前者は中堅の将校が国防と自給圏確立を目指した国防方針の刷新だった。
後者2件は国内の窮状を憂い、右翼と急進派青年将校が共同して政府要人を暗殺し、政治の刷新をもくろんだ
1936年の二・二六事件で軍部独裁に拍車がかかり、1937年の日中戦争へと進み、戦争に歯止めがかからなくなった。
これを契機に日本はファシズム一色となって世界大戦へと突き進んだ。



< 2. 北一輝 >

この国内事件の理論的支柱となった北一輝の「日本改造法案大綱」(1919年)は何を目指していたのか。
彼は3年間の憲法停止、戒厳令施行、軍人中心の改造内閣を目指し、政策としては特権的官僚閥・軍閥の追放、労働者の企業経営参加、限度以上の私有財産の国有化などをうたった。
さらに植民地朝鮮や台湾の分離を認めず、「持たざる国」日本は「持てる国」大国に対して戦争によって日本の領土とすることを当然の権利とした。
彼は武力使用について共産主義革命に倣って正当化したが、実施には天皇の大権に頼った。

このファシズムの経典は、社会主義と資本主義、帝国主義の折衷案に見える。



< 3. 「世界最終戦論」を著した石原莞爾 >

一方のファシズムの旗頭、関東軍参謀として満州事変を牽引した石原莞爾は何を目指していたのか。
これを1928年「我が国防方針」、1929年「関東軍満蒙領有計画」から見る。
世界は最終戦争に向かい対米戦争で決着する、その為には満蒙から始め全中国を領有し、この資源をもってすれば20年、30年は戦争を続けられる。
またソ連の脅威を食い止めるべく防衛ラインを北上させる必要がある(海軍とは異なる)。

この方策は当時の陸軍の中堅エリートがほぼ共有するものだった。
すでに1920年代より日本の国防方針は最大の仮想敵国をそれまでのソ連から米国に替え、弱体化している中国を手始めにアジア全土を掌中に収めてこそ勝機があると考えていた。
この時点では軍上層部と文民の指導者は米国との戦争を望んでおらず、米国は強硬な態度に出ないと踏んでいた。
この軍事戦略の一環としての満蒙侵略で、国民の窮状打開は二の次であり、宣伝文句だった。

ここに当時の情勢判断の甘さが出ているのだが、火付け役の軍事の天才と言われた石原は、後に中国侵攻や対米戦争に強く反対することになり、一時左遷されることになった。
如何にも情報収集や戦略が稚拙だったように思えるが、その真相はもっと根深く、実につまらないものだった。

次回、政府や軍部の首脳が当初から抱いていた大陸領有と中国の状況を検討します。


参考文献
「日本を滅ぼした国防方針」黒野耐著、文芸春秋刊、p23、26.
「中国文明史」エーバーハルト著、筑摩書房刊、p319~333。
「近代国際経済要覧」宮崎編、東京大学出版会刊、p116.
「集英社版日本の歴史19」
「集英社版日本の歴史20」p19~59。
「図説日中戦争」河出書房新社刊。
「アジア太平洋経済圏史1500―2000」川勝平太編、藤原書店刊、p145~164。
「Wikipedia」<石原莞爾><日本改造法案大綱>
「世界大百科事典」<石原莞爾><日本改造法案大綱>



20151124

The total number of visitors exceeded 250,000 people. Thank you very much.


25万人突破に感謝します。ありがとうございます。


 


< 1.  "aquacompass" of eo 
< 1. 「アクアコンパス」eo 

Today is a very glad day for me.
It is because the total number of visitors of my blogs exceeded 250,000 people, and the number of the accesses is approximately 470,000.

今日は私にとって大変嬉しい日になりました。
私のブログへの訪問者累計が25万人(アクセス数約47万)を突破したからです。



< 2.「アクアコンパス3」goo、「アクアコンパス2」seesaa、「学のブログ」Ameba

From the first to the present time

First, I began to contribute to my blog "aquacompass" on April 2012.
Thereafter, I contributed the articles from 2 to 4 times in a week without almost taking a rest.
The total number of the articles became approximately 610.
At present, I establish 7 blogs for Japan and 2 blogs for foreign countries.
I attach the English translation for foreign countries as much as possible.
 
初めから現在まで
最初に、ブログ「アクアコンパス」に投稿を始めたのは2012年4月でした。
それ以降、ほぼ休まず1週間に2から4回の記事を投稿して来ました。
投稿数の総計は610件ほどになりました。
現在、国内向けに7ブログ、海外向けに2ブログを開設しています。
海外向けには、出来る限り英語訳も添付しています。





< 3.「アクアコンパス5」YAHOO、「アクアコンパス4」livedoor、「アクアコンパス8」FC2 >

About my blog
The half of my articles was about history and history of humanity, and I introduced my travel sketches of foreign countries and Japan with my photo.
In addition, I wrote fable and criticism, and introduced Kobe, Awaji-island, book, and movie.
My main theme was war, politics, economy, religion, psychology, history of art, and history of medicine.
I'm intentionally providing plain and short article for the blog.

I'm hoping to contribute to " peace of the world" and " prevention of social deterioration ".
Therefore, I send the information, and hope to talk it with people of the world.



私のブログについて
記事の多くは歴史や人類史について、または写真を使って国内や海外の旅行を紹介しています。
また寓話や辛口の批判、神戸や淡路島、本や映画を紹介します。
私が取り上げて来た主なテーマは戦争、政治・経済、宗教、心理、美術史、医術史でした。
私は手短にわかり易いことを心がけています。

私は「世界の平和」と「社会の悪化防止」に貢献することを願っています。
その為に、私は情報を発信し、世界中の人々と対話をしていくことを願っています。




< 4.” aquacompass 7 ” of WordPress” aquacompass 8 ” of Blogger

Doing blog was good thing

There were a few persons who wrote dissenting views for my article, I was very stimulated much by it, and render thanks for it.
In particular, there were much of unexpected indications from foreign countries.

In “Go around the world of Buddha statues 7”, when I introduced Asyra’s statue, I received an objection indications from a Hindu man in India.

In “Go around the world of Buddha statues 6”, when I introduced the fearful face of Buddha statue, a teacher in Africa threw doubt on it.

In “the society and the information: News media has fought“, when I introduced the process of the outbreak of war between Japan and the United States, and the Meiji Restoration, I received unexpected indications from Americans.

In “History of sickness and medical art 14”, when I introduced Set expressed with a pig, I received an objection indications from a man in Egypt.

Because these opinions from foreign countries are English language, I tired, but learned much.

I'll be counting on you.


やっていて良かったこと
私の記事に反対意見を頂戴することがあり、大変刺激になり感謝しています。
特に海外からは予想外の指摘を受けることがあります。

「仏像を巡って 7」で阿修羅像を取り上げた時、インドのヒンドゥー教徒から異論が出ました。

「仏像を巡って 6」で憤怒相を紹介した時、アフリカの教師からなぜ神聖な宗教に怒りの顔を表現するのかと疑問視されました。

「社会と情報 *: 戦った報道 *」で日米開戦の経緯と明治維新を紹介した時、思わぬ指摘を米国の数人の方から受けました。

「病と医術の歴史 14」でセト神が豚の頭で表現されることを紹介した時、エジプトの人から異論が出されました。

海外から頂戴する意見は英語なので疲れるのですが、非常に勉強になります。


今後もがんばりますので、よろしくお願いします。




20151123

社会と情報 64: 戦った報道 21



< 1. 天津の居留地、右のドームは日本企業の建物 >

今回は、満州に侵攻しなければならなかった経済的な理由を探ります。
主に満州と中国を中心に見ます。



< 2. 旧満州国 >

はじめに
「戦った報道 20」で見たように、満州事変勃発を受けた民間の主張は概ね「中国での排日行為と干渉を抑えて、移民促進と資源開発を行うこと」でした。
前者は既に中国に居留し商売や産業に従事している人々の安全と経済活動を守ってくれというものです。
後者は、国内の窮状を救う為の貧農と失業者の救済策であり、経済発展と軍需産業に必要な輸出入の促進を意味しています。

当然、政府(軍部)や国民が予想していなかった効果や失敗もあった。



< 3. 日本人の海外移住の推移。(株)ギアリンクスより >

移民と居留民 文献1.
日本人の移民(永住者)は1868年のハワイを皮切りに北米・南米へと増えていった。
さらに二つの戦争で獲得した植民地(朝鮮、台湾、南樺太、南洋諸島)へと移住者が増え、1910年30万人、1930年頃には移民総勢100万人に膨れ上がっていた。
ちなみに在朝日本人は1900年末で1万6千人から日露戦争後の1905年に4万2千人に膨れ上がっていた(移民、居留者)。
敗戦による日本への総海外引揚者数は軍人を除いて320万人に上った。
明治時代から多くの人が海外に移住し、植民地や租借地に居留し、あらゆる仕事に従事していた。



< 4. 拓務省による満州移民の募集 >

満州農業移民は満州事変の翌年に始まり、関東軍主導で敗戦までに約25万人が送り出され、多くは国内の小作貧農や子弟で、原野で農業に従事した。
1938年以降、満蒙開拓青少年義勇軍9万人(15~18才)がさらに送り込まれた。
彼ら移民の敗戦に伴う死亡者は8万人に上った。

これには理由がある。
軍は最初から「屯田兵制移民案要綱」を作成し、移民の5割はソ満国境の最前線、4割は抗日武装部隊が荒れ狂う地に送り込んだ。
つまり軍は、必要とあれば武器を持って盾となり、日常は農業者である屯田兵を目論んでいた。
さらに「満州移民500万人移住計画」を打ち挙げて、これにより満州人口の1割を日本人で占めることを目指した。
強壮な青年を集めて送り込めば満州は安泰になるかもしれないが、国内の農民と兵員が不足するのは明らかだった。
さらに悪いことに、日本移民用の土地は収奪に近く、また多くは地主となって中国人を使役したので現地人の憎しみは増すばかりだった。
こうしてソ連が侵攻してくると悲劇が起こった。

中国への居留民(一時滞在者)は1873年の上海から始まり、日露戦争、第一次世界大戦を経て、奉天などの中国東北部と青島などの都市に居留地が出来ていった。
1913年の中国の居留民総数は約4万人で、その内訳は物品販売業、鉄道などの運輸、工員の順に多く、これで50%を占めた。
つまり一攫千金をねらった中小商人の進出が居留民の代表的な姿だった。


資本進出                  文献2.
植民地の民族資本の割合を見る。
1929年、台湾の工場数で90%、職工数で62%、1928年、朝鮮の工場数で52%、従業者数で29%であった。
つまり残りは概ね日本資本で大企業ほど所有されていることになる。
満州では1932年、工場数の80%が民族資本であった。
しかし中国本土の紡績工場を国別の資本割合で見ると、1925年で中国56%、日本38%、英国6%で、1905年では日本は4%に過ぎなかったのが急速に伸びている。

何が言えるのか
日本が既に如何に経済的、人的に植民地と結びついていたかが分かります。
こうして農民も商工業者も大企業も、日本軍による満州と中国の支配を歓迎したのです。
また満州移民は軍事が優先であり農民の救済は二の次だった。



< 5.殖民地貿易と経済成長http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/06-0j_hori_j.pdf > 
解説: 図―3より、満州事変後(赤枠)、満州は日本からの輸入が40%から85%へと著しく増大している。
図―4より、日本の植民地への輸出が他国への輸出を圧倒するようになって行く。
2-bより、日本と植民地が共に経済成長を遂げている。
(ただし植民地の利益の大半は日本資本が握り、民族による経済格差が酷かったと考えられる)


それでは満州を手に入れたことで日本経済にメリットがあったのか? 文献3.
答えは、満洲を含めて植民地がなければ日本は立ち行かなかった。
そのメカニズムは複雑ですが、要点だけを記します。

A: 1920年代までの貿易体制が崩れ、日本は殖民地内の貿易に依存しなければならなかった。
米国への生糸輸出が世界恐慌と米国の人絹工業の発達によって決定的に縮小し、それまでの輸出超過から逆に輸入超過となった。
これにより外貨が入らずインドや欧州から原料や機械の購入が出来なくなった。
また金融政策変更(高橋蔵相)による円安で輸出が伸びたのだが、ブロック化していた世界各国と軋轢を生んだ。
また育ちつつあった日本の重化学工業も欧米の第一次世界大戦後の立ち直りによって競争力を失っていた。
当然、欧州からの設備購入は円安で手が届かなくなっただろう。
こうして日本の製品と資本の輸出は円ブロック(外貨不要、恣意的な関税で有利)の満洲・朝鮮・台湾に集中していった。



< 6. 朝鮮の日本窒素の肥料工場と満州の撫順炭鉱 >

B: 現地での搾取による高収益
例えば、朝鮮で水力発電を利用した日本の窒素肥料会社が巨額の利益を上げた。
これは土地を奪い安い労賃で朝鮮人をこき使うことで可能になった。
実は、日本では労働運動が盛んになったことで、日本企業は規制の無い朝鮮に行ったのです。
一度は朝鮮にも規制を設けた日本だったが、外して日本企業に便宜を図った。

同様なことは満洲の日本鉱山でも起こった。
中国人の日当は朝鮮半島よりもさらに安く日本人賃金の1~2割で、粗末な食事でこき使われ、1日に40~50人が死んで埋められた。
撫順炭鉱だけでその数は30ヶ所に上った。

結局、植民地への巨額投資は軍事上か、さもなければ日本経済や企業の為であったと言える。





< 7. 軍需産業の躍進、http://www.meijigakuin.ac.jp/~hwakui/newkokusai.html >
解説: 破線が日本、赤枠が満州事変の翌年を示す。日本は満州を手に入れたことで、軍需産業を急速に発展させることが出来たようです。

まとめ
結論として以下のことが言える。

多くの人は、満州を支配することで経済的な恩恵があると漠然と思ったことだろう。
ほとんどの満州移民は満州の実態も農業も知らなかった。
それよりも中国と満州に関わる事業家や商工業者、海外居住者にとっては、現地の安泰は絶対であった。

しかし、それ以上に国防を先取りする人々が、国際関係の空隙を突いて、今しかないと戦端を開き、国策の変更を迫った。
こうして軍の移民政策と民間の期待した移民とは異なったものになった。
一方、満州や中国、東南アジアの支配は貿易悪化から好転へと導き、さらに軍需産業発展をもたらした。

その後の展開
しかしその好転は思わぬ不幸の始まりだった。
やがて、当初軍部が恐れていながらも楽観視していた事が立て続けに現実となり、太平洋戦争へと突き進んだ。
それは自らの侵攻ですべての仮想敵国を敵に回し、予想しうる最大の巨大兵力と戦うことになったからでした。

後追いで歴史を見ると軍部は実に都合の良い想定を繰り返し戦争に突入している。
初めに「最大の敵は攻めてこない」として満州に侵攻し、さらに「敵一国と短期決戦で決着する」とし太平洋戦争に突入したことに驚かされる。
まるで原発の想定外「大きい津波は起こらない」と同じ思考でした。

次回は、この軍部の驚くべき思考(戦略)の背景を追います。


文献1: 「岩波口座 近代日本と植民地 3」「岩波口座 近代日本と植民地 5」岩波書店刊。
文献2: 「日本経済史」石井寛治著、p278.「岩波口座 近代日本と植民地 3」p45.
文献3: 「集英社日本の歴史 20」p42~。






20151122

I visited colored leaves of Nara prefecture 1


奈良の紅葉を訪ねて 1



 
*1

I went to see colored leaves of Nara on November 19.
Today, I introduce the colored leaves of Shoryakuji temple in Nara prefecture.

この11月19日に奈良県の紅葉を見に行きました。
今日は奈良市菩提山町の正暦寺の紅葉を紹介します。


< 2.  Main hall and bell house >
< 2. 本堂と鐘堂 >

It was cloudy unfortunately.
The colored leaves in here seem to be at their best around this time yearly, but it in this year was not very good because it was warm.
However, I enjoyed red and yellow autumnal scenery.
I used a sightseeing tour.

この日はあいにくの曇りで、今にも雨が降って来そうでした。
寺のある谷間の紅葉は例年今頃が盛りなのですが、暖かいせいか良くないそうです。
今回は、四国発の日帰り観光ツアーに便乗しました。
1年1度の紅葉見物では当たり外れがあり、少し残念でした。
それでも赤や黄色の秋色を楽しみました。




< 3.  Bell house >
< 3. 鐘堂 >



< 4.  Memorial towers >
< 4. 供養塔 >

There are these memorial towers below the open space of the main hall.
It seems to be the priest’s grave of this temple.

この供養塔は本堂の広場を降りた所にあります。
この寺の僧侶の墓だそうです。




< 5. An approach >
< 5. 参道 >





< 6,7,8.  Views from the gardens of a reception of the temple >
< 6、7、8. 福寿院客殿の庭先から >



< 9.  Colored leaves and a small stream >
< 9. 紅葉とせせらぎ >



< 10.  Colored leaves of Ginkgo
< 10. 銀杏と紅葉 >

Next time, I introduce Chogakuji temple.

次回は、長岳寺を紹介します。