20161112

Bring peace to the Middle East! 43: What is the cause ? 2



中東に平和を! 43: 何が原因か? 2




*1

We looked at two causes of wars and terrorism that have been frequent in the Middle East last time.
I consider another important cause, sparks, this time.

前回、中東で戦争とテロが頻発する二つの原因を見ました。
今回は、もう一つの重要な原因、火種を考察します。




*2

Preface
Last time, we looked that the problems of the Middle East became worse like sparks were blasted by strong wind in dry grassy grassland.
These two causes were aftereffects of once colony and the Cold War, and the biggest external cause.
Improvement to and coping with these are necessary, and besides, there is another important thing.
I think the Middle East should improve a cause that is inherent in the Middle East by oneself.
I assumed it “sparks”.


はじめに
前回、乾燥した草原の火種が強風に煽られようにして中東問題は深刻化したことを見ました。
二つの原因とは最大の外因である植民地の後遺症と冷戦でした。
これらへの改善と対処も必要ですが、もう一つ大事なことがあります。
それは中東に内在する原因で、中東自ら対処すべき問題だと思います。
私はそれを火種としました。




<  3.  Scenery of Islamic towns >
< 3.イスラム世界の風景 >


What is the sparks?
In the Middle East, why do conflicts begin everywhere?

As for the problem in Palestine, Islam and Judaism strengthen exclusiveness each other and produced hatred and gap, so it is not said that the cause is only unilateral religion.
However, we must notice particular problems in the Middle East when we compare both handling of it.
The main problems are that they can't merge together, and are to shut out the world by themselves.

Internal troubles, coups, and wars in the Middle East that I considered until now
came to worsen through a similar process.
The examples of the conflicts are President Nasser and Moslem Brotherhood (Sunni) in Egypt, President Assad (Alaouite) and Moslem Brotherhood in Syria, and Sunni (the mainstream of President Hussein's era) and Shiite in Iraq.
Opposition between denominations or for modernization (secularization) is taking place among the same Muslims.

Why cannot they solve each other dissatisfaction by talking?
So they must oppose and fight each other.

In addition, the Islamic extremists such as the Islamic State are born almost every day, they cooperate each other in some cases, but they smash and absorb each other in most cases.
The numbers may exceed 50 in the Middle East.
They act apart even in this situation.


火種とは何か?
なぜ中東では、こうも至るところで抗争が始まってしまうのだろうか?

パレスチナ問題では、イスラム教とユダヤ教が互いに排他性を強固にし、憎悪や格差を生んでいたのであって、一方の宗教だけが元凶とは言えない。
しかし、両者の対応を見ていると中東特有の問題が浮かび上がって来ます。
その主なものは彼らが大同団結が出来ないことと、自ら世界を閉ざしていることです。

いままで考察した中東の内紛やクーデター、戦争、どれも同じような経緯を辿って、拡大し深刻化しました。
代表的な対立の例は、エジプトでのナセル大統領とムスリム同胞団(スンナ派)、シリアでのアサド大統領(アラウィ派)とムスリム同胞団、イラクでのスンナ派(フセイン大統領時代の主流)とシーア派です。
同じイスラム教徒の中で近代化(世俗派)や宗派間で対立が起きている。

なぜ彼らは不満を話し合いで解決出来ず、敵対し暴力に結び付けてしまうのか?

またイスラム国などのイスラム過激派は日々生まれ、協力することもあるが、潰し合い吸収されもしている。
その数はゆうに50を越えるのではないだろうか。
ここでもバラバラの動きをしている。





<  4.  November 2015 Paris attacks >
< 4. 2015年のパリ同時多発テロ >

Furthermore, terrorism all over the world that the Islamic State performs and was initiated by al-Qaeda only drives Muslims all over the world into a corner surely and is the worst for everyone.
Once, anti-establishment terrorism plunges the leaders of own country into fear to aim to a policy changeover, but is different from it.
What will be different?
For example, three Baltic countries, Korea, and South Africa, in spite of being small countries, achieved the purpose with gaining cooperation of the world, particularly the Europe and America, to get out of the rule of large countries.
The nation-building of Israel is similar to it.
They have asked for understanding to the world and have avoided useless fight by transcending a difference in ideology or religion, and a historic grudge.
Though, it must have been worst condition for the Arab, because Europe and America was once ruler of the colonies and heathen countries.

Terrorism of Islamic extremist rightly goes against the times.

I think if the Middle East does not try to decrease such sparks, there is not the future of the Middle East.

The next time, I consider the cause that they shut out the world and can't merge together. 


さらに、アルカイダに始まり、イスラム国が行っている世界各地のテロは、世界のムスリマを確実に窮地に追い込むだけで、誰にとっても最悪です。
かつて反体制側のテロは自国の首脳を恐怖に落とし入れ、政策転換を図る狙いがあったが、これとは異なる。
何が違うのだろうか。

ここ1世紀、反体制側や弱小国の中には、世界の良心に訴え、世界を味方に付けて、体制挽回や独立を実現して来たところがある。
例えば、バルト三国や韓国、南アフリカなどは大国の支配から脱却するために、世界、特に欧米先進国の協力を得て小国ながら目的を達した。
イスラエルの建国も、これに似ている。
彼らはイデオロギーや宗教の違い、歴史的な遺恨を横に置いて、世界に理解を求め無駄な戦い避けて来た。
もっとも、アラブにとって欧米は異教徒であり植民地の支配者であったので厳しい条件ではあるのだが。

まさにイスラム過激派のテロは時代に逆行している。

この火種を減らす努力をする以外に中東に未来はないように思える。

次回は、大同団結が出来ず自ら世界を閉ざす原因について考察します。






20161110

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 8: サンクトペテルブルグ 2





< 1.  黄金の孔雀時計、パヴィリオンの間  >

今日は、エルミタージュ美術館の内部を紹介します。
妻がロシア旅行で最も愉しみにしていたのはこの美術館でした。
しかし大きな誤算がありました。


エルミタージュ美術館について
この美術館は1754年から建設された一番大きい冬宮のほか小エルミタージュ新・旧エルミタージュエルミタージュ劇場からなっている。
れらは18~19世紀ロシア建築頂点と言われる。

エカテリーナ2世が1764年に美術品収集を始めたのが美術館の始まりでした。
収蔵品300万点はヨーロッパとロシアだけでなく世界の先史時代からの遺物も含む。
展示室をすべて歩くと20km以上になる。

フラッシュを使用しなければ写真撮影は可能です。



 
< .  美術館の配置図 >

美術館は3階まであるのですが、私達が見学した2階のみ紹介します。
以下の写真屋はこの配置図の部屋番号を使います。


 

< .  1階から2階へ >

上左の写真: ヨルダンのギャラリー。
私達が入館したのは冬宮のネヴァ川側、配置図の赤矢印からで、最初にこのギャラリーに来ました。
退館するのもここからでした。

上右の写真: 大使の階段(ヨルダン階段)、配置図の丸1番。
ヨルダンのギャラリーの突き当りにあり、ここから2階に上がる。

下の写真: 将軍の間。
大使の階段を上がったすぐ横の193室です。


 

< .  大使の階段  >

この階段の写真がエルミタージュ美術館の紹介に最もよく使われている。
白を基調に金色の装飾と鏡の窓が華やかさ際立たせている。


 

< .  素晴らしい宮殿の間 1 >

上の写真: 紋章の間、195室。
最初に見る大広間で、美しいシャンデリアと黄金に輝く列柱に圧倒されます。

下左の写真: 1812年の祖国戦争の画廊、197室。
ナポレオン戦争に参加した300人の将軍の肖像画が壁一面に掛けられている。

下右の写真: 上記画廊を見学する少年と将軍の絵の一部。



 

< .  素晴らしい宮殿の間 2    >

上の写真: 西欧中世美術の画廊、259室。

中央の写真: 13~15世紀のイタリア美術の部屋、207室。

下の写真: オランダ美術の部屋、249室。
天井のデザインに特徴があります。
非常に暗いので写真の写りが良くない。


 
< .  素晴らしい宮殿の間 3    >

上の写真: 聖ゲオルギー(大玉座)の間、198室。
ここは皇帝による謁見の間で、正面にロマノフ王朝の紋章である双頭の鷲が描かれている。

下の写真: パヴィリオンの間、204室。
左にカラクリ時計の「孔雀の時計」が見える。


 

< レオナルド・ダ・ヴィンチの部屋  >

上左の写真: 左下に「ブノアの聖母」が見える。

上右の写真: 美しい細工がされた扉。

下の写真: ダ・ヴィンチの作品。
右が「ブノアの聖母」、左が「リッタの聖母」。

お薦めのエルミタージュ美術館の公式HPです。
このページで360度のバチャールビューが楽しめます。
映像は綺麗で、このダ・ヴィンチの作品の写真もここから借用しました。
ほぼすべての展示室が網羅されており、主要作品には英語の解説がついています。


 

< .  素晴らしい宮殿の間 4    >

上の写真: ラファエロの間、229室。
右側の窓の近くにラファエロの作品「コネスタビレの聖母」「聖家族」の絵が展示されている。

下左の写真: 17~18世紀のイタリア絵画の部屋、238室。

下右の写真: ピュートル大帝の(小玉座)の間、194室。



 

< 10ラファエロの回廊、227室  >
ラファエロの手によるヴァチカンのフレスコ画が壁一面に模写されている。
装飾で満ち溢れているが、落ち着きのある不思議な感じのする廊下です。


感想
今回、この美術館を実質見学した時間は待ち時間などを除くと1時間ぐらいでした。
日本語の現地ガイドに案内されて2階の一部を重点的に見て、後は通り過ぎただけでした
またたくさんの見学者がいたので、スムーズに見ることが出来なかった。
この美術館の主要な作品をじっくり見たいなら、見学者の少ない時間帯を選び、1日半ぐらいかけなければいけないと思います。

私は1階にあるスキタイや中央アジアの遊牧民族の美術、ユーラシア大陸の先史美術を見たかったのですが、見ることが出来なかった。
今回は美術品をじっくり見ることが出来なかったが、建物の内装の美しさを堪能することが出来た。

今回の旅行は欲張って5か国を周遊する為に、一カ国を充分見ることが出来ない欠点がここに出た。
それでも、全体としては十分満足出来た旅行でした。

次回に続きます。



20161109

花が満ち溢れる丘、あわじ花さじき








*1


2016年11月5日、コスモスが満開の丘を散策しました。
この日は風もなく、陽射しの温もりが心地良かった。


あわじ花さじき
ここは淡路島北端の丘陵地のひときわ高い山頂にあります。
標高290~250mの展望台からは大阪湾と瀬戸内海を望むことが出来ます。
以前は牛の放牧場だった所ですが、今は広大な斜面一杯に年中、季節に応じた花が植えられています。
ここの素晴らしい所は、広大な斜面のお花畑と眼下の海、緑の山々を同時に楽しめることです。
しかも無料で、駐車場は広く、小さな売店・トイレなどの設備も整っています。


 

< 2. 地図 >

上の地図: 赤丸があわじ花さじきです。
車なら東浦インターから行くのが便利だと思います。
この日も、近畿だけでなく関東や四国などの車も見かけました。

下の地図: 矢印があわじ花さじきです。
この衛星写真は大阪湾側から見ており、向こうに瀬戸内海が見えています。
手前が東浦で、横一直線に山肌を横切っているのは神戸淡路鳴門自動車道です。


 

< 3. 駐車場の近くで >

上の写真: 牛の放牧場の向こうに、明石海峡大橋の白い主塔が微かに見えています。
この日は、島全体に霞みがかかっていました。



< 4. 満開のコスモス >

斜面の中腹で撮影しました。


 

< 5. 斜面の下の方で撮影 >

上の写真: 中央の山頂に展望台が見えます。
下の写真: 左手奥に2頭の馬に乗った人が見えます。



 

< 6. 斜面の上の方から撮影 >

上の写真: 赤いサルビアが鮮やかです。
眼下に微かに大阪湾の海面が見える。
霞みがなければ対岸の大阪から和歌山の山並みも見える。

下の写真: 展望台から見下ろしている。


 

< 7. 幸福な一時 >


あとがき
駐車場には大型観光バスが数台駐車しており、次々と乗用車も入って来て、訪問者で一杯でした。
しかし花園は広いので、写真のように人はまばらになり、思い思いに花を楽しんでいました。
子犬を連れて来て見知らぬ人とペット談義に花を咲かせる人々。
近くの牧場から馬に乗り散策を楽しむ人達。
写真撮影に余念のない人。
花に囲まれてご満悦なカップルや友人同士。
老いのひと時を憩う私達。

晴れやかで自然と一体になれた秋の一日でした。






20161108

Bring peace to the Middle East! 42: What is the cause ?

中東に平和を! 42: 何が原因のか? 1





< 1.  Palestinian girls collecting drinking water in 1938 >
< 1.パレスチナの水汲みの少女達、1938年 >
These four photos are in the era of British Mandate for Palestine, and borrowed from http://flashbak.com/photos-of-palestine-and-israel-1930-1949-24753/.

4枚の写真はイギリス委任統治領パレスチナ時代のもので、すべてHPから借用しました。


So far, we have looked at a chain of the retaliation that happened in the Middle East.
From now on, I consider why the war and terrorism frequently has risen up in the Middle East.


いままで、中東で起きた報復の連鎖を見て来ました。
これから、何が中東で戦争とテロを頻発させているかを考察します。




<  2.  Jerusalem viewed from the olive mountain in 1938 >
< 2. オリーブ山から見たエルサレム、1938年 >


Preface
This present miserable condition was caused as the result of a chain of retaliation that had happened everywhere and it spread.
It is compared to that some sparks are blasted by strong wind on dry grassland, and become big fire before long.
I compare the cause to three elements, dry grassy grassland and sparks, strong wind.

はじめに
悲惨な現状は、報復の連鎖が至るところで起こり、拡大したことにありました。
乾燥し切った草原で、幾つかの小さな火種が強風に煽られ、やがて燎原の火のごとくとなった。
ここで原因を三つの要素、乾燥した草原と火種、強風に例えて考えます。




<  3. Jewish demonstration in 1939 >
< 3. ユダヤ人のデモ、1939年 >


Main flow of the conflicts in the Middle East
The problem of Palestine dates back to the time when Jew colonized in large quantities in the era of British Mandate for Palestine (1920-48) .
The biggest cause was Jew-baiting and colonial policy by Europe.

Taking this opportunity, the Middle East war began, it expanded the Lebanon War (1982), and the intifada (1987-2000) led to endless conflict between Palestine and Israel.
During the Middle East war (1948-73), Egypt and Syria mainly fought with Israel, Egypt became impoverished, and Syria came to do military intervention against Lebanon.
At this time, these wars expanded because Europe and America and the Soviet Union competed for hegemony and interests (including petroleum) in the Middle East.

When Islamic Revolution (1979) happened in Iran, neighbor Iraq performed Iran-Iraq war (1980-88) with support of the Europe and America, and then recklessly rushed to the Gulf War (1991).
In the background of the Iranian Revolution, there was a hatred for Europe and America and disappointment with previous secularization.
This is attributed to the fact that the U. S. crushed the democratization of Iran (1953), the Arab countries became impoverished by the Middle East war that Europe and America took part in, and in the result, pan-Arab nationalism under Nasser (secularization and modernization) collapsed.

When Soviet–Afghan War (1978-89) broke out, the U. S. strengthened Islamic militia of Arab to an armed group to oppose the Soviet Union, and al Qaeda was born.
However, when the US forces were stationed in Saudi Arabia at the time of the Gulf War, al Qaeda converted to anti-Americanism as it violated the sacred place of Islam, and performed the terrorist attacks on September 11 (2001).
The U. S. was angry at it and started the Iraqi War (2003).
As a result, Iraq was wasted, and al Qaeda expanded the power in the Iraq under the confusion, and the Islamic State separated from it.

After that, an momentum for democracy was growing in the Arab world, and the Arab Spring (2010-) happened.
This brought most Arabic countries anti-government demonstration, and Syria thoroughly oppressed it by military power and developed into civil war.
Taking advantage of this confusion, the Islamic State entered neighbor Syria, outwitted many other radicals, extended the power, and it still exist today.



中東アラブの紛争の大きな流れ
パレスチナ問題はイギリスの委任統治時代(1920-48)にユダヤ人が大量に植民したことで始まった。
この最大の原因は欧州のユダヤ人迫害と植民地政策でした。

これが中東戦争からレバノン戦争(1982)、ヨルダン内戦と戦火を拡大させ、インティファーダー(1987-2000)でパレスチナとイスラエルの紛争は泥沼化した。
中東戦争(1948-73)で、主にエジプトとシリアがイスラエルと交戦し、エジプトは疲弊し、シリアはレバノンに軍事干渉するようになった。
この時、欧米とソ連が中東で覇権と権益(石油など)を争ったことが戦火を拡大させた。

イランでイスラム革命(1979)が起きると、隣接するイラクは欧米支援の下、イラン・イラク戦争(1980-88)を行い、その余勢を駆って湾岸戦争(1991)へと暴走した。
イラン革命の背景に欧米への憎悪と世俗化への失望があった。
これは、かつて米国がイランの民主化を粉砕(1953)し、欧米が加担した中東戦争でアラブが疲弊し、またナセルのアラブ民族主義(世俗化)が潰えたことにある。

アフガニスタン紛争(1978-89)が勃発すると、米国はソ連に対抗するためにアラブのイスラム義勇兵を武装集団に強化し、アルカイダが誕生した。
しかし、湾岸戦争時、米軍がサウジアラビアに駐屯すると、アルカイダはイスラムの地を穢すとして反米に転じ、アメリカ同時多発テロ(2001)を行った。
これに怒った米国はイラク戦争(2003)を主導した。
この結果、イラクは荒廃し、アルカイダはその混乱に乗じてイラクで勢力を拡大し、ここからイスラム国が分派した。

その後、民主化運動の気運がアラブ世界に高まりを見せ、アラブの春(2010-)が起こった。
これがほとんどのアラブ諸国に反政府デモをもたらし、シリアはこれを武力で徹底的に弾圧し内戦状態に陥った。
この混乱に乗じて、イスラム国は隣国のシリアに乗り込み、幾多の過激派を出し抜き、勢力を拡大し現在に至る。




<  4.  King David Hotel bombing in 1946 became a turning point >
< 4.転機となったキング・デイヴィッド・ホテル爆破事件、1946年 >

What are the dry grassland and strong wind?
People of all countries except Palestine were under the rule of puppet kings of the Europe and America about half a century ago, and had suffered the autocracy and severe rich-poor gap, and then desired to transcend this condition.

Egypt, Iraq, and Syria repeated a bloody coup d'etat, became the military dictatorship, and aimed at the secularization (modernization) .
Iran let a revolution succeed by only demonstration against the government and returned to Islam.
The oil-producing countries continue old-fashioned Imperial rule like Saudi Arabia.
It may be said that the aftereffects of these colonies are dry grassland.

The military nations that were debt-laden public finance from the colony times had to depend on large countries for vast cost of development and war.
However, because of the Cold War of the U.S. and Russia, the nations irresistibly had to decide to go under the umbrella of either, and had to fight in the proxy war like Israel and Arab.
The tragedy of the proxy war is that the both countries must continue fighting for a balance that these large countries expect.
It may be said that this external military intervention is strong wind. 

However, the sparks are still left.

This continues the next time.


乾燥した草原や強風とは何か?
パレスチナを除くすべての国々は、半世紀前には欧米の傀儡の王政下にあり、独裁と酷い貧富の差に喘ぎ、脱却を目指していた。

エジプトやイラク、シリアは血みどろのクーデターを繰り返し軍事独裁国家となり、世俗化を目指した。
イランは民衆のデモで革命を成功させ、イスラムに回帰した。
産油国は欧米と結びつき、サウジアラビアのように旧態依然とした王政を続けている。
これら植民地の後遺症が乾燥した草原と言えます。

植民地時代から借金漬けであった軍事国家は、開発費用と戦費を大国に頼らざるを得なかった。
しかし米ソの冷戦が災いし、否応なしにどちらかの傘下に峻別され、イスラエルとアラブのように代理戦争を戦うはめになった。
代理戦争の悲劇は、大国が望む均衡の為に戦い続けなけらばならないことでした。
このような域外の大国の軍事干渉が強風と言えます。

まだ火種に相当するものが残っています。

次回に続きます。




20161105

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 7: サンクトペテルブルグ 1





< 1. アニチコフ橋の馬の像 >

今日から数回に分けてサンクトぺテルブルグを紹介します。
訪問したのは2016年9月29日と30日で、初日は曇りでしたが、次の日は晴れました。



< 2.サンクトペテルブルグの地図、すべて上が北 >

上の地図: バルト海とロシアを示します。
地図の横幅は約2000km。
赤丸は後でサンクトペテルブルグの歴史を紹介する時に出てくる地名で、Aはナルヴァ、Bはリガ、Cはシュリッセリブルクです。

中央の写真: ほぼサンクトペテルブルグ市域。
写真の横幅は約50km。
黄色の四角が今日紹介する観光の範囲です。

下の写真:今回紹介する観光地を黄色の数字で示します。
写真の横幅は約4km。
No.1: 新幹線が着いたモスクワ駅。
No.2: 宮殿広場。
No.3: エルミタージュ美術館。
No.4: 血の上の救世主教会。
No.5: ペトロパヴロフスク聖堂(遠くから眺めただけ)。
No.6: イサク聖堂(後日紹介)。


 
< 3. モスクワ駅 >

上の写真: 新幹線が着いたモスクワ駅。

中央の写真: 1917年の革命を記念して名づけられた蜂起広場です。
広場に立っているのが英雄都市(第3話で紹介)に贈られるオベリスク。
このサンクトペテルブルグの名前は、第一次世界大戦ではペトログラード、ソ連になるとレニングラードと改名され、ソ連崩壊後は元の名前に戻った。

下の写真: モスクワ駅横のリゴフスキー大通り。

到着した時は厚い雲に覆われたいたが、歴史を感じさせる建物が並んでいるのを見ると期待が膨らんだ。



< 4. 街並み 1 >

下の写真: アニチコフ橋から見たフォンタンカ川。

バスで走っていると、運河や川の多いのがわかる。
サンクトペテルブルグは沼地に造られた要塞から始まった。



< 5. 通りの様子 >

多くのロシア人の顔をじっくり見る機会はなかったが、気付いたことがある。
ここにはポルトガルのリスボンようにあらゆる大陸の人々が混住していない。
観光客は別にして、アラブやアフリカ、東南アジア、南アジア系の人々を見かけることはほとんどなかった。
だからと言って、ロシアの二大都市の人々は単一のスラブ人ではなく、北欧や中央アジアなどの血が混じっており、まさに歴史の流れを感じる。



< 6. 街並み 2 >

上の写真: この様な彫刻の飾りが大通りの建物に多く見られた。
下の写真: グリボエードフ運河の奥に見える血の上の救世主教会。




< 7. 血の上の救世主教会 >

下の写真: 隣接するミハイロフスキー公園の木々が色づき始めていた。



 
< 8. 血の上の救世主教会 >

この教会は、1881年に皇帝アレクサンドル2世が暗殺された場所の上に建てられ、1907年に完成している。
サンクトペテルブルグの歴史的な建物のほとんどは西欧風(バロック、ネオクラシック)で、有名なものはイタリアの建築家の手によるものが多い。
それに対して、これは純ロシア風の再現とも言えるが、モスクワの赤の広場の1560年に建てられた聖ワシリイ大聖堂に比べ、自由で外壁の装飾が派手です。

ロシア教会の特徴である屋根の葱坊主は火焔を意味し、教会内での聖霊の活躍を象徴すると言われています。



< 9.血の上の救世主教会の内部 >


内部を拝観していませんが、素晴らしいので紹介します。




< 10. 宮殿広場 >

上の写真: 1827年に建てられた旧参謀本部。
中央の写真: 1834年、ナポレオン戦争の勝利を記念して建てられたアレクサンドルの円柱が左に見える。
左の奥にイサク聖堂のドーム、右奥に旧海軍省の建物が見える。

下の写真: エルミタージュ美術館。
後にエルミタージュ美術館になる冬宮が1762年に建てられ、サンクトぺテルブルグの中心となった。
内部は次回紹介します。



< 11.エルミタージュ美術館の周囲  >

上の写真: 美術館に沿って宮殿広場からネヴァ川側に回る。
下の写真: ネヴァ川と美術館入り口。



< 12.ネヴァ川  >

上の写真: エルミタージュ美術館側から対岸を見ている。

中央の写真: 対岸のペトロパヴロフスク要塞を拡大。
高い塔はペトロパヴロフスク聖堂。
サンクトペテルブルグはここに作られた要塞から始まった。

下の写真: ヴァシリエフスキー島と宮殿橋。
右手の赤い二つの塔は昔の灯台。


サンクトぺテルブルグの歴史
この都市の人口は現在500万人で、ロシア第二の都市です。





< 13. サンクトぺテルブルグの歴史 >

一番上の絵: ノヴゴロド公国の賑わい。

二番目の写真: デカブリスト広場のピュートル大帝像。

三番目の絵: 1753年当時のサンクトぺテルブルグ。
おそらく左岸がペトロパヴロフスク要塞、右岸が冬宮(エルミタージュ美術館)が建つ場所だろう。

四番目の写真: ロシア革命時、冬宮前に押し寄せる民衆。


この地は、古くはヴァイキングがネヴァ川を遡上してバルト海と黒海を結ぶ交易ルートに位置した。
ここはキエフ公国の分裂後、ロシアの北方で栄えたノヴゴロド公国に属した。
やがて公国はスウェーデンと国境を巡って争うことになる。
一時は、公国のアレクサンドル・ネフスキーが勝利し、それにちなんだ彼の名を冠した地名や建物がサンクトぺテルブルグに残っている。

やがてロシアのピュートル大帝は、東欧、バルト三国、北欧を巻き込む大北方戦争(1700~1721年)で、スウェーデンと雌雄を決することになる。
その過程で、1703年、この地にペトロパヴロフスク要塞の建設を開始し、これがサンクトぺテルブルグの始まりとなった。

ピュートル大帝は、バルト海交易を確保し、西欧化を図ることがロシアにとって不可欠だと考えていた。
彼は皇帝でありながら、1年半ほど大使節団の一員として偽名を使いヨーロッパを視察している。
この姿勢が、サンクトぺテルブルグの街づくりにも反映されている。

1712年、ここに首都が移され発展を遂げることなる。
しかし、ここは1917年に始まるロシア革命の中心地となった。
そして、1922年、ソ連は首都を海外からの干渉を避ける為に内陸部のモスクワに移した。




< 14. 大北方戦争の激戦地 >

上の図: 地図A、1700年のナルヴァの攻防。
この城塞を後日紹介します。

中央の図: 地図B、1710年のリガの攻防。
この旧市街を後日紹介します。

下の図: 地図C、1702年、シュリッセリブルクの攻防。
ピョートル大帝は大きな犠牲を払って長年の抗争の地をスウェーデン軍から取り戻した。
サンクトぺテルブルグより東に35kmの所。


次回に続きます。