20140729

Our war 16: What are subjects? 


Armed forces
     


Until now, I looked what war of Japan was.
Some problems appeared from there.
I will investigate what is important about “ War and Peace” by using these problems.

Introduction

Things that I wanted you to have known in this series were there was considerable basic problem in the war of only half a century ago and our country gave neighboring countries a hard.
The problem includes some old tactical things, but still repeated universal problems, and characteristic corrupt practice of Japan.
There are important problems that may bring us to war by mistake in the future in it.
I raise some problems and examine it from the next time.


今まで、日本の戦争がどのようなものかを見て来ました。
そこからは幾つかの課題が浮かび上がりました。
それを足がかりに、「戦争と平和」で何が重要かを見ていきます。

はじめに
第2~15話によって、私が皆さんに知って頂きたかったことは、つい半世紀前の戦争に考慮すべき基本的な課題があること、かつ近隣諸国に多大な迷惑をかけたことです。
その課題には戦術的に古いものもありますが、今も繰り返されている普遍的な問題、日本特有の悪弊があります。
中には将来、誤って戦争に深入りさせる重要な問題もあります。
幾つかの課題を取り上げ、次回から検討していきます。

Alliance (right of collective self-defense)
    

Some problems
Armed forces and peace
Japan as the garrison state that the military authorities controlled began to go out of control, and braking was not effective, and it brought the serious calamity to our country and foreign countries.
On the other hand, the army is indispensable to defend the military threat from a foreign country.

Alliance (right of collective self-defense)
The Triple Alliance that Japan entered into to have expected to suppress the Soviet Union and the United States failed very easily, and Japan had to fight against the both countries.
On the other hand, many countries tended to connect the alliance and it tended to make a foreign country abandon the invasion historically.

幾つかの課題
軍隊と平和
軍部が掌握した軍事国家、日本は暴走を始め、ブレーキが効かず、自国と他国に甚大な災厄をもたらした。
一方で、軍隊は他国からの軍事的脅威を防衛するには必要不可欠です。

同盟(集団的自衛権)
日本が、ソ連や米国を押さえることを期待して結んだ三国同盟は、いとも簡単に挫折し、両者を敵に回し戦争に突き進む結果となった。
一方で、歴史上、国々が同盟を結び、他国の侵入を思い止まらせようとした。

    

Deterrent

The big difference of the national power and the armaments of between Japan and the United States must have become a deterrent, and the willingness of war in Japan may have broken, but Japanese military authorities ignored this and began the war.
On the other hand, a country and an army appeal for increase of deterrent effect, when reinforcing the army and the armaments.

Backward country about information
The leadership of the war mistook the helm of Japan from beginning to end, because they ignored the war situation and the information of the enemy country and quashed the truth.
People believed it and seem to be depreciating the information of the neighboring country after the end of the war also.


抑止力
米国の国力や軍備との大差は抑止力となって日本の戦争意欲をくじくはずだったが、日本の軍部はこれを無視し戦争を始めた。
一方で、国や軍は、軍隊や軍備を増強するとき、抑止効果の増大を訴える。

情報後進国
敵国の情報や戦況を無視し、真実を握り潰す戦争指導部は国の舵取りを終始間違うことになった。
国民はそれに乗っかり、終戦後も隣国の情報を軽視して来た。

    

Historical awareness
What does the difference in two historical awareness mean? 
Which is significant for the nation?

Invasion and atrocity
How should we face the past act?
What should we do the neighboring countries?


歴史認識
取り上げて来た二つの歴史認識の違いは何を意味するのか? 
どちらが国民にとって有意義なのか?

侵略と残虐行為
過去の行為にどう向き合えば良いのか?
私達は隣国に対してどうすれば良いのか?

Invasion and atrocity
    

What is our demanding peace?
Was what the leadership of the war in those days demanded thing the people demanded?
Or, is there a difference between what the leader demands and what the people demand?

Future articles
From now on, I give an account of the main point about the above-mentioned problems, and explain the point that people are easy to misunderstand and believe blindly.
Explaining these problems differs among every scholar, military experts, scholars of peace research, diplomats, historians, and sociologists.
There is still not the established theory.
My wishing is to offer you good indication of right and wrong about the policy that the government sets forth.

求める平和とは
当時の戦争指導者達の求めたものは、国民の求めたものだったのか?
それとも指導者層と庶民では、求めるものが異なるのだろうか?

これからの記事
今後、上記課題について要点を述べ、誤解や盲信し易い点を説明します。
これら課題の多くは、あらゆる学者、軍事専門家、平和学者、外交官、歴史学者、社会学者らでも意見は錯綜し、定説はありません。
私が望むのは、国が打ち出す方針について皆さんに善し悪しの判断材料を提供することです。




20140728

私達の戦争 15: 他国から見た日本の戦争とは 4


< 1. 現在の南京 >

今日は、中国から見た日中戦争を紹介します。
気の弱い人は、引用文を読まない方が良いと思います。


< 2. 当時の南京城、上下方向約8kmの城郭 >

中国(初級中学、歴史教材)より
**戦と南京陥落(タイトル)
「・・。日本侵略者はいたるところで、放火、虐殺、強盗、残虐の罪を犯し、数知れぬ町と村が廃墟と化し、無数の中国人民が惨殺された。日本軍は南京を占領したのち、南京市民に対し6週間にわたって、この世で最大ともいえる悲惨な虐殺を行い、このうえない大きな罪を犯した。素手の南京市民は、射撃の的にされたり、白兵戦の対象にされたり、生き埋めなどで殺されたり、揚子江に投げ込まれ、溺死させられたり、内蔵をえぐられたりされた。・・12月16日、日本軍は5000人あまりの市民を下関中山埠頭に集め、機関銃で射殺した。・・」


< 3. 日本軍の入城 >

説明
これは南京事件(南京虐殺)を書いている。
この南京城は当時、約百万人が暮らす首都で、北西で揚子江(長江)に接していた。

1937年7月、北京近くの盧溝橋で日中戦争が勃発した。
8月には上海に飛び火し、中国軍に応戦するため日本は陸軍を派兵した。
当初、日本軍は苦戦したが増派により攻略した、しかしここで一部の日本軍は勝手に首都南京に進撃した。
直前に大本営は南京攻略を許可し、12月10日、攻撃が開始されると中国軍は総崩れとなり13日に陥落した。
しかし2月初旬まで殺戮は続いた。


< 4. 長江、左岸が南京城側か >

南京大虐殺(北京・外文出版社、徐志耕著、1994年刊)より
この本は、私が旅行中、盧溝橋の抗日戦争博物館で買った日本語の本です。
この中に、上記の下関中山埠頭の事件が詳しく書かれていた。

目撃者―今井正剛の証言(日本の従軍記者二人が目撃して、後に記した)
「埠頭は至るところ焼けこげた死体が、折り重なるようにして山を築いていた。そして、その死体の山の間を50人から100人ぐらいの、ゆるゆると移動する人影があり、死体を水際までひきずってゆき、河の中に投げ込んでいた。・・・・
 しばらくすると、死体の処理を終えた苦力(使役人夫)たちは河岸に一列になった。続いてダダダ・・・と機銃の音が響き、ある者は仰向けに倒れ、ある者は前にのめって河に落ちていった。」p11

生存者―劉永興の証言
「あの日の午後、日本兵が一人、部屋の入口に来て、わたしのほうに手招きするんです。『おい、来い。来るんだ』ってね。わたしはそっちに行きました。・・・、通訳官が、これから使役だ、みんな下関埠頭に荷役に行くんだ、と言いました。
 行かんという者が何人か、その場でズドンとやられました。それからみんな列を作って、先頭は黒い制服の国民党の警官、しんがりは日本軍の騎馬部隊に挟まれて行きました。途中は死人がいつぱいだったんです。人を見るとつかまえて、いっしょについてこさせました。駆けだして逃げる奴はみんな撃たれました。
 下関埠頭に着いたらもう真っ暗でした。・・、20人ずつ一組に縛って、縛ったら機銃でワーツと撃つんです。私は前にいたもんで、あわててほかの者と一緒に河に飛び込みました。・・・
 ・・・機銃掃射の後、日本兵が今度は銃剣で一人ひとり突いていくんです。・・その時の突かれた人間の叫び声には身の毛がよだつようでした。
 刀で突いたあと今度は火をかけました。・・夜明けちょっと前にあいつらが行ってしまうと、私はようやっと這いあがりました。そん時、岸に上がった者は十何人かおりました。・・・」p11


虐殺を否定すること
日本軍は皇軍であり虐殺は無かった、そんな非道なことをするはずが無いと信じる人がいます。
上記、三つの記述も否定することは自由です。
ただ虐殺行為は、世界の多くの戦場で程度の差こそあれ起こっています。
加えて、当時の日本軍は自軍他軍を問わず、人命無視が常態化していました。

事件前、南京城内には約百万人が暮らしていた。
生き残った人々や直接見聞した中国人は、77年後の現在も多く生きているはずです。
またその体験を聞いた人ならもっと大勢いるはずです。
その人々をすべて無視することも可能です。

否定する為の時間と労力を厭わないなら、直接、中国の人に意見を聞いてみたらいかがでしょう。
その方がよほど簡単で実りがあるはずです、否定するにしても。
他者を恐れ逃げていては、益々袋小路に入って行きます。
それこそ太平洋戦争に勇猛果敢に突入した軍部の強者のようです。
米国を恐れるあまり、都合の悪い情報を無視し、現実を拒否して、得たものは何だったのでしょうか?
同じ轍を踏まないことが大切です。

次回は、この連載の第2~15話で分かったことを整理します。





20140727

私達の戦争 14: 他国から見た日本の戦争とは 3

 

< 1. 蒙古襲来 >

今日は、韓国の教科書から日本の統治時代を紹介します。


< 2. 今はなき朝鮮総督府 >

韓国(高等学校用歴史教科書、1990年版)より
兵站基地化政策(タイトル)
「日帝の経済的収奪は、1930年代に入って新しい段階に移った。日帝は産米増殖計画が難しくなると、工業原料増産政策へと方針を転換し、綿花の栽培と綿羊の飼育を試みるいわゆる南綿北羊政策をたてて、我が国の農村に強要した。その後、日帝は大陸侵略を画策しながら、韓半島を日本の兵站基地にしょうと試みた。その結果、発電所が建設され、軍需工場が建てられ、鉱山が開発され、重化学工業が育成された。しかし、これらはすべて日帝の戦争遂行のためのものであり、韓半島の経済を植民地経済体制に、より徹底して組み込むためのものであった。」


< 3. 日本統治時代に建てられた近代的な建物 >

説明
この時期は、日本が1931年満州事変を起こし、満州から中国に深入りしていくのと呼応している。
日本の統治時代、確かに莫大な資金投入と新規制度導入によって、朝鮮半島の経済と文化水準は上昇した。
一方で、上記の状況は日本軍が侵攻した国々ではよく似たものであり、特に朝鮮半島では酷かった。

「台湾統治はよく感謝されているのに、なぜ朝鮮半島では日本の莫大な投資や近代化政策に恨みを持つのか」といぶかる日本人も多いのではないでしょうか。

誤解を招いた要因を箇条書きにします。
1.       日本統治以前(1895年以前)の台湾は中国の圧政に苦しんでいた。
2.       日本統治以前の台湾は文化・教育・産業共に非常に遅れていた。
3.       朝鮮半島には長い歴史と伝統文化が根付いていた。
4.       朝鮮半島は大陸への橋頭堡、防波堤のようなもので、兵站基地としても圧倒的に重要でした。

遅れていた台湾で行われた産業振興策(灌漑工事、工場進出)は飛躍的な効果をもたらし、その後の収奪によっても恩恵は残った。
また近代化(創氏改名、日本化など)も、教育や社会制度導入で台湾は恩恵を受けたが、朝鮮半島では伝統を侮蔑されることになった。
しかしこのこと以上に、第4項が日本の支配を苛烈なものにし、よって両国の反応の差となって現れた。

台湾の人々が全面的に日本に感謝しているわけではないことは、前回の教科書の記述でも判ります。
例えば忠烈祠に並ぶ遺影の奥に、日本軍が侵攻したおり、台南で戦った戦士達の遺影がひっそりと祭られている。


< 4. 水豊ダム: 統治時代に日本企業が資金を負担し建設 >

土地の略奪(タイトル)
「このことによってわが農民は、土地所有に必要な複雑な書類をそろえ、期限付き申告制の煩雑な手続きを終えなければ、所有権を認められなかった。したがって、・・機会を逃した韓国人の農地や公共機関の土地はほとんどすべて朝鮮総督府の所有になった。土地調査事業によって不法に奪われた土地は、全農地40%に達した。朝鮮総督府は、この土地を東洋拓殖会社などに移して、韓国に移住してきた日本人に安く払い下げた。
・・土地調査事業以後多くの農民は、地主に有利な期限付き契約による小作農に転落していった。そして生活基盤が弱くなった彼らは、日本人の高利貸しに苦しみ、生活維持の為に火田民(焼畑耕作)となったり、満州や沿海州(シベリア東南部)へと移住していった。」

説明
これは1912~1918年の日本による事業で、代表的な経済搾取の例を示している。
この事業によって水田の65%が小作地となり、農民の77%が小作農・自小作農になった。
これが1930年以降、餓死者が出ても朝鮮から日本への米輸出高50%を可能にした一因となった。

まとめ
この教科書には日本の収奪と圧政への批判、民族独立への熱き思いがるる記されている。
大事なことは、見えない、また見たくない事が隣国には起きていたこと、さらに私達は誤解し納得し易い傾向にあることを知っていただきたいことです。
どうしても細かな事件の正誤に捕らわれ易いのですが、大局を見れば、自ずと見えて来ます。

気づきにくい朝鮮半島の悲劇の一つは、日本軍に徴用され共に連合軍と戦った人々と独立を目指して連合軍に加わった人々がいたことです。
前者は多数であり、日本の侵略に手を貸したものであり敗戦国の一員となりました。
元寇の折、対馬や福岡を攻めたのは高麗軍を配下にした蒙古軍でした。
かくも悲劇を繰り返して来たのです。

次回は、中国について見ます。












20140726

私達の戦争 13: 他国から見た日本の戦争とは 2




< 1. 台北の忠烈祠 >

日本と交戦した三カ国の教科書から紹介します。
1941年の太平洋戦争勃発を解説した箇所を集めました。



< 2. ノモンハン事件 >

モンゴル8年生用歴史教科書、1987年版)より
「ファシスト・ドイツがソ連に侵攻した最初の日から、日本の軍国主義者たちは、ソ連とあいだに結んだ中立条約の違反を始めた。日本は、ソ独戦の過程において日本に有利な戦況になったさい、ソ連に侵攻する準備をしていた。日本軍は、ソ連およびモンゴルとの国境線上に強力な軍事力を終結させた。関東軍の兵力は、1942年には110万人に達し、全日本軍の35%を占めた。1941年から日本は、中国東北地方に防衛施設をきづき、細菌戦の準備を行い、そして多種の伝染病の病原菌を貯蔵した。
 日本は、ソ日中立条約のモンゴルに関する条項にも違反していた。日本は、満州に軍の大部分を終結させると、モンゴル国境方面に軍を配置し、・・、戦争に必要な鉄道、道路、飛行場をつくった。・・スパイを送って情報を収集し、国境紛争を生じさせていた。」

説明
モンゴルは満州で日本と境界を接しており、1939年、関東軍はソ連・モンゴル軍とノモンハン事件を起こし大敗を喫していた。
41年4月、松岡外相は待望の日ソ中立条約を結んだが、その二ヶ月後、独ソ戦が始まると、7月には、日本はまたも関東軍特殊演習と称して、対ソ戦の準備を始めた。
細菌戦を担ったのは関東軍の石井部隊(731部隊)です。



< 3. 上海に上陸する日本軍 >

台湾(高級中学、歴史教科書、1987年版)より
「民国30年4月(1941年)、ソ連は日本と中立協定を締結し、日本の南進を促した、6月、ドイツとソ連が戦争を開始し、日本は後顧の憂い無く、ベトナム南部に進駐した。太平洋の情勢が緊張し、アメリカは中国に対する援助を増強した。8月、シュノーがアメリカ志願空軍隊を組織し、中国に助力するため中国に来た。アメリカの軍事代表も10月重慶に到着した。日本はアメリカの中国援助を阻止するため、アメリカと交渉したが、決裂した。12月8日、日本海軍はハワイ真珠湾のアメリカ海軍基地を襲撃した。・・
 31年1月2日、蒋委員長は連合国の推挙を受け、連合国中国戦線(ベトナム、タイを含む)最高総師の地位につき、・・中国の単独の対日戦から連合国との共同作戦へと移ったのである。」

説明
この教科書が発行された時期は、台湾にとって転換期だった。
78年日中平和友好条約、79年米中国交樹立と、日米が台湾から中国になびき始め、台湾独立に影が差し始めていた。
もう一つは戦後から続いていた戒厳令が87年解除され、民主化が動き始めた。

日本開戦の経緯は正確ではないようです。
41年から米国は中国支援に大きく傾き始めており、後に台湾の総統になる蒋介石を援助し続けることになる。
ここでは触れなかったが、蒋介石率いる国民党軍は中国各地で日本軍と戦っており、教科書には、その当時の日本軍の横暴や侵略行為が記されている。
細かい虐殺の記述は無く、大局的な流れを書かれているが、学生はやはり否定的な印象を持つだろう。
単純に、台湾が教育に関しては日本びいきとは言えないだろう。



< 4. 香港に侵攻する日本軍 >

香港(学力試験受験生用歴史教材、1988年版)より
「1941年、アメリカは石油輸出禁止という条件をつきつけて、日本が中国から完全に撤退するように主張し続けた。日本の石油貯蔵量は2年間分しかなかった。しかし、中国が自国にとってきわめて利益多しと考えていた日本は、かたくなに中国からの撤退を拒否した。石油を手に入れることでアメリカの要求をのむよりは、インドネシアへの侵略を考えたのである。・・・・
 日本軍は、アメリカ敗北を期待したのではなく、長期にわたる東南アジアの支配権を握るために、アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えようとしたのである。彼らは、力を誇示することで日本が中国支配を維持し続けるのを、アメリカに認めさせられると信じていた。不幸にも、日本はアメリカの反応に重大な誤算をしていた。・・」

説明
香港は、太平洋戦争時、日本軍に占領統治されたが、終戦後、また英国領に復帰し、97年、中国に返還された。
教科書の記述は英国の立場から書かれたもので、概ね太平洋戦争への経緯に誤りは無いように思える。

まとめ
上記の記述はほんの一部ですが、概ね太平洋開戦期の経緯を適確に捉えているように思える。
他の記述も合わせて言えることは、日本の侵攻を好意的に捉えるはずもなく、その身勝手さ、侵略目的、横暴さと残酷さを批判していることです。
前回の記述も含めて「大東亜共栄圏」や「独立支援」は、直ぐに虚偽だったと気づいた事が判る。
これらの事実を、これらの国では国民に教育し続けることになる。

次回は、韓国と中国について見ます。












20140725

私達の戦争 12: 他国から見た日本の戦争とは 1


< 1. パプアニューギニア、かつて悲惨な戦場だった >

前回まで、日本人が太平洋戦争・日中戦争をどう振り返ったかを見ました。
今回から、他国が太平洋戦争・日中戦争をどう見たかを紹介します。
そこには私達の気づかない事実や感情があるかもしれません。



< 2. 水木しげるの戦記ものから >

インドネシア(小学校6年用の歴史教科書1973年版)より
「・・オランダ軍はカリジャチで日本軍に無条件降伏した。インドネシア人の気持ちは実に痛快であった。日本軍の到着を我々は両手をあげて喜び迎えた。・・
 まもなく日本軍の目的は我々の解放よりは戦略物資の略奪にあることが判ってきた。日本の統治は残酷であり、貪欲であった。米その他の食料は奪われ、油を採るためにはヒマを強制的に栽培させられた。・・多数の人間が労務者として遠くビルマ、タイに連行されて労働させられ、再び故郷に帰れなかったものも多い。さらに青年は兵補に徴集され、・・。
 日本の占領時代はかつてなかったほどの苦難の時であったが、インドネシア民族は我慢した。食料は不足し、衣類はボロボロになって椰子の繊維の織物を身にまとう者さえ多くなった。至るところ失望の声が渦巻き、・・公然たる反乱さえ起こった。
・・日本の敗戦となり、・・『待ちに待っていた日が今やってきたのであり、全民族はいせいに立ち上がった』・・」



< 3. 映画「戦場に架ける橋」 >

説明
これは太平洋戦争開始翌年(1942年)の日本軍の侵攻を記している。
この国はオランダの植民地支配に既に400年あまり屈していた。
日本は、戦争続行に不可欠な戦略物資を調達するために、侵攻した国々で同様のことを行った。
「連行されて労働させられ・・」は映画「戦場に架ける橋」で有名になった「死の鉄道」と呼ばれた泰緬鉄道建設だろう。
これにより各国の捕虜・連行による作業者、数十万の内、約半数の犠牲者が出た。
食料の略奪だけでなく、作物の植え替えも多くの餓死者を生むことになった。
日本は協力を得、兵を徴集するために、各国で独立を約束しましたが、これは欧州も同様の手を使いました。

侵略された国はどこも、悲惨な体験をバネに民族意識を鼓舞することになります。
おそらく現在の教科書は、日本の国際貢献や経済交流などがあって、きっと変わっているように思います。



< 4. 水木しげるの戦記ものから >

フィリピン(中学2年用の歴史教科書1975年版)より
「フィリピンは日本の戦争の要求をみたすためにただ搾取されただけであった。・・フィリピンに進出した日本人の総数は50万人をこえ、・・我々は彼らの衣食住すべてを負担させられたことになる。日本人は能う限りの食料を我が国から奪い去った。・・
・・すべて疑わしいと見なされた男性はその場所の教会あるいは公共建物に集められ、誰かが自白するまで数日間食べものも水も与えられずに監禁された。拷問や虐殺もしばしば行われた。
・・日本の戦争目的を宣伝することだけは盛んであった。・・検閲が実施された。ラジオも外国の短波放送が聴けないよう、日本人は受信機を改造した。・・日本文化を広めるための組織がつくられたが、・・フィリピン人の心を捉えるには至らなかったのである。」

説明
これも1942年の侵攻以降を記している。
第二次世界大戦におけるフィリピン人の死者は兵士、一般市民を合わせて計110万人だった。


< 5. 水木しげるの戦記もの >

彼の体験を描いた戦記ものや昭和史などは、当時を知るには優れた作品です。
作品中、ジャングルの人との交流、残酷で無謀な日本軍、心優しき兵士、自身の奇蹟の生還などが、悲惨な中にもユーモアと情感を込めて描いています。


気づきが・・
私達日本人にとって知りたくないことが起こっていました。

立派な日本軍人も居ますが、何せ国策が戦略物資調達を目的としていたので、大勢は自ずと決まります。
しかし残念ながら島国は致命傷を抱えており、その事に想いが至り難い。
どうしても海外情報を軽視し、都合良く解釈する傾向があります。
それは江戸時代の鎖国政策が成功したことも一因と言えます。
日本は広大な海と言語の違いにより、大陸からの混乱要因を容易に遮断出来ました。
しかし、この情報遮断は一方で大きな不幸を招きます、太平洋戦争勃発とその後泥沼に入り込んだように。

現在、私達は過剰な情報量の中に埋没しています。
しかし、必要な情報が適切に公平中立に本人に届くとは限りません。
情報が偏る理由は、種々あり複雑ですが、詳しくは連載「社会と情報」で扱います。
一つの理由は、マスコミが視聴者の望む情報に偏り、嫌う情報を扱わないことにあります。

このことに気がつくことが大切だと考えます。












20140724

私達の戦争 11: 当事者が振り返る戦争とは 10

 大本営発表

< 1. 大本営発表 >

今回も参謀の堀栄三氏の著述を見ます。
日本軍の敗因がそこには記されており、根の深い問題が露わになります。

ミッドウェー海戦 

< 2. ミッドウェー海戦 >

「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」(堀栄三著、文集文庫、1996年刊)より

米軍が見た日本軍5つの敗因(タイトル)
「米軍は昭和21年4月(敗戦の翌年)、『日本陸海軍の情報部について』と言う調査書を米政府に提出している。
『日本の陸海軍情報は不十分であったことが露呈したが、その理由の主なものは
1. 軍部の指導者は、ドイツが勝つと断定し、連合国の生産力、士気、弱点に関する見積を不当に過小評価してしまった。(注、国力判断の誤り)
2. 不運な戦況、特に航空偵察の失敗は、最も確度の高い大量の情報を逃がす結果となった。(注、制空権の喪失)
3. 陸海軍間の円滑な連絡が欠けて、せっかく情報を入手しても、それを役立てることが出来なかった。(注、組織の不統一)
4. 情報関係のポストに人材を得なかった。このことは、情報に含まれている重大な背後事情を見抜く力の不足となって現れ、情報任務が日本軍では第二次的任務に過ぎない結果となって現れた。(注、作戦第一、情報軽視)
5. 日本軍の精神主義が情報活動を阻害する作用をした。軍の立案者たちは、いずれも神がかかり的な日本不滅論繰り返し声明し、戦争を効果的に行うために最も必要な諸準備をないがしろにして、ただ攻撃あるのみを過大に協調した。その結果彼らは敵に関する情報に盲目になってしまった。(注、精神主義の誇張)
・・・以上の5項目は、戦後40年経った現在でも、まだ大きな教訓的示唆を与えている。」P329

説明
残念ながら米軍の指摘は、あまりにも日本の弱点を見抜いていました。
この連載で取り上げた指摘や人物の行動にピッタリとあてはまりました。

著述の中で、彼は多大な損失を生み続けた日本軍の古い体質を随所で批判しています。
彼の批判は適確ではあるが容赦ないものではなく、その歴史的経緯に理解を示しています。
だが彼は所属していた陸軍部参謀本部、特にエリートの作戦課に強く失望していた。
一方で、彼自身の思い上がりやミスも吐露しています。
彼のように自分や所属組織への反省を適確に行い、改革を進めた人がどれだけいたでしょうか?
結局、指摘や批判を拒否し、反省しない人々が組織の体勢を占め、国の命運を左右してしまた。

焦土と化した大阪 

< 3. 焦土と化した大阪 >

米軍が見た日本軍5つの敗因につづく
「作戦班には、陸大軍刀組以外は入れなかった。作戦課長の経験無しで陸軍大将になった者は、よほどの例外といって差し支えなかった。
・・堀の在任中、作戦課と作戦室で同席して、個々の作戦について敵情判断を述べ、作戦に関して所要の議論を戦わしたことはただの1回もなかった。
・・堀が山下方面軍でルソン上陸の敵情判断をしていた頃、「米軍のルソン侵攻は3月以降である」(16日に発生)と打電してきたり、・・電報が没になる(前回指摘)・・。
・・結論として、情報部を別格の軍刀参謀組で固めていたら、戦争も起こらなかったかもしれない。」P332

説明
彼は落ちこぼれと言っているが陸大卒業時5番だった。
しかし彼は希望の作戦課には配属されず、低く見られていた情報課に入った。
当時、陸大の最重要科目は作戦演習で、過去の実戦例について自分の意見を述べ、教官がそれを評価していた。
彼は言う、優秀な生徒(陸大軍刀組)は教官の望む答えを言えることであり、創造性とは無縁だと。
彼が陸大で学んでいた時、情報の科目はおざなりで、現役将校の自慢話であったと記している。

 ヒトラー 

< 4. ヒトラー >

まとめ
太平洋とアジアの全陸軍の作戦を統括し命令を出す作戦課は、信じ難いが敵情はもちろん国際状況にも無頓着であった
それは陸軍大学と軍部の驕りとマンネリが生んだとも言えるが、歴史的経緯、さらには日本の精神風土が大きく災いした(事故調の黒川委員長指摘と同じ)。
それは大日本帝国陸軍が誕生してから高々70年(主に後半)で生じたものでした。

しかしこれは当時の軍隊だけに起きたのではない。
現在も頻発する組織とエリート官僚の腐敗と軌を一にしている。
例えば、検察庁や原子力安全・保安院の事件は氷山の一角に過ぎないだろう。
この腐敗は資本主義や共産主義を問わず、国家から教団まですべての組織に起こっている。
ただ軍隊の驕りやマンネリ、腐敗から生じる暴走は、一国で数百万から世界で1億近い人々の犠牲を強いた。

正に、歴史を学び反省点を得る理由は、これらを繰り返さない為でもあります。

次回は、他国から見た日本の戦争を確認していきます。









20140722

私達の戦争 10: 当事者が振り返る戦争とは 9

 大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲

< 1. 著書 >

前回、エリート参謀が軍上層の意向に沿い、脇目も振らず邁進する姿を見ました。
しかし、今回紹介する堀栄三氏は、同じ参謀でもかなり異なります。
そこからは日本の敗因が見えて来ます。

堀栄三

< 2. 堀栄三 >

堀栄三氏について
彼も陸軍幼年学校、士官学校、騎兵と教官を務め、陸軍大学卒業後、教官勤務。
1943年10月、29歳で大本営陸軍部の情報参謀になり、アメリカ課勤務の後、44年10月から第14方面軍(南方軍)の作戦参謀になる。
終戦後、郷里に帰るが、請われ自衛隊の情報本部を立ち上げ退官後、大学講師、郷里の村長を務めた。

台湾沖航空戦

< 3. 台湾沖航空戦の大勝利を伝える >

「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」(堀栄三著、文集文庫、1996年刊)より

情報は常に悪戯する(タイトル)
「戦史叢書・・には、『大本営海軍部と連合艦隊は、・・台湾沖航空戦の成果に疑問を生ずるや、・・調査して・・成果を客観的に正確に見ているのは堀参謀のみであるとした』

と記述している(堀が新田原(宮崎県)から打った電報は、・・これが握り潰されたと判明するのは戦後・・。大本営陸軍部の中のある一部に、今もって誰も覗いていない密室のような奥の院があったやに想像される)。」p188

説明
彼はこの本で「私」と書かず「堀」と書いている。
この文には二つの大きな意味がある。

一つは、後半の( )内に書かれている事実です。
彼は台湾沖航空戦(194410月)の戦果報告が誇大であると電信したのだが、握り潰した犯人は「瀬島龍三 参謀の昭和史」(保阪正康著)によると瀬島とされている
前回記したように、大本営陸軍部において、不都合な真実を伝える電信は握り潰されるのが常態化していた。
瀬島が真犯人かどうかは別にして、情報を無視する参謀と情報を生かす参謀がいたことになる。

もう一つは、堀が誰よりも米軍の戦力把握と戦法を熟知していることを指している。
彼は、太平洋での米軍による航空戦力と艦砲射撃を使った島伝いの飛び石作戦を検討し、その対策を「敵軍戦法早わかり」にまとめ、現地指揮官らに訓育しょうとした。
例えば、彼は解りやすく、島の防衛では消耗を早める銃剣突撃ではなく艦砲射撃に耐える厚み2m以上のコンクリート防御壁こそが重要と説いた。
これ以降、各師団に軍事作戦が説明される時、現地情勢及び相手の戦闘方法の情報についても伝達するように切り替わった。
それまでは大本営は攻略せよか死守せよぐらいしか伝えなかったのだろうか。
残念ながら、「敵軍戦法早わかり」が印刷完了したのは終戦の1年前44年の9月であった。


作戦に先行しなかった情報(タイトル)
「一握りの戦略作定者たちの過失にもかかわらず、一言半句の不平も述べず、戦略の失敗を戦術や戦闘では取り返せないことを承知しつつ、第一戦部隊としての最大限の努力をしながら彼らは散華していったのである。」p157

ペリリュー島の戦い

< 4. ペリリュー島の戦い >
上: 米軍の艦砲射撃と上陸部隊。
下左: 日本兵の捕虜。
下右: 中川連隊長。

説明
これは、堀から「敵軍戦法早わかり」の説明を熱心に聞いた中川連隊長が、強固な陣地を構築しペリリュー島で孤軍奮闘したことを受けて、堀が漏らした感想です。
1944年9月、圧倒的な米軍の兵火を前に守備隊11000名は、最後に55名が万歳突撃を行い、捕虜202名を残し他は戦死、中川連隊長は自害した。
上記の戦略作定者とは、立案・作成を行っていた大本営陸軍部参謀本部作戦課作戦班と考えられ、その中心人物の一人は瀬島であった。

日本軍とは桁違いの米軍諸教令(タイトル)
「この上陸作戦の米軍野外教令一つを読んだだけでも、日本の作戦当事者は、『治にいて乱を忘れ』て、大正十年以来惰眠を貪っていたと言えよう。米軍と日本軍とは実に二十余年の開きがあった。
『軍人には軍事研究という大へんな仕事があったのに、軍中枢部の連中は、権力の椅子を欲しがって政治介入という玩具に夢中になりだした』と・・寺本中将の言葉であった。」

説明
第6話で説明していますが、1920年代以降、日米共に互いを交戦可能国と見なした。
米国は太平洋上の戦闘教義(軍隊の基本的な運用思想)を逐次発展させていった。
一方、日本、特に陸軍は中国戦線、古くは日露戦役の戦闘教義から抜け出すことはなかった。
さらに太平洋戦争が始まっても、大本営は敵の戦略や戦力を正確に掴む努力を放棄し、自ら都合の悪い情報は隠蔽し、結果、自己満足に浸った。

その中にあって、堀は独自に工夫して情報分析と活用の道を切り開いた。
それだけでなく、上官(南方軍司令官)に正確な危険性とその対策を上申した。

次回、堀が指摘する日本軍の敗因から日本の問題点を見ます。