20200628

徳島の海岸と漁村を巡って 8: 鞆浦を訪ねて 1





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今回から、2回に分けて鞆浦漁港を紹介します。
小さな漁港ですが、地の利を生かした良い漁港だと思いました。


 
< 2. 宍喰から鞆浦へのルート >

上: 宍喰から鞆浦へのルート、上が北。
赤枠が既に紹介した宍喰の散策範囲です。
オレンジ線がドライブルートです。
黄枠が鞆浦です。

下: 鞆浦、上が南(上図と向きが逆)。
オレンジ線が宍喰からのドライブルート。
黄枠が鞆浦の今回紹介する散策ルート。
赤枠が次回紹介する手倉湾。
黒矢印は漁協、黄矢印は海部川の撮影地(次回)、赤矢印は宍喰浦(那佐湾)の撮影地。
赤四角は海部城跡。


 
< 3.那佐湾と宍喰浦 >

上: 左の宍喰浦に挟まれた那佐湾の向こうに宍喰が見える。

下: 宍喰浦。


 
< 4. 鞆浦漁協 1 >

ここに到着したの9時45分でした。
競りが行われており、様々な魚種が見られました。
訪問した時間が異なるからかもしれませんが、鞆浦の方が由岐、日和佐、宍喰の漁港よりも大きな魚が沢山獲れているようでした。

素人の見立てですが、この港は大きな海部川上流の栄養が海に注ぎ沿岸漁業に恵まれ、また大きな河口は上流の材木の切り出しと海上運搬に有利に働いたことでしょう。

 
< 5. 鞆浦漁協 2 >

魚を入れる大きなコンテナや陸揚げ用のコンベヤなどが目立ちました。

下: ブリでしょうか。


 
< 6. 漁協の2階の展示物 >

トイレを借りに2階に上がりました。
漁に関する幾つかの展示がありましたので紹介します。

上: 鞆浦大式、定置網の一種。
元々は富山湾で生まれた定置網で、後にこちらでも使われるようになったらしい。
徳島県内では最大の定置網のようで、全長1300mもある。

下: 定置網漁の写真のようです。

漁協の人に聞きました。
遠方に出る漁としては高知沖まで行っているが、徳島ではこの鞆浦だけが行っているとの答えでした。
大きな船を見ることが出来ませんでしたが、大きな屋根付きのドッグがありました。
漁協の魚を見て、多いですねと聞くと、ここでも「少ない」との返事が返って来た。


 
< 7. 漁協の周辺から散策を始める >

上: 漁協の階段から南西方向を見下ろす。
川が見え、その先に従来の漁村が広がる。

下: 漁協の西側を見る。
この山に海部城跡がある。
山の手前のこの一帯だけは新築の家が多い。
若い漁師に古い町並みの事を聞くと、最近引っ越してきたばかりなので知らなかった。


 
< 8. 川の橋から >

上: 網袋を持った一人の漁師が漁協へ急ぐ。
網袋の中は、さざえかウニのようでした。
重そうなのでさざえかな?
下の写真の船から一人の漁師が下船して、歩き出した所です。
この奥の山が、海部城跡のある山です。

下: 川の上流を見ている。
川の右も海部城跡のある山です。


* 海部城と鞆浦について :

実は海部城が出来た16世紀(室町時代末期)、この山は河口に浮かぶ島だったようです。
ここは海と川を監視し、守るには最適な場所だったでしょう。
後に埋め立てられが進み、今は大きな海部川とこの小さな川に挟まれるようになった。
これを築城したのは海部氏ですが、元々は宍喰を拠点にしていたが、こちらに転居したようです。
海部氏は三好(阿波国と畿内を領有)に属していたが、高知の長曾我部との最前線となり、後に攻められ落城した。

今は、鞆浦を含む海部町と宍喰町が合弁して海陽町となった。
古い時代、海部は海運力と上流の木材業で発展した。
15世紀の兵庫の港(兵庫関)への入港記録「兵庫北関入船納帳」によると、海部船籍は全国10位であった。
阿波(徳島)では海部54隻、宍喰20隻、平島(阿南?)19隻で、海部が圧倒的に優位であった。
また同じ記録によると、当時、海部(鞆浦)と宍喰の木材の扱い量は阿波の約半数であった。
如何に、この地域の海運力が秀でていたかがわかる。
また室町時代から「海部刀」がこの地で生産されていた。



 
< 9. 街歩きを始める >

橋を渡って真直ぐ通りを進むと巨石が右手に見えた。

上: 大岩慶長・宝永地震津波碑
大きな石の表面の二ヵ所に碑文が見える。
左が慶長地震津波碑、右が宝永地震津波碑。

慶長地震津波碑: 1605年、高さ約30mの津波が7回来て、男女百人あまりが海に沈んだ。

宝永地震津波碑: 1707年、高さ約30mの津波が三度来たが、死者は出なかった。

本当に、徳島南部の海岸は幾度も巨大津波の被害に遭っていた。

不思議に思うのは、東北大震災の福島原発事故で、巨大津波を国も電力会社も想定外として平然としていたことです。
おそらく地元の漁港には幾つも巨大津波の碑が建っていたことでしょう。
一部の歴史学者は指摘しても、他に問題視した人はいなかったのでしょうか?


 
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上: 港に面した広場の中央にあった建物。
民家ではなく、郵便局などの公共の建物のようでした。

下: 日蓮宗 吉祥山 法華寺
上記の建物から東方向に延びる道の奥には寺があった。


 
< 12. 古い民家が軒を並べる >

しかし、東由岐ほどには古い漁村の民家を見なかった。


次回に続きます。


20200623

中国の外縁を一周して 42: 麗江とお別れ



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今回で、麗江の紹介を終わります。
麗江の地下街、麗江の朝、新幹線駅までの街並みを紹介します。
ここには古い家並みと発展する街が混在しています。
撮影したのは2019年10月26日と27日です。

 
< 2. 束河古鎮から民主路の地下街へ >

上: 束河古鎮から麗江への途中。

下: 夜の民主路。
この道を左に折れると麗江古陳の玉河広場になります。


< 3. 地下街 >

地下街は思ったより長く、幾つか分岐して延びています。
夕食の為に来たのですが、ショッピングの店が多い。
店は多彩で、地上よりも地下の方が人出は多い。


 
< 4. ホテルの朝 >

これで2日目の朝を迎えました。
この日は、新幹線で最後の訪問地昆明に向かいます。


 
< 5. 朝8時頃の麗江古陳 >

清々しい朝で、人影は少なく、ふっと歴史舞台の一コマに紛れ込んだようです。



 
< 6. 玉河広場へ >

下: 玉河広場。
丘の上にホテルが見える。


 
< 7. 玉河広場に面した食堂街 >
ここには何回も来ては、食を手短に楽しんだ。


 
< 8. 黑龙潭の方を望む >

上: この川の上流(奥)が黑龙潭で、奥に雲を被った玉龍雪山が微かに見える。

下: いよいよタクシ-に乗り、新幹線の駅に向かう。
以下の写真は、すべてタクシー内から写したものです。
麗江の都市の姿が垣間見えます。


 
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中心部は観光で成り立っているのが分かる。


 
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いったん家並みが少なくなった。

 
< 11. 郊外に忽然と巨大な住宅街 >

ガイドの話によると、ここらには別荘群が続々と建っているそうです。
驚きです。
次回、新幹線からの眺めを紹介しますが、この地は中国の奥地で、昆明からでも新幹線で3時間半も隔てた所にあるのです。
ここらは新幹線の駅に近い。


 
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下: 小学校のようです。

直ぐ新幹線の駅です。

次回に続きます。




20200621

世界が崩壊しない前に 32: コロナに見る日本政府の危機管理 2



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今回、はからずも行政サービスの稚拙さから腐敗と癒着の体質が露呈した。
さらに経済政策の根本的な欠陥も浮かび上がった。



 
< 2.アジアでも遅れをとった日本 >


* 行政サービスと経済政策の問題 *

今回、致命的な体質が露呈した。
1. 国民向けの経済施策は政府の念頭に無い。
2. 国民向けサービス体制は手詰まり。


当初、政府は復興と銘打って牛肉券や旅行クーポンを高らかに謳った。

これは弱っている業界を助け、その出費の大半が余裕のある人々の懐から出ることになり、一挙両得だと好感する人もいただろう。

実は、これは経済理念と国民目線の無さを示している。

これでは本当に苦境に陥った店舗の救援が出来ず、また裕福な人の節約を助長するだけです。
例えば、政府が復興の為と称して、ダイヤモンドや世界一周クルーズの購入費を半額負担すると言っているに等しい。
結局、ふるさと納税と同じ人寄せパンダで、自民党に群がる業界団体を潤し、逆累進課税にもなる。

必要なのは他の先進国が実施ているようなコロナにより困窮している事業体や失業者への素早い直接給付です。
日本では、なんとか一律10万円給付が成った。

経済対策の遅れを見ていると、政府が国民の経済弱体化を甘く見ていることがわかる。
政府は、放置することにより国民と事業体が、失業・倒産・大学中退などで再起出来なくなることを意に介していない。

一方、日銀は金融不安払拭の為に株式の爆買いを加速させ、金融緩和に邁進している(米国でも)。
これは更なる金融危機の芽を大きくし、結果的により巨大なバブル崩壊が襲い、大規模な倒産と失業、そして格差拡大が圧し掛かるだけです。
ここ60年繰り返してきた。


なぜこんなことになったのか?

一にも二にも、政府の経済政策が、産業界をリードする大企業と金融界を優遇することだからです。
国民の事は二の次三の次に過ぎに成り下がった(この問題はいずれ説明します)。


もう一つの問題は、持続化給付金支給などに見られるサービス体制の欠陥です。

今回、パソナや電通がほとんどのサービス業務で幾度も中抜きをしていることが露見した。
両社は以前から政府と癒着し、巨大な利権と実権を握り、非正規問題とマスコミ支配と言う日本の二大悪を担って来た。
両社を経由した業務がお粗末になるのは必然です。
これは国民へのサービス体制の不備と言うより、根絶しなけらばならない自民党・官僚の腐敗・癒着の構造です。

しかし問題の根はさらに深い。

それは1980年代から自民党と官僚が共同で推進して来た、偽りの構造改革・緊縮政策の一つの結果です。
ポイントは、公務員を減らし民間委託に奔走したことです。

既に日本の雇用者に占める公務員比率はOECD諸国の最低になり、平均の1/3に過ぎない。
だが減って当然の巨額の特別会計は減らず、行政の改善も見られない。
つまり、無数の外郭団体と民間(政商のパソナや電通など)と言う隠れ蓑に予算は食い尽くされ続けている。

さらに悪い事に、このサービスは以前の体制より遥かに非効率になっている。
そこでは、一部の天下りが高給を貪るが、多くの従事者は非正規に代えられ、薄給と不安定な身分に落とされ、意欲とスキルは低下し続けている。
あらゆる省の外郭団体、第三セクターが劣化の危機に晒されている。
民間ともなれば、従業員はさらに規制の無い過当競争に晒され、全てが劣悪になる。

これが現在、日本を覆い尽くす政府による国民サービスの実態です。

この問題の本質は、見かけの改革だけで政府・官僚・政商の腐敗と癒着が強固になり、さらにその不透明さと隠蔽により、全貌が掴めなくなったことです。

特に日本は米国流の自由放任経済に加えて、自民党長期政権を放置したことが災いしている。
このような状況で、様々な地球規模の危機に対応出来るはずがない。


次回に続きます。




20200619

世界が崩壊しない前に 31: コロナに見る日本政府の危機管理 1





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今回のコロナ危機は、日本政府が見掛け倒しだったことを露見させた。
これで、今後迫りくる様々な危機に対応出来ないことが明白になった。
3回に分けて解説します。


 
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* 日本政府の三つの欠陥 *
今回は二つを見ます。

パンデミックなどの危険予知と予防策

以前から警鐘が鳴らされていたにも関わらず、感染症関係の予算削減、医療体制(保健所、感染症病棟)の縮小が進んでいた(他の先進国でも)。
現政権で加速すらしている。

これは中央政府だけでなく自治体においても同様で、緊縮と改革を売りにした首長に多い。
概ね、彼らは科学的知見が乏しく、声高に経済優先(?)を唱える(トランプ大統領など)。
日本は、原発事故の予防でも同じだったが、まったく教訓を得ていなかった。


コロナの感染対策

・クルーズ船寄港拒否のドタバタ
・武漢で発生後も中国観光客の勧誘キャンペーン
・海外からの日本人帰国者の水際対策の抜け
・オリンピック固執による対応の遅れ
・学校閉鎖や満員電車などの三密回避のアンバランス
・補償の無い自粛要請による不公平と洩れ
・捉えらきれないクラスター分析
・設備があるのにPCR検査が不足し、説明と運用のドタバタ
・医療従事者用備品や衛生用品の不備と支給遅れ

全国に指揮しなけらばならい政府の言動には一貫性もスピード感もなく、不信感を買った。
一部の手軽な感染防止を訴えはするが、その一方で感染を野放しにしてしまった。
それに比べ自治体の首長の言動は遥かに国民の信頼を得た。

この結果は明らかだ。
東アジア沿岸部の台湾、韓国、中国、シンガポールは欧米に比べ人口当たりの感染者・死者数が非常に少ないが、日本は群を抜いて一番多い。
これらの国は衛生意識、BCGワクチン接種、さらに有効なウイルス抗体が備わっている可能性があり、同じ土俵で戦いながら日本だけが成績が悪い(山中伸也教授の説)。
日本は発生源から最も遠いのに、最も近い台湾より遥かに劣っている。
両国のマスク配布の対応でも差は歴然としていた。

結果から見れば、大臣が大言壮語した高い民度と言うより、政治(内閣と官僚)がお粗末と言うことになる。


次回は、経済対策についてみます。


20200617

世界が崩壊しない前に 30: 深まるパンデミックと健康の危機





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現在、新型コロナウイルスでパンデミックの恐ろしさを実感させられている。
今回は伝染病と健康の危機を見ます。


人類は病に翻弄された来た。
原始社会では、病への恐れが様々な因習(穢れなど)を生み、信仰を強化した。
中世ヨーロッパでは、人口の3割が死亡したペスト蔓延が宗教改革の引き金になった。


 
< 2. インフルエンザの猛威 >


ここ数十年、医療技術が発展しているにも関わらず、伝染病は世界を益々脅かしている。
日本と米国では、ここ三十年ほどインフルエンザによる死者は増加傾向にある。
SARSMERS、インフルエンザ、エボラ出血熱などウイルスによる伝染病が記憶に新しい。


2006年、経済学者が1918年のスペイン風邪が現在流行すれば死者は世界で1億4200万人に達し、GDPは13%減じると予測した。
これは死亡率3%での計算で、当時日本の死者は45万人だった。
しかし死亡率50%越える伝染病もあるし、通年発生するものもある。

他にもある。
エイズ、マラリア、結核、下痢などで毎年1300万人が死んでいる。
40年前に発見されたエイズの感染者は6000万人を越え40%が死亡している。

今後、地球温暖化が進行し、主に低開発国で栄養失調、下痢、マラリアによる死者と寿命低下は益々増大する(死者の増加は毎年数百万人)。

世界は医療と生活の向上により病を克服しつつあるが、まだまだ大量の疾病者と死者を生んでいる。
爆発的なパンデミックは、さらに問題を引き起こすことになる。


* 何が問題か *

近年、パンデミックが増大している理由は、人の高速広範囲の移動、自然破壊、貧困が大きい。
多くの伝染病はアフリカやアジアの貧しく、衛生と医療水準が低い地域から始まり、移動によって瞬時に拡散するようになった。

今回のように伝染病が世界に蔓延すると、グローバル化した経済は甚大な被害を受ける。
先ず、感染地で一部の生産と業務が停止し、さらに輸送と移動が制限され、これが連鎖的に広がり、数週間の内に国内のあらゆる物の供給が絶たれ、遂には世界も困窮状態に陥ることになる。
これは海外生産に頼る様々な装置の部品や医療資材(不織布マスク)の入荷停止、また国内の運送業者の休止を想定すれば容易に理解出来る。
この物流停止と移動できない異常事態は感染率が数%から十数%でも起きる。

今回、比較的死者が少なかった日本でもまだ影響は続き、GDPの減少は10%前後になるだろう。
これはリーマンショック(2008年金融危機)のGDP-5%を越える。
さらにセイフティネットが弱くなっている日本では企業の倒産、失業者が大きな後遺症になる(自殺者増加なども)。

また感染による恐れや恨みから、差別や敵対行動が増加し、社会や国際関係が不安定になっている。


次回、日本政府のコロナ対応から見える危機対応の危うさを考えます。


20200615

徳島の海岸と漁村を巡って 7: 宍喰の漁港を訪ねる



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今回は、宍喰の漁港を朝に訪れました。
朝焼けの海と島影を堪能し、港町を見ました。


 
< 2. ホテルの窓から朝陽を見る >

下: 山の手前に宍喰川の河口があり、そこが漁港になっている。
左手の島影が前回と今回も介する所です。


 
< 3. 漁港  >

上: 橋の上からホテルの方を見ている。

下: 橋の上から海側を望む。


 
< 4. 競りを行っている漁協 >

上: 橋の上から上流側を望む。
河口がそのまま漁港になっている。

下: 漁協を拡大。
町の中に津波に避難タワーが見える。
朝8時を過ぎた頃ですが、競りを行っているので見に行きます。


 
< 5. 競り中 >

車を駐車場に停め、漁協に入っていった。
緊張しながら、「見せてもらっても良いですか?」と聞くと、一人の男性が笑顔を向けて「どうぞ」と言ってくれた。
幾人かに話しかけたが、忙しいにも拘わらず言葉短に答えてくれた。

私には豊漁に思えたのですが、ここでも少ないとの答えが返って来た。
確かに小魚が多いようです。


 
< 6. 獲れたもの >

上: ウツボ。
以前、高知でウツボ料理を食べたことがありますが、生きているのを直に見るのは始めてでした。

下: 「ままかり」のような小魚を処理していた。


 

< 7. 宍喰浦の化石漣痕 >

また海岸の方に向かいます。

化石漣痕は道路脇にあるので簡単に見れます。
断崖表面の無数の波型が特徴です。
3000万年~4000万年前、川瀬に立つさざ波が打ち寄せて土をはこび、この波形の地層が出来た。
右手から断面を見ると幾層もの層状になっている。


 
< 8. ペンションがあるビーチ >

化石漣痕を過ぎて直ぐにあります。


 
< 9. 早朝の湾 >

ペンションの湾から道に戻り、200mも行くと視界が開けます。
少し昇った朝陽を受けて海も島も生気を帯び始めた。


 
< 10. 宍喰の町 >

上: 阿佐東線の宍喰駅。
宍喰町の山側にある。
この線は南端が一駅先の高知県の甲浦駅で、後に紹介する鞆の浦のある海部駅が北端です。
この海部駅からはJR牟岐線で徳島まで行ける。

下: 宍喰川。

この町の中心部は海岸側の道路から山側に500mの奥行、道路に沿って1kmほどの大きさです。
ここは徳島県の最南端で、すぐ南は高知県になります。
ほとんどが山と森林に覆われている。

町の中を車でゆっくり通り抜けたが、漁師町の風情や街並み、建物はほとんどなかった。
古い家も見なかった。
漁師と言えども普通の家に暮らしているようです。


 
< 11. ホテル リビエラ宍喰 >

上: ホテルの横にある道の駅。

下: ここに泊まりました。
温泉で眺めの良い大浴場に満足し、夕食の「伊勢海老たっぷり会席」は美味しく食べきれないほどありました。


 
< 12. 宍喰を離れ、鞆浦に向かいます >

上: 北向きに走る。

下: 海岸沿いに2.5kmほど行って、振り返った。
水床湾の島影が見える。


次回に続きます。




20200613

中国の外縁を一周して 41: 束河古鎮と茶马古道博物馆




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今回は、麗江の別の古陳と博物館を紹介します。


 
< 2.束河古鎮の地図、上が北 >

上: 麗江全体図
赤矢印: 束河古鎮。
ここは麗江古陳から4km離れた所にあり、大きさは約1km四方です。
ここはナシ族発祥の地で、麗江古陳ほど観光化されていない。
束河古鎮の北4kmの所に、木氏の本拠地であった白砂がある。

茶色矢印: 既に紹介した黑龙潭公园。
赤矢印: 既に紹介した麗江古陳。

下: 束河古鎮の主要観光地
この範囲は束河古鎮の北西部で山裾にあり、泉が湧き出している。

A: 茶马古道博物馆
B: 四方街
C: 青龙桥
D: 九鼎龙潭


 
< 3. 駐車場から古陳へ >

麗江古陳の通りに比べ建物が古びている感じがした。
古さを残しているとも言える。


 
< 4. 茶馬古道博物館に入る >

正直に言うと、小躍りするような展示はなかった。
それでも写真パネルや幾つかの説明資料(中国語)は役に立った。

下: 茶葉を運ぶ姿が印象深い。
この姿で、普洱(プーアル)から大理、麗江、香格里拉を経由して拉薩(ラサ)までの3000kmの山道を行き来した。
小型の馬も使用したのだろうが。
このようにして茶葉を運ぶために、茶葉を円盤状に固く圧縮したのだろうか?
やっと理解出来た。

 
< 5. 茶馬街道の様子 >

上: 険しい山岳路が目に浮かぶ。

下: 左下に麗江古陳の賑わいが見える。
上には、拉薩のポタラ宮と大昭寺が見える。


 
< 6. 茶馬街道と人々 >

下: 博物館にあった街道の地図。
北部と南部に二種類の黄色線が見える。
北部の路は、良く知られた西安から蘭州を通り、中央アジアに抜けるシルクロード。
南部の路は、成都から昆明を通り、ミャンマー、インドに抜ける南方シルクロード。

黒線も主に二種類ある。
一つは成都からチベットを抜けインドに至る茶馬古道(北路)。
もう一つは、景洪から普洱、麗江を通り、後は北路と同じ路を通る茶馬古道(南路)。


* 茶馬古道 *

この道は人馬を主要な交通手段にした民間の国際商業貿易ルートで、漢族とチベット族が交流した古道でした。
主に茶と馬の交易を行うための路で、通商は唐宋時代(6181279年)に盛んとなり、明清時代(13681911年)に入って最盛期を迎え、第二次世界大戦の中後期に頂点に達した。

チベットに茶や砂糖、塩などの生活必需品を運び、チベットからは馬や牛、羊、毛皮を持ち帰ったことから、「茶馬古道」と呼ばれた。
麗江からチベットへのルートは5000m級の山々を超える厳しい道で、馬と共に人力による運搬が主流だった。

なぜ馬と茶が、こんな危険を冒し苦労してまで交換する必要があったのか?
チベット人は元々遊牧民で野菜、ビタミンBが不足していたので、これを補うのに茶は最適でした。
また馬は中国の軍隊にとって必要でした。
しかし18世紀になると中国での馬の需要は減り、羊毛や毛皮、薬用素材が主になった。

納西族の古都麗江はシーサンパンナ(雲南省最南端の西双版納)を起点する南からのルートと、四川(成都)からの東ルートの合流点で、木族王朝繁栄の源になった。
清時代以降の拉薩在住の中国商人はナシ族がほとんどで、ペイ族(白)と漢族も少数いた。


 
< 7. 四方街 >

この四方街に面した茶店で、プーアル茶を買いました。
こちらの四方街は麗江古陳に比べ、人は少ない。



 
< 8. 青龙桥 >

四方街のすぐ近くにあるこの橋を渡る。


 
< 9.九鼎龙潭へ向かう >


 
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< 11. 九鼎龙潭 >

実に水が透き通っている。
まさに麗江や束河、黑龙潭は湧水、清流によって生かされており、玉龍雪山からの水脈の賜物と言える。

次回に続きます。