20161229

東京裁判とパール判事 1: 例え話

 
*1

連載を始めるにあたり、このテーマの全体像を例え話にしてみました。


題名 「大泥棒とコソ泥と神様」


 
*2


或る所に大泥棒とコソ泥が競って人々に乱暴を働いていました。
とうとう、大泥棒はコソ泥を捕まえ、珍しく裁判にかけることにしました。

大泥棒  
「お前達コソ泥は多くの人を殺し、物を奪い、人々を不幸のどん底に陥れた。
これは死罪に値する。」

コソ泥 
「私達は大泥棒から身を守る為にコソ泥になった。
私達の残忍な殺し方が罪になるのなら、大泥棒の落とした爆弾の罪はもっと大きいはずです。
あなたがた大泥棒が数百年間行って来た事と比べれば、私達コソ泥のしたことなど屁でもない。」

大泥棒
「しかし、今回の大惨事はお前らコソ泥が始めたことで起きたことは明白である。
この裁判では、お前らに今回の大惨事の責任を問うものであり、過去のことは問題外である。」

コソ泥
「そりゃ片手落ちと言うものですよ。
ましてや泥棒同士の殺しや盗みを罰する法律はありやしません。
法律も無いのに、罰するなど泥棒の風上にも置きやしません。」

大泥棒
「却下する。証言を聞きなさい。」

被害者
「私達はこのコソ泥達に口では言えないほどの残虐な仕打ちを受けました。」

コソ泥の仲間A
「私は彼らにやり過ぎだと言ったのですが、逆に殺すぞと脅されました。」

大泥棒
「コソ泥の罪は明白であり、頭目は即刻、死刑とする。」







 
*3

ここで、一人の神様が現れ、大泥棒を諭しました。
「この裁判は間違っている。
コソ泥は大泥棒を真似たに過ぎない。
また、あなたがた泥棒は全員で泥棒間の争いを裁く法を作っていないではないか。」

一方、コソ泥にも諭しました。
「あなたがたはほんとうに酷いことをした。
法が無い以上、頭目の死刑は問題だが、あなた方は大いに反省しなければならない。
当然、残虐なことをした人は裁きを逃れない。」


コソ泥の仲間B
「さすが神様だ! 我々、コソ泥の汚名はそそがれた。
私達の仲間は悪くはなかったのだから、被害者に謝罪する必要はない。」

神様はコソ泥の家族たちにこう言い残しました。
「私がなぜ無罪と言ったのか、その真意を汲み取って欲しい。
このまま大泥棒の身勝手を許すと、益々増長し、人々はより大きな悲惨な目にあうだろう。
あなた方こそが、この試練を教訓とし泥棒稼業から足を洗うのです。
決して大泥棒と組せず、率先して世界から泥棒を無くすようにしなさい。
その為に、私は「日本は無罪」と言ったのです。」

今、この神様は雲間から悲しそうな目で下界を見ていることでしょう。

終わり。

この連載をいずれ始めます。



注釈
大泥棒は連合国、コソ泥は日本です。
大泥棒の数百年の行為とは帝国主義や植民地政策のことです。
大泥棒の爆弾とは原子爆弾のことです。
今回の大惨事とは第二次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争です。

泥棒同士の争いとは国家間の戦争で、これを裁く国際法はまだない。
神様とはパール判事です。


大泥棒の身勝手とは、自衛と称して軍事介入し、冷戦下で代理戦争をやらせ、ベトナム戦争を行い、中東に介入し戦火を拡大させていることなどです。

20161228

Bring peace to the Middle East! 56: when religions were born 4: Buddhism

中東に平和を! 56: 宗教が誕生する時 4: 仏教 




< 1. A Buddha statue >
< 1.仏像 >

This time, I investigate the birth of Buddhism.

今回は仏教の誕生を追います。

The times when Buddha was born
The Indian ancient civilization was born in the Indus basin, but already ruined.
Afterwards, Aryan invaded from the Central Asia, settled down in the upper and middle basin of the Ganges River as they were ruling over the indigenous people.
Then they developed abundant festival, myth, and paean in the last 1000 years and created Brahmanism.
The Brahmanism took root from royal families to every villages
Royal families repeated luxurious festivals, Brahman (priest) made the doctrine and the proceeding of the religious service an absolute secrecy (oral transmission of tales), and their authority exceeded lords occasionally.

A lot of critical freethinkers appeared since about the seventh century B.C., and Buddha played an active part in about the fifth century B.C.
The farming evolved in this area by ironware these days, and trade also developed.
And tribal societies evolved into city states, and a large number of the nations competed for hegemony and repeated war.
A kingdom of Buddha's father became a prey of a great power, and died out.


釈迦が生まれた時代
インドの古代文明はインダス河流域に生まれたが既に廃れていた。
その後、アーリア人が中央アジアから侵入し先住民を支配しながらガンジス河の上中流域へと定住した。
彼らはそれから千年の間に豊富な祭儀と神話、賛歌を発展させ、バラモン教を生み出した。
バラモン教は村々から王家まで根を下ろしていた。
王家は贅沢な祭儀を繰り返し、バラモン(僧)は教義や祭祀手順を極秘(口頭伝承)にし、彼らの権威は王侯を凌ぐこともあった。

紀元前7世紀頃から、批判的な自由思想家が多数出現し、釈迦は紀元前5世紀頃に活躍した。
この頃、この地域は鉄器により農耕が進み、また交易も発展していた。
そして部族社会から都市国家へと進み、多数の国家が覇権を競って戦争を繰り返していた。
釈迦の父の王国も強国の餌食になり滅んだ。




<  2.  Festival  >
< 2. 祭儀 >


The act of Buddha
Buddha was a prince of the small country of the north India, but he threw all things away, and took off on a journey of contemplation.
After getting the enlightenment, he organized a group of live-in followers (samgha), went around villages together and missionized.
In the end, he died surrounded by the followers at 80 years old.

Buddha tried to preach it easily without using difficult concepts that had spread in those days, and was unrelated to the miracle. Annotation 1
He refused the festival-centered Brahmanism, and preached to people about "Realize a truth".
For example, it is to realize "Life is pain" and "obsession and greed bring suffering".
He said that the people could acquire it by experiencing simple life and doing righteous deed, without doing ascetic practices.
Therefore he established religious precepts necessary for the life of live-in followers.

釈迦の行い
釈迦は北インドの小国の皇子であったが、すべてを捨て思索の旅に出た。
彼は悟りを得た後は出家集団(サンガ)を作り村々を巡って伝道し、弟子たちに囲まれて80歳で死去した。

釈迦は、当時流布していた難解な観念を用いず平易に説くことを心掛け、奇跡とも無縁でした。注釈1
彼は祭儀中心のバラモン教を拒否し、人々に「真理を悟る」ことを説いた。
例えば、それは「人生は苦である」「執着や我欲が苦しみをもたらす」を知ることです。
これを苦行ではなく、人々は質素な生活と正しい行いを通して体得出来るとした。
その為に、出家集団の生活に必要な戒律を定めた。

Afterwards
After Buddha died, the teaching was handed down by the disciples, and the sacred books were codified the several hundred years later.
Many kingdoms protected the Buddhism, and in addition, performed the enlightenment.
Thanks to it, the religious community developed, but it became specialized, split up and came to stay away from the people.


On the other hand, many graves (stupa) which enshrined ashes of Buddha were constructed in many places, and a lot of believers began to visit.
Buddha statues were born there since about the first century A.D., and the believers began to make the sacred books of Mahayana Buddhism in plenty.
Thing they wished was to get the saving grace by worshiping the Buddha as a god and praying even if they remained in lay believers.

After that, the Buddhism was at the height of the prosperity, spread to the Southeast Asia, and spread from the Central Asia to the East Asia.
On the other hand, the Brahmanism began to change to Hinduism being close to the people.


その後
釈迦入滅後、教えは弟子たちにより語り継がれ、数百年後に経典が成文化された。
多くの王国は仏教を保護し教化も行った。
おかげで教団は発展していったが、専門化し分裂し民衆から離れていった。

一方、釈迦の遺骨を祀る墳墓(ストゥーパ)が各地にたくさん作られ、信者らが多数訪れるようになっていた。
紀元1世紀頃、そこから仏像が誕生すると共に大乗仏教の経典が信者によって多数作られ始めた。
それらが目指したものは、釈迦を仏(神)と崇め、祈ることで在家のままでも救いが得られると言うものでした。

この後、仏教はインドで全盛期を迎え、東南アジアや中央アジアから東アジアへと広まっていった。
一方、バラモン教は民衆に密着したヒンドゥー教へと変容していった。




<  3.  A big grave (stupa)  >
< 3. 墳墓(ストゥーパ) >

Point of the Buddhism
Buddha was negative about autocratic kingdoms, and also about economic activities being likely to become greed.
In addition, he was unrelated to Savior and God.
Therefore, at first, the Buddhism was far from the politics, but kingdoms protected the Buddhism for helping of social stability, and the religious community received favors, too.
It would not conflict with the national law, because the law established by Buddha was a religious precept of the group of live-in followers, only encouraged simple life and did not establish penal regulations.

Probably, the Buddhism was received by many nations by the condition and the popularity of it, and would have developed into a world religion.

This continues the next time.


仏教のポイント
釈迦は横暴な王国や私欲に走る経済活動に否定的であった。
また救世主や天上の神とも無縁であった。
したがって政治から離れていた仏教だが、王国は社会の安定に繋がるとして仏教を擁護し、教団も恩恵を受けた。
釈迦が定めた法は出家集団の戒律であり、質素な生活を奨励し、罰則を定めなかったので、国家の法とは抵触することがなかっただろう。

おそらくこの事と大乗仏教の人気が、多くの国家に受容され世界宗教へと発展することになったのだろう。


次回に続きます。


注釈1.
当時のインド哲学(ヴェーダ)は、宇宙原理(ブラフマンとアートマン)で世界の根本を説明出来るとし、これから梵我一如(ブラフマンとアートマンは同一)の思想が生まれていた。

また、輪廻転生(人は前世の因果を受けて生まれてくる)の観念が定着していた。
この観念はインドの自然風土に背景を持つが、バラモンによって階級差別を合理化するために一層強化された。
これは人々に恐怖であって、この無限のサイクルから脱する為に解脱を望んだ。


20161226

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 20: タリン 3





*1


今日は、タリンの旧市街「下町」を紹介します。
ここで昼食をとって、この街とお別れになります。



 
< 2. 展望台の眺めと地図 >

上の写真: 同じ「山の手」にある前回とは異なる展望台からの眺めです。
狭い展望台ですが、より東側の旧市街を望むことが出来ます。
地図の番号Sがこの展望台です。

下の地図: 今回、紹介する観光ルートです。
上が北です。
Sから始めて、Eまで行って終わりました。
Bがメインになるラエコヤ広場です。


 
< 3.下町に向かう >

上の写真: 展望台から東側を見ている。
下の写真: この坂を下ると「下町」に行きます。


 
< 4. 下町に通じる坂と聖ニコラス教会 >

2枚と下左の写真: 「短い足の通り」と門塔。
かつて「山の手」と「下町」を行き来するのは二か所の通りしかなかった。
その内の一つで狭くて急な坂道の「短い足の通り」です。
夜は、この門塔で扉が閉められた。
写真は「山の手」から「下町」に下る順番に並んでいます。

下右の写真: 聖ニコラス教会。
13世紀前半にドイツ商人の居住区の中心に建てられた教会です。
ここには15世紀後半に描かれた「死のダンス」があります。
中には入っていません。


 
< 5.ラエコヤ広場に到着 >

上の写真: 通りから広場が見え始め、その向こうに聖霊教会の尖塔が見える。
下の写真: 奥右手の建物の地下のレストランで昼食をとりました。



 
< 6. ラエコヤ広場 1 

上の写真: 今来た方向(西側)を振り返っています。
左の尖塔は聖ニコラス教会のものです。

下の写真: 同じ位置から、南側にある旧市庁舎を望む。
この建物は14世紀後半に建てられ、15世紀に現在の形になった。
タリンは1248年に自治都市になり、またハンザ同盟に加わり発展した。


 
< 7.広場から通りへ >

上の写真: 旧市庁舎の横から広場の北側を望む。
下の写真: 旧市庁舎の東南側にある通り。
中世には市が立った。


 
< 8.ドミニコ修道院 >

上左の写真: 旧市庁舎を真横から見た。

上右の写真: ドミニコ修道院(右側)の横の通り。

下の写真: ドミニコ修道院。
1229年にドミニコ修道会はトームペア(山の手)に修道院を建てたが、帯剣騎士団に敗れ、この場所に立て直した。
宗教改革の折に破壊され、現在は改修され博物館になっている。


 
< 9. 城壁 >

上の写真: 旧市街東側の城壁。
この上の回廊は有料で歩くことが出来ます。


下の写真: ヴィル門。
かつては陸路で街に入る場合の正面玄関でした。
14世紀から建てられた城壁の一部です。
向こうに新市街地が見えます。

ここを出て、次の都市リガに向かいました。


 
< 10. 素晴らしい!! >



 

< 11.様々な光景 >

上左の写真: ラエコヤ広場で見かけた風変わりな看板。
後でわかったのですが、ここはヨーロッパでも最古の薬局の一つでした。
ここは「市議会薬局」で、壁には1442年と表記されており、現在も営業しています。
看板の蛇と器は、日本で言えば漢方薬のマムシとお椀でしょうか。
ここは旧市庁舎の反対側にあります。

上右の写真: 旧市庁舎のドラゴンの雨樋。

下2枚の写真: 広場で見かけた人々。

あとがき
ここではショッピングが出来る自由時間があり、妻は楽しめたようです。
これでも残念ながら旧市街の一部しか見ていない。
多くの観光客が中世の街並みを楽しいでいました。

ロシアでもそうでしたが、ここでも中国の団体客が眼につきました。
特にホテルや展望台での傍若無人さには閉口しました。
なかなか周囲への配慮が行き届くまでには年月がかかるのかもしれません。
私も気をつけなけらばならないと自戒しました。

半日、首都の旧市街を巡っただけで、一国の歴史と社会を知るのはほとんど不可能ですが、やはり直に歩いて目に焼き付けることで、理解が深まって来ます。
旅は、私を最高に興奮させ、世界を身近にさせてくれます。


次回に続きます。


20161225

Bring peace to the Middle East! 55: when religions were born 3: Christianity

中東に平和を! 55: 宗教が誕生する時 3: キリスト教






< 1. Jesus carrying a cross on his back >
< 1.十字架を背負うイエス >

This time, I investigate the birth of Christianity.

今回はキリスト教の誕生を追います。

The times when Jesus was born
Foreign rulers, Alexander the Great and the Roman Empire respected Judaism, and it was able to remain.
In fact, it was in name only.
The priests in the temple were connected to royalty and titled nobility, cooperated with the Rome Empire, and pushed forward Hellenization.
On the other hand, a religious community aimed to back to the source and advocated an emphasis on the Low, and they strongly opposed the former.

In addition to this opposition, a dissatisfaction toward a rule of the Rome and an expanding disparity in wealth blew up, and Palestine in the first century entered the period of war.
Radical religious communities and independent factions rose in arms, and robber bands came to frequently appear in each place.
In addition, a lot of persons who represented themselves as a savior in each place appeared.


イエスが生まれた時代
異国の支配者、アレクサンダー大王もローマ帝国もユダヤ教に敬意を表し、ユダヤ教は存続出来た。
だが、その内実は形骸化していた。
神殿の祭司達は王侯貴族と繋がり、ローマに協力しギリシャ化を進めた。
それに対して原点回帰を目指し、律法重視を訴える教団などが勃興し強く対立した。

この対立に加えて、ローマの支配、貧富の差拡大への不満が爆発し、紀元1世紀のパレスチナは争乱へと突き進んだ。
過激な教団や独立派が武装蜂起し、各地で盗賊団も跋扈するようになった。
また各地で救世主を自称する者が多数出現した。




< 2.  People in the fort of Masada died a heroic death  >
< 2. 壮絶な最期を遂げたマサダの砦 >

In 66 A.D., the Jewish radicals caused a riot, and the revolt spread through the whole land.
The Roman forces devoted so many troops to it and exterminated the rebel army and destroyed the Jerusalem thoroughly.
At last, the Jewish people was ousted from the Palestine, and completely lost their own country.
The Judaism could escape from the ban of their religion, but came to be not able to operate in the Jerusalem.

紀元66年、ユダヤの過激派が暴動を起こし、反乱は全土に広がった。
ローマ軍は大軍を投じて反乱軍を殲滅しエルサレムを徹底的に破壊した。
ついにユダヤ民族はパレスチナから追放され、完全に国を失った。
ユダヤ教は禁教を逃れたが、エルサレムで活動が出来なくなった。


The act of Jesus
Jesus strictly criticized the priests and corruption of the temple and objected to the emphasis on the Low of the reformist.
He went around to teach and preach for two years and got ardent believers and the Apostles.
I think he did not deny the Judaism but appealed the reform.

However, the priests and authorities regarded the Jesus as dangerous, and executed him.

イエスの行い
イエスはユダヤ教の祭司や神殿の腐敗を厳しく非難し、また改革派の律法重視にも反対した。
彼は2年間ほど民衆に宣教して回り、熱烈な信者や使徒を得た。
彼はユダヤ教を否定したのではなく、改革を訴えたのだと思う。
しかし、ユダヤ教の祭司と権力者層はイエスを危険視し処刑した。




<  3.  apostle Paul >
< 3. 使徒パウロ >


Afterwards
After the death of Jesus, the teaching expanded to the west by the activity of the Apostles.
Apostle Paul claimed that a revival of the Jesus would soon happen while he had promoted the propagation to pagans.
He said that the subordination to an emperor did not contradict your faith in the one God.
His activity and guidance became a cornerstone which developed Christianity into a world religion.

After intense oppression, in A.D. 313, the Roman Empire assumed the Christianity the state religion.


その後
イエスの死後、使徒などの活躍によって教えは西方に広まった。
使徒パウロは、異教徒への布教を推し進める中で、イエスの復活が近いうちに起こると訴えた。
彼はまた唯一神への信仰と皇帝への従属は矛盾しないとした。
彼の活躍と先導がキリスト教を世界宗教へと発展させる礎となった。

激しい弾圧の後、ローマ帝国は紀元313年にキリスト教を国教とした。


Birth of the Bible
After the half of a century when Jesus died, the New Testament was made by the letters of Apostles that were edited to convey the words and acts and the teaching of the Jesus.
The Old Testament took a role of a prophecy that Jesus is a savior.


聖書の誕生
新約聖書は、イエスの死後半世紀を経て、イエスの言行と教えを伝える為に使途達の手紙などが編纂され誕生した。
旧約聖書はイエスが救世主だとする預言書の役割を担うことになった。


Point of the Christianity 
The most epoch-making doctrine seems to be "Repent" and "Love neighbors".
This means that the important point moved to "mind" of each person from "law" imposed on the person.
This viewpoint was common among religions and thoughts that was born in the world around 500 B.C., such as Confucianism, Buddhism, and Greek philosophy.
The Christianity had been affected by the Greek thought from the early days to the Middle Ages.
During the process of Christianity's developing in Rome, Christianity compromised with the emperor (politics), but the Pope had almost separated from the emperor.
The Christianity had law, but the Rome already had developed the state law, and the both laws were applied at the same time, too.

This continues the next time.


キリスト教のポイント
この教義で画期的なのは「悔い改め」や「隣人を愛せよ」でしょう。
これは、課せられた「律法」から、各自の「心」に重点が移ったことを意味します。
この視点は、儒教、仏教、ギリシャ哲学などのように紀元前500年頃に世界で誕生した宗教や思想に共通するものでした。
キリスト教は初期から中世までギリシャ思想の影響を受けた。

キリスト教はローマで発展する過程で皇帝(政治)と妥協していくことになったが、概ね教皇と皇帝とは分立した。
キリスト教も法を有したが、既にローマは独自に法を発展させており、これも並立することになる。

次回に続く。

20161224

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 19: タリン 2





*1

今日は、首都タリンの港と旧市街の一部を紹介します。


 

< 2. 地図、すべて上が北です。 >

上の地図: 首都タリン。
番号1のホテルと番号2の「歌の原」は前回紹介しました。
番号3の港と番号4の青枠の旧市街を今回紹介します。
青枠は支配者達が居を構えた丘の上にある「山の手」です。

番号5の赤枠の旧市街は次回紹介します。
赤枠は商人や職人が築いた平地の「下町」です
旧市街の大きさは両方で一辺800mぐらいです。

下の地図: 旧市街の「山の手」の拡大です。
赤線が今回紹介する徒歩のルートで、Sから歩き始めて、eの展望台まで行きました。

ライブカメラ: 世界遺産「タリンの旧市街」のラエコヤ広場。
現在、ちょうどクリスマスマーケットが行われています。
次回、「下町」で紹介します。
TALLINN TOWN HALL SQUARE – VIEW FROM RESTAURANT DOM



 

< 3. 港 >

上の写真: フェリー乗り場のターミナルです。
中央の写真: 中央奥に旧市街の教会の尖塔が見えます。
下の写真: ターミナルから埠頭を望む。

この港から対岸のヘルシンキ、フィンランド湾の奥にあるサンクトペテルブルグ、またバルト海を抜けてヨーロッパに渡ることが出来ます。

この地は、ロシアとスカンディナヴィア半島を結ぶ軍事戦略地点として、またノヴゴロド(ロシアの前身)と西欧を結ぶ中継貿易で繁栄を築いた。
この港は13世紀にハンザ同盟(最北端)に加わり、14世紀、デンマークからドイツ騎士団がこの地を買い取り、エストニアとラトビア(バルト三国の北側2ヵ国)にドイツ人の影響が残ることになった。


 

< 4. 市街 1 >

番号4と5の写真は、港から「山の手」のトームペア城までの3kmほどの車窓からの眺めです。


 

< 5. 市街 2 >

緑溢れる落ち着いた街並みです。


 

< 6.トームペア城 1 >

この塔は「のっぽのヘルマン」と呼ばれ、15世紀の姿を留めている。

エストニア人の砦があったこの丘「トームペア」に、13世紀初頭、ドイツの騎士団とデンマークによる北方十字軍が城を造った。
その後、支配者が幾たびも替わり、18世紀初頭からロシアがこの地を支配し、この城は宮殿へと改造されていった。


 

< 7.トームペア城 2 >

下の写真: 右手は宮殿側で、国の議会が入っているので見学が出来ない。



 

< 8.アレクサンドル・ネフスキー聖堂 >

上の写真: トームペア城側から見たアレクサンドル・ネフスキー聖堂。
1901年、当時支配していた帝政ロシアによって建てられたロシア正教会。
ここだけ違和感のある建築でした。
この中に日露戦争で沈没したバルチック艦隊の記念プレ-トがかけられている。
このバルチック艦隊は、エストニアとラトビアの港から出航した。
中を見学したが、写真を撮ることが出来ませんでした。

下の写真: アレクサンドル・ネフスキー聖堂の側面。
この道を奥に進み、坂を下ると「下町」に行くことが出来る。



< 9.山の手の街並み >

上の写真: 右手にアレクサンドル・ネフスキー聖堂、左手にトームペア城。
中央の写真: 上の写真の中央にある通りに入っていく。
下の写真: 大聖堂(トームキリク)周辺の建物。
この辺り教会関係者の住居だったのだろう。



< 10. 大聖堂(トームキリク)周辺 >

上2枚の写真: この大聖堂はタリンの中心的なプロテスタント教会。
13世紀にデンマーク人がここにカトリック教会を建設し、その後、火事で焼失したが18世紀に再建された。

見学しましたが撮影は出来ませんでした。
中は古く簡素でしたが、16世紀からの品々が集められており、まるで中世の田舎の教会に迷い込んだようでした。

下2枚の写真: 風情のある通り。


 

< 11. 展望台からの眺め  >

地図のe地点にある展望台から旧市街の北東方向を望む。
奥はタリン湾です。

次回に続きます。



20161223

Bring peace to the Middle East! 54: when religions were born 2: Judaism


中東に平和を!54: 宗教が誕生する時 2: ユダヤ教



<  1.  A miracle of Moses >
< 1. モーセの海割り >

This time, I investigate the birth of Judaism and after that time.
This is the oldest one among those five religions.

今回はユダヤ教誕生とその後を追います。
これは5つの宗教の中では最も古いものです。


Preface
The origin of the Jewish people lies in that various tribes had drifted to the ground of Palestine from each place of the Middle East and they gained their permanent residency after fights.
It was about the thirteenth century B.C.
This area was one of the oldest birthplaces of agriculture, had received the benefit of both civilization of Egypt and Mesopotamia, and a sophisticated culture grew up here.
However, the Jewish kingdom was on an only pathway between the both large kingdoms, therefore a alliance with one kingdom meant an attack from the other one, and the Jewish kingdom was subject to destruction and aggression many times.
In this occasion, many prophets appeared and sounded a note of warning to the Jewish people.
They severely criticized politics of King and an irreligion of people, and prognosticated the kingdom would perish before long


はじまり
ユダヤ民族の起源は、様々な部族が中東各地からパレスチナの地に流れ着き、戦いの末に定住を勝ち取ったことに始まる。
それは紀元前13世紀頃のことでした。
この地は、最古の農耕発祥地の一つであり、エジプトとメソポタミアの両文明の恩恵を受けて高い文化が育っていた。
しかし、ユダヤの国は両大国に挟まれた通り道にあたり、一方との同盟は他方からの攻撃を意味し、幾度も破壊と侵略を被った。
こんな折、幾多の預言者達が出現し、ユダヤ民族に警鐘を鳴らした。
彼らは王の政策と民の無信仰を痛烈に批判し、やがて国は滅亡するであろうと予言した。




<  2.  the Babylonian Captivity >
< 2. バビロンの捕囚 >


Turning point
A decisive misfortune befell them before long.
Powerful Assyria invaded and destroyed Jerusalem, and took the upper crust away to Baghdad.
However, in the sixth century B.C., an emperor of Persia of the new ruler absolved them, returned them to the Jerusalem, and permitted the rebuilding of a former Solomon shrine.
Their country Jerusalem became a small and waste vassal state that can't compare with the large empire of ex-Solomon.

The people thought that the national ruin was because of the anger of God, and should obey God.
The persons that took the central role in the rebuilding were compiling sacred texts that involved religious precepts and teachings since before 1,000 years B.C. as the oldest thing, and almost finished editing of the Old Testament in the third century B.C.
As a result of this, they may have wished to get the saving grace of God and the strong solidarity.

At the time of the rebuilding, there were the Jews who came back to Jerusalem, but on the other hand, there were the Jews that organized communities in each place of the Middle East, played an active part with using the accumulation of the high culture.


転機
やがて決定的な災厄が降りかかった。
強大なアッシリアが侵略し、エルサレムを破壊の後、ユダヤの上流階層をバクダットへと捕囚した。
しかし紀元前6世紀、新たな支配者のペルシア王が彼らを解放のうえ、エルサレムに戻し、かつてのソロモン神殿の再建を許した。
彼らの国土はかつてのソロモンの大帝国とは比べものにならないほど小さな荒れ果てた属州エルサレムだけになった。

人々は、亡国は神の怒りのせいであり、神に服従すべきと考えた。
再建を担った人々は、最古のものでは紀元前1千年前の戒律や教えを加え、紀元前3世紀には旧約聖書の編纂をほぼ終えた。
これによって彼らは神の御加護と強固な団結を得られることを望んだのだろう。

再建時、エルサレムに戻ったユダヤ人もいたが、中東各地に共同体を造り、高い文化の蓄積を生かして活躍する人々もいた。




<  3.  The rebuilding of Solomon shrine >
< 3. 神殿の再建 >

Point of the Judaism
This religion give greater importance to religious precepts in comparison with other religion.
It included law of early city-state period of Mesopotamia from their tribal rules.

What was entrusted by the people at the birth of this religion was to found a strong country by Jewish people, and it was natural that the religion identified with the law of their country.
To prevent the national ruin, they felt need for an unquestioning obedience to God, and it was to obey the religious precepts God gave.


ユダヤ教のポイント
他の宗教と比べ、最も戒律が重視されている。
それは部族の掟からメソポタミアの都市国家期の法までを含んでいた。

この宗教の誕生期に託されたのは、ユダヤ民族による強固な国造りであって、国の統治(法)と宗教は一体が当然だった。
彼らは、亡国を招かない為には神への絶対服従、つまり神の与えた戒律に絶対服従することだった。

 Afterwards
It lasted approximately 200 years when they were devoting themselves to the rebuilding although being a small country, and it was in the peaceful times.
However, Alexander the Great invaded in the 4th century B.C., and maelstrom of war lasted by the later internal trouble.
The Jew again built their kingdom in the second century B.C., but it became a vassal state since an invasion of the Roman Empire in 63 B.C.
During this time, the continuation of Judaism was forgiven, and the high priest continued to have the religious authority.

However, the misgovernment of the foreign rulers and a lack of understanding about Jewish culture continued.
Thus, the Jewish antipathy increased, resistance movements rose up in each place and it was sitting on a time bomb.

The next time is about Christianity.


その後
小さいながらも再建に専念した平和な時代は200年ほど続いた。
しかし紀元前4世紀のアレクサンダー大王の進攻、その後の内紛で戦火は続いた。
紀元前2世紀には、ユダヤ人は王国を築いたが、紀元前63年のローマ帝国の侵攻後、一属国となり果てた。
この間も、ユダヤ教は存続を許され、大祭司が宗教的権威を持ち続けた。

しかし、異国の統治者の失政やユダヤ文化への無理解が続き、ユダヤ人の反感は募り、各地で抵抗運動が起きて、一触即発の状態になっていた。


次回はキリスト教です。