20200207

中国の外縁を一周して 19: 開封の夜市





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今回は開封の夜市を紹介します。
妻と二人で食べ歩いた。
実に楽しかった。


 
< 2. ホテルから見下ろした夜市 >

上: ホテルの部屋から見下ろした夜市。
夜市は東西に延びる鼓楼通りで毎日あります。
中央に鼓楼が建っています。

下 : ホテルを出て、通りの反対側からホテルを見上げている。
奥の背の高い建物がホテルです。

ホテルを出たのは夜の6時45分頃でした。
この日は2019年10月20日の日曜日でした。


 
< 3. 夜市へ向かう >

上: ホテルを出て直ぐの通りの反対側を見ている。
左側の櫓のような舞台で一人の女性が朗々と謳いあげていた。
韓国のパンソリに似ていると思った。

下: 夜市がある鼓楼通りの地下街。
服飾や雑貨の店が多く、店舗は皆飾り気がなく小さい。
庶民向けのショッピング街と言ったところでしょうか。
安い品物もあった。



 
< 4. 夜市に出た >

写真の左右に鼓楼の建物が見える。
ここは夜市の中心で、大きな広場を囲むように所狭しと屋台が並んでいた。
すべて飲食を提供する屋台だけのようです。
屋台で注文して、自由にテーブルに座って食べます。
来ている人々は、すべて地元の人のようでした。
少なくとも団体の観光客を見ることはなかった。
食べ物の種類は豊富で、ゲテモノから定番の中華料理、得体の知れない料理までありました。
比較的、海鮮や串焼きが多いように思った。

今まで、台湾や中国などの夜市を観光で訪れたが、今回はじっくり楽しめた。
時間に制約されず、テーブルに座れるのが良かった。



 
< 5. 様々な屋台 1 >


 
< 6. 私達が食べたもの >

下: 私が食べたもの。
私は胃腸が弱いので、結局、ありきたりの料理、材料が分かる料理を頼んだ。
歩き回り、色々選んで合計6品を妻と分けて食べました。
概ね温かく美味しかった。

私達夫婦が注文で困っていると、近くにいた若いカップルの男性が助言してくれた。
彼は開封外から来た人で、彼女と今ここにいるようでした。
後で、北欧でもやったアンケートの記入を依頼したら、快く受けてくれ、二人は相談しながら記入してくれた。

一つ教訓を得た。
直ぐ食べたいので客が並んでいない屋台で買ったら、美味しくなった。
これからは少し客が並んでいる屋台で買うべきだと!


 
< 7. 色々な食材 >



 
< 8. 一番人気の店 >

上: この店には長い行列が出来ており、次から次と売れて行きました。
近くで見ても材料が分からなかった。
半透明の泥っとしたあんかけの中に細切れの食材が入っていました。

中: 鼓楼です。




 
< 9. 一番のお気に入り >

上と中: ここの串焼きが実に美味しかった。
この手の店は多いのですが、何人かが並んでおり、ここで一本注文しました。
この兄ちゃんは見かけによらず、非常に丁寧に胡椒やタレを塗り、時間を掛けて焼いてくれる。
この兄ちゃんに、「好吃!好吃!」(美味しい)と言っても、表情を変えず、また別の物を焼き続けた。

この隣の屋台は彼のお父さんがやっていました。
彼らはどうやら回族なのでしょうか、帽子からそのように思うのですが。
料理もそうだと思います。


下: 買い物の屋台。
食事が終わって、鼓楼通りから雑貨を扱う屋台が並んでいる脇道に入った。
ここも人は一杯でした。
驚くほど安い品物があり、いくつか土産を買いました。


異文化の夜の町に漂いながら、ふと旅の楽しみを満喫している自分に気付いた。
親切な人々に出会い、地元の人々の暮らしぶりに接することも出来た。
そして何事もなくホテルに戻った。


次回に続きます。



20200206

晩秋の北関東をドライブしました 13: 旅を終えて



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今回で、この旅行記を終えます。
この旅行を通して感じたことを記します。


 
< 2. 旅行のルート >

茨城空港からレンターカーで草津温泉と鬼怒川温泉に宿泊した2泊3日の旅でした。
赤線が航空路で、茶色線がドライブコース、赤四角が宿泊地です。
2019年11月17日から19日に旅行しました。

快晴に恵まれ、多くを見聞し、充実した旅になりました。
温泉に浸かり、紅葉を愛で、歴史遺産や絶景を堪能しました。
ただ、一人でこのコースをすべて運転するのはきつかった。





< 3. 史跡足利学校と富岡の祭り >

足利の山裾に最古の学校があり、その発展保存の経緯から北関東の歴史が見えたような気がした。

富岡の祭りに偶然出会えて感激した。
その土地の温もりを直に感じられる良い機会だった。



 
< 4. 草津温泉と吹割の滝 >

夜の湯畑は凄い賑わいで、寒さも忘れてしまいました。
念願が叶った一時でした。

吹割の滝は、予想外の素晴らしさでした。
紅葉に包まれた川縁を散策していると、別世界にいるようでした。



< 5. 中禅寺湖と日光東照宮 >

噂にたがわぬ建築でした。
さらに紅葉と晴天が、さらに美しさを惹き立ててくれました。


 
< 6. 弘道館と予科練平和祈念館 >

弘道館では水戸藩徳川斉彬・慶喜の親子の意気込みを知ることが出来た。

予科練平和祈念館と雄翔館では、予科練と特攻の関わりを知ることが出来た。
また、当時追い立てられるように散っていた若者の気持ちに少しは寄り添えた。



 
< 7. 赤城山と榛名山 >

ドライブをしながら北関東の街並みと山河を見ることが出来ました。
平野部の高速道路を走り、山に入り林間の道を抜け、川沿いを進み、雪が微かに残る峠を越して来た。

平野に点在する林と小山、急峻な山肌を持つ山々、火山の多い北関東。
建築物にしても中世、江戸時代、そして明治初期のものまで見ることが出来た。

いままでぼやけていた北関東のイメージが、やっと纏まって来たようだ。
奈良時代に遡る歴史を持ち、繁栄を得ていた北関東の姿が。


訪問して頂きまことにありがとうございました。
これで終わります。




20200205

中国の外縁を一周して 18: 開封博物館と開封






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これから数回に分けて八大古都の一つ開封を紹介します。
この地は日本が平安時代の頃に世界最大の都市になっていた。
私は当時の面影を求めてやって来ました。
ちょうど開封市挙げての菊花展が行われていました。


開封について
ここは宋(北宋)の首都(東京開封府と呼ばれた)でした。
宋は日本人にとってあまり馴染みが無いかもしれません。
しかし宋時代には興味の尽きないものがたくさんあり、この開封で宋時代の全盛期が生まれました。

宋時代の代表的なもの
文治主義による統治、中国最長の王朝。
商業と海外貿易、貨幣経済の発達。
三大発明、火薬・羅針盤・印刷術が生まれた。
朱子学や浄土宗が誕生した。

実は、私達に身近な物語「水滸伝」は宋時代を題材としたものです。
この時代に庶民文化が花開き、「三国志演義」の元となる講談が人気を博していた。
(この二つの物語が完成したのは明時代)


 
< 2. 宋時代の人気者 >

これらは人気テレビドラマのタイトルで、下二つは日本でも放映され、私も見ました。
水滸伝、岳飛、包拯が中国では絶大な人気を博しています.

水滸伝は多くの梁山泊に集い、国の為に戦う物語です。
岳飛は南宋時代、異民族の侵略を食い止めた勇猛な武将でしたが、宰相に謀殺され悲劇の人となった。
包拯は北宋時代、清廉潔白で名裁判官と評され、大岡越前と似ている。






 
< 3. 北宋の開封 >

なぜ開封なのか?

上: 北宋時代(960~1127年)の領域。
黒四角が開封(東京開封府)です。
この後、北方騎馬民族の金が南下し、宋は開封を捨てた。
その領域(南宋)はおおよそ長江流域から南側とし、勢力は衰えた。

下: これは当時の水運ルートを示した地図(博物館より)。
青線が自然の川で、赤線が運河です。
このことにより北部(北京や西安、洛陽)と南部(上海、南京)が黄河と長江を介して直結されていた。
隋王朝が大運河を造ったことが画期となった。

開封は黄河沿いにあったので古くから発展していたが、唐が滅んだ後の1世紀は内乱が続き、かっての首都長安や洛陽は荒廃していた。
そして運河を利用出来た開封が宋王朝の首都になったのでしょう。



 
< 4. 開封城 >

上: 開封城。
この図が何時の時代を表しているかは不明。
現在、開封の城壁や城門の一部が残っているのは内城のものです。
この地は幾たびも戦火と黄河の氾濫に遭い、遺跡は地下に眠っています。
現在見られる城郭は清代に建設されたものです。

下: 梁山泊の位置を示したもの。
開封を赤四角、梁山泊を赤矢印で示す。


 
< 5. 開封博物館の位置 >

上: 赤四角が開封の位置。
左(西)に鄭州、洛陽、西安、右に商丘、徐州がある。
これらは古代より名を馳せた地でした。

中: 今回、私が訪れた所です。
Sが開封北駅、Mが開封博物館、赤枠が開封の内城です。
多くの観光スポットがこの赤枠内にあります。
赤枠内の三つの黄色の円が、私の観光した所です。
Hが二泊したホテルです。

開封博物館へは開封北駅からタクシーに乗りました。
博物館からホテルまでは、公共バスを一度乗り継いで行きました。
黒線がそのおおよそのルートです。

下: 開封北駅の全景(借用)。
ここも相変わらず駅前広場が広すぎて、タクシ―乗場に向かうのが一苦労でした。
タクシー乗場は広場前方にあり、標識で分かります。
タクシーは次から次とやって来るのですぐ乗れました。


 
< 6. 開封博物館 >

ここは数年前に出来たようで、それまでの開封の内城内からこちらに移転して来た。
実に、巨大です。
この日は2019年10月20日の日曜日でもあり、見学者は多かった。
ここはパスポートを見せれば無料です。

上: この写真は博物館の西側を撮影したものです。
タクシーがこの西側で下ろしてくれた。

この入り口の右側の建物に入り、パスポートを見せてチケットをお貰いました。
私達は大きなスーツケースを持っていたので、別のカウンターに行き、荷物預けを頼みました。
カウンターの若い女性係員の一人と英語でやり取りが出来き、こころよく預かってくれた。

下: 荷物を預けて、一度建物(チケット窓口)をでて、本館の入り口に向かう途中。
外側を見ている。


 
< 7. 館内へ >

上: 入館したばかりの所。
至るところで工事中か模様替えを行っていた。

中: 当時の開封の街並みを描いた絵。
眼下に街並みの賑わいが伺える。

下: 唐三彩。


 
< 8. 開封城の復元模型 >

上: おそらく外城、内城、王宮の全体を復元したものでしょう。
何時の時代かは不明。
内城、中央の奥に王宮らしきものがあり、その右手前に大相国寺らしいものが見える。

当時、この狭い城内に百万人が暮らし、凄い人口密度だった。
内城の一辺は約4kmです。

下: 内城の時代ごとの変遷図。


 
< 9. 開封の賑わい >

上: 当時の夜市が描かれている。
当時の開封の賑わいを知るには『清明上河図』が良いのですが、博物館にこの絵がありました。

実は、夜市は宋時代から始まり、この絵のような街並みも宋時代からなのです。
それ以前、例えば唐時代では市(商取引)は城内の限られた広場で限られた時間に行われ、官吏が厳重に監視していました。
しかし宋時代になると、商取引は通りで常時行われ、更に夜市も許されるようになりました。
これにより通りの様式が様変わりしました。

唐の長安では門を抜け大通りを行くと、左右は屋敷の壁で囲まれていた。
しかし、開封ではこのように町家の軒先が通りに面し、人が自由に往来出来たのです。
柳が町や湖畔を植えられるようになったのも宋時代からだそうです。

こうして経済が発展し、大衆文化が花開いたのです。


中: オペラの舞台のようなものです。
開封の夜市に行った時、道路に面したこのような舞台で一人の女性が朗々と歌っていました。

下: 店舗。


 
< 10. その他の展示 >

上: 薬屋でしょうか。

下: このような近代の街並みも再現されています。

写真は撮っていないのですが、驚いた展示もありました。
それは日中戦争に関わるものでした。
日本軍がこの地に侵攻していたのです。
1937年に盧溝橋事件が勃発し日本軍が南京を占領した後、徐州作戦で開封を占領したのはその1年後でした。

中国人に交じって一人、侵略する日本軍の状況を見るのは嫌なものです。
とは言っても、中国や朝鮮半島各地を観光していると大概、戦禍を知ることになりますが。

旅行先で色々知ることができました。
桂林のような山奥でも日本軍が進攻していました。
北京の盧溝橋の傍にある中国人民抗日戦争紀念館では、日本軍の残虐行為を示す写真が並んでいます。
蘭州でも日本軍が鉄橋を爆撃したと聞いた。
これらはすべて日中戦争での出来事です。

また廈門の奥、山間部にある客家土楼では、かつて倭寇が攻めて来たと書かれていた。
この倭寇は日本人が主体ではないかもしれないが。


 
< 11. バスで開封の中心部に向かう >

上: 開封博物館の全景。

中: 開封博物館の西側。
この奥の方に開封北駅がある。

下: 開封博物館の横を東西に走る道路。
道は非常に広いが車は少ない。

タクシーとバスから外を見ていると開封の発展に驚かされました。
開封北駅から開封の中心部(内城)までは高々ここ数年間の大規模な都市開発で出来たようです(開封北駅の開業は2016年)。
原野のようなところに忽然と高層のマンションが林立し、また途切れます。
その規模の壮大さに圧倒されます。
実は、これから巡る奥地でも同様かそれ以上でした。


 
< 12. 途中の景観 1 >

バスの乗車で注意すべき事を一つ。
今回、途中で1回バスを乗り替えたのですが、バス停の名前が紛らわしい。
バスの路線によって乗り換えるバス停の名前が違うのですが、実は同じバス停に違う二つの名前がついていたのです。
スマホの百度地図アプリを使用しGPSで位置確認していたので間違うことは無かったが、バスが来るまでは不安でした。
バス停の名前には注意してください。


 
< 13. 途中の景観 2 >


 
< 14. 開封の中心部 >

鼓楼通りと交わる交差点に降り立ちました。
ここからホテルは直ぐです。


次回に続きます。




20200131

晩秋の北関東をドライブしました 12: 予科練平和祈念館






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今回は最後の訪問地、予科練平和祈念館を紹介します。
ここで太平洋戦争で散った若人達の生きざまを知ることが出来ます。
霞ヶ浦の淵、自衛隊駐屯地の脇に記念館はあります。




 
< 2.予科練平和祈念館の位置、上が北 >

赤の四角が、記念館の位置です。
この土浦の阿見町には、大正時代から霞ケ浦海軍航空隊が置かれ、第二次世界大戦開始共に、ここに予科練が移転し、全国の予科練教育の中心となった。
戦時中の爆撃で施設は壊滅したが、現在、跡地に陸上自衛隊の駐屯地があり、その中に予科練戦没者の遺書や・遺品を収めた雄翔館がある。
この駐屯地に隣接して広大な公園があり、その中に近代的な記念館がある。

私は雄翔館を見てから記念館を訪れました。


 
< 3. 雄翔館を目指す >

私は予科練平和祈念館の前の駐車場に車を置き、雄翔館に向かう。
ここに行くには駐屯地に入らなければならず、衛兵に挨拶して向かった。
雄翔館は16:30に閉館します。

上: モダンな建物が祈念館。
下: 駐屯地に並ぶ戦車群(現役ではないようです)。



 
< 4. 雄翔館 >

上: 雄翔館の正面。

下: 雄翔館の入口から駐屯地を望む。

建物は大きくはない。


 

< 5. 雄翔館、遺書の展示 >

彼らの遺書を見て目頭を熱くしたが、以前訪れた鹿児島の知覧特攻平和会館でも同様でした。
予科練と言えば颯爽とした若き航空兵と言うイメージだったが、彼らも多くは特攻兵になった。
終戦までの15年間で24万人が入隊し、うち2万4千人が戦地に赴き、特攻に進んだものも多く、戦死者は8割にのぼった。


 
< 6. 雄翔館、遺品の展示 >

 
< 7. 山本五十六連合艦隊司令長官の書簡 >

これは彼がこの予科練の司令官に送ったもの。
彼はこの書簡を書いた18日後に撃墜されている。

文面は予科練司令官に、ガダルカナル島撤退以降の日本の苦境を吐露しながらも、米軍の物量優位に勝るには、「立派に死ねる闘士を育てることが肝要」と訴えている。
当時、真珠湾攻撃からほぼ1年が経ち、ミッドウェー海戦からガダルカナル島撤退へと日本の敗戦色は濃厚になっていた。
当然、国民は真実を知らず、まだ勝利に酔いしれていた。

理知的で知られる最高指揮官の彼ですら、精神論を振りかざすしか手がないのが如何にも口惜しい。
もし国民が真実を知らされていたなら、違った国の舵取りが行われただろう。
そして若い人々は、死に急ぐことはなかった。

いつも思う。
彼らの国に殉じる思いは尊い、当然命も。
しかし、殉じることで国は救えず、圧倒的な物量の前では無駄な死と言えるだろう。
何も知らない若者をそんな境遇に追い込んだ時代が悲しい。

二度と馬鹿げた軍事国家を作ってはいけないと唇を噛み締める。


 
< 8. 人間魚雷、回天 >


 
< 9. 予科練平和祈念館 >

上: 外観。
下: フロア図。
内部は撮影禁止なので、ホームページから写真を借用しました。

展示室は7カ所に分かれています。
この番号に従って、次の写真にテーマ紹介があります。


 
< 10. 展示室のテーマ >

記念館は大きくなく、見学時間はそうかかりません。
斬新な展示だが、今一つ要領を得ていない。
史実を分かり易く伝えると言う意味では中途半端だと感じた。
それでもこの手の展示は必要だと思う。


 
< 11. 当時の全国予科練の設置状況 >


 
< 12. 霞ヶ浦の夕陽 >

一度は訪れて見たかった霞ヶ浦だったが、記念館の閉館(17:00)共に外に出ると辺りは暮れていた。
直ぐ裏手の淵に辿り着くと、正に夕陽が沈む所でした。

雲に覆われ、微かに赤い西の空が予科練生の生きざまを象徴しているようでした。
悲しくも美しい生き様がここにはあった。

次回に続きます。


20200128

中国の外縁を一周して 17: 新幹線で開封へ

 
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今回は、中国の新幹線乗車を紹介します。
北京西駅から開封北駅までの車窓の景色も紹介します。
乗車したのは2019年10月20日の朝でした。



 
< 2. 北京西駅の紹介 >

北京には幾つかの鉄道と新幹線駅があります。
中国の高速鐵路、高鐵が日本の新幹線に相当します。
北京西駅は地上二階が鉄道駅で、地下には地下鉄が直交するように入っています。
日本のように構内を相互に自由に行き来出来ません。

主な手順
私が新幹線に乗車した経路を赤線と黒線で示します。
先ず、1階南側(下のS)の入口から入場し、次いで手荷物検査を受けます。
それが終わったら、エスカレーターで2階に上がります。
表示されている番号の待合室に入り、改札を待ちます。
ここまでは赤線のルートで、待合室は黄色枠の11室でした。

改札が始まると改札口を通り、表示されている番号のホームに降ります。
座席指定になっているので、切符に記載されている号車と座席に従って乗り込みます。

この間、特に問題がなくスムーズに進みました。
幾つかの注意は、以降写真に従って説明します。


私の乗る列車
高速鉄道G801、商丘行き、1等、座席指定
北京西駅9:15発―鄭州東12:03着―開封北12:26着
一度だけ鄭州東駅で停車だけで、乗り継ぎの必要はありません。
開封北まで行くにはこの列車以外では鄭州などで乗り継ぎが必要になります。

乗車券はインターネットで「中国鉄路」と「Trip.com」で購入出来ます。
日本語表記で買いやすいのは「Trip.com」です。
今回、ほとんどのホテルと一部の航空券は「Trip.com」で購入しました。
しかし、Trip.comでの高鐵の予約は、座席指定なのに、指定はコンピューターの自動振り分けです。
また中国国内を優先するのでせっかく前もって予約しても購入出来ないことがあるようです。
従って、私は中国の友人に購入を依頼し、現地で乗車券を貰った。

「中国鉄路」サイト

Trip.com



 
< 3. 入場から2階へ >

上: これは前日の夜に撮影したものです。
中国人以外は写真の右端のゲートから入って下さい。
外国人(私)はパスポートと乗車券を、係官に見せて確認してもらいます。
中国人は証明書を機械に通して自動で入場しますので、「人工」から入場します。
つまり外国人は係員がチェックするゲートから入ることがポイントです。

中央: 二階から1階の手荷物検査場を撮影。

下: 二階に上がった所。




< 4. 2階フロア >

広い通路の両側に売店や待合室が並んでます。


上と中央: 先ずは大きな表示板で、乗車券の列車番号(私の場合、G801)の待合室と発車時間を確認します。

下: 待合室の表示があります。


 
< 5. 待合室 >

今回、待合室内の座る位置は特定されていなかった。
以前、別の新幹線駅では列車と1等、2等の別で座る場所が決まっていたことがあった。
この部屋では、二ヵ所の改札があり、電光掲示板で改札する列車が表示された。

ここでも、外国人はパスポートと乗車券を係員に見せる。
つまり係員が立っている改札口に並ぶこと。
改札口を抜けると、皆同じホームに行くのでついて行けば良い。


一つだけ注意があります。
待合室のトイレにトイレットペーパーの常備が無く、購入するにはスマホ決済でなければならないことです。
自分のトイレットペーパーの持参が必要です。


ここである情景を見ることが出来ました。

待合室の座席に若い女性と老夫婦が並んで腰かけていました。
老夫婦は若い女性の両親のようで、どうやら両親は田舎から娘の働く北京見物に来たようです。
そして別れの時が迫って来ました。
娘は土産を両親に持って帰るように促すが、両親は娘こそがそれを持つべきだと拒否しているようでした。
娘さんは、ちょうど一人子政策による一人娘なのでしょう。
篤くなるものがありました。
中国語が分からないので、推測ですが。

今回の旅行では、このような親子の温かい触れ合いを幾度か見ることがありました。
日本と違って、このような親子の触れ合いを外でも、ためらうことが無いようです。
イスラム圏(トルコやモロッコ)でも同様でした。





< 6.北京とお別れ >

下: 中国では平気で自然を大改造し、植林のスケールが広大です。




 

< 7. 走り出して10分ぐらいまでの所 >

茫漠たる原野に無数の高層ビルが建ち、真新しい道路が突っ切る。




 
< 8. 走り出して30分から1時間30分の所 >

二十から三十年前に見た煉瓦を積み上げただけの殺風景な家屋は見当たらない。



 
< 9. 走り出して1時間45分から2時間の所 >



 
< 10. 走り出して2時間15分から2時間30の所 >

上と下: この二つには、3時間余りの乗車でやっと見ることが出来たものが写っています。

それはお墓です(明確ではありません)。
上の写真では、畑の奥の中央に7基ほどの墓石が見えます。
下の写真では、畑の中央に1基だけ見えます。
このよう田畑の中に島のように墓があるのはベトナムでも見ましたが、中国では非常に数が少なく、墓石の規模も小さいようです。
韓国では木立に覆われた山の斜面を少し切り開き、日当たりの良い所に数基単位で墓が造らていることが多い。

後に分かるのですが、西安近辺では墓の様子が変わって来ます。


中央: これは黄河なのでしょう。
あまり川幅が広くないので驚いた。
後に訪れる蘭州で黄河の上流を見ることになります。



 
< 11.鄭州東に到着 >

この駅は大きく、東西の線=商丘―蘭州と南北の線=北京―香港が交差している重要な交通の要所にある。

この地は黄河の南側にあり、中原と呼ばれ、古代から中国の中心でした。
多くの先史文化や王朝の首都が置かれ、西に洛陽と東に開封がある。






  
< 12. 鄭州東から開封北へ >

上: 鄭州を過ぎて開封に向かうと、養殖池らしいのが目につくようになった。

下: 開封北駅に到着。
乗っていた列車とお別れです。



 
< 13. 列車の室内 >

1等の車両です。
左右に2列シートで、前後の間隔も広く、十分すぎるぐらい広い。
2等は2列+3列シートになりますが、私としては2等で充分でした。
席を指定できない場合、夫婦水入らずで座るには1等が良いかもしれませんが。


次回に続きます。