20180201

フランスを巡って 58: 目次と感想






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旅行記の最後に目次と感想を記します。
この旅行で念願の南仏、アルザス地方、モンサンミッシェル、幾つかのゴシック大聖堂を訪れることが出来ました。
またフランスのお国柄を肌で感じ、また歴史が身近なものになりました。


旅行の概要
トラピックスのツアー「13日間のフランス夢の大周遊」
期間:2017年5月17日(水)~29日(月)

関空深夜発、ドバイ経由でニースに着き、旅行が始まりました。
フランスを9日間宿泊し、移動はすべて観光バスでした。
帰国は午後パリ発、ドバイ経由で関空に着きました。

ニースの朝だけ小雨になった以外はすべて快晴に恵まれ、最高の観光日和になりました。
一方で、最高気温が予想外の30℃近くにもなりました。


< 2. 旅行ルート >

数字は観光地を示し、観光はその順に進みました。
黒い数字は観光のみ、赤い数字は観光した宿泊地を示す。
赤字のTは宿泊だけのトゥールです。
茶色の線は観光バスでの移動を、赤線は航空路を示す。


* 目 次

 
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写真は記事の巻頭写真で、写真番号は記事の番号です。


1 はじめに
旅行の概要と各地の代表的な写真を紹介しました。

2 モンサンミッシェルの朝昼晩
モンサンミッシェル全景をほぼ一昼夜撮影しました。
陽に輝く雄姿、夕陽に浮かぶシルエット、朝霧に霞む遠景など。

3 セーヌ川クルーズ
休日のセーヌ川クルーズは夕陽と歓喜に包まれました。
両岸で憩う市民が手を振り、クルーズ船を温かく迎えてくれた。

4 古都ボーヌ
ワインと修道会創立で有名なブルゴーニュにある中世の古都ボーヌを尋ねました。
街と周辺の風景を紹介しました。

最も感動した上記2~4を最初に紹介しました。
次からは、訪問順に紹介しています。

5 鷲の巣村エズ
地中海を望む険しい山頂に鷲の巣村と呼ばれるエズがあります。
この要塞化した村は長い戦乱を生き延びる為でした。

6 小国モナコ
モナコは争いを経て、また小国として活路を見出さなければならなかった。
それが断崖絶壁の王宮であり、高級リゾート地への道でした。

7 旅行2日目のまとめ
ニース空港からエズとモナコ、そして宿泊地のニースまでの景色とフランス最初の食事を紹介しました。

8 大リゾート地のニース
ニースの海岸と旧市街で露店が並ぶサレヤ広場を紹介しました。



 
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9 ニースからエクス・アン・プロヴァンスまでの眺め
バスの車窓から見たブドウ畑とセザンヌが愛したサント・ヴィクトワール山を紹介しました。

10 古都エクス・アン・プロヴァンス
ここは陽光溢れる粋なプロヴァンスの古都、セザンヌの生誕の地であり晩年を過ごした地でもありました。

11 古都アルル
古代ローマの遺跡が残り、ゴッホが愛し傷つき去った古都アルルを紹介しました。
ローヌ川の突風を遮るための糸杉がゴッホの思いを彷彿とさせます。

12 要塞都市アヴィニョン 1
巨大な宮殿が聳える中世の宗教都市は巨大でした。
衰え始めていたはずなのに、教皇の権力がまだ絶大だったことに驚いた。

13 要塞都市アヴィニョン 2
アヴィニョン旧市街と市場の自由散策を紹介しました。


 
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14 ポン・デュ・ガールの水道橋
山間の川に架かる巨大なロ―マ時代の水道橋を訪れました。
この近くの山に氷河期の人類最古の洞窟壁画(ショーヴェ)がありましたが、行くことは出来ませんでした。

15 ポン・デュ・ガールからリヨンへ
ローヌ川沿いの平野を眺めながらリヨンに向かいました。

16 大都市リヨン 2
フランス第2の都市リヨンの大聖堂とその展望台、そして旧市街を紹介しました。

17 大都市リヨン 3
新市街のベルクール広場と、その後の自由散策、夕食を食べたレストランの光景を紹介しました。

18 リヨンからボーヌまでの景色
リヨンからボーヌまでの車窓からの景色を紹介しました。

19 中世の施療院オテル・デュ
ボーヌ旧市街にある中世の施療院オテル・デュを紹介しました。
医術史に関心がある方には特に興味深いものがあるでしょう。


 
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20 ボーヌからストラスブールまで
共にワインで有名なブルゴーニュからアルザスの風景を車窓から眺めました。

21 ストラスブール 夕刻と朝に
夕刻のストラスブール旧市街と朝のホテル周辺を紹介しました。
この地を訪れるのは長年の夢で、その上二泊も出来て大満足でした。

22 ストラスブール旧市街1
朝、いよいよ待ちに待った旧市街、プチットフランスと大聖堂を観光しました。
この都市は交易で栄え、活版印刷誕生の地になった。
この豊かな都市民の熱意が数百年をかけて大聖堂を作り続けた。
一方で周辺の貧しい農民の不満が宗教改革の起爆剤となった。

23 ストラスブール旧市街2
主に大聖堂の雄姿と内部を紹介します。

24 可愛い町、コルマール
川縁に並ぶ木骨組み家屋が、まるで中世の御伽の国に迷い込んだような感じにさせる町でした。

25 「ブドウ畑の真珠」と呼ばれるリクヴィル
ここはワイン畑の丘陵地にある小さな村、アルザスワインのワイナリーでも有名な所です。
実は、かつてこの村は城壁で囲まれた要塞でした。


 
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26 ストラスブール最後の夜
ストラスブールの最後の日、夕方から自由散策を始めました。
ホテル近くの大型スパー、川沿いの旧市街、夕食のレストランでのハプニングを紹介しました。

27 アルザスに想う
アルザスの風景を紹介しながら、この地が大国の狭間で如何に戦火に見舞われ続けたかを紹介しました。
そして今、人々は何も無かったように平和に暮らしています。

28 ストラスブールからランスへ
フランスの東北部、ロレーヌ地方からシャンパーニュ―地方の景色を紹介しました。
この地はフランスの源流、フランク王国誕生期の中心に位置し、このことが後にジャンヌ・ダルクを生み、ランス大聖堂の名声へと繋がった。

29 ランスの大聖堂 1
大聖堂を取り囲む町の景観を紹介しました。

30 ランスの大聖堂 2
大聖堂の外周を一周し雄姿を紹介しました。

31 ランスの大聖堂 3
大聖堂の内部を紹介しました。



 
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32 サン・レミ聖堂
同じランスにあるロマネスク様式で建てられたサン・レミ聖堂を紹介しました。

33 ランスからパリへ
ランスからイルドフランスの景色、パリとホテルから見た夕陽を紹介しました。
パリには3泊するのですが、この日はモンサンミッシェルに行くために途中一泊した。

34 パリからモンサンミッシェルへ
モンサンミッシェルがあるノルマンディー地方の景観を紹介しました。
バスで走行した午前中は曇りだったこともあり、物悲しい雰囲気が漂っていた。

35 モンサンミッシェル 1
対岸のホテルからモンサンミッシェル入口近くまでの景色を紹介しました。

36 モンサンミッシェル 2
歩いたモンサンミッシェルの城壁を紹介しました。
巨大さに圧倒されました。

37 モンサンミッシェル 3
城内のメインストリートとその先にある修道院までを紹介しました。


 
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38 モンサンミッシェル 4
巨大で打ち捨てられた修道院の中を紹介しました。

39 モンサンミッシェル 5
修道院を出て外周を廻り、村の暮らしを感じさせる裏道を下りました。

40 モンサンミッシェルからロワールへ
王侯貴族が愛したロワール地方までの景色を紹介しました。

41 シュノンソー城 1
女性城主達が住み続けた優美な城の外観と庭園を紹介しました。

42 シュノンソー城 2
城内を紹介しました。

43 シャンポール城に向かう
ロワール地方のもう一つのシャンポール城に向かい、ロワール川沿いを走りました。



 
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44 シャンボール城
こちらは巨大で複雑な形をした城で、庭園と言うか森が巨大でした。
外観を見るだけでした。

45 トゥールへ
宿泊と夕食の為にトゥールに向かいました。

46 シャルトルへ
ロワール渓谷からイル・ド・フランスの大穀倉地帯の景観を紹介しました。

47 シャルトル 1
シャルトルの町と初期ゴシック建築のシャルトル大聖堂の外観を紹介しました。

48 シャルトル大聖堂の内部
シャルトル大聖堂の内部、特にステンドグラスが美しかった。

49 ベルサイユ宮殿へ
シャルトルからベルサイユ宮殿の入口までの景色を紹介しました。



 
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50 ベルサイユ宮殿
ベルサイユ宮殿の内部を紹介しました。

51 前衛都市ラ・デファンスに泊まって
パリの宿泊地ラ・デファンスの2日間を紹介しました。
近代的なビル、広場での交流、大型スパーを紹介しました。

52 ルーブル美術館
車窓からのパリとルーブル美術館の代表的な美術品を紹介しました。
ルーブル美術館は三度目の訪問になり、ミロのヴィーナスは京都も含めて思い出深い対面となりました。

53 パリ散策 1
5回に分けて地下鉄で巡ったパリの下町を紹介しました。
この回は、アンファン・ルージュの市場が主になります。

54 パリ散策2
パリ誕生期を偲ばせるサン・ジェルマン・デ・プレ教会の紹介でした。

55 パリ散策3
大学の街カルチエ・ラタンからシテ島までの散策を紹介しました。
アラブ世界研究所からの眺めが良かった。


 
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56 パリ散策4
パリ最古の通りで、様々な飲食店が並ぶ庶民のムフタール通りを紹介しました。

57 パリ散策5
ムフタール通りの人々との触れ合い、地下鉄の風景を紹介しました。

これで目次は終了です。


*フランスを旅して思うこと
海外旅行は高揚の連続です。
旅では好奇心が旺盛になり、建築や景観を見て、文化や人に触れ、多くのことを学ぶことが出来ます。
そして旅行前に抱いていた疑問の多くに、それなりの答えが得られます。
中には、より深い疑問が生まれることもありますが、これも励みになります。
また以前から抱いてたイメージの多くは覆され、多くは好印象を得ることになる。
今回もそんな連続でした。


南仏に始まり、アルザス、ノルマンディー、パリは長年の戦火に見舞われた来た。
印象派の画家達が好んだ太陽と緑豊かな地中海沿いの南欧、ライン川沿いに開けたワイン畑が広がる丘陵地のアルザスは幾度も戦火をくぐり抜けた。
アルザスは第二次世界大戦まで争いが続いていた。
この間、南仏とアルザスでは国や領主が頻繁に変わった。
そして今は言葉や文化が混じり合い、かつての憎しみは消えており、観光客が訪れる平和な地域となった。

私はこのアルザスの歴史に「戦争と平和」の答えがあるように思えた。
残念ながら、今回の旅行では納得のいく答えを得ることが出来なかった。
しかし、一つの確信を持つことが出来た。
それは隣国同士が融和策を主導すればアルザス、ストラスブールのように安寧と平和が訪れるのだと!


ノルマンディー(フランス北西部)の屋根瓦や家の作りに他のフランス地域との違いがあり、かつてヴァイキングがここに住み着いたことを連想させる。
また、パリは幾度もヴァイキングの侵略を受けていた。
フランスを建国したフランク人も、植民し攻撃したヴァイキングも元をただせば同じゲルマン人だ。
また英仏戦争を戦い続けた英国もゲルマン人(アングロサクソン)とヴァイキングの作った国だ。
そして、今は英仏で異なった国造りを行い、フランスでは両者は溶け込んでいるように見える。

ヨーロッパの歴史は、日本から見れば民族の衝突が繰り替えされた悲愴なものに思える。
その一方、この民族や宗教の違いを乗り越え、仲良く暮らす工夫が成功している唯一の地域だろう。

今回、ゴシック建築の歴史を身近に感じることが出来た。
シャルトルでゴシック建築が生まれたのは、フランスの初代王朝がパリを首都にしたことに起因しているいたことを実感できた。


一番の収穫は、多くの楽しくて温かいフランス人に接したことでした。
セーヌ川クルーズでの歓迎、様々場面でカメラを向けた時に返してくれる笑顔が忘れられない。
中には機嫌を悪くする人もいたが。

エクス・アン・プロヴァンスで飛び入りした昼食レストランでの親近感溢れるウエイター、リヨンの地下鉄で道を教えてくれた移民家族の親切な青年、日本から予約していたストラスブールのレストランでのハプニング、ムフタール通りの魚屋のユーモア溢れる青年、プラス・モンジュの公園で会った喜びを隠さない女性、ラ・デファンス広場の親子の親しみ易さなど、良い思い出が多い。

様々な地で、キャンピングカーや自然が残る河畔で余暇を楽しむ家族の多いのに驚いた。
人生の楽しみ方が日本と異なり、羨ましく思った。

大都市では肌の色が異なる多くの人々が仲良く暮らし、結婚もしていることに感銘を受けた。
移民を受け入れることは分裂や社会の停滞を生み出す恐れがあると不安もあったが、むしろこれを乗り越えているフランスを力強く思えた。

こうして多くのことを体験し学び、フランスと旅行に感謝し旅行記を終えます。
長きにわたりお読み頂きありがとうございました。




20180129

フランスを巡って 57: パリ散策5



*1



今日でパリ散策とフランス各地の紹介を終わります。
今回は、道行く人々や公園で出会った人を紹介します。
次回は紀行のまとめになります。


 
< 2. 散策マップ >

今回紹介するのは、前回につづいてムフタール通りです。
場所は地図の番号4の青枠部分です。
この通りを出て、地図の赤矢印5から地下鉄を乗り継いで、ホテルのある左上のラ・デファンスに戻りました。


 
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< 7.公園でダンスする一団 >

地下鉄駅のすぐ近くの公園でダンスをするグループが目についた。
奇抜な衣装に身を包んだ女性ばかりが踊り、二人の男性はリズムを取っているようでした。
実に楽しそうでした。

何かカーニバルでもあるのかと思い尋ねると、違うとの答えが返って来た。
すると一人の女性が躍り出て「結婚!!」と言って、満面の笑みを浮かべた。
どうぞお幸せに!!

それが下の写真です。

この公園には様々な肌の色の人々が見える。
これがフランスの素晴らしさであり、強さなのかもしれない。


 
< 8. 地下鉄駅 1 >

上の写真: 7号線の「Place Mongue」から乗車した。
下の写真: 「Place ditalie」で6号線に乗り換えた。


 
< 9. 地下鉄の眺め >

上の写真: 車内の光景。
様々な人々が隣合い、そこには談笑と緊張が隣り合っている。

私が30年以上前、パリの地下鉄に乗ろうとした時、人種か何かの区別で安心できる後端の車両に乗るように勧められたことがあった。
時は過ぎ、至る所で様々な人種が自由に暮らすようになっているようだ。

下の写真: 地下鉄6号線を選んだのは、セーヌ川を越えながらエッフェル塔を眺めたかったからでした。


 
< 10. 地下鉄駅 Charles de Gaulle >

ここで地下鉄6号線から1号線に乗り換えた。
ここはちょうど凱旋門の下になります。


 
< 11. ラ・デファンスに戻った >

ラ・デファンスに戻ったのは午後8時半を過ぎていた。
まだ明るく、「グランド・アルシュ」の下の階段には多くの市民が寛いでいた。


こうして私達は半日のパリ散策と13日間のフランス旅行に幕を閉じました。

次の日、2017年5月28日の午後、パリ発の航空機で帰国の途に着きました。
半年以上にわたる私のフランス紀行にお付き合いくださり、ありがとうございました。

次回は、旅行記の目次とまとめを記します。




20180126

何か変ですよ! 92: 何が問題か? 15: なぜ改革から逃げるのか?





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日本の社会経済の指標、評価ランキングは益々低下の一途です。
にもかかわらず日本は一時しのぎを繰り返すだけで、痛みの伴う成すべき改革から逃げています。
この不思議を探ります。


*今の日本の状況を概観します

以下のグラフから、日本の所得水準、幸福度、経済力の低下が見て取れます。



 

< 2.悪化する日本 >

上のグラフ: 日本のワーキングプアは年々増加し、OECD内でも順位を落としています。
ワーキングプアはまともに働いても貧困線以下の所得しか得られないことを指します。

中央のグラフ: これは主観的な幸福度の世界ランキングで、日本は60位です。

下のグラフ: 主要国の中でも日本だけは特許出願件数は低下の一途です。

上二つのグラフで必ず上位にある国は北欧(デンマーク、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー)です。



*改革から逃げる様々な言い訳

A: 改革は漸進的であるべきだ!

これは保守論客の西部邁が指摘した保守思想の一つです。

このことは理解できます。
人間は不完全なものであり、未経験で画期的な社会改革は危険と言えます。
漸進的であることは、確かに大きな失敗を犯す可能性を低下させます(共産主義国家の失敗)。

しかし、これとて完全でないことは明白です。
例えば、次の事を考えれば分かり易いでしょう。

衰退する企業が、いくらコストダウンを続けても、漸進的な改善では存続することは難しい。
つまり技術や商品にブレイクスルー(飛躍的な革新)が必要なのです。

それでは社会や政治についてはどうでしょうか?
前回、英国の19世紀末の衰退で見たように、権力を握った勢力(金融資産家)は利益拡大(海外投資)に励みこそすれ、たとえ国が衰退(産業停滞)しようが既得権益(金融の自由)を制限するようなことはありませんでした。

このような場合、たとえ漸進的であっても効果ある改革が出来ないから国や文明は衰退し、または暴動や革命が起きるのです。

結論から言えば、保守も革新も程度問題であり、状況に応じた改革手法を選択すべきです。


B: 万年野党が頼りないから、与党に任せるしかない!

野党が頼りないのは事実です。
野党はひたすら反対か批難するだけで、理想は語るが具体的な対案を持たない。
これも一面正しいと言えるでしょう。

しかし、これで済む問題でもないはずです。
大きく二つの理由があります。

一つは、今の凋落は日本の万年与党の政策のつけだと言うことです。
もう一つは、これを牽制出来る健全野党が育っていないことです。



 

< 3. 1990年代に起きた事 >

上のグラフ: 日本の公共投資は1990年代に猛然と増加しています。
青棒、左軸が金額を示す。

下のグラフ: これまた非正規雇用率(赤折れ線)が1990年代から急伸しています。

この時期に起こった二つのことは密接に関係していた。



*政策のつけとは何か?
それは凡そ1985年から始まったと言えます。
プラザ合意による円高誘導で日本は経済が低迷し、政府はこの挽回の為に突出した公共投資と金融緩和を来ない、やがてバブル経済に突入します。
そして1991年のバブル経済崩壊が、経済を長期低迷させることになった。
この一連の出来事は、貿易摩擦と円高に喘ぐ米国が日本に圧力をかけ、これに従った与党政権のあがきの結果だと言えます。
この間、政権は米国が要求する構造改革、金融ビッグバンを行い、米国の望む自由主義経済圏に完全に突入していきます。
ここまでは野党政権であっても同じことをしたかもしれませんが。

しかし、このバブル崩壊後の不景気のさなかの1995年頃から、万年与党らしい政策の影響が今の日本社会を作りだすことになりました。
それは先進国中のあらゆる順位(幸福、経済、貧困、報道、男女平等、労働等の評価)が低下し続けていることに如実に現れています。

目立つものとしては非正規雇用の増加と賃金低下、一方でやや遅れて起きた企業の内部留保の増加でした。
これは今も更新中です。
これらは労働の規制緩和などに代表される企業優先の姿勢がもたらしたものです。
まさに1994年の「舞浜会議」で財界が望んだ方向に事が進んでいます。

この与党の一連の政策は、米国追従と財界優先の姿勢から生じたもので、さらには自由主義経済への固執にあります(言い替えれば惰性と既得権益擁護でしょうか)。

この結果、日本は長期のデフレ、低経済成長、ワーキングプア増加に陥りました。
さらに世界に類を見ない累積赤字の増大、米英に続く格差拡大が急速に進行しています。
また少子化対策の遅れによる労働人口減と高齢化社会の到来が重なります。
この結果、現在進行中の年金などの福祉政策の大幅な縮小がある。

万年与党が政権に居座り続けたことにより、つい30年前まで誇ることの出来た日本の快進撃は、単に思い出に過ぎなくなった。
1980年代、多くの人が別荘地、リーゾトやゴルフ場の会員権を買い漁り、いつまでも景気上昇が続くと信じたはずです。
しかし、それは束の間の夢であり、長い喪失感と借金返済が現実に続くことになったのです。

つまり、与党には政権を担った実績はあるのですが、このまま舵取りを任せることは没落を深めることになるのです。
しかし野党のだらしなさは頂けません。



 

< 4. その後に起きた事 1 >

上のグラフ: 賃金が1997年から低下し続けています。
下のグラフ: 企業の内部留保が1999年頃から急激に伸びていることがわかります。

つまりこれらは与党が長年積み上げて来た成果なのです。



 

< 5. その後に起きた事 2

これも成果と言えるでしょうが、残念ながら日本の衰退を物語っています。

日本の累積債務(赤い棒グラフ)はGDP比率で世界最大級でかつ増加中です。
一方、日本は世界一の対外純資産国(=資産―借金、青い棒グラフ)です。

楽観論者はこの資産によって債務を減らすことが出来るはずだと訴える。
しかし、それは不可能です。
誰が、海外の高利回りの証券から利率の低い内国債に買い替えるでしょうか。
(もし国債の金利が上がれば、余計に悲惨な状態になります。)
そんな善意に期待出来ないことは、世界一の対外純資産国であった英国が19世紀末に衰退した事実を挙げるまでもなく、常識で分かるはずです。
結局、体制擁護派は無責任に煽っているだけなのです。


*万年野党の悲運
先進国は概ね二大政党を目指し、少数政党乱立や一党独裁を避ける選挙制度を取り入れています。
これは長年の民主主義獲得の経緯から生まれたもので、政策論議を深め、多数決による弊害を避ける為のものでした。
残念ながら、日本では戦後まもなくしてこれが機能しなくなりました(戦前が良かったわけでもないが)。

日本の万年与党は自由主義経済を国是とする保守政権(米国共和党など)にあって、珍しく財政支出の大きな政府になっているが、これは万年野党が反対し対案を出し続けることでなったとする見方もある。
しかし、私は別の理由によるものだと思う。

ところで、やはり万年野党の存在はどう見ても民度の高い国、先進国の中では異常であり、適切な役割を果たしていない。
つまり長期に及ぶ与党政策の歪を是正するためにも、民主主義の危機を防ぐ為にも、強い野党の存在が不可欠です。

現実は非常にお粗末ですが、志ある人も、芽も僅かばかりではあるが残っている。


*なぜこのようなことが起きているかについて考えます。

結論から言えば、日本には未だにパトロネージが強く根付いているからだと考えます。

「パトロネージ・システムとは権力を持つ個人(パトロン)が、その特権を利用して、資源を恣意的な決定によって、自己を支援する集団(クライアント達)に分配するシステムです」

少し馴染みが薄い言葉かもしれませんが、世界中の後進国や南欧ではよく見られる政治状況です。
洋画で言えば「ゴッドファーザー」、日本で言えば議員の「世襲」や「看板、地盤、鞄」に代表される状況です。

もっと分かり易く言えば、「日頃お世話になっている顔役に投票する村人」のイメージです。

私は都会の郊外で生まれたが、現在、のどかな自然に恵まれた所に住んでいます。
ここで都市部と田舎の政治意識の違いをいやと言うほど知らされました。
皆、良い人なのですが、政治感覚や選挙行動に驚かされます。

先ず、人々は政治談義をほとんどしないのですが、あってもその範囲は村や町ぐらいまでで、中央政治を語る人は稀で、まして世界情勢とは無縁です。
しかし選挙では彼らは熱心になります。
そして、思わぬ人から投票を依頼されることもあり、断わりでもしようものなら、「村の恩人に恥じないのか!」と恫喝されることもあります。
つい最近まで買収もよく起きていました。

二大政党制を目指した小選挙区制度改革ではあったが、派閥を崩す効果だけで留まってしまい、逆にパトロン(総裁や首相)の権力を巨大化させてしまった。
そのあげく、先進国の議会制民主主義では起こるはずのないことが権力者周辺で頻発している。
つまり取り巻きや取り入ろうとする輩が犯罪やたかりを平然と行い始めた。


*なぜパトロネージ・システムが蔓延るのか?

二つの要因があると思います。

一つは、政治意識、歴史観、社会意識が未発達なことです。
これらが低い一因は、以前も指摘しましたが1970年代の学生運動後、学校教育の場で、政治が禁句になったことにあります。
政府は学生運動の再燃を抑える為に行ったのだが、これが今大きな災いとなっているのです。
例えば、北欧では小学生から環境問題、さらに上級では政治活動も教育の一環としておこなわれており、これが民主主義を支え好循環を生んでいるのです。

今一つは、帰属意識が高いことで、これは田舎ほど高いようです。
これは古い農耕民の心性の名残であり、良さもあるので、一概に否定することは出来ません。
しかし、その欠点は良識を失う会社人間や自殺の多さ、また内部告発が出来なく自浄作用が働ない組織を生み続けることになる。

分かり易い事例としては、村人に行事に対する意見を求めた時、極端な場合は個人の意見は控えたい、隣近所との協議の上でと逃げられることがある。

またワンマン企業では、従業員は陰で社長のパワハラを嘆きながら、一方で、依存しており、従順ぶりを装うことになる。

これらの社会や組織は一致団結して行動する分には効果を発揮するが、社会変化への不適応を起こしやすく、また暴走を食い止めることが困難です(1920年代のドイツ、イタリア、日本が好例)。

残念なことに、私にはこの政治文化を改善する方法が見つからない。
ただ地方の選挙制度と国会議員の育成方法に何らかのステップアップの術があると思う。



C: 資本主義以外に進むべき道はない!

私がブログで日本の現状を憂い、体制の転換を図るべきだと指摘すると、資本主義は完璧であり、他は無いと反論されることがあります。

結論から言えば、資本主義は空気のようなもので否定する必要はありません。
大体、資本主義が唯一無二の完璧な政体と考えることもおかしい。
帝国主義は資本主義から生まれ、さらには互いにおぎなっていたのです。
つまり、国民が資本主義をコントロールすることが必要なのです。

ここ1世紀だけを見ても、資本主義社会の欧米の状況、格差や福祉は国よっても、時期によっても大きく差異がありました。
1950~1970年代の日本や米国、西欧は概ね格差が少なく経済成長を遂げた時期でした。
その前後は逆の時代でした。
それは反動の時代と呼べるかもしれません(当然、一部の層には良い時期でしたが)。

今の反動の時代は、自由主義経済の復活と更なる金融業重視によってもたらされたものです。
これによる弊害は、これまでに説明して来ました。

問題は、これらを改めることに不安を抱く多くの人と、それを不可能で危険な行為と反対するエスタブリッシュメントとこれに連なるエコノミストの存在です。
既得権益を脅かされるエスタブリッシュメントが反対するのは当然です。

しかし国民は、かつて国民を守る為の規制と権利擁護により、社会が今より順調な時代、1950~1970年代があったことを知って頂きたい。

重要な事は、多数の日本国民が英米をお手本とする狭窄な視野から脱することです。
北欧やドイツ、フランスは同じ資本主義国でも異なった道を歩み、豊かさと繁栄を手に入れています。
特に北欧は1930年代頃から、高福祉政策を採り始め、高負担ながら高い所得と権利の尊重と幸福を共に得ています。
このために北欧は世界から孤立するのではなく、旺盛な貿易をやり、有名な多国籍企業が活躍し、PKO派遣でも貢献しています。


 

< 6. 北欧の経済 >

上のグラフ: 2004~2008年平均の輸出などのGDP比率。
如何にスウェーデンが国際的(開放経済)であるかがわかります。

下のグラフ: 如何に北欧各国が日本より高い経済力を維持しているかがわかります。

これだの開放経済であっても国内の労働者の権利を守り、経済発展を遂げることが出来ているのです。


つまり、「国民の権利を重視する政策は、自由主義経済が蔓延するグローバルな世界では取り残され、やがて破局を迎える」と恫喝する多くの体制擁護派のエコノミストの指摘は嘘なのです。



*まとめ

これまで見てきたように、日本が改革出来ないとされる理由は実に他愛ないものでした。
多くは体制擁護派、既得権益層、自由主義経済信奉者らの必死のアジテーション(煽動)で、想定外を無視した無責任な発言に過ぎない。
しかし、残念なことにこちらの方が訴える力はある。

最後に、私が皆さんに望むことは、今後日本が衰退していくことを諦めたとしても、万年野党を生む政治文化だけは何としてでも突き崩して頂きたい。
しかし、これとて国民の意識が高まらない限り不可能で、これでは堂々巡りです。


次回に続きます。