20170723

フランスを巡って 28: ストラスブールからランスへ





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今回は、フランスの東北部、ストラスブールからランスまでの車窓風景を紹介します。
そこには、なめらかな起伏をもつ広大な緑の大地が広がっていました。
私達はフランスの誕生や幾多の戦いと関わりがある地を走り抜けていきました。


この日のルートについて
写真は旅行日7日目、5月23日(火)、ホテル出発8:00でランス到着12:10までの景色をバスの車窓から撮ったものです。
この日の朝は雲に覆われていましたが、走るに連れ雲が無くなり青空が広がって行きました。

このルートはアルザスの北部からロレーヌを抜け、シャンパニューに入ります。
この三つの地は順にドイツ、ルクセンブルグ、ベルギーと北側で国境を接しています。
前回紹介したように、アルザスとロレーヌはほぼ500年間、フランスとドイツ(神聖ローマ帝国、プロイセンなど)の激戦地となりました。
第一次世界大戦の西部戦線、第二次世界大戦のマジノ線をどこかで横切ることになります。
またフランス革命戦争の地ヴァルミー、晋仏戦争の地リヒテンベルクの近くを通過することになります。

シャンパニュー地方は発泡性ワインのシャンパンと、大聖堂で有名なランスがあります。
英仏の百年戦争の英雄ジャンヌダルクはシャンパニューで生まれ、ランスの大聖堂とも関わりがある。

以下の写真はすべて撮影順に並んでいます。


 
< 2. 走行ルート >

地図: 上が北で、青線がランスまでのルートです。
Aはフランス革命戦争の地ヴァルミー、Bは晋仏戦争の地リヒテンベルクです。
Cはジャンヌダルクの誕生の地です。

下の写真は朝のストラスブールです。


 
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下の写真: 軍用車の列に遭遇した。

この近くに駐屯地があります。


 

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下の写真:屋根側がアルザスとは異なります。
撮影9:20.
 

 
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< 13. ランスに到着 >


あとがき 
私の目には、この道からの景色は豊かな自然に恵まれた平和な地としか映らなかった。

三つの国と国境を接し、紛争を重ねたことが嘘のようです。
またこの地はワイン栽培の北限であった為、他のワイン産地に負けて、打開策としてシャンパンを生み出さなけれならなかった。

またシャンパニューのランスは、ローマ帝国滅亡後、フランスの源流となるフランク王国誕生(5世紀末)時の領土の中央に位置した。


次回に続きます。



20170721

フランスを巡って 27: アルザスに想う








 
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今回で、アルザス地方と諸都市の紹介を終わります。
私はこの地を旅して強く印象付けられたことがある。
この地の人々の暮らしに私は平和な世界が来ることを確信した。


 

< 2. アルザスの地図、上が真北です >

上の地図: アルザスは赤線と東側の国境線で囲まれたところです。
フランスの東端にあり、ドイツとスイスに国境を接している。
赤丸はストラスブールとコルマールです。

ドイツとの国境を流れるライン川は交易を発展させ、その流域に石炭や鉄鋼の産地が連なり、産業を発展させた。
一方で、このことが絶え間ない国境紛争をもたらした。

下の地図: 赤丸はストラスブール、リグヴィル、コルマールを示す。
今回紹介する写真は、すべてストラスブール、リグヴィル、コルマール間のバスの車窓からの景色です。


 
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< 8. リクヴィル近くの村 >


 

< 9.ヴォージュ山脈の裾野からドイツ側を望む >
 
この三枚の写真はリクヴィルを発って直ぐのストラスブールに向かう時のもので、東側を見ている。
遠くに黒い森(シュヴァルツヴァルト)が見える。
これはライン川に沿ったドイツ側に160kmほど続く森です。



アルザスの運命
今まで紹介したストラスブールやリグヴィル、コルマールは実に平和そのものでした。
ストラスブールを朝夕散策しても、治安の悪さや、何らかの戦争や憎しみの傷痕などを見ることはなかった。
また多くの人種や移民が共に暮らしている。

しかし、かつてのアルザスは際限なく戦乱に巻き込まれ、領主や宗主国が交代した。
簡単に、大きな戦乱と国境の変化を紹介します。


 

< 10. 9世紀から11世紀の国境 >
赤の矢印はストラスブールを指す。

上の地図: 中部フランク王国(黄着色部)を示す。
紀元前1世紀にはローマ帝国が支配していたが、やがてゲルマン人がやって来てフランク王国を築きました。
そして9世紀に、フランク王国が三つに分割され、アルザスはライン川に沿う南北に延びる中部フランク王国の一部になった。

下の地図: 神聖ローマ帝国(赤線で囲まれた紫着色部)を示す。
10世紀になると中部フランク王国は東部フランク王国に吸収され、それが神聖ローマ帝国になり、16世紀まで続くことになった。


英仏による百年戦争(1337~1453年)の戦場はアルザスとは無縁だった。
しかし、休戦期に解雇された傭兵や敗残兵がアルザスに侵入し略奪した時期が幾度かあった。


 

< 11. 宗教改革 >

16世紀初頭に始まる宗教改革は全ヨーロッパ、さらには世界に影響を与えた。
しかしその展開は複雑で、多くの戦争を生んだ。
一般には、これはドイツ中部で生まれたキリスト教聖職者ルターが教皇を痛烈に非難したことから始まるとされている。
しかし、その萌芽はヨーロッパ各地で以前から見られた。

アルザスが宗教改革と関わるのは、最初期の農民一揆からでした。
上の地図の灰色の部分はアルザスの北方(当時はアルザス)を指し、ここで15世紀末から農民一揆が起こっていた。
1524年になるとドイツの南西部(赤色)でドイツ農民戦争(~1525年)が起こり、瞬く間に、地図の茶色部分に広がり、ストラスブールを含むアルザスも騒乱状態になった。
立ち上がった彼らは、ルターの宗教改革思想を拠り所にしていた。
この2年間で30万人が蜂起し10万人が戦死し虐殺され、アルザスでも10万人が蜂起し3万人が死んだ。

この戦乱で、ドイツは疲弊し、帝国自由都市や小領主が衰退し、領邦国家が力もつようになり、領邦国家が次のプロテスタントとカトリック間の戦争を開始した。
これが神聖ローマ帝国内で始まり、やがてヨーロッパを巻き込んだ三十年戦争(1618-1648年)になった。

下の地図は1650年における、宗派間の色分けです。
ストラスブールを含む橙色はルター派のプロテスタント、周りを囲む草色はカトリック、下側の肌色はカルヴァン派のプロテスタントです。

実は、この後、アルザス一体(フランス東部)の領有権は細切れになり錯綜し、複雑な状況が1634年から1697年まで続きます。

一つ目は、1634年、スウェーデンがフランスにアルザスを全委譲した。
これは三十年戦争の間、アルザス(ストラスブールなど)はプロテスタントの雄スウェーデンから軍事援助を受けていたことによる。

二つ目は、1648年、三十年戦争の講話条約でアルザスが神聖ローマ帝国内からフランスに割譲された。

三つ目は、フランスのルイ14世が領土拡大に乗り出し、1673年、コルマールを奇襲し要塞を解体、1681年、ストラスブールを占拠し、1697年にはアルザス全域がフランス領となった。


 

< 12.フランス革命戦争、1792~1802年 >

フランスで1789年に革命が起きると、周辺の王国はフランス王家を守る為に介入も辞さないと宣言した。
これを受けてフランスはオーストリアに宣戦布告し、ついには12ヵ国を相手に戦争することになった。
初期は劣勢であったが、義勇兵の参加と国家総動員などが功を奏し、やがて東方に領土を広げる侵略戦争へと変貌した。

上の絵: 初期の闘いでフランス軍が勝利したヴァルミーの戦い。

下の地図: フランス革命戦争による領土拡大図の一部。
赤矢印がストラスブール、白矢印がヴァルミー、黄矢印がパリです。

この革命と戦争によって、ストラスブールは略奪され、アルザスは荒廃し、数万人が難民となってドイツに流れた。
また軍人が力を持ち、ナポレオンの帝政を招くことになった。


 

< 13. 普仏戦争、1870~1871年 >

三十年戦争後、神聖ロ―マ帝国は300以上の小国と帝国自由都市の集合体に解体されていたが、19世紀後半にはプロイセン王国がドイツの北方を占め、さらなる領土拡大を目指していた。
フランスはこの挑発に乗って、準備万端のプロイセンに宣戦布告し、一時はパリも占領されるほどの大敗を期した。
こうしてアルザスは隣のロレーヌと共にまたドイツ(プロイセン)に併合された。

上の絵: リヒテンベルクへの攻撃。
プロイセンの連合軍がストラスブール近郊の山城を攻撃している。

中央の地図: アルザスとロレーヌでの普仏軍の対陣を示す。
赤がフランス軍、灰色の丸がプロイセン連合軍です。
黄矢印がリヒテンベルクです。

下の地図: 1871年の領土。
水色がプロイセン連合軍の領土で、アルザスとロレーヌが含まれている。



 

< 14. 西部戦線、1914~1918年 >

第一次世界大戦での西部戦線を示す。
赤線が塹壕のラインで、多くの死者を出したが、ドイツ軍の攻勢を英仏軍がここで防いだ。
ドイツ領であったストラスブールは戦火を免れたと思われる。

第一次世界大戦でのドイツの敗戦を受けて、1919年よりアルザスとロレーヌは再びフランス領となった。


 

< 15. 第二次世界大戦、1939~1945年 >

上の地図: フランス国境の青線がマジノ線です。
これはフランスが対独防衛のため築いた大要塞線で、国境地帯に約400km にわたり建設された。
しかし1940年、赤の矢印の防衛ラインを独軍に突破された。
この時、フランス軍はストラスブールを無人状態で放棄した為、ナチスドイツが占領した。
黄矢印がストラスブール。

1945年、敗戦と共に、占領されていたアルザスとロレーヌはまたフランスに戻った。

下の写真: ストラスブール北側にあるマジノ線を見る連合軍兵士。



今、想うこと
団体の観光旅行ではあるが、ストラスブールやアルザスの他の町も出来る限り見て廻ったつもりです。
しかし、戦争の爪痕やフランスとドイツ両民族の軋轢を感じるものはなかった。

この地をよく案内している添乗員と日本人の現地ガイドに、ストラスブールやアルザスでの両民族の仲違いについて聞いた。
しかし二人共、まったくそんな事は聞いたことが無いと明言した。
まったく私の質問が的外れだった。

既に見たように、アルザスとストラスブールは数多くの戦火、混乱、破壊、略奪、殺戮に苛まれ、その後は民族や言語が異なる国家に組み込まれて来た。
特にドイツ圏とフランス圏とは幾度も入れ替わった。

アルザスは17世紀中頃までドイツ圏に属していたので、ドイツ圏の文化(家屋)や言語(アルザス語を併用)が根付いている。
おそらく食事もだろう。

それにしても、ドイツへの帰属願いや分離独立、ドイツ系とフランス系の人々にいがみ合いの無いのが不思議です。
傍から見る分には、年月が互いの不和を洗い流したゆえか、はたまたフランスが適切な融和策を執ったゆえか、どちらか分からない。
ストラスブールには欧州議会、欧州評議会、欧州人権裁判所、欧州合同軍の本部が置かれており、欧州統合の象徴であり中心と言える。

少なくとも言えることは、これだけの憎しみを生んだ苦難を経験しても、何事もなかったように平和に暮らせることです。

ただ心残りは、市民がどのように平和を紡いで来たのが分からなかったことです。
それでも私は、一つの大きな旅行の目的を果たしてほっとしている。
旅は素晴らしい!!


次回に続きます。