20170704

フランスを巡って 20: ボーヌからストラスブールまで




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今日はボーヌからストラスブールまでの車窓の景色を紹介します。
ボーヌ郊外のレストランでの昼食も紹介します。
撮影は旅行日5日目、5月21日(日)、12:00~18:30です。



 
< 2. 走行ルート >

上の写真: 昼食のレストランがある丘からの景色。
ブドウ畑が広がっている。

下の写真: ボーヌからストラスブールまでのルート。
地図の上が真北です。

今回の旅行では、1日の合計走行距離が500km近くなるのが2回、300km台が2回ありますが、この日は合計約500kmになる最初の日になります。



 
< 3. ボーヌ市街からレストランまで >

上の写真: ボーヌ市街を抜け、直ぐ近くの丘の上のレストランに向かう。
時間は12:15頃。

中央の写真: 木立に囲まれたレストランの全景。
中央がテラス席、左がレストラン建物、右がテントのレストランで、ここで私達は昼食をとりました。
丘の上にあるが、周囲は木立が多く、眺望は遮られる。
レストランに12:20に入り、13:40には出発しました。

下の写真: 少し丘を散策すると、赤色や黄色の花が陽を受けて輝いていた。



 

< 4.昼食 >

エスカルゴが出ました。
私にはすべてが美味しかった。



 

< 5. いざ出発! >

レストランのある丘を下って高速道路へ向かう。



 

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やがて広い平野が続くようになる。



 
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やがて遠くにヴォージュ山脈が見えて来た。
およそ道のりの半分は来たでしょう。


 
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のどかな風景が続く。
私達はライン地溝帯の中、ライン川の左岸(西側)のヴォージュ山脈の麓を走っている。
ライン川がフランスとドイツの国境になっている。
右岸(東側)遠くにドイツのシュヴァルツヴァルト(黒い森)が広がる。
残念ながら、撮影は進行方向左側(西側)のみで、写真はありません。



 
*12

上の写真: 東に面した丘陵の斜面や麓に村が散在する。
おそらくブドウや果樹の栽培に適した村なのだろう。
ここはアルザス地方、アルザスワインの産地です。

中央の写真: サービスエリアにて休憩。


 
< 13. ストラスブールに到着 >

ここは沃野と水運に恵まれ、東西のドイツとフランス、南北のスイスとベネルックス三国を結ぶ交通の拠点として発展して来た。
この地はドイツとフランスが何百年間も奪い合い、国名が幾度も替わった。
また宗教改革の先駆けとなる農民戦争の激戦地の一つでした。

私はこの地を訪れ中世以降に起きた事を少しでも理解したいと願っていた。
そして、ついに願いが叶った。
幸い、ここにで2連泊することになりました。


次回に続きます。



20170703

何か変ですよ! 60: 残念なこと



*1



私は、日本の野党が残念でしかたがない。
日本が良くなるためには、健全な野党が是非とも必要です。
それが叶えられそうにない。


はじめに
今、現政権に憤慨している方は少なからずおられるでしょう。
しかし、現政権が倒れても、次に誰が日本のトップになるのか?
9分9厘、与党の中から少し見栄えの違う人物がトップになるだけだろう。
母体が何ら変わらない限り、結果は五十歩百歩と思いませんか?

野党は森友や加計の不正暴露に全精力を注ぎ込んで、トップを引きずり降ろそうとしているが、与党が引き続き政権を担うなら、それこそ元の木阿弥ではありませんか。
では、野党が政権を担えるのですか?
おそらく国民の大半は、今の野党にそれを望まないでしょう。
これでは、結局、今までと変わらない堂々巡でしょう。

今、我々にとって最重要課題は経済と平和であり、希望の未来を手に入れることです。
その足場を作る時です。

今日は、この問題を考えます。


残念な野党
多くの国民が政治に期待することは、景気が良くなることでしょう。
他に近隣諸国との軋轢とか、軍事的なこと、憲法改正もあるでしょうが、大多数はこれらを差し迫った問題とは捉えていない。

それでは野党に経済政策を託して良いと思う人がどれだけいるでしょうか?
私は、野党の個々の政策、大企業より国民優先、教育や育児負担の軽減などの施策は良いと思うが、大きなものが欠けていると思う。
それは景気を良くする金融と財政の一貫した施策です。

私は、野党に格差拡大と金融危機を招かない着実な成長戦略を持って欲しいのです。
今まで、野党はまったくこの姿勢が欠如していた。
只々、与党の政策を批難し、あわよくば国民の批難が高まるのを望んでいる節がある。
左翼系のマスコミも同様です。
この繰り返しでは、日本の政治は旧態依然のままです。

とは言っても、野党が与党の悪い政策を批難することには意味がある。
日本の与党(保守)は米国の保守(共和党)などに比べ、大きな政府の政策(福祉重視など)を取り入れており、良い結果を出している。
これが野党のおかげだと言い切れないが、批難していなければ、こうはならなかっただろう。
ここはやはり、二大政党の実現が不可欠です。

重要なことは、国民が野党に政権を担わせても良いと思えるように野党が変わることです。
与党を批難するだけでは、先はない。



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現政権の経済政策を考える
当然、与党には長期政権に付き物の弊害や、現政権の目に余る危さもある。
しかし、野党が反省すべき点を現政権から見出すことが出来る。

アベノミクス―インフレ目標、円安誘導、金融緩和、財政出動について見ます。

*インフレ誘導はインフレが安定し金利高騰が起きなければ、景気は良くなり、膨大な累積赤字が減ることになる。
先を予測することは難しいが、インフレ目標がいつまでも達成出来ないのは何か決定的なマイナス要因があるのだろう。

*円安誘導は、輸出を増やす効果を出している。
しかし一方で物価を上げ、結果的に賃金低下になるので、もう少し様子を見ないと分からない。
私が期待していなかったのは米国が円安誘導を許さないと考えたからでしたが、これは免れたようです(米国追従で)。

*金融緩和をかなりやっているが、効果が出ていない。
現時点では問題もなさそうだが、他国発の金融危機が日本に大惨事をもたらさないか心配です。

*財政出動は景気刺激に必要だが、相変わらず土建屋優先なのが問題です。
野党が唱えている人やサービスにもっと費やすべきです。

個々に長所短所はあるが、全体としてみれば米国の経済学者クルーグマンが唱える論理的な景気浮揚策に近いと思う。
たしかに、財政赤字の増大や大企業と土建屋優先は気になるが、狙いは良いと思う。


消費増税を見送ったことは良かったのか?
平気で嘘をつくことは許せないが、景気を交代させないためには良かった。
ただ、国の累積赤字は増えるばかりで止まる気配がないのが心配です。
本来なら無駄な出費を減らし、増税するなら累進性のある所得税が良い。

アベノミクスは、現状、効果が乏しく、目立ったマイナスも無いと言ったところでしょうか。
現状の経済指標の良し悪しには海外要因(石油、米国の景気)が大きく関わっている。
また日本では、高齢労働者の退職がピークを迎え、今後、労働者人口の減少を加速させていることが、失業率の低下と経済成長率鈍化を招くことになる。

ざっと現政権の経済・金融政策を振り返りました。
これほど大胆に景気浮揚を目指したことが国民の人気を得た大きな要素でしょう。
しかし、これら経済・金融政策で抜け落ちている重要な事がある。


与党に出来ない経済政策を目指せ
たとえ与党の経済政策が一時上手くいったとしても将来に大いに不安がある。

それは繰り返す金融危機と経済格差の拡大、増大する累積赤字です。
現状の欧米が進めて来た資産家・金融業優遇策が続く限り、被害が深刻になる一方の金融危機と拡大し続ける経済格差が大問題になる。
この為に既に欧米で火が付き、世情は不安になっており、やがて日本にも及ぶでしょう。
これらは規制緩和と税制改悪が招いたもので、また野放しのグローバル化によって世界中が巻き込まれ、競合するように悪化を深めている。
米国はこの推進の主役で、良くなる兆候はまったくない。

累積赤字の問題は、景気拡大が永続すれば薄らぐでしょう。
しかし、ほぼ10年ごとに繰り返している金融危機によって、その効果は打ち消される可能性がある。
またインフレが高進するだけなら、累積赤字の目減りと同時に庶民の生活は苦しくなる。
この問題はリフレ策をもっと検証しないと判断出来ない。


少し話題を変えましょう。
国民が経済面で望むものとは何か?
おそらく働き続けられること、低賃金からの脱出、将来の年金・社会保障制度の確保でしょう。

このためには経済成長が欠かせません。

安直な非正規雇用や首切りを規制することは必要ですが、現状のグローバル化した経済では、企業がすんなりと認めないでしょう。
年金・社会保障制度の確保には、当然、政府支出の見直しは必要ですが、これも持続的な経済成長が前提となります。

確かに、これからの時代は経済成長やGDP一辺倒ではなく、精神面重視に転換すべしとの意見があり、私もそうあるべきだと思います。
だからと言って、経済が低迷して良いわけではありません。

例えば、精神的な充足に必要なサービスを豊かにするにはその業界を支える経済成長が必要です。
例えば育児や教育のサービスを充実させるには、その産業の発展拡大が必要です。
つまり、箱物ではないサービス重視に移行すれば良いのです。

これらのことを野党は真剣に取り組み、実施可能な論拠を国民に示して欲しい。



*3


なぜ今の与党に期待できないのか?
与党が上記問題を解決する可能性はあるのか?
ゼロでは無いが、ほぼ無理でしょう。

東京都の選挙、米国やフランスの選挙からわかるように、国民は長く政権を担っていた政党を見限っている。
これには大きな潮流があるように思う。

この潮流とは何か?
私の見る限り、これは1980年代に始まった欧米の変革が発端でした。
これはサッチャー、レーガン、中曽根らによる大きな政策転換でした。
中でも大きいのは国営企業の解体とマネタリズムの採用でした。
この政策自身が悪いとは言えないが、これらにより労働組合の衰退、金融の規制緩和が進み、巨大な金融資産家が頻出した。
こうして金融資産家らのモラルハザード(節度を失った非道徳的な利益追求)と莫大な資金を使った政界支配と世論操作が常態化した。
これは米国において圧倒的な経済格差を生み出し、米国主導のグローバル化によって、世界と日本に伝染することになった。

こうなると国民の声は政治に届かず、やがて政治と政党に失望した国民は新しいものに飛びつくことになる。
これが現状です。

特に日本の場合、与党はまったくの米国追従なので、米国発の伝染病―経済・金融の悪弊による格差拡大と繰り返す金融危機、に罹患せざるを得ない。
これを打破できるのは、しがらみのない与党外と言える。
当然、官僚も同様ではあるが、官僚を排除してはならない。

大きな政策転換は可能なのだろうか?
19世紀末から米英を筆頭に労働運動が盛り上がり、労働者や女性の権利が向上した。
これが賃金上昇と格差拡大の是正に向かわせた。
そしてルーズべルトによるニューディール(ケインズ的な経済政策)が追い風となった。
残念ながら、国民が等しく経済成長を享受出来たのは1970年代までとなったが。

言えることは、良くも悪くも国と国民が、ここ百年の間に2回、政策転換を図ったのです。
今は、3回目の時なのです。



*4

野党が頑張るしかない
現状、日本は失業率が低く、格差も少なく、安全で福祉制度に大きな欠点はない。

今の与党の姿勢を放置すれば、金融危機を深め、格差を拡大させ、さらに浪費が続けば年金・社会保障制度の存続が脅かされる。

最大の経済低下の要因は労働者人口の長期減少でしょう。
これを補うには与党の箱物中心の財政出動ではなく人材・育児・移民への投資が不可欠です。

したがって野党は、与党に対抗して景気浮揚策を真剣に練り上げ、国民優先の政策に向かうべきだ。
それでなければ、いつまで経っても反対だけの野党で終わってしまう。
せっかく小選挙区にして、二大政党に向けた改革を行って来たのです。
今回の安部一強も、前向きに解釈したら、これまでのころころ替わる首相の状況から脱したとも言える。

どうか国民の皆さんも、二大政党を育て、まともな議論が国会で出来るような世の中にしようではありませんか。


どうもお読み頂きありがとうございました。



20170702

フランスを巡って 19: 中世の施療院オテル・デュ



*



今日は、ボーヌ旧市街にある中世の施療院オテル・デュを紹介します。
中庭から見た施療院の建物と屋根が青空に映えて美しかった。
私にとって、ヨーロッパ医術史の一端を見れたことは、うれしい誤算でした。





< 2. オテル・デュのパンフレット >

この見取り図は下が北になっています。
青の矢印が入口、出口です。

私達は一階部分のほぼすべてを見学しました。
ここを見学したのは旅行5日目、5月21日(日)、10:40~11:30でした。
この日も快晴で爽やかでした。


< 3. オテル・デュの外観と中庭 >

左上の写真: 中央の灰色の屋根がオテル・デュ。
入口は建物の中央にある。

右上の写真: 中庭の隅から入口側を見ている。

下の写真: 中庭の端から北側を見ている。




< 4. 中庭から 1 >


陽に照り映えるニシキヘビの肌を思わせる模様の瓦と、たくさんの三角屋根の窓は、病院と思えない。
派手な作りにも見えるが、豪奢ではなく、美しくもあり陽気にさせる建物だ。
この瓦は釉薬瓦で、4色(淡黄色、濃いグリーン、赤色、茶褐色)からなっている。

「フランスを巡って4: 古都ボーヌ」でも紹介しましたが、この地域に入ると屋根の雰囲気がプロヴァンスと異なります。

プロヴァンスの屋根は緩い傾斜になっており、瓦はオレンジ色の丸瓦が敷き詰められている。
その輝くような町の眺めが、さらにプロヴァンスを太陽が降り注ぐ地中海のイメージを一層盛り上げていた。
これからフランスを巡って行くと分かるのですが、各地に特有の屋根があり、
この屋根は南仏特有のもので、ローマ時代の名残なのでしょう。

一方、ボーヌの町の屋根は急な傾斜になっており、平瓦かスレートが引き詰められている。
多くの色は灰色、茶色が多く、鮮やかさはない。
ただ、旧市街の幾つかの屋根には、このオテル・デュと同様の模様の釉薬瓦が見られた。
この瓦は元々、ブルゴーニュ公国が姻戚により手に入れたフランドル地方のもので、ブルゴーニュの各地に見られるそうです。




< 5. 中庭で 2 >


< 6. 看護室 >

上の写真: 看護室。
パンフレットの番号4辺りからの撮影です。
両側に並んでいる赤い天幕で覆われているのが患者のベッドです。

下の写真: 当時の看護の様子を伝える絵。




< 7. 礼拝室と厨房 >

上の写真: 礼拝室。
パンフレットの番号6を看護室側から撮影。

下の写真: 厨房。
パンフレットの番号13.
写真がうまく撮れなかったのですが、右側の暖炉には機械仕掛けの丸焼き器のようなものが据えられていました。
また、お湯が出る白鳥の首形状の蛇口が、このマネキンの後ろにありました。
厨房は広く、清潔そうでした。




< 8. 調剤所と薬局 >

上の写真: 調剤所。
部屋の左側に銅製のタンクとそこに注ぐ管が見えます。
これはおそらく蒸留器で植物から薬効成分を抽出するものでしょう。

下の写真: 薬品棚。
かなり多様な薬品が、ガラスや陶器の容器に入れらて置いてありました。
薬品は外部にも販売されたようです。





< 9. 美術品の展示 >

左上の写真: 暖炉。パンフレットの番号20.
右上の写真: パンフレットの番号19.
下の写真: オークションの間。パンフレットの番号26.
この病院の機能が移転するまでは、ここでワインのオークションが行われていたらしい。
この売り上げが病院の運営費に充てられた。
おそらく、当時、壇上の燭台に蝋燭が置かれ、燃え尽きると競りの終わりを告げるようになっていたらしい。




< 10.特別な展示室  >

ほぼ暗室で厳重な管理がされた部屋に、二つの祭壇画とタペストリーがありました。


上の写真:  この展示室のメインの絵で、フランドル派の画家(ベルギー)による「最後の審判」。
ウィキペディアより借用。

下の写真: フランドル派による「宰相ロランの聖母」。
ルーブル美術館蔵。ウィキペディアより借用。

左の人物が、1443年にこのオテル・デュを創設したブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロラン。
彼がこの絵を発注した。

当時、ブルゴーニュ公国は領土を拡大し、騎士道文化が最盛期を迎えていた。
中でも、この宰相が権勢を誇っていた。
しかし、一方で英仏の百年戦争が続き、この地は貧困と飢餓に苦しむ人々で溢れていた。
彼は妻の薦めにより、私財を投じてこの病院を建てた。
病院の運営費は、ブドウ畑から出来るワインの売り上げで賄われた。
病院の機能は1971年に近代的な病院に移転した。




< 11. 栄光の三日間、写真は借用 >

「栄光の三日間」はブルゴーニュで最も有名なワイン祭りです。

上の写真: ワインのオークション。
ワイン競売のシーンで、毎年11月の日曜日に行われる。
この場所はオテル・デュの向かいにある広場に面した大ホールでしょう。
このホールは写真番号3の左上の写真、左側に少し見えます。

下の写真: 栄光の三日間で盛り上がるボーヌの人々。



オテル・デュに想う
現在、私は連載「病と医術の歴史」を休止していますが、いずれ西洋の部分を書くつもりです。
この連載で望んでいることは、人類があらゆる因果の解釈を宗教的のものから一様に科学的なものへと変化させたこと、もう一つは、なぜ西洋医学だけが他の地域の医学を凌いで発展したかを知る為です。
この意味で、西洋の古代から中世にいたる医学史を理解することは非常に重要でした。

かつて、ドブロブニクなどで中世の薬局を見たことはあったが、中世の看護施設を見たことがなかった。
今回、実物を見れたことは幸いでした。

このボーヌのオテル・デュは施療院としては新しいもので、古くはキリスト教の修道院で、6世紀頃から看護や治療行為が始まっていた。
このオテル・デュは「神の館」と言う意味で、教会との繋がりを示す。
それではキリスト教が西洋医学を発展させたかと言うと、そうとも言えない。

世界中、病気、特に皮膚病は過去の罪や業(ごう)、祟りの現れと見なされ、忌み嫌われることが多かった。
また疫病患者は隔離され、このオテル・デュでも扱われることはなかった。
ほとんどの宗教は、人体を聖なるものと見なし、解剖を禁止し、キリスト教も同様でした。
12世紀始め、第2ラテラン公会議で、修道士が医学を学ぶことを禁止した。

キリスト教も含め、多くの宗教は、病人を治すよりは慈悲を施すことに意を用い、初期には遠ざけることが多かった。

ただキリスト教圏では、聖書に記載があるようにライ病患者は救済されるべきとされた。
不思議なことに日本でも中世の一時期、ライ病患者が敬われることがあった。

西洋では、ローマ時代の医術の残滓、さらに後のイスラム文化の流入によって、医学が開花していくことになりました。


次回に続きます。