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今日は、ボーヌ旧市街にある中世の施療院オテル・デュを紹介します。
中庭から見た施療院の建物と屋根が青空に映えて美しかった。
私にとって、ヨーロッパ医術史の一端を見れたことは、うれしい誤算でした。
< 2. オテル・デュのパンフレット >
この見取り図は下が北になっています。
青の矢印が入口、出口です。
私達は一階部分のほぼすべてを見学しました。
ここを見学したのは旅行5日目、5月21日(日)、10:40~11:30でした。
この日も快晴で爽やかでした。
< 3. オテル・デュの外観と中庭 >
左上の写真: 中央の灰色の屋根がオテル・デュ。
入口は建物の中央にある。
右上の写真: 中庭の隅から入口側を見ている。
下の写真: 中庭の端から北側を見ている。
< 4. 中庭から 1 >
陽に照り映えるニシキヘビの肌を思わせる模様の瓦と、たくさんの三角屋根の窓は、病院と思えない。
派手な作りにも見えるが、豪奢ではなく、美しくもあり陽気にさせる建物だ。
この瓦は釉薬瓦で、4色(淡黄色、濃いグリーン、赤色、茶褐色)からなっている。
「フランスを巡って4: 古都ボーヌ」でも紹介しましたが、この地域に入ると屋根の雰囲気がプロヴァンスと異なります。
プロヴァンスの屋根は緩い傾斜になっており、瓦はオレンジ色の丸瓦が敷き詰められている。
その輝くような町の眺めが、さらにプロヴァンスを太陽が降り注ぐ地中海のイメージを一層盛り上げていた。
これからフランスを巡って行くと分かるのですが、各地に特有の屋根があり、
この屋根は南仏特有のもので、ローマ時代の名残なのでしょう。
一方、ボーヌの町の屋根は急な傾斜になっており、平瓦かスレートが引き詰められている。
多くの色は灰色、茶色が多く、鮮やかさはない。
ただ、旧市街の幾つかの屋根には、このオテル・デュと同様の模様の釉薬瓦が見られた。
この瓦は元々、ブルゴーニュ公国が姻戚により手に入れたフランドル地方のもので、ブルゴーニュの各地に見られるそうです。
< 5. 中庭で 2 >
< 6. 看護室 >
上の写真: 看護室。
パンフレットの番号4辺りからの撮影です。
両側に並んでいる赤い天幕で覆われているのが患者のベッドです。
下の写真: 当時の看護の様子を伝える絵。
< 7. 礼拝室と厨房 >
上の写真: 礼拝室。
パンフレットの番号6を看護室側から撮影。
下の写真: 厨房。
パンフレットの番号13.
写真がうまく撮れなかったのですが、右側の暖炉には機械仕掛けの丸焼き器のようなものが据えられていました。
また、お湯が出る白鳥の首形状の蛇口が、このマネキンの後ろにありました。
厨房は広く、清潔そうでした。
< 8. 調剤所と薬局 >
上の写真: 調剤所。
部屋の左側に銅製のタンクとそこに注ぐ管が見えます。
これはおそらく蒸留器で植物から薬効成分を抽出するものでしょう。
下の写真: 薬品棚。
かなり多様な薬品が、ガラスや陶器の容器に入れらて置いてありました。
薬品は外部にも販売されたようです。
< 9. 美術品の展示 >
左上の写真: 暖炉。パンフレットの番号20.
右上の写真: パンフレットの番号19.
下の写真: オークションの間。パンフレットの番号26.
この病院の機能が移転するまでは、ここでワインのオークションが行われていたらしい。
この売り上げが病院の運営費に充てられた。
おそらく、当時、壇上の燭台に蝋燭が置かれ、燃え尽きると競りの終わりを告げるようになっていたらしい。
< 10.特別な展示室 >
ほぼ暗室で厳重な管理がされた部屋に、二つの祭壇画とタペストリーがありました。
上の写真: この展示室のメインの絵で、フランドル派の画家(ベルギー)による「最後の審判」。
ウィキペディアより借用。
下の写真: フランドル派による「宰相ロランの聖母」。
ルーブル美術館蔵。ウィキペディアより借用。
左の人物が、1443年にこのオテル・デュを創設したブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロラン。
彼がこの絵を発注した。
当時、ブルゴーニュ公国は領土を拡大し、騎士道文化が最盛期を迎えていた。
中でも、この宰相が権勢を誇っていた。
しかし、一方で英仏の百年戦争が続き、この地は貧困と飢餓に苦しむ人々で溢れていた。
彼は妻の薦めにより、私財を投じてこの病院を建てた。
病院の運営費は、ブドウ畑から出来るワインの売り上げで賄われた。
病院の機能は1971年に近代的な病院に移転した。
< 11. 栄光の三日間、写真は借用 >
「栄光の三日間」はブルゴーニュで最も有名なワイン祭りです。
上の写真: ワインのオークション。
ワイン競売のシーンで、毎年11月の日曜日に行われる。
この場所はオテル・デュの向かいにある広場に面した大ホールでしょう。
このホールは写真番号3の左上の写真、左側に少し見えます。
下の写真: 栄光の三日間で盛り上がるボーヌの人々。
オテル・デュに想う
現在、私は連載「病と医術の歴史」を休止していますが、いずれ西洋の部分を書くつもりです。
この連載で望んでいることは、人類があらゆる因果の解釈を宗教的のものから一様に科学的なものへと変化させたこと、もう一つは、なぜ西洋医学だけが他の地域の医学を凌いで発展したかを知る為です。
この意味で、西洋の古代から中世にいたる医学史を理解することは非常に重要でした。
かつて、ドブロブニクなどで中世の薬局を見たことはあったが、中世の看護施設を見たことがなかった。
今回、実物を見れたことは幸いでした。
このボーヌのオテル・デュは施療院としては新しいもので、古くはキリスト教の修道院で、6世紀頃から看護や治療行為が始まっていた。
このオテル・デュは「神の館」と言う意味で、教会との繋がりを示す。
それではキリスト教が西洋医学を発展させたかと言うと、そうとも言えない。
世界中、病気、特に皮膚病は過去の罪や業(ごう)、祟りの現れと見なされ、忌み嫌われることが多かった。
また疫病患者は隔離され、このオテル・デュでも扱われることはなかった。
ほとんどの宗教は、人体を聖なるものと見なし、解剖を禁止し、キリスト教も同様でした。
12世紀始め、第2ラテラン公会議で、修道士が医学を学ぶことを禁止した。
キリスト教も含め、多くの宗教は、病人を治すよりは慈悲を施すことに意を用い、初期には遠ざけることが多かった。
ただキリスト教圏では、聖書に記載があるようにライ病患者は救済されるべきとされた。
不思議なことに日本でも中世の一時期、ライ病患者が敬われることがあった。
西洋では、ローマ時代の医術の残滓、さらに後のイスラム文化の流入によって、医学が開花していくことになりました。
次回に続きます。
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