20170623

フランスを巡って 16: 大都市リヨン 2

 
*1


これから、フランス第2の都市リヨンを2回に分けて紹介します。
今日は、歴史的な場所、フルヴィエールの丘と旧市街を紹介します。
次回は、リヨンの今、新市街の広場とレストラン街を紹介します。


リヨン観光
観光したのは旅行4日目、5月20日(土)で、ツアーで観光したのはフルヴィエールの丘と旧市街、新市街のベルクール広場です。
観光した時間は15:45~17:40でした。
観光している間、徐々に雲が多くなりましたがまだ少し暑いぐらいでした。
この後、全員がバスでホテルに向かい、その日の観光は終わりました。

私達は直ぐタクシーで新市街に戻り、街歩きと夕食を楽しみました。
街歩きでは色々経験し、ホテルに戻ったのは22:00を過ぎていました。

リヨンの都市圏人口は165万人と多く、ローヌ川とソーヌ川の合流するこの地は古くから金融と交易の町として栄えていた。
この地はローマ時代、パリを含むガリア属州(フランス南部除く東半分)の中心地であったので、ローマ時代からの遺跡がある。
中世になると大司教の支配が続き、13世紀、このリヨンで公会議が2回行われ、神聖ローマ帝国皇帝の弾劾や十字軍遠征などが討議された。
リヨンがフランス王国に併合されたのは14世紀初めで、このころから絹織物の交易の一大中心地として発展した。


 
< 2. リヨンの地図 >

上の地図: リヨンの観光地とホテルを示す。上が真北です。
番号1の赤丸はフルヴィエールの丘、番号2の赤線は旧市街の徒歩観光した通り、番号3の茶色四角はベルクール広場、番号4の茶色線は自由散策したレストランのある通りです。
番号5の黒四角はホテルです。

下の地図: 今回紹介する観光箇所。右が真北です。
Aの赤丸はフルヴィエールの丘の大聖堂です。
Bはローマ劇場の遺跡で、バスで横を通過する時、車窓から見ただけです。
赤線は旧市街の徒歩観光のルートです。
Sからスタートし、概ね番号1から5の順に見て、また戻って来ました。
写真もその順に並んでいます。
黄色の線は抜け道(トラブール)です。



 

< 3. ノートルダム大聖堂と展望台、地図番号1 

かつて、丘の頂上にはローマ時代の広場があって、その後、ペストの流行から街が救われたことを感謝して小さな教会が建てられた。
次いでプロイセン・フランス戦争の折、プロイセン軍がリヨンに迫ったが、退けられたことに感謝して、この小さな教会の上に大聖堂が建てられた。
この大聖堂は1884年に建物が完成し、更に内装が完成したのは1964年でした。
この大聖堂はリヨンの街のどこからでもよく見える。

下の写真: 大聖堂の横の展望台にはたくさんの人がいました。



 
< 4. 展望台からの眺め >

展望台は東方向に視界が開けている。
写真は上から順番に左側(北東)、正面(真東)、右側(東南)を見ている。

この日はローヌ川沿いを走って来て、狭い河谷だと思っていたのだが、展望台に立って驚いた。
このような都市景観が遥か遠くまで続いているとは思わなかった。



 

< 5. 大聖堂の側面と正面から見下ろした広場 >


 

< 6. ノートルダム大聖堂の内部 1 >

この聖堂の外観はゴシックではなく、ロマネスクとビザンチン様式で、最初、違和感があった。
しかし中に入ると、その豪華絢爛さと荘厳さを兼ね備えた内装に圧倒された。





< 7. ノートルダム大聖堂の内部 2 >

上の写真: モザイク画。
教会内であまり見ることがない物語が描かれていた。



 

< 8. 旧市街の通り >

この三枚の写真は、徒歩観光の始め頃、中頃、終わり頃のものです。






< 9. 抜け道(トラブール)1、地図番号1 >

上の写真: 右側の鉄柵がある建物は裁判所で、その向かいすぐ左側に抜け道の入口があります。

左下の写真: これが抜け道を通る時の様子です。
右下の写真: 抜け道の途中の中庭から見上げたところ。

この抜け道は、建物の中庭を通って路地と路地を行き来できるものです。
かつて織物工業が盛んだった頃、商品を雨に濡らさないようにするための屋根付き小道で、リヨン特有のものです。


 


< 10. 抜け道2と博物館 >

上2枚の写真: 別の抜け道を入ります。地図番号1。
抜け道1と直ぐ近くにあります。
入口には扉があり、閉まっているので、一見民家の玄関に見える。
入口に表示があるようですが、私には理解できません。

下の写真: ミニチュアと映画博物館「Musée Miniature et Cinéma
地図番号2.
約100年前に、リヨンで映画が生まれた。



 

< 11.サン・ジャン大司教教会、地図番号3 >
この建物はかつての大聖堂で、1180年に建設が始まり、完成したのは1480年でした。
上の写真の丘の上にノートルダム大聖堂が見える。
公会議がここで行われたのだろうか?



 

< 12. リヨン名物の菓子店、地図番号4 >

上の写真: 店「A La Marquise」の正面。
店内でお菓子を買うこともできるが、外で食べることも出来ます。

下2枚の写真: お菓子店の右側の入口から入った中庭。
元は修道院関係者の住居で、ゴシック様式の螺旋階段などがあり、現在は博物館です。
ここだけなら無料です。
菓子店が入居している建物は、古くは13世紀に始まり、幾度も改築され、今はアパートになっている。




 

< 13. 元証券取引所、地図番号5 >

最初、通った広場に戻って来ました。
上の写真の左側に元証券取引所の正面が見えます。
下の写真が元証券取引所です。
この建物はフランス革命後、しばらくしてプロテスタント教会になりました。


次回に続きます。



20170621

何か変ですよ! 58:  備えて下さい!





*1


今、私は現政権の手腕を羨ましく思っています。
おそらくは多くの国民も感服していることだと思います。
もし二大政党が日本にあり、双方がこれだけの力量を持っていれば、
日本の将来は安泰でしょう。


 
*2


まえがき
巷を騒がせている森友学園や加計学園の問題は、今更、取り立ててあげつらうほどの問題でしょうか?

日本の政治文化を特徴づける三バン「ジバン(地盤)、カンバン(看板)、カバン(鞄)」で成り立つ長期政権なら、このようなことは各地で日常茶飯事です。
何を今更、驚くのでしょうか?
多少どぎつい程度でしょう。

これは首相の強力なリーダーシップの賜物だと言えます。
中央官僚だけでなく、マスコミ、マスコミの寵児、地方までその影響力は行き渡っています。
今までの官邸や野党では不可能だったのではないでしょうか?

直ぐに人気が無くなる首相が相次いぐ中で、むしろ待望の決められるリーダーの誕生、それも長期政権だと喜んでいたはずです。

この現象を好意的に捉えるなら、待ちに待った官僚の上に立つ官邸の時代が到来したと言えます。
これまでは官僚が法律を発案し作り、国会での答弁書まで作って、大臣にレクチャーしていた。
これからは逆の本来の姿になるかもしれません。

そうは言っても不安がよぎるのも事実です。
私の不安が現実とならなければよいのですが。


不安とは何か?
一番は経済的なダメージで、大恐慌の到来です。

発生する時期を明言出来ませんが、近々起こるでしょう。
問題はその規模の巨大さであり、日本がまともに被害に合うことが予想されるからです。

可能性が高いのは中国の崩壊です。
今まで、中国の崩壊について多くのエコノミストが予言して来ましたが、幸い外れています。
これらの指摘に比べれば、中国政府はうまくやって来たと思います。
しかし、現在進行中の経済悪化(国営企業の低迷、過剰設備、巨大な負債、高失業率、格差拡大、成長率鈍化)が国民の不満に火を着ければ、コントロールが効かず、一気に恐慌に陥る可能性があります。

私の知り合いで、現地で活躍する二人の中国人は、恐慌が起きても不思議ではないと思っており、資産の海外移転を考えている様子です。
現在、中国は日本の輸出額シェアで18~19%を占め、米国15~20%と肩を並べています。
つまり、以前と違って中国がこけたら日本は大きな影響をうけるのです。


さらに別の不安要因が幾つかあります、英国のEU離脱もその一つです。
おそらく米国の株価好調と利上げテンポの遅いのが災いする可能性の方が大きい。

ここ半世紀ほど欧米を中心にして7年~10年毎に金融恐慌が間違いなく発生しています。
これは米国がリードした経済・金融構造とグローバル化の副産物だが、これは何ら改善されるどころか悪化しています。
残念ながら、2007年の世界金融危機以上のものが再来するでしょう。
現状のゼロ金利であれば、実業に向かうよりも遥かに巨額資金が災いを招く投機に向かい、更なる巨大なバブルが起きるのは必然です。



 
*3


何が問題なのか?
この恐慌の大惨事と、今の政権とどのように繋がるのでしょうか?
二つの事で、今の政権は恐慌の災いをより致命的にするでしょう。

一番はアベノミクスです。
現在、ヘリコプターマネーと称して市場に大量の資金が供給されています。
確かに少ないよりは多い方が景気には良いのですが、バブルが弾けた時に被害がより甚大になります。
現在、株式時価総額は600兆円ほどありますが、おそらく下落すれば200兆円ぐらいになるでしょう。
これは繰り返して来たことですが、今回は貨幣供給量が今までと比べものにならないほど増えたので下落率は拡大し、下手をすれば株式時価総額は1/4の150兆円もあるかもしれません。

その引き金として海外発、特に隣の中国発の恐慌が起きればひとたまりもないでしょう。
さらに、日銀と政府はこれまでと違って日本株を大量に買い支えているのですから、暴落すれば我々の年金はかなり減額になる。

この時、政府は謝罪し、責任を取るでしょうか?
たとえ良心があっても無理です。
なにせ数百兆円が一瞬にのうちに消え、おそらく100兆円の血税をつぎ込んで、やっと大手金融業が助かるぐらいでしょう。

もう一つは、首相の仲良し米国大統領が人気取りの為に何をするかわからないことです。
おそらく日本は特定秘密保護法と共謀罪の成立、次いで核兵器禁止条約への不参加と米国に盲従していくことになるでしょう。

この先にあるものは、経済と軍事の共倒れでしょう。
なにせ、即決と猪突猛進の首相なのですから。


最後に一言
恐慌に備え、株から手を引き、タンス預金にすることを薦めます。
もっとも金のある人は既にタックス・ヘイヴンしているでしょうが。

詳しくはいずれ連載で扱うつもりです。


20170620

フランスを巡って 15: ポン・デュ・ガールからリヨンへ





*1


今日は、ポン・デュ・ガールからリヨンに至るローヌ川の河谷に広がる風景を紹介します。
これまでのプロヴァンスとはまた違う味わいがあります。
すべてバスの車窓からの景色です。




< 2. バスの走行ルート、すべて上が北 >
左図: 今回の旅行でバスが走る南仏のルートです。
赤線がこれまで紹介したルート、青線が今日紹介するルート、黄線が後日紹介するルートです。

右図: 青線が今日紹介する走行ルートです。
アヴィニョンまでがプロヴァンスで、その上からリヨンまでがローヌ・アルプ地域圏になります。

私達のバスは、ローヌ川のほとんど右側(東岸)を走りました。
また私は車内左側に座って撮影したので、特に説明が無い写真はすべて西側の景色です。
撮影したのは旅行4日目、5月20日(土)、12:50~15:35です。
写真は撮影時間順に並んでいます。

赤の矢印は、前回紹介したショーヴェ洞窟のあるPont-d'Arc です。



< 3. ポン・デュ・ガール付近 >



< 4. 今から高速道路に入ります >

午後になると、雲が増えて来ました。
一番下の写真の左側に白いキャンピングカーが1台見えます。
今回の旅行では、至るところでキャンピングカーを見ました。



< 5. ローヌ川を渡る >

一番下の写真のローヌ川の左岸に城塞らしきものが見える。




*6
中央の写真: これだけが進行方向右側(東側)を撮影した丘の上の町です。
13:30に撮影。

下の写真: おそらくはこの山間を30km入った所に人類最古の氷河期の洞窟壁画があるショーヴェ洞窟のPont-d'Arcがあるのでしょう。
上の写真と同時刻に西側を写した。






< 7. ローヌ川の景色 1>



< 8.ローヌ川の景色 2 >



< 9. ローヌ川の景色 3 >


< 10. リヨンに近づいた >

リヨンに近づくにつれ、火力発電所や大きな工場が出現し始めた。



<  11. リヨン市街からフルヴィエールの丘へ >

上の写真: この橋を渡るとリヨンの新市街に入る。
この橋はローヌ川に合流する直前のソーヌ川に架かっている。

中央の写真: 新市街。

下の写真: またソーヌ川に架かる別の橋を渡りフルヴィエールの丘に向かっている。



プロヴァンスに別れを告げて


< 12. プロヴァンスとは >

左上の写真: 映画「陽だまりの裸婦」
左下の写真: エズにある「ニーチェの道」

右の写真: ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂に座るマティス。
彼はこの礼拝堂のデザインを手掛けた。


今回でプロヴァンスと別れることになります。
プロヴァンスについて記します。

私がこの旅行を選んだ理由の一つに、プロヴァンスの各地を訪問できることにあった。
中でも、映画「陽だまりの裸婦」の舞台になったプロヴァンスの自然を直に見たいと思ったからでした。
この映画はルノワールが晩年、リューマチに苦しみながらも傑作「浴女たち」を生み出す状況を、陽光と緑が溢れる丘を舞台に描かれていた。
その舞台は私達が通過して来たニースの直ぐ西側のカーニュ・シュル・メールでした。

既に紹介した画家ゴッホとゴーギャン、セザンヌもプロヴァンスで暮らしいます。
不思議なことに彼ら4人はポスト印象派を代表し、プロヴァンスこそポスト印象派を育んだと言えるかもしれません。

他に画家マティスもルノワールが晩年を迎えた直ぐ北側のヴァンスで晩年を過ごしています。

また、既に紹介したエズにも哲学者ニーチェが散策した道があります。

私も陽光溢れるエクス・アン・プロヴァンスやアルルを歩いている時、さもありなんと思えた。


プロヴァンスは古代ギリシャ時代の植民市マッサリア(マルセイユ)に始まるヨーロッパ文明化への入口でした。
そしてローヌ川はその通り道でした。
ここから葡萄酒とワイン栽培、そしてキリスト教が北上し、ローマ軍のガリア支配が進みました。
やがてフランク王国が北側で興り、12世紀ともなるとヨーロッパ文明の中心は北部に移動し、今度はフランス軍がローヌ川を下り、南仏を支配するようになった。

これまでに訪れた、エズ、モナコ、ニース、エクス・アン・プロヴァンス、アルル、アヴィニヨン、ポン・デュ・ガールはすべてこれら歴史の足跡を残していた。


このプロヴァンスを訪れて、今一番感じていることは・・・
このフランス旅行で、私はフランスの歴史を肌に感じ、さらに現在の移民問題とストラスブールの数世紀わたる民族混合(独仏の争い)についても何かヒントを得たいと思っていました。

ところが予想外なことに、このプロヴァンスこそが、それこそ2000年近くも民族混合があった地域なのだと知って驚いた。
それは短期間のサラセン人を除くと東西北部のヨーロッパ人による領土の奪いなのですが。
それにしても、現在、彼らは完全に混血し、平和に暮らしているように見えた。

日本列島に生きる日本民族からすれば理解出来ない戦争と平和の問題です。


次回に続きます。




20170619

フランスを巡って 14: ポン・デュ・ガールの水道橋






*1


今日は、巨大なロ―マ時代の水道橋を紹介します。
わざわざこの為だけにバスは山間に入りました。
はたして期待に違わぬものなのでしょうか?


水道橋の観光
訪れたのは旅行4日目、5月20日(土)、11:00~12:40です。
徒歩観光の後半、レストランで昼食をとりました。
この日もほとんど雲の無い、素晴らしい天気でした。


 
< 2. ポン・デュ・ガールの地図、すべて上が真北です >

上の地図: 青線がバスのルートです。
赤線は建設当時の水道橋のおおよそのルートです。

下の地図: 水道橋の見学コースを示しています。
赤線はバスの駐車場Sから、案内所を通り、そして水道橋を渡り、レストランまでのルートを示す。
青線は昼食後、バスの駐車場Fまでのルートです。


 
< 3. 水道橋の資料 >

左の地図: 黒線が建設当時の水道橋のルートです。
この水道橋は町ユゼス近郊の水源から都市ニームまで全長約50kmあり、平均斜度は1kmあたり24.6cmです。
驚くべきは、山や谷を幾度も通り、この少ない斜度で長距離、給水出来ていたことです。

右の断面図: 数字の単位はmです。
水道橋は3層からなり、最大高さは水面から47m、私達が歩いたのは下層の上で、その高さは22mです。


 
< 4. アヴィニョンからポン・デュ・ガールまでの景色 >

上の写真: ローヌ川。

下2枚の写真: ブドウ畑が広がり、進むに連れ標高が上がって来た。


 
< 5. 案内所から水道橋へ >


 
< 6. 水道橋の全貌が見えて来た >

下の写真: 今来た道を振り返る。


 
< 7. 水道橋 1 >

水道橋を渡っている時、実は、私はそれほど驚かなかった。
なぜならスペイン、ゼゴビアの水道橋の方が巨大で美しいと思ったからでした。
しかし、帰国後、調べて行くうちに勘違いに気付いた。

先ず大きさなのだが、確かに渡っている所から見上げた高さは24mで、ゼゴビアの地上高さ30mよりは低いが、水面からの高さは47mもあり、遥かに高い。
またこちらの導水路のある上層の長さは275m(川幅より広い)で、ゼゴビアのは728mもあった。
しかし、建設当時の水道橋の総延長は、ゼゴビアで17km、ポン・デュ・ガールは50kmと、こちらも大きい。

だが、ゼゴビアの水道橋の方が美しいと思ったのは、橋脚の基部の幅が2.4mと薄く、今にも倒れると思わせるほどのスリムなスタイルに感銘したからでした。


 
< 8. 橋が架かるガルドン川 >

上の写真: 橋から下流を望む。

下の写真: 上流を望む。


 
< 9. 水道橋 2 >


 
< 10. 川原に降りて >

上の写真: ボート遊びをする人々。
下の写真: 川原で遊ぶ子供達。


 
< 11.水道橋 3 >


 
< 12. レストランでの昼食 >

全3品が順に並んでいます。


追記

 
< 13. ポン・ダークの洞窟 >

水道橋の案内所でパンフレットを漁っていると、下の絵が目に飛び込んできました。

これは人類最古の洞窟壁画で、ショーヴェ洞窟300点の絵の一つです。
ショーヴェ洞窟は世界遺産です。
この洞窟壁画を保護するために、この公開を禁止し、この近くのポン・ダークに巨大なレプリカ洞窟を作り、2015年から公開されている。
ポン・デュ・ガールから北方50kmほどの山中にこの展示施設(上の写真)があります。

ショーヴェ洞窟の凄いのは約32000年前のもので、有名なラスコーやアルタミラの洞窟壁画よりも2倍ほど古く、多様な動物が描かれていることです。

それが、この近くにあるのですが、残念ながら素通りです。
もし、自由な旅行をされるのなら検討されると良いと思います。


次回に続きます。