20170105

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 22: リガ 1



< 1. 内側から見た旧市街の城壁(右) >


今日から、ラトビアの首都リガを紹介します。




 

< 2.リガの地図、すべて上が北です >

上の地図: ラトビア全体を示す。
首都リガは湾の奥に流れ込むダウガヴァ川の河港として発展した。

このロシアの奥深くに端を発する1000kmを越える川と良港がドイツ商人の入植を盛んにさせ、この地はハンザ同盟を経て経済発展した。
その後、ロシアのバルチック艦隊の拠点にもなった。
現在のリガの人口は70万人。
ラトビアの人口は200万人、面積は九州の約2倍。

中央の地図: 今日紹介するリガ。
黄丸は宿泊ホテル、赤矢印はユーゲントシュティール建築群、黄枠は旧市街、黄矢印は火薬塔です。
ホテルRixwell Elefant Hotelから旧市街までの距離は約4kmです。
旧市街の長さは川に沿って約1kmある。

下の地図: リガの主要観光地、旧市街とユーゲントシュティール建築群を示す。



 

< 3.車窓から見たリガ市内1 >



 

< 4.車窓から見たリガ市内2 >



 

< 5.旧市街に到着 >

上の写真: 旧市街の一角に到着。
ここからバスを降りて、火薬塔を目指す。

下左の写真: 火薬塔。
14世紀に建てられ、17世紀に再建された火薬の保管庫です。
昔はここから外は砂丘で、街はぐるっと砂丘に囲まれていたが、その後、稜郭と堀で囲まれた。
塔の表面にはロシア軍の攻撃による砲弾が埋め込まれている。

下右の写真: 外側から見たスウェーデン門。
リガに残る唯一の城門。17世紀に城壁を利用して住宅が建てられた際に造られた。
当時、近くの兵舎に住んでいたスウェーデン兵がよく利用したのでこの名がついた。



 

< 6.旧市街 >

上の写真: 外側から見た城壁。
この向い(右手)にあるレストランで夕食をとりました。

下の写真: 夜の旧市街。
夕食後、外に出るととっぷりと暮れていました。


 

< 7.レストランのある棟  >

長い店舗棟の端の壁に多くの紋章が描かれていた。
すぐ左に火薬塔がある。



< 8.ホテル >

上の写真: ホテルRixwell Elefant Hotelの最上階から西側を見ています。
2016年10月2日(日)の朝、夜半からのどしゃ降りがまだ続いていました。

下の写真: ユーゲントシュティール建築群がある通りに着きました。
ここでバスを降りて、ストレールニエク通りを徒歩で観光します。
傘を差してカメラを写すことになりました。

リガはバルト三国の三つの首都の中で最も栄えて最も美しく、よく観光宣伝の写真に使われるのですが、生憎の雨となりました。




 

< 9.ユーゲントシュティール建築群1 >

ユーゲントシュティール建築群は19世紀後半から20世紀初頭にかけてドイツに起こった芸術様式です。
この地が如何にドイツと密接していたかがよくわかります。
この通りはソ連時代、放置され痛んでいたのですが、修復が進んでいます。

これは当時ヨーロッパで流行した世紀末芸術、フランスのアール・ヌーヴォー、スペインのモデルニスモ(ガウディ)と期を一にしている。

ここの特徴は動植物、女性のシルエットが主なモチーフになっている。
しかし、その顔はグロテスクにも思える。
パリやバルセロナの世紀末芸術とは少し趣を異にしているようです。


 

< 10.ユーゲントシュティール建築群2 >



次回に続きます。





20170104

Bring peace to the Middle East! 57: when religions were born 5: Confucianism

中東に平和を! 57: 宗教が誕生する時 5: 儒教



 <1. Confucius>
< 1. 孔子 >

This time, I investigate the birth of Confucianism.

今回は儒教の誕生を追います。

The times when Confucius was born
A first Chinese dynasty was born in the 17th century B.C., but it was divided in approximately 200 countries since the 8th century B.C., and the unification of a country was completed after wars for 500 years.
Since the middle period, the farming had advanced by ironware and the trade had developed, and many city states grew up.
At that time, the wars among nations and the internal trouble of royal families continued, and it occurred frequently that a person of lower rank overthrew a superior either politically or militarily, and then supplanted the superior's position in society.
On the other hand, the royalty and the aristocracy employed a talented and wise person than a blood relative and tried to get predominance .
Under such circumstances, various thinker groups "The Various Masters of the 100 Schools" having an independent opinion were born.
Most of them serve the royalty and the aristocracy, and proposed a policy and an  stratagem.
The Confucius was born in such situation in China in the sixth century B.C.


孔子が生まれた時代
中国の最初の王朝は黄河中流域に紀元前17世紀に生まれていたが、紀元前8世紀には二百カ国ほどに分裂し、五百年間の戦争を経て統一に至る。
この中期頃から、鉄器による農耕と交易が進み、都市国家は成長していった。
国家間の戦争と王家の内紛は絶えることなく、下位の者が上位の者を脅かす下剋上がはびこっていた。
一方で、王侯貴族は血縁よりも才能や知恵ある者を採用し強勢を計るようになった。
こうした中、独自の主張を持つ多様な思想家集団「諸子百家」が生まれた。
彼らの多くは王侯貴族に仕官し政策や術策を提言した。
このような紀元前6世紀に孔子は生まれた。




<  2.  The Confucius traveling on foot  >
< 2. 孔子の遊説行脚 >

The act of the Confucius
He worked his way through school, served a historic state ”Lu”and became a prime minister.
However, he was balked of his hope and opened a private school to common people.
After that, he visited states in each places with disciples, preached his ideal politics, and requested to get into the government service.
After all, he couldn't realize his dream, came back to his hometown, and devoted myself to organize old documents that had been handed down to the state, and to educate people.


孔子の行い
孔子は苦学して由緒ある王家(魯)に仕え、宰相まで登りつめた。
しかし、彼は夢破れ職を辞し、民衆相手に私塾を開いた。
その後、弟子達と共に各地の王家を訪ね、理想の政治を説いて回り、仕官を願った。
結局、夢叶わず故郷に戻り、王家に伝わる古文献の整理と教育に専念した。


Afterwards
After the death of Confucius, his teaching was spread out by disciples, it was as popular to common people as Bokka at that time.
Bokka advocated a love of humanity, pacifism, faith, and a simplification of rites
, and conflicted with a scholar of Confucianism, after that it was ruined.
The Confucianism became the state religion of the Han empire in the second century B.C., and existed as an indispensable for the most of governments afterwards.
It was introduced into Korean Peninsula and Japan before long, and the Confucianism took root in the East Asia as morality to keeping social order.
Sacred books of Confucianism(the Four Books and Five Classics of Confucianism) consisted about old documents on the history and formality of the states that Confucius imitated.
“The Analects of Confucius” is one of the sacred books, and is a book that his disciples wrote down the words and acts of Confucius in.
Mental attitude and how to get along in life are written in the book.


その後
孔子の死後、その教えは弟子達によって広まり、民衆の人気を墨家と二分した。
墨家は人類愛、戦争反対、信心、祭儀の簡素化を訴え儒家と対立し、後に滅んだ。

紀元前2世紀、儒教は漢帝国の国教となり、その後も国政に不可欠なものとして存続した。
やがて朝鮮半島や日本に伝わり、儒教は東アジアに社会秩序をもたらす道徳として定着した。

儒教の経典(四書五経)は孔子が模範とした王家の歴史や儀礼や易(占い)の古文献が集められたものです。
論語ものその一つで、弟子達が孔子の問答や言行を記したものです。
そこには心構えや処世術が書かれている。




< 3. a Confucian temple >
< 3. 孔子廟 >

Thought of the Confucius
He thought policymakers must become better to end the turbulent age.
Therefore, he said it was important that the policymaker doesn't depend on strict penalty and machinations, treats people with a good heart, and must be worshiped by people.
He thought that the model for this is a dynasty " Zhou " approximately 500 years ago.

The basics are "Ren" and "Li".
"Ren" means benevolence or humaneness, and then it was necessary that policymakers seek after virtue and common people have morals.
"Li" means formality or rites, and then it aimed at the succession of the social order (patriarchy, ancestor worship).

He reproved that disciples depended on God, on the other hand, he thought succeeding to the rites make sense.
He didn't deny royal politics, avoided religious things, advocated the revival of traditional mind and norm daringly in the turbulent age.


孔子の思想
彼は、この戦乱の世を終わらせるには為政者が良くならなければならないと考えた。
その為には、為政者は厳格な罰則や謀略に頼るのではなく、善良な心で民に接し、民から敬われることが重要とした。
その手本は、五百年ほど前の周王朝にあるとした。

基本は「仁」と「礼」です。
「仁」とは、自己抑制と思いやりを指し、為政者には「徳」、民には「道徳」を求めた。
「礼」とは、礼儀や祭儀を指し、社会秩序(家父長制、祖先崇拝)の継承を目指した。

彼は、弟子に神を頼ることをたしなめたが、一方で、祭儀を守ることは天の意志に叶うとした。
彼は王家を否定せず、宗教的なものを避け、戦乱の世に敢えて伝統的な精神と規範の復活を訴えた。

Point of the Confucianism
Confucius disfavored the politics that puts emphasis on law of punishment and reward, and put emphasis on conscience.
On the other hand, he thought that policymaker (king) with virtue was indispensable for good politics.
This thought was not accepted in the times of the war, but the situation changed when a unified country appeared.
In other words, the doctrine that taught people to have to obey morality,  succession of social order, and politics (King), administered to national stability rightly. 

This continues the next time.


儒教のポイント
孔子は、人々を功利的にさせる法重視(信賞必罰)の政治を嫌い、良心を重視した。
一方で、良い政治には徳を持った王こそが不可欠と考えた。
この考えは、戦乱の時代には受け入れられなかったが、統一国家が出現すると状況は変わった。
つまり、人々に道徳や社会秩序の継承、政治(王)に従うべきと説く教義は、国家の安定にまさに合致するものでした。


次回に続く。




20170101

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 21: 車窓から見たリガまでの景色



 *1



今日は、バスの車窓から見たタリンからリガまでの景色を紹介します。



< 2. ドライブルート >

上の地図: 青線が今回走った道路と思われます。
走ったのはエストニアの首都タリンからラトビアの首都リガまでです。
途中、A点とB点を通過したのは確認できました。

下の写真: 昼食後、タリンの旧市街を出た所からバスに乗って、次のリガに向けて出発します
これ以降の写真はすべて撮影順に並んでいます。



< 3. タリンの街並み >

これらの写真はタリンの中心部を出発してから私達のバスで15分以内の様子です。
走るとすぐ木々に囲まれた閑静な住宅街を抜けることになります。
小さな首都だと言うことがわかっていただけると思います。



< 4. 郊外 1 > 

これらの写真は出発してから20分ほどの景色です。



< 5. 郊外 2 >

郊外に出ると、道路の両側はほとんど上の写真か、下の写真のような樹林に囲まれています。
写真は変化のあるもの、特徴のあるもの、景色の良いものを選んでいますので、実感としては退屈なバス旅行かもしれません。
私に取っては、自然や暮らしがわかるので、楽しいのですが。



< . 途中の景色 1 >

上の写真: この手の光景を時折見かけるのですが、不思議な感じがします。
一人でサイクリングやランニングしたりする姿や、道路脇を一人か二人で歩いていたりする人を見たのですが、周囲に民家やバス停、建物を見なかった。
なら不安です、また冬はどうするのか不思議に思いました。

中央の写真: 今回のドライブでは、大きな川を数回渡りました。
ロシアの中央部に比べて、やはり海沿いは水や川に恵まれている。

下の写真: この道路上の川との写真は、地図のA地点のものです。



< .  途中の景色 2 >

上の写真: この街並みもA地点のものです。

中央の写真: 看板に地図のA地点の表示が見えます。
この看板上のA地点の街との間にはバスで30分ぐらいの距離があります。



< . 国境検問所のなごり 1 >

上の写真: 広い耕作地の中にポツンと小島のような森があり、その中に一軒の民家が見える。
日本のような民家が密集している農村地帯の景観は道路から見ることが少ない。

中央の写真: 地図のB地点です。
今は検問所は無くなっているのですが、その建物がレストランとコンビニになっています。

下の写真: 検問所跡の駐車場から今走って来た道を振り返っています。



< . 国境検問所のなごり  >

上の写真: 国境検問所跡の駐車場からラトビア側を見ている。

下二枚の写真: これからの写真はすべてラトビアの景色です。
景観はエストニアと変わらないと思いますが。



< 10. ラトビアの景観 1 >

上の写真: 私の記憶では、この日のドライブで道路沿いで見た教会はこれを含めた二カ所のみだったと思います。
すべて歴史的なものではなく、現在の村人の為だと思います。

中央の写真: 広大な森と耕作地が見えます。

下の写真: 植林を思わせます。



< 11. 特徴ある景観 >

上の写真: タリン以降、この一瞬がバルト海を見た最後でした。
地図では海沿いを走っているのですが、海からは離れているか、樹林に遮らて見るチャンスはなかった。
これから訪れる三つの首都リガ、ビリニュス、ワルシャワは川沿いにはあるが海からは離れています。

中央の写真: 実は中央の構造物は珍しく微かに高い起伏の上に建っているのです。
エストニアの最高標高は318m、ラトビアの98%は標高200m以下です。
この地域はほんとうに平な平原なのです。

下の写真: 大きな湖です。




< 12. 街 >

車窓から見た郊外の民家は、ロシアに比べ、エストニアやラトビアの方が勝っているように見えた。
ロシアのものは痛みが多く、古いようです。



< 13. リガに入った >

夕暮れも近づく頃、大きな川や湖を渡るとリガの街並み見え始めました。


次回に続きます。



20161229

東京裁判とパール判事 1: 例え話

 
*1

連載を始めるにあたり、このテーマの全体像を例え話にしてみました。


題名 「大泥棒とコソ泥と神様」


 
*2


或る所に大泥棒とコソ泥が競って人々に乱暴を働いていました。
とうとう、大泥棒はコソ泥を捕まえ、珍しく裁判にかけることにしました。

大泥棒  
「お前達コソ泥は多くの人を殺し、物を奪い、人々を不幸のどん底に陥れた。
これは死罪に値する。」

コソ泥 
「私達は大泥棒から身を守る為にコソ泥になった。
私達の残忍な殺し方が罪になるのなら、大泥棒の落とした爆弾の罪はもっと大きいはずです。
あなたがた大泥棒が数百年間行って来た事と比べれば、私達コソ泥のしたことなど屁でもない。」

大泥棒
「しかし、今回の大惨事はお前らコソ泥が始めたことで起きたことは明白である。
この裁判では、お前らに今回の大惨事の責任を問うものであり、過去のことは問題外である。」

コソ泥
「そりゃ片手落ちと言うものですよ。
ましてや泥棒同士の殺しや盗みを罰する法律はありやしません。
法律も無いのに、罰するなど泥棒の風上にも置きやしません。」

大泥棒
「却下する。証言を聞きなさい。」

被害者
「私達はこのコソ泥達に口では言えないほどの残虐な仕打ちを受けました。」

コソ泥の仲間A
「私は彼らにやり過ぎだと言ったのですが、逆に殺すぞと脅されました。」

大泥棒
「コソ泥の罪は明白であり、頭目は即刻、死刑とする。」







 
*3

ここで、一人の神様が現れ、大泥棒を諭しました。
「この裁判は間違っている。
コソ泥は大泥棒を真似たに過ぎない。
また、あなたがた泥棒は全員で泥棒間の争いを裁く法を作っていないではないか。」

一方、コソ泥にも諭しました。
「あなたがたはほんとうに酷いことをした。
法が無い以上、頭目の死刑は問題だが、あなた方は大いに反省しなければならない。
当然、残虐なことをした人は裁きを逃れない。」


コソ泥の仲間B
「さすが神様だ! 我々、コソ泥の汚名はそそがれた。
私達の仲間は悪くはなかったのだから、被害者に謝罪する必要はない。」

神様はコソ泥の家族たちにこう言い残しました。
「私がなぜ無罪と言ったのか、その真意を汲み取って欲しい。
このまま大泥棒の身勝手を許すと、益々増長し、人々はより大きな悲惨な目にあうだろう。
あなた方こそが、この試練を教訓とし泥棒稼業から足を洗うのです。
決して大泥棒と組せず、率先して世界から泥棒を無くすようにしなさい。
その為に、私は「日本は無罪」と言ったのです。」

今、この神様は雲間から悲しそうな目で下界を見ていることでしょう。

終わり。

この連載をいずれ始めます。



注釈
大泥棒は連合国、コソ泥は日本です。
大泥棒の数百年の行為とは帝国主義や植民地政策のことです。
大泥棒の爆弾とは原子爆弾のことです。
今回の大惨事とは第二次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争です。

泥棒同士の争いとは国家間の戦争で、これを裁く国際法はまだない。
神様とはパール判事です。


大泥棒の身勝手とは、自衛と称して軍事介入し、冷戦下で代理戦争をやらせ、ベトナム戦争を行い、中東に介入し戦火を拡大させていることなどです。

20161228

Bring peace to the Middle East! 56: when religions were born 4: Buddhism

中東に平和を! 56: 宗教が誕生する時 4: 仏教 




< 1. A Buddha statue >
< 1.仏像 >

This time, I investigate the birth of Buddhism.

今回は仏教の誕生を追います。

The times when Buddha was born
The Indian ancient civilization was born in the Indus basin, but already ruined.
Afterwards, Aryan invaded from the Central Asia, settled down in the upper and middle basin of the Ganges River as they were ruling over the indigenous people.
Then they developed abundant festival, myth, and paean in the last 1000 years and created Brahmanism.
The Brahmanism took root from royal families to every villages
Royal families repeated luxurious festivals, Brahman (priest) made the doctrine and the proceeding of the religious service an absolute secrecy (oral transmission of tales), and their authority exceeded lords occasionally.

A lot of critical freethinkers appeared since about the seventh century B.C., and Buddha played an active part in about the fifth century B.C.
The farming evolved in this area by ironware these days, and trade also developed.
And tribal societies evolved into city states, and a large number of the nations competed for hegemony and repeated war.
A kingdom of Buddha's father became a prey of a great power, and died out.


釈迦が生まれた時代
インドの古代文明はインダス河流域に生まれたが既に廃れていた。
その後、アーリア人が中央アジアから侵入し先住民を支配しながらガンジス河の上中流域へと定住した。
彼らはそれから千年の間に豊富な祭儀と神話、賛歌を発展させ、バラモン教を生み出した。
バラモン教は村々から王家まで根を下ろしていた。
王家は贅沢な祭儀を繰り返し、バラモン(僧)は教義や祭祀手順を極秘(口頭伝承)にし、彼らの権威は王侯を凌ぐこともあった。

紀元前7世紀頃から、批判的な自由思想家が多数出現し、釈迦は紀元前5世紀頃に活躍した。
この頃、この地域は鉄器により農耕が進み、また交易も発展していた。
そして部族社会から都市国家へと進み、多数の国家が覇権を競って戦争を繰り返していた。
釈迦の父の王国も強国の餌食になり滅んだ。




<  2.  Festival  >
< 2. 祭儀 >


The act of Buddha
Buddha was a prince of the small country of the north India, but he threw all things away, and took off on a journey of contemplation.
After getting the enlightenment, he organized a group of live-in followers (samgha), went around villages together and missionized.
In the end, he died surrounded by the followers at 80 years old.

Buddha tried to preach it easily without using difficult concepts that had spread in those days, and was unrelated to the miracle. Annotation 1
He refused the festival-centered Brahmanism, and preached to people about "Realize a truth".
For example, it is to realize "Life is pain" and "obsession and greed bring suffering".
He said that the people could acquire it by experiencing simple life and doing righteous deed, without doing ascetic practices.
Therefore he established religious precepts necessary for the life of live-in followers.

釈迦の行い
釈迦は北インドの小国の皇子であったが、すべてを捨て思索の旅に出た。
彼は悟りを得た後は出家集団(サンガ)を作り村々を巡って伝道し、弟子たちに囲まれて80歳で死去した。

釈迦は、当時流布していた難解な観念を用いず平易に説くことを心掛け、奇跡とも無縁でした。注釈1
彼は祭儀中心のバラモン教を拒否し、人々に「真理を悟る」ことを説いた。
例えば、それは「人生は苦である」「執着や我欲が苦しみをもたらす」を知ることです。
これを苦行ではなく、人々は質素な生活と正しい行いを通して体得出来るとした。
その為に、出家集団の生活に必要な戒律を定めた。

Afterwards
After Buddha died, the teaching was handed down by the disciples, and the sacred books were codified the several hundred years later.
Many kingdoms protected the Buddhism, and in addition, performed the enlightenment.
Thanks to it, the religious community developed, but it became specialized, split up and came to stay away from the people.


On the other hand, many graves (stupa) which enshrined ashes of Buddha were constructed in many places, and a lot of believers began to visit.
Buddha statues were born there since about the first century A.D., and the believers began to make the sacred books of Mahayana Buddhism in plenty.
Thing they wished was to get the saving grace by worshiping the Buddha as a god and praying even if they remained in lay believers.

After that, the Buddhism was at the height of the prosperity, spread to the Southeast Asia, and spread from the Central Asia to the East Asia.
On the other hand, the Brahmanism began to change to Hinduism being close to the people.


その後
釈迦入滅後、教えは弟子たちにより語り継がれ、数百年後に経典が成文化された。
多くの王国は仏教を保護し教化も行った。
おかげで教団は発展していったが、専門化し分裂し民衆から離れていった。

一方、釈迦の遺骨を祀る墳墓(ストゥーパ)が各地にたくさん作られ、信者らが多数訪れるようになっていた。
紀元1世紀頃、そこから仏像が誕生すると共に大乗仏教の経典が信者によって多数作られ始めた。
それらが目指したものは、釈迦を仏(神)と崇め、祈ることで在家のままでも救いが得られると言うものでした。

この後、仏教はインドで全盛期を迎え、東南アジアや中央アジアから東アジアへと広まっていった。
一方、バラモン教は民衆に密着したヒンドゥー教へと変容していった。




<  3.  A big grave (stupa)  >
< 3. 墳墓(ストゥーパ) >

Point of the Buddhism
Buddha was negative about autocratic kingdoms, and also about economic activities being likely to become greed.
In addition, he was unrelated to Savior and God.
Therefore, at first, the Buddhism was far from the politics, but kingdoms protected the Buddhism for helping of social stability, and the religious community received favors, too.
It would not conflict with the national law, because the law established by Buddha was a religious precept of the group of live-in followers, only encouraged simple life and did not establish penal regulations.

Probably, the Buddhism was received by many nations by the condition and the popularity of it, and would have developed into a world religion.

This continues the next time.


仏教のポイント
釈迦は横暴な王国や私欲に走る経済活動に否定的であった。
また救世主や天上の神とも無縁であった。
したがって政治から離れていた仏教だが、王国は社会の安定に繋がるとして仏教を擁護し、教団も恩恵を受けた。
釈迦が定めた法は出家集団の戒律であり、質素な生活を奨励し、罰則を定めなかったので、国家の法とは抵触することがなかっただろう。

おそらくこの事と大乗仏教の人気が、多くの国家に受容され世界宗教へと発展することになったのだろう。


次回に続きます。


注釈1.
当時のインド哲学(ヴェーダ)は、宇宙原理(ブラフマンとアートマン)で世界の根本を説明出来るとし、これから梵我一如(ブラフマンとアートマンは同一)の思想が生まれていた。

また、輪廻転生(人は前世の因果を受けて生まれてくる)の観念が定着していた。
この観念はインドの自然風土に背景を持つが、バラモンによって階級差別を合理化するために一層強化された。
これは人々に恐怖であって、この無限のサイクルから脱する為に解脱を望んだ。


20161226

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 20: タリン 3





*1


今日は、タリンの旧市街「下町」を紹介します。
ここで昼食をとって、この街とお別れになります。



 
< 2. 展望台の眺めと地図 >

上の写真: 同じ「山の手」にある前回とは異なる展望台からの眺めです。
狭い展望台ですが、より東側の旧市街を望むことが出来ます。
地図の番号Sがこの展望台です。

下の地図: 今回、紹介する観光ルートです。
上が北です。
Sから始めて、Eまで行って終わりました。
Bがメインになるラエコヤ広場です。


 
< 3.下町に向かう >

上の写真: 展望台から東側を見ている。
下の写真: この坂を下ると「下町」に行きます。


 
< 4. 下町に通じる坂と聖ニコラス教会 >

2枚と下左の写真: 「短い足の通り」と門塔。
かつて「山の手」と「下町」を行き来するのは二か所の通りしかなかった。
その内の一つで狭くて急な坂道の「短い足の通り」です。
夜は、この門塔で扉が閉められた。
写真は「山の手」から「下町」に下る順番に並んでいます。

下右の写真: 聖ニコラス教会。
13世紀前半にドイツ商人の居住区の中心に建てられた教会です。
ここには15世紀後半に描かれた「死のダンス」があります。
中には入っていません。


 
< 5.ラエコヤ広場に到着 >

上の写真: 通りから広場が見え始め、その向こうに聖霊教会の尖塔が見える。
下の写真: 奥右手の建物の地下のレストランで昼食をとりました。



 
< 6. ラエコヤ広場 1 

上の写真: 今来た方向(西側)を振り返っています。
左の尖塔は聖ニコラス教会のものです。

下の写真: 同じ位置から、南側にある旧市庁舎を望む。
この建物は14世紀後半に建てられ、15世紀に現在の形になった。
タリンは1248年に自治都市になり、またハンザ同盟に加わり発展した。


 
< 7.広場から通りへ >

上の写真: 旧市庁舎の横から広場の北側を望む。
下の写真: 旧市庁舎の東南側にある通り。
中世には市が立った。


 
< 8.ドミニコ修道院 >

上左の写真: 旧市庁舎を真横から見た。

上右の写真: ドミニコ修道院(右側)の横の通り。

下の写真: ドミニコ修道院。
1229年にドミニコ修道会はトームペア(山の手)に修道院を建てたが、帯剣騎士団に敗れ、この場所に立て直した。
宗教改革の折に破壊され、現在は改修され博物館になっている。


 
< 9. 城壁 >

上の写真: 旧市街東側の城壁。
この上の回廊は有料で歩くことが出来ます。


下の写真: ヴィル門。
かつては陸路で街に入る場合の正面玄関でした。
14世紀から建てられた城壁の一部です。
向こうに新市街地が見えます。

ここを出て、次の都市リガに向かいました。


 
< 10. 素晴らしい!! >



 

< 11.様々な光景 >

上左の写真: ラエコヤ広場で見かけた風変わりな看板。
後でわかったのですが、ここはヨーロッパでも最古の薬局の一つでした。
ここは「市議会薬局」で、壁には1442年と表記されており、現在も営業しています。
看板の蛇と器は、日本で言えば漢方薬のマムシとお椀でしょうか。
ここは旧市庁舎の反対側にあります。

上右の写真: 旧市庁舎のドラゴンの雨樋。

下2枚の写真: 広場で見かけた人々。

あとがき
ここではショッピングが出来る自由時間があり、妻は楽しめたようです。
これでも残念ながら旧市街の一部しか見ていない。
多くの観光客が中世の街並みを楽しいでいました。

ロシアでもそうでしたが、ここでも中国の団体客が眼につきました。
特にホテルや展望台での傍若無人さには閉口しました。
なかなか周囲への配慮が行き届くまでには年月がかかるのかもしれません。
私も気をつけなけらばならないと自戒しました。

半日、首都の旧市街を巡っただけで、一国の歴史と社会を知るのはほとんど不可能ですが、やはり直に歩いて目に焼き付けることで、理解が深まって来ます。
旅は、私を最高に興奮させ、世界を身近にさせてくれます。


次回に続きます。


20161225

Bring peace to the Middle East! 55: when religions were born 3: Christianity

中東に平和を! 55: 宗教が誕生する時 3: キリスト教






< 1. Jesus carrying a cross on his back >
< 1.十字架を背負うイエス >

This time, I investigate the birth of Christianity.

今回はキリスト教の誕生を追います。

The times when Jesus was born
Foreign rulers, Alexander the Great and the Roman Empire respected Judaism, and it was able to remain.
In fact, it was in name only.
The priests in the temple were connected to royalty and titled nobility, cooperated with the Rome Empire, and pushed forward Hellenization.
On the other hand, a religious community aimed to back to the source and advocated an emphasis on the Low, and they strongly opposed the former.

In addition to this opposition, a dissatisfaction toward a rule of the Rome and an expanding disparity in wealth blew up, and Palestine in the first century entered the period of war.
Radical religious communities and independent factions rose in arms, and robber bands came to frequently appear in each place.
In addition, a lot of persons who represented themselves as a savior in each place appeared.


イエスが生まれた時代
異国の支配者、アレクサンダー大王もローマ帝国もユダヤ教に敬意を表し、ユダヤ教は存続出来た。
だが、その内実は形骸化していた。
神殿の祭司達は王侯貴族と繋がり、ローマに協力しギリシャ化を進めた。
それに対して原点回帰を目指し、律法重視を訴える教団などが勃興し強く対立した。

この対立に加えて、ローマの支配、貧富の差拡大への不満が爆発し、紀元1世紀のパレスチナは争乱へと突き進んだ。
過激な教団や独立派が武装蜂起し、各地で盗賊団も跋扈するようになった。
また各地で救世主を自称する者が多数出現した。




< 2.  People in the fort of Masada died a heroic death  >
< 2. 壮絶な最期を遂げたマサダの砦 >

In 66 A.D., the Jewish radicals caused a riot, and the revolt spread through the whole land.
The Roman forces devoted so many troops to it and exterminated the rebel army and destroyed the Jerusalem thoroughly.
At last, the Jewish people was ousted from the Palestine, and completely lost their own country.
The Judaism could escape from the ban of their religion, but came to be not able to operate in the Jerusalem.

紀元66年、ユダヤの過激派が暴動を起こし、反乱は全土に広がった。
ローマ軍は大軍を投じて反乱軍を殲滅しエルサレムを徹底的に破壊した。
ついにユダヤ民族はパレスチナから追放され、完全に国を失った。
ユダヤ教は禁教を逃れたが、エルサレムで活動が出来なくなった。


The act of Jesus
Jesus strictly criticized the priests and corruption of the temple and objected to the emphasis on the Low of the reformist.
He went around to teach and preach for two years and got ardent believers and the Apostles.
I think he did not deny the Judaism but appealed the reform.

However, the priests and authorities regarded the Jesus as dangerous, and executed him.

イエスの行い
イエスはユダヤ教の祭司や神殿の腐敗を厳しく非難し、また改革派の律法重視にも反対した。
彼は2年間ほど民衆に宣教して回り、熱烈な信者や使徒を得た。
彼はユダヤ教を否定したのではなく、改革を訴えたのだと思う。
しかし、ユダヤ教の祭司と権力者層はイエスを危険視し処刑した。




<  3.  apostle Paul >
< 3. 使徒パウロ >


Afterwards
After the death of Jesus, the teaching expanded to the west by the activity of the Apostles.
Apostle Paul claimed that a revival of the Jesus would soon happen while he had promoted the propagation to pagans.
He said that the subordination to an emperor did not contradict your faith in the one God.
His activity and guidance became a cornerstone which developed Christianity into a world religion.

After intense oppression, in A.D. 313, the Roman Empire assumed the Christianity the state religion.


その後
イエスの死後、使徒などの活躍によって教えは西方に広まった。
使徒パウロは、異教徒への布教を推し進める中で、イエスの復活が近いうちに起こると訴えた。
彼はまた唯一神への信仰と皇帝への従属は矛盾しないとした。
彼の活躍と先導がキリスト教を世界宗教へと発展させる礎となった。

激しい弾圧の後、ローマ帝国は紀元313年にキリスト教を国教とした。


Birth of the Bible
After the half of a century when Jesus died, the New Testament was made by the letters of Apostles that were edited to convey the words and acts and the teaching of the Jesus.
The Old Testament took a role of a prophecy that Jesus is a savior.


聖書の誕生
新約聖書は、イエスの死後半世紀を経て、イエスの言行と教えを伝える為に使途達の手紙などが編纂され誕生した。
旧約聖書はイエスが救世主だとする預言書の役割を担うことになった。


Point of the Christianity 
The most epoch-making doctrine seems to be "Repent" and "Love neighbors".
This means that the important point moved to "mind" of each person from "law" imposed on the person.
This viewpoint was common among religions and thoughts that was born in the world around 500 B.C., such as Confucianism, Buddhism, and Greek philosophy.
The Christianity had been affected by the Greek thought from the early days to the Middle Ages.
During the process of Christianity's developing in Rome, Christianity compromised with the emperor (politics), but the Pope had almost separated from the emperor.
The Christianity had law, but the Rome already had developed the state law, and the both laws were applied at the same time, too.

This continues the next time.


キリスト教のポイント
この教義で画期的なのは「悔い改め」や「隣人を愛せよ」でしょう。
これは、課せられた「律法」から、各自の「心」に重点が移ったことを意味します。
この視点は、儒教、仏教、ギリシャ哲学などのように紀元前500年頃に世界で誕生した宗教や思想に共通するものでした。
キリスト教は初期から中世までギリシャ思想の影響を受けた。

キリスト教はローマで発展する過程で皇帝(政治)と妥協していくことになったが、概ね教皇と皇帝とは分立した。
キリスト教も法を有したが、既にローマは独自に法を発展させており、これも並立することになる。

次回に続く。