20150914

Went around Croatia and Slovenia 2: Lake Bled


クロアチア・スロベニアを巡って 2: ブレッド湖




< 1.  Assumption Church in Bled Island >
< 1. ブレッド島の聖マリア教会 >

Today, I introduce a lake in the Julian Alps of northwestern Slovenia. 

Once again, I take the liberty of resting from my blog for one week.


今日は、スロベニア北西部の山岳部にある湖を紹介します。

また、勝手ながら1週間ほど、ブログを休ませていただきます。



< 2.  The map of lake Bled >
< 2. ブレッド湖の地図 >
A blue point is our hotel. A blue arrow is the road from Ljubljana.
Two black marks are main spots for photographs on the lakeshore.
A red arrow shows the north.
No.1:  Bled Castle.
No.2:  Church.
No.3:  Assumption Church and Bled Island.
No.4:  A boat dock that is used for crossing to Bled Island.



青点が宿泊ホテル。青の矢印がリュブリヤナからの進路。黒マークが湖畔の主な撮影地。赤い矢印は北を示す。
番号1: ブレッド城。
番号2: 教会。
番号3: 聖マリア教会とブレッド島。
番号4: ブレッド島に渡るボート乗り場。


Lake Bled
This lake is at an altitude of 500 m in a basin that was surrounded by Julian Alps, its length is about 2 km, and is famous of scenic spot.
On the lake, there is one island that Assumption Church has been built in.
Bled Castle is on top of a cliff of the northern shore and there is other church at the right side.
A main street of hotel district led up from the lakeshore, and it is about 10 minutes from Hotel Krim that we stayed in to the lakeshore on foot.

Main itinerary
In an evening of August 30, we arrived at the hotel, and I walked around the lakeshore at the night.
In the next day, I took a picture from before dawn.
After breakfast, we went to the boat dock (No.4) for sightseeing, crossed to the island by a rowing boat, and fully enjoyed the landscape of Lake Bled from about 7:00 to 8:30.

ブレッド湖
この湖は長さ約2kmで、アルプスに囲まれた標高500mにあり風光明媚で有名です。
湖には聖マリア教会が建つ島があり、湖の北岸の断崖にブレッド城、その右に教会があります。
ホテル街が湖畔から伸びており、私達が泊まったHotel Krimから湖畔まで歩いて10分ほどです。

主な行程
8月30日の夕刻、私達はホテルに到着し、私は夜の湖畔を散策し、次ぎの日、夜明け前から湖畔で撮影した。
観光は朝食後、バスで④ボート乗り場に向かい、手漕ぎボートで島に渡り、約7時~8時半までブレッド湖の風景を満喫しました。



< 3.  Before dawn, Bled Castle (No.1) on the right side and the white church in Bled Island (No.3) on the left side. I photographed at 4:57      >
< 3. 夜明け前の①ブレッド城(右)と③ブレッド島の教会(左の白い塔)。4:57撮影 >




< 4.  Bled Castle
< 4. ブレッド城 >
Upper photo:  The castle (No.1) had glowed red and the church (No.2) had come whiter against the darkness, at 3:25.
Central photo:  The sky increased brightness a little, at 4:53.
Lower photo:  Before dawn, but Mt. Triglav that is the highest mountain in Slovenia with an elevation of 2864 meters began to become red.
This mountain is used to the national flag of Slovenia.
The sunrise of this day was about 6:20, but it seems to have become bright after 7:00.

上写真: ①赤く照らされた城と②白い教会が暗闇に浮かび上がる。3:25。
中写真: 空が微かに明るさを帯びて来た。4:53。
下写真: まだ日の出ではないが、スロベニアの最高峰トリグラウ山2864mが赤味を帯び始めた。5:25。
この山はスロベニアの国旗に使われている。
この日の日の出は6:20分頃で、実際、明るくなるのは7時過ぎでしょう。    



 5.  A view from the boat dock (No.4), at 8:30 >
 5. ④ボート乗り場からの眺め。8:30 >



< 6.  Crossing to the island >
< 6. 島に渡る >
Upper photo:  Assumption Church (No.3).
Central photo:  The inside of the church.
Many tourists tolled a bell that grants a wish with pulling the rope.
Sad thoughts of a woman in old days spread over the surface of the lake gently.
Lower photo:  This handsome man has succeeded to the family business of rowing boat for generations.
It was very fresh morning on the surface of the lake.

上の写真: ③聖マリア教会。
中の写真: ③教会の内部。ロープを引き、願いが叶うとされる鐘を鳴らす観光客。
一人の女性の悲しい思いが今も湖面に静かに広がっていく。
下の写真: 代々、手漕ぎボートの家業を受け継ぐ美男。
実に爽やかな朝の湖上でした。



< 7.  Views from the island >
< 7.島からの眺め >
Upper photo:  Bled Castle stands on the top of the cliff.
Central photo:  A view of east side.
World-class rowing matches often were opened here, and people had exercised that day also.

上の写真: 断崖絶壁に立つブレッド城。
中の写真: 東側の眺め。
ここは世界的なボート競技が行われる所で、この日も練習が行われていた。



< 8.  Comforting environments >
< 8. 心が洗われるひと時 >
Left photo:  Assumption Church (No.3), at 5:53.
Right photo:  Bled Castle (No.1) and a church (No.2), at 8:34.

左の写真: ③聖マリア教会。5:53
右の写真: ①ブレッド城と②教会。8:34



< 9.  A lakeshore >
< 9. 湖畔  >
Upper photo:  The main street of hotel district led up from the lakeshore.
Central photo:  A lakeshore that I visited in the morning.
Lower photo:  A family enjoyed lake bathing near the boat dock (No.4).

上の写真: ホテルやレストランが並ぶ湖畔に通じるメインストリート。
中の写真: 朝の散策で訪れた湖畔。
下の写真: ボート乗り場付近で湖水浴を楽しむ家族。8:35

Postface
It was very balmy time under a brilliantly sunny morning.
Bled lake was cleanliness and its nature was unspoiled.

This continues next time.


あとがき
快晴で清々しい朝でした。
ブレッド湖は観光化されているが清潔で自然保護が行きとどき、素晴らしい一時を過ごせました。

次回に続きます。




20150912

社会と情報 52: 戦った報道 9




< 1.シベリア出兵 >

今日は、報道が権力に屈服する瞬間を追います。
この年は、奇しくも日本が大陸進出へと大きく踏み出した年でもありました。




<2. 米騒動を伝える新聞 >

1918年に何が起きたのか
この年の7月、富山で米騒動が起こり、またたく間に全国に飛び火した。
8月、日本軍73000人がシベリアに出兵し、1922年まで駐留した。
9月、寺内内閣が総辞職し、次いで初の政党内閣が誕生した。

そして10月、新聞「大阪朝日」の社長と編集局長らが大挙辞任し、政府に陳謝する事態が起きた。



この事態が起きた背景を見ます
1914年に第一次世界大戦が起きたことにより、日本は好景気に沸いたが、インフレと経済格差が貧困層を襲った。
またこの大戦とロシア革命(1905年、1917年)は日本の軍事状況を大きく変えることになった。
一つに、1914年、同盟国英国は極東で戦闘が始まれば援助を希望すると伝えて来たが、日本はその前に軍隊を派遣し中国に駐留した。
さらに1918年、英仏米はドイツを牽制しロシア革命を阻止する為に、シベリア出兵を日本の7000名派兵で合意した。
しかし日本は10倍を越える派兵を行い、停戦で英仏米が撤退した後も駐留し、領土的野心を露骨にした。
この年、軍事費は国家財政の30%を越えた(日露戦争では80%)。

これらことも重なり米価は高騰し、地方の不満を爆発させ米騒動の引き金になった。




< 3. 当時の日本帝国の占領地 >

なぜ日本は軍事侵攻を押し進めたのか
前回見たように、1914年、不満を持つ国民は国会を取り囲んで海軍の山本内閣を打倒したが、この時、もう一つの不満要因があった。
1913年、南京で邦人3人が中国軍によって殺害されたが、その対応で政府は弱腰外交と批難され、右翼により外務省局長が暗殺されていた。

1914年、日本がドイツに宣戦布告した時、新聞「東京朝日」と「東京日日」は、この政府の方針について、軍事的・経済的利益拡大の意義を強調し、中国領土の侵犯を容認する社説をかかげて支持していた。
こうして軍部と右翼だけでなく国民世論も大陸侵攻へと傾斜しつつあった。

反権力をかかげて部数を伸ばして来た大手新聞も、国家主義から抜け出すことが出来ず、また政府を非難することで民衆の関心を惹く一面もあった。

但し、論説誌「東洋経済新報」のみ、これに警鐘を鳴らした。
「野心を遂げようとするならば、それこそ我が国家を危険に投ずる事件を発す」
これは30年後に実証されることになる。

結局、日本は日清戦争で得た領土(遼東半島)を三国干渉(露・独・仏)で放棄せざるを得なくなったことへの恨みと、大陸への権益拡大に釣られて侵攻を容認するようになっていた。



< 4. 襲われた神戸の鈴木商店 >

1918年の報道を追います
7月3日、富山で漁港の主婦達が積み出される米を見て米価高騰に業を煮やし、米屋を訪れ「米をよそへやらないで」と陳情した。
これが8月にかけて県内に広がっていった。
これを報じた富山の「高岡新報」の記事を県外紙が誇張した。
「2百余名の一隊が高松家を襲いたるさい、高松の妻が『苦しけりゃ、死んでしまえ』と言い放ち、一隊は大いに憤り、・・その女房を袋叩きにして引き揚げたり(高岡外電)」
これは「大阪毎日」の記事だが、「大阪朝日」も変わりはなかった。
この報道は事実ではなかったが、これが引き金になり、9月には日本全国に騒動が飛び火した。
各新聞は騒動を同情的に
報道し政府を非難する大キャンペーンをはった。
この間、打ち壊しや放火が起き、炭坑では出動した軍隊に対してダイナマイトで抵抗する事態が発生し流血事件も起きた。

政府は、先の「高岡新報」を発禁処分にし、米騒動に関する一切の報道を各紙に禁じた。
8月15日、これに対して新聞各社は報道禁止令の解除を求める決議を行い、内務大臣に申し入れを行い、大臣は折れた。
8月25日、その余勢をかつて大阪で朝日新聞社長が座長となり86社が集まり、「米騒動の責任追及、シベリア出兵と言論弾圧の反対を掲げて、内閣弾劾」を決議した。

この状況を「大阪朝日」は報じた。
「・・誇りを持った我が大日本帝国は、今や恐ろしい最後の裁きの日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の火とが呟いた不吉な兆しが黙々として、・・・人々の頭に、稲妻のように閃く・・」

政府はこの文言を問題にし記事を発禁処分にし、さらに9月9日、政府転覆を目指すものとして朝日を起訴した。

9月21日、報道攻勢にさしもの寺内陸軍大将の率いる内閣も倒れた。
彼は日露戦争で貢献し、韓国併合を推し進め、巨額資金(西原借款)を中国軍閥に注ぎ中国に深く関わり、武断政治を行っていた。

9月28日、右翼が朝日の社長を襲う事件が起きた。
10月15日、「大阪朝日」は突如として、社長以下、多くの編集局長が辞任し退社した。
12月4日に判決が下され、朝日の執筆記者は禁固二ヶ月と軽微で済んだ。



< 5. 寺内首相 >

朝日に何が起きたのか
政府は「白虹日を貫けり」が秦の始皇帝暗殺を暗示させ、天皇や政府を害するものとした。
この因縁のつけ方は、秀吉が大徳寺三門の件で千利休を、家康が方広寺の「国家安康」で秀頼を追いつめるのに使ったものと同じです。

こんなことで簡単に大新聞が転向するものなのでしょうか

当時、関西では不買運動が起こり、右翼系新聞は朝日攻撃のキャンペーンを張り他紙も追随していた。
この右翼系新聞を動かしたのは内務大臣の後藤新平で、後に官僚出身の正力松太郎が読売を再建する際に多額の資金援助をしている。

一番、朝日が恐れていたのは新聞の発行停止の判決が出ることだった。
これを防ぐには判決が出る前に、朝日自ら政府に陳謝の礼を尽くすことで、政府はこれを待っていた。
そして、朝日は判決日の直前12月1日に、自ら違反したことを認め、改めることを新聞に載せた。

これを期に反権力の先鋒だった大手新聞は沈黙し、やがて迎合していくことになり、日本は太平洋戦争へとひた走ることになる。
記者たちの抵抗は続くが、さらなる一撃が待ち受けていた。


次回に続きます。





20150910

Went around Croatia and Slovenia 1: introduction


クロアチア・スロベニアを巡って 1: はじめに



 

< 1.  A cathedral of Kotor old city and castle walls that surround the mountain at the back
< 1.コトル旧市街の教会と山に巡らした城壁 >


I saw the sights of 4 countries (Slovenia, Croatia, Montenegro, Bosnia and Herzegovina) in the Balkan Peninsula facing the Adriatic Sea and Doha (Qatar) in the Arabian Peninsula.
It was very wonderful travel.
I was heavily involved in the glittering sights of the Adriatic Sea, in the magnificent nature, in the ancient city that keeps still living and in their life. 
I introduce this trip by many photographs from now.


私はアドリア海に面したバルカン半島の4ヵ国(スロベニア、クロアチア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ)とアラビア半島のドーハ(カタール)を観光して来ました。
実に素晴らしい旅行でした。
私は陽光輝くアドリア海と大自然、今も生き続ける古代都市と人々の暮らしにどっぷり浸かって来ました。
これから、多くの写真を使い旅行の様子を紹介します。



< 2.   Seeing Dubrovnik old city below from a top of the hill >
< 2. 眼下に見えるドブロブニク旧市街 >

Summary of this trip
I joined a tour organized by a tour company with my wife.
Travel schedule were from Saturday, August 29, 2015 to Sunday, September 6.
We shuttled between Kansai International Airport and Zagreb Airport via Doha Airport by airplanes.
We went around the actual place by a bus.

Good points of this trip
We visited five world heritages, two capitals, and other three sightseeing spots, and were able to contact the history, nature and people's life.
We were able to enjoy walk because there was the free time from approximately 1 hour to 1.5 hours in each sightseeing spot.
Almost everyday, we were able to enjoy walk around our hotel in morning and evening a little.

Slightly bad points of this trip
In the end of August, the lingering summer heat is still intense, and the shadow of photograph appeared strongly.
It was a little regrettable that there wasn’t a half day of free time.


旅行の概要
ツアー会社:(株)ジャンボツアーズ
ツアー名 :パート2 夢のクロアチア・スロベニア5ヵ国9日間
旅行日  :2015年8月29日(土)~9月6日(日)
主な行程 :関空・ドーハ経由・ザグレブ空港間を往復。現地は総べてバス移動。

この旅行の良かった点
催行人員14名で大型バスに乗ったので、移動が楽で観光がスムーズだった。
世界遺産5ヵ所と首都2ヵ所、観光地3ヶ所を訪れ、歴史と自然、暮らしに接することが出来た。
OPなし、全食事付きで最も安い旅行だった。
各観光地での自由時間が約1~1.5時間ほど有り、ほぼ散策を楽しめた。
ヨーロッパのバカンス時期だったので、その賑わいを感じることが出来た。
毎日のホテル着がPM6~7時台になったが、朝夕、ホテル周辺の散策が楽しめた。
ベテラン添乗員とツアー会社の誠意が感じられた。

少し不満な点
年のせいで、私は連日の徒歩観光で足が張ってしまった(体力の問題)。
私に不満はないが、3ヵ所のホテルは排水が不安でシャワーを使用した。
8月末は残暑厳しく、また写真撮影で陰影が強く出てしまう。
半日程度の自由時間が無かったのが少し残念だった。



< 3.  Maps indicate our tourist route >
< 3. 観光ルートを示す地図 >
Upper map:  A red frame shows 4 countries that we saw the sights.
Lower map:  No. 1 – 14 line up in order of the visiting, and show main sight spots (red point) and our hotels (blue point).
Orange lines show the route of our bus.
2 = Ljubljana. 3 = Lake Bled. 4 = Postojna Cave. 5 = the port town of Senj. 7 = Plitvice Lakes National Park. 8 = Neum. 9 = Dubrovnik. 10 = Kotor. 11 = Mostar. 12 = near Trogir. 13 = Split. 1 and 14 = Zagreb.

上図: 赤枠は観光した4ヵ国を示す。
下図: 番号1~14は訪問順序で、主な観光地(赤丸)と宿泊地(青丸)を示す。
橙色の線はバス移動の経路を示す。
番号の説明:②首都リュブリャナ観光、③ブレッド湖泊と観光、④ポストイナ鍾乳洞観光、⑤港町Senjで休憩、⑥プリトヴィッツェ近郊泊、⑦プリトヴィッツェ湖観光、⑧ネウム泊、⑨ドブロブニク旧市街観光、⑩コトル旧市街観光、⑧ネウム泊(2連泊目)、⑪モスタル市内観光、⑫トロギル近郊泊、⑬スプリト旧市街観光、①⑭首都ザグレブ泊と市内観光。



 

< 4.  Sightseeing in ancient cities >
< 4. 古都観光 >
A numeral in each photo is a numeral in the maps.
11:  Stari Most (stone bridge) in Mostar.
14:  Cathedral in Zagreb.
13:  Diocletian’s Palace in Split.


以下、写真の数字は地図の番号です。
11: 中央にモスタルの石橋。
14: 中央にザグレブ旧市街の大聖堂。
13: スプリトのディオクレティアヌス宮殿跡。



< 5.  The biggest waterfall in Plitvice Lakes National Park >
< 5. プリトヴィッツェ湖のプリトヴィッツェ滝 >



< 6.  Two natures that karst plateau made >
< 6. カルスト台地が造る自然 >
7:  Plitvice Lakes National Park.
Upper photo of No. 4:  Gate of Postojna Cave.
Lower photo of No.4:  Inside Postojna Cave.

7: プリトヴィッツェ湖。
4の上図: ポストイナ洞窟の入口・出口。
4の下図: 洞窟内。



< 7.  Splendid view >
< 7. 素晴らしい景観 >
3:  The church in an island of Lake Bled.
6:  Early morning around our hotel in the neighborhood of Plitvice Lakes National Park.
12:  Sunrise of Trogir old city viewed from a beach of our hotel.

3: ブレッド湖の島の教会。
6: プリトヴィッツェ湖近くのホテル周辺の早朝。
12: ホテルの海岸から見た古都トロギルに昇る朝日。



< 8.  Magnificent nature >
< 8. 大自然 >
A:  Mountain range on a border between Slovenia and Austria.
B:  A view of the Adriatic Sea (near Rijeka?).
C:  Fiord in the neighborhood of Kotor.

A: スロベニアとオーストリアの国境の山脈。
B: アドリア海を望む。Rijekaリエカ辺り。
C: コトル近郊のフィヨルド。



< 9.  Ttownscape
< 9. 街並み >
5:  Port town Senj of the Adriatic Sea.
D:  A fortress and town that stands on the cliff of Dalmatia area (the Adriatic Sea coast).
14:  The Triple Bridge and a church in Ljubljana.

5: アドリア海に面した港町Senj.
D: ダルマチア地方(アドリア海沿岸)の崖の上に立つ要塞と町。
14: リュブリャナの三本橋と教会。



< 10.  Various religions >
< 10. 様々な宗教 >
10:  An old church of Serbian Orthodox Church in Kotor. The inside is different from Catholic.
2:   Catholic cathedral in Ljubljana.
11:  An Islam church of Mostar.

10: コトルのセルビア正教会の古い教会(内部がカトリックと異なる)。
2: リュブリャナのカトリック大聖堂。
11: モスタルのイスラム教会。



< 11.  Touch to living >
< 11. 生活を感じる >
8:  A street in Mostar. The bullet mark of an outer wall shows a civil war of this time.
11:  The shore of Grand Hotel Neum. People enjoyed sea bathing at night.
14:  The premises in Zagreb Central Station at early morning.

8: モスタルの通り。外壁に銃弾跡が今次の内戦を物語る。
11: ネウムのホテルの海岸。夜に海水浴を楽しむ人々。
14: ザグレブ中央駅の構内。早朝の散策にて。



< 12.  Meal and shopping >
< 12. 食事とショッピング >
6:  A trout dish of a restaurant in the neighborhood of Plitvice Lakes National Park.
14:  Dolac Market (fruit and vegetable) in Zagreb was a full of tourists and local people.
E:  A roadside restaurant.

6: プリトヴィッツェ湖近くのレストランでマス料理。
14: 観光客と地元の人で賑わうザグレブのドラツ青果市場。
E: ドライブイン。



< 13.  Views from airplane and Doha >
< 13. 航空写真とドーハ >
F:  Views from airplane from Doha to Zagreb at little distance from Zagreb.
G:  A photo just before a landing to Doha.
H:  Souq Waqif ( market) in Doha.

F: ドーハからザグレブへの機内から撮影。ザグレブ近郊。
G: ドーハへ着陸直前に撮影。
H: ドーハのワキーフスーク(市場)を観光。



< 14.  People whom I met up >
< 14. 巡り会った人々 >
I:  Ban Jelacic Square in Zagreb.
J:  At a border checkpoint to Slovenia from Croatia.
H:  A local guide of Ljubljana.

I: ザグレブのイェラチッチ広場にて。
J: クロアチアからスロベニアに向かう国境検問所にて。
H: リュブリャナにて。現地のガイドさん。

Now, things that I think about this trip
Before going, I thought that Balkan countries became waste by the civil war and were underdeveloped.
But, I became to have good impression toward local people, while our bus had run on the shoreline of the Adriatic Sea and I had seen them at many towns.
I felt envious of the people who lived in a relaxed way in abundant or wild nature.
On the other hand, I touched a scar of the civil war and a traffic jam in a border checkpoint and saw difference between various races and religions.
Then a question arose.
Why did the people in this area have to suffer?

I introduce this travel and the appearance of Balkan countries from various viewpoints.

This continues next time.



今、思うこと
行く前は、バルカン諸国を内戦で荒れ、遅れた国々ぐらいしか思っていなかった。
しかしアドリア海の海岸線を走り、多くの町で地元の人々に触れていくと好感を持つようになった。
豊かであり荒々しくもある自然に、ゆったりと暮らす人々が羨ましく思えた。
一方で、内戦の傷痕や国境検問所の渋滞に接し、様々な民族と宗教の違いを見ると疑問が沸いてくる。
なぜ、この地域の人々は苦しまなければならなかったのか?

今回の旅行記も、様々な視点でバルカン諸国の様子をお伝えします。

次回に続きます。













20150829

社会と情報 51: 戦った報道 8





< 1.山本権兵衛第、16・22代の内閣総理大臣 >

今日は、国民と報道が続けて腐敗した政権を引きずり降ろした状況を見ます。
そこでは大正デモクラシーが光りを放っていた。

勝手ながら10日間ほど、ブログを休ませていただきます。



< 2. シーメンス事件の風刺画 >

この時代
明治の終わりから大正にかけて、多くの馴染みのある文学や事典が出版され隆盛を迎えた。
文学作品では夏目漱石「吾輩は猫である」、石川啄木「一握の砂」、芥川龍之介「羅生門」、事典では三省堂「辞林」、丸善「ブリタニカ」、文庫では岩波文庫、新潮文庫などが発刊された。
まさに出版と報道が一体になって政治と社会に物言い、国民はそれを期待した時代だった。

政権はどうなっていたのだろうか
1901年からの内閣を見ると、桂(長州陸軍)、西園寺(公家)、桂、西園寺、桂と元老のお手盛りで首がすげ替えられていた。
前回、紹介した大正政変で桂内閣は総辞職したが、次いで政権を取ったのは山本(薩摩海軍)だった。
それは山本が護憲運動を訴え議会の過半数を制していた政友会を閣僚の椅子を餌に抱き込んだからだった。
これは前任者の陸軍増強から、軍艦建造による海軍増強に代わっただけで、むしろ国庫の圧迫は酷くなり、国民の望んだ減税は遠のくばかりだった。



< 3. 村田保、貴族議員、法制官僚 >

この時、事件が起きた
1914年1月、ロイター電が入った。
「ドイツのシーメンス商会が高地位にある日本の海軍官吏に贈賄したること明である」(「東京新聞」の報)
この1ヶ月後、野党は内閣弾劾決議案を提案したが、多勢に無勢で否決された。
数万の民衆が議会を取り囲み、政友会本部、政府系の新聞社が襲撃され、ついには軍隊の出動で蹴散らされた。
さらに1ヶ月後、議会で一人の貴族院の老議員村田が、山本内閣に訴えた。
「この貴族院が、この海軍補充計画に大削減を加えましたのは、・・・今の内閣は、国家の体面を傷つけ、人民の世論に背き、・・・人民が営業税の苛税に苦しんでいるからです。」
「兵力を用いず凶器をも用いぬ者を、兵力を発して、これを鎮圧するとは陛下に対してもすまぬこと」
最後に、「もし大西郷が生きていたら、閣下も切腹せられるべき一人ではないか」と言い、辞職を迫った。
この発言で、彼は議員を辞めさせられた。



< 4. シーメンス事件の裁判を知らせる号外 >

新聞は事件をどう報じていたのだろうか
「東京朝日」は連載で海軍の不敗をキャンペーンした。
「海軍の痛嘆すべき不正行為、即ち収賄の源泉は30年前に発している。帝国海軍の最初の大臣に始まり、山本に至っては金の置き場所が日本一国では足らず、遠くイングランド銀行にまで隠しているほど」

「東京日日」も連載で海軍の金権体質を指摘した。
「大阪毎日」
「・・建造を海外に依頼しているが、・・・日本のエージェントは日本からの注文には、みな何割かのコミッション(5%?)を贈ることになっている。ゆえに海軍拡張を真面目くさって主張し要求するゆえんのものは私腹と私権を肥やすためと言われても仕方がない」

日清日露戦争を通じて、日本軍国主義は確立し伸長した。
国民はその軍国をむしろ助長さえした、しかし、やがて軍政や軍閥の横暴に嫌悪し始めた。報道もそれに加勢した。

記者達はどう行動したのか
民衆が議会を取り囲んだおり、警官隊が抜刀しで民衆に切りつけ、「東京日日」の記者も頭部に重傷を負った。
この事件を取り上げて攻撃した新聞はあいついで発禁を命じられた。

もはや座視するわけにはいかないとし、同年2月、全国記者大会を開いて言論擁護、原内相弾劾決議をおこなった。
さらに、その代表であった新聞「万朝報」社主が天皇への上奏文を書いた。
彼は、内閣への紙上攻撃を部下に任せ、演説会で弁舌を奮った。
一方、警察は「万朝報」社の門前で張り番し、版を差し押さえた。
この攻防は繰り返されたが、ついに山本内閣は退陣となった。

ここに日本の国民と貴族院、報道が力を合わせ、政府の横暴(薩長の軍拡競争、元老の暗躍、増税)に拒否を示し、二度まで内閣を退陣させた。



< 5、 「万朝報」の社主黒岩 >

しかし陰りも見え始めた
山本内閣が倒れた後、「万朝報」の社主は出馬をしぶる大隈を説得するために、全面的な協力を申し出た。
そして大隈内閣が誕生した。
しかし、これは彼の信条「反権力新聞」を放棄したことになる。
新聞は大隈の政敵政友会の打破に一役かい、第一次世界大戦の日本出兵を支持した。
こうして「万朝報」は御用新聞化し、読者はみるみる減り、昭和の初めには消えた。

次回は、報道の転機となった事件を追います。