20200611

世界が崩壊しない前に 29: 貧困と格差 4




*1


貧困や格差は経済を本当に悪化させるのだろうか?


**格差が拡大すると経済発展を阻害する**

(今の自由放任主義経済や金融偏重経済の問題は別に見ます)

多くの人は、日米の経済は株価が上昇し、好調だと首を傾げるかもしれない。
実態は、90%の国民の所得がほぼ伸びておらず、一部の人が恩恵を受けているに過ぎない(日本だけではないが)。

一番悲惨なのは日本です。

日銀が市中銀行に幾ら金をばら撒いても、まったくインフレが起きなかった。
(逆に、これをもってMMT(現代貨幣理論)は、日本政府は国債発行や税収に頼らずに、国民の為の財政支出が可能だと提言している。重要な指摘ですので別に解説します。)
実体経済は浮上せず、金融経済だけを潤したリフレ論者は迷惑なだけだった!

経済再生に失敗した理由は、単純だが重大な致命傷による。
国内需要を担う国民の90%の人々の所得が低下し続けているので、銀行に金をばら撒いても消費が伸びるはずがない。
つまりインフレ(2~3%)は起きない(アベノミクス前から自明だった)。

一方金持ちや大企業は消費や物づくり(実体経済)より利益率の高いに金融投資に大金を注ぎ込む。
現在、庶民の預金金利は0.1%(日本)だが、金持ちや企業の資金運用(米国のファンド)は8%ほどの利益を上げ続けている。

こうして格差拡大で消費は増えず実体経済も伸びず、それがまた格差拡大を広げているのが現在の経済システムなのです。


 
< 2. 表の顔 >

なぜこんな愚策がまかり通るのか。
政府は経済刺激と称して金融投資で利益が得られるように規制緩和と金融緩和を行う。
これは現在の経済システムがバブル崩壊を繰り返し、さらに巨大化しているからです。
政府はこの金融危機をリカバリーするために行わざるを得ないのです。
まるで蟻地獄、底無し沼のようです。


 
< 3. 裏の顔: 2012年と2016年の比較 >

努力は必要ですが、この表と裏の顔の違いを理解することは重要です。

あるジャ―ナリストは指摘する。
20世紀最大の二つの危機―1929年の大恐慌と2008年のリーママンショックに先行して格差が激しくなっていた。
今も?

ある経済学者は言う。
少数のエリート階級に資本が集中すると、デフレを誘発し、投機的バブルを招き、経済回復力の弱体化を招き、金融崩壊のリスクを高める。
衝撃が繰り返されると、信頼が損なわれ、経済成長が減速し、これがさらに格差拡大に結びつくと。

ある社会学者は、金持ちが地球を破壊すると言う。
経済格差が拡大すると、「虚栄的消費活動」が活発化し、資源の浪費を高め、これがまた資源の枯渇を早める。
この「虚栄的・・」とは、超金持ちの消費スタイルに近づこうと各階層の人々が真似る競争状態を指します。


 
*4

ここで基本に立ち返ります。

「自由競争こそが最高、格差など気にしない」
この考えがなぜ国民に浸透したのか?

実は、格差が縮小し最も経済が成長した時代は2回の大戦後と1930年代の大恐慌後でした。
この時期は、国家が強力に富裕層や金融家を抑えて、労働者の賃金向上などを図った(ニューディール政策など)。

この事実が現在のエリートや富裕層にとって都合が悪い為、大金を費やしシンクタンクや学者、マスコミを動員して否定しているのです。
真実は明白なのですが、多勢に無勢と言うところでしょうか。

これ一つとっても、格差が拡大してしまうと、ナチス支配と同様に反転の困難さがわかります。


次回に続きます。

20200607

世界が崩壊しない前に 28: 貧困と格差 3







*1

前回、貧困と格差は国によって作られていることを見ました。
貧困と格差は人権の問題に留まらず、危機をもたらすとしたら?


多くの人は、国が貧困と格差を是正し過ぎると、労働意欲を減じ競争心が無くなり、経済に悪影響すると信じさせられている。
だから悪化していても気にも留めない。

しかし事はそんな単純ではないし危険でさえある。
また格差が少ない国でも経済が豊かで成長している国があるので、明らかに誤解(洗脳)です。


**放置すれば騒乱や世界を後退させる引き金になる**

概ね二つのポイント、社会的なものと経済的なものがあります。

貧困な国ほど教育と医療、経済の水準が低くなり、人口増・伝染病・紛争を引き起こし易く、悪循環を招く。
外部からの衝撃、特に伝染病、大国の貿易や通貨の圧力に弱いために容易に悪化する。
こうして武力衝突、難民や伝染病などを周辺に、そして世界に広めることになる。
今回のコロナ危機で判明したように、先進国であっても格差が大きい米国や英国では弱者が感染爆発の被害者になった。


歴史を振り返れば、貧困と格差拡大は社会騒乱の引き金になっている。
それは大国や一度興隆した国ほど暴力的になるようだ。
ローマ帝国や中国の名だたる王朝が崩壊する時、格差が拡大し暴動が起きていた。

 
< 2.英国が帝国主義を終えた時期 >

グラフの赤線は英国がアフリカの支配を終えた時期を示す。
経済が後退し帝国主義に走った19世紀後半の大英帝国では、この2百年間で最も格差が大きかった
また他国よりも酷かった。

 
< 3. ドイツと日本のファシズム期 >

グラフの赤線はヒトラー総統の時代、緑の矢印は日本の大陸進出の時代を示す。
共に格差が酷い。
20世紀前半のドイツと日本は、一時の栄光の後に訪れた大恐慌が大失業をもたらし、貧困と格差による社会不安がファシズムへと突き動かした。


これは普遍的な社会現象と言え、様々な識者が警告を発している。

ある疫学者は、先進工業国23カ国を比較すると、健康指数が悪化するのは、GDPが下がった時ではなく、格差が拡大した時であることを発見した。
また同時に犯罪率、幼児死亡率、精神疾患、アルコール消費量などにも重大な影響を及ぼしている。

ある経済学者は、格差は改革の意欲をそぎ、人々の信頼を失わせ、フラストレーションを高め、政治や行政に対する信頼を失わせると指摘する。
また棄権が増え、選挙の票は金で買われ、富裕層が公的機関への支配を強めている。

まさに日米、先進国で起こっていることです。


次回に続きます。






20200606

世界が崩壊しない前に 27: 貧困と格差 2




*1

前回、世界と日本の状況を見ました。
今、世界で何が起きているかを見ます。


前回、世界の絶対的貧困率が減少する一方、国家間と国内の格差が広がっていることを見ました。


 
< 2.富裕層の所得の推移 >

米国の所得上位10%が1940~1970年代、全国民所得の35%を占めていたが、その後上昇を始め2007年には50%になった(上記グラフとは別)。
同時期、上位1%の占有率は10%ほどから24%になった。


 
< 3.世界の億万長者 >

格差の諸相

ほんの一握りの人間に富が集中し加速している。

1970年代、所得税の最高税率は英で90%を越え、米で70%あったが、その後英米共に40%まで急速に下げ、日本も追従した。

世界の株式と債券の総額は1980年10兆ドルだったが、2009年には126兆ドルになり、12.6倍となったが、この間の世界実質GDPは2.8倍に過ぎない


主な要因

大国や多国籍企業の身勝手な経済・外交・軍事的な干渉が発展途上国の貧困を助長している(アジア通貨危機など)。
せっかく途上国自身の努力、そして国際機関や先進国による支援などにより豊かさを手にしているのだが。

ニュー・ワールド・エコノミー(容易に国境を越える、瞬時に伝わる情報、日々進む知識集約化、熾烈な競争)が進み、教育・情報力や資金力などの差が益々格差を広げている。

以下が一番の元凶です。
ここ40年間、米国を筆頭に自由放任経済の国では、金融緩和と規制緩和(合併や競争激化など)によって巨大企業ほど収益が上がり、さらに減税(法人税、逆累進課税など)で富は集中し加速した。
さらに実体経済より金融経済で高収益が得られるようになったことで、実体経済に資本が向かわず停滞するようになった。

これにより経済が成長しても90%の国民の所得が伸びず、日本では低下すらしている。

様々な要因が絡んではいるが、けっして偶然ではない。

最も問題なのは、大資本や企業が野放しにされていると言うより、多くの先進国が競うように、これらを優遇していることにある。
当然、北欧などのように格差を押さえながら成長も手に入れている国は多い。


次回、貧困と格差の問題を見ます。

20200605

世界が崩壊しない前に 26: 貧困と格差




*1

貧困と格差が悪化し続けた先にあるもの・・

いつの世にも貧困と格差はあった。
動物は弱肉強食なのだから、これも自己責任だ。
自由競争こそが経済成長を約束する。
世界経済は成長しているのだから貧困や格差問題はやがてなくなる。

一方、歴史を振り返ると、悪化する貧困や格差が大衆の怒りを爆発させ、ファシズムや革命へと進む事例は事欠かない。

現在、世界はどちらに向かっているのだろうか?

最も豊かな国20ヶ国と最貧国20ヶ国の所得格差はこの40年間に倍増し、40対1になった(2000年で)。
この格差は開発が遅れているアフリカでさらに加速している。

それでは国内の格差はどうか?
アメリカではトップ5分の1と最下層5分の1の所得比は1990年には18対1だったが、2000年には24対1になった。
この間、大卒と高卒の学歴による収入格差も倍増している。
最初はアングロサクソン系(英米)の国々で目立ったが、現在急速に各国に広がっている。
国内の格差拡大は、ラテンアメリカでも1980年代か目立ち始めたが、現在では中国でも都市と農村の差が大きくなっている。

貧困はどうだろうか?
貧困には絶対的と相対的がある。
絶対的貧困とは2015年で1日1.25$以下の収入を指し、相対的貧困とは国民の所得中央値の半分以下の収入を意味する。


 
< 2. 2015年の絶対的貧困率 >

円の大きさと数値が絶対貧困率を示し、西アフリカなどでは最大58%になった。
世界の絶対的貧困率は1990年36%、2015年10%と減少傾向にあり、全体的に見れば世界は豊かになりつつある。
しかし、これは脆く、いとも簡単に崩れるだろう。
今回のコロナ危機などの衝撃は、貧困地帯により多くのダメージを与えるからです。


 
< 3. 2010年、OECD各国の相対的貧困率 >

このグラフから皆さんに読み取って欲しいことがあります。
それは同じ資本主義国でありながら北欧やベネルックスの国々は、すべて貧困率が低いと言うことです。
つまり貧困は自己責任だと納得してしまう前に、政治社会にこそ、その原因があることを知って頂きたい。


 
< 4. 日本の相対的貧困率の趨勢 >

相対的貧困率で日本はアメリカに次いで第4位になった。
二つのグラフから、日本はいつの間にか格差大国に墜ち、かつその傾向は強まっている。
2015年に貧困率が少し低下していますが、これは景気の波によるものです。
今後、コロナ危機による大規模な景気後退により、2008年のリーマンショック後のように貧困率は確実に上がります。

次回に続きます。



20200603

徳島の海岸と漁村を巡って 6: 宍喰に泊まる




*1

今回は、日和佐から宍喰までのドライブと、
宍喰の散策を紹介します。
2020年4月23日、宍喰で一泊しました。


 
< 2. 宍喰へのルートと宍喰マップ、上が北 >

上: 日和佐から宍喰までのドライブルート
青線で示されるルートは距離34km、所要時間約40分です。
前半は内陸部、後半は海岸沿いを走ります。

下: 宍喰の町
黄色線: 日和佐からのドライブルート
白四角点: 宿泊した「ホテルリビエラししくい」
ホテルは宍喰の町中にあり、海岸沿いの道の駅の隣にある。

赤線: 展望台Aへのドライブルート
赤矢印: 展望台A
橙色線: 徒歩による展望台Bへの路
白矢印: 展望台B
黄色矢印: 竹之島
この島が宍喰で一番の観光地ですが、私は間違って手前の岬しか行っていません。
この島には車で渡れます。


 
< 3. 途中の道 >


 
< 4. 途中の海岸線 >

大砂海水浴場の辺りでしょうか。


 
< 5. もうすぐ宍喰 >

下: 左が那佐湾
岬が道路に沿うように延びて、湾を成している。
岬の途切れた遠方に宍喰がある。


 
< 6. ホテルが見えた >

上: 「ホテルリビエラししくい」
ホテルにチェックインし、さっそく岬巡りに向かいました。

下: 岬の路(赤線)を行く
途中まで車で行き、次いで徒歩で展望台B(白矢印)に向かいました。
山つつじや桜が綺麗でした。


 
< 7. 四国のみち >

今回の旅行では、岬を巡る細い路を幾度か歩きましたが、どこもよく整備されていました。
多くは「巡礼のみち」とか「四国のみち」だったと思います。




 
< 8. 展望台Bから >

下: 左手が竹之島の港です。
この港から、通常なら海中観光船が出ています。
サンゴや熱帯魚が見れるそうです。
今回はコロナでやっていませんでした。


 
< 9. 展望台より >

上: 展望台Aから北の方を望む
宍喰の前に広がる水床湾を望む。

下: ホテルの部屋からの眺め
水床湾の右手の岬が、先程訪れた岬です。


 
< 10. 部屋から望む水床湾 >

上: 水床湾の左手を望む


次回に続きます。


20200529

中国の外縁を一周して 40: チベット仏教の寺






*1

今回は、麗江古陳から近いチベット仏教の普济寺を紹介します。
この地にはチベット仏教寺院が多い。
これはアジア大陸の悠々の歴史を物語っている。
少し驚いたエピソードも紹介します。

 
< 2. 地図、上が北 >

上: 麗江の位置を示す
黄色枠:麗江古陳、中央の白矢印:普济寺、白枠:束河古陳、黄色矢印:香格里拉。
雪を被った山が玉龍雪山で、その左側を上下に長江が流れている。

現在、麗江古陳からチベット圏東南端の都市、香格里拉までは長江沿いに車で200km、4時間の道のりです。
麗江からの観光ツアーがあります。
さらに香格里拉からチベットの古都ラサまではさらに車で1570km、24時間の道のりです。

今でさえ麗江からラサまでこれだけ遠いのですが、1300年以上前、道なき道を商隊や僧侶が馬や徒歩で行き交ったのです。
当時、茶葉古道は麗江を通り、左(西)に折れて、長江に沿った道だったようです。

下: チベットと雲南省、四川省間の主要な道
左上の雅安から始まる道が四川省成都に通じる。
左下に延びる道が、プーアル茶の産地で有名な普洱に通じる。


 
< 3. 古城忠义市场を出発 >

古城忠义市场の前は、すでに都市部の街並みです。
ここから西側の山に向かってタクシーで向かいます。


 
< 4. 普济寺に到着 >

普济寺は麗江にあるチベット仏教5大寺院―玉峰寺、福国寺、指云寺、文峰寺の一つです。
私がチベット寺院に連れて行ってくれとガイドに頼んで、来たのがこの寺です。
この寺は麗江古陳から最も近いが、他の寺院の方が有名です。

下: 普济寺の門
木々に覆われた小高い丘の上に建っています。
この寺は一辺70mほどの壁に囲まれています。
門の両側に大きなマニ車が見える。
ここの創建は清朝の乾隆帝の時代、1771年で、後に数度修復されている。




 
< 5. 境内に入る >

私達が入った時は、住職以外に人はいなかった。
古い建物が境内を囲み、大きくない境内は樹木で一杯でした。
春になると梅の花が綺麗だそうです。
この地域の寺には紅梅が多いようです。


 
*6

 
< 7. 本堂に入る >

上: 入り口の左にあるマニ車
信者がこれを回すと、回した数だけお経を読んだことになり、功徳があるとされる。
側面にマントラ(密教の真言)が古いインド文字で刻まれている。
この筒の中には経典が納められている。

左下: 右が入口

右下: 内部に入ると目の前に、天井から吊り下がっている布が目に入る。
どうやらチベットのタルチョーのようだ。
タルチョーは祈祷旗で、五色の青・白・赤・緑・黄の順に並び、それぞれが天・風・火・水・地を表している。
これが筒状に、2段に重ねられている。



 
< 8. 正面 >

上: 正面の奥を見ている
狭い堂内はカラフルで、壁一杯に掛け軸や写真、絵が飾られている。
仏画の掛け軸はタンカと呼ばれる。
正面は観音像のようです。
逆三角形の顔の輪郭と耳まで覆う大きな冠はチベット仏像の特徴です。
左下に釈迦如来像らしいものが見える。

下: 正面の左側を見る
奥に千手観音像が見える。
チベット仏教では釈迦像や如来像よりも観音像が重視されているようです。


 
< 9. 右側面を見る >

 タンカが沢山見られる。


 
< 10.明王像か >

上: 仏像の表情は眉がつり上がり、怒りの様相をし、また鎧を纏っているので明王像らしい。
また獣に乗って従えているように見える。

明王像は、インドで仏教が衰退する直前の7世紀頃、最後に花開いた密教と関りがあります。
日本の密教は弘法大師が広めたことで知られています。
密教は、それまでの悟りや戒律重視の仏教から、祈祷や呪文が重用される世俗的なものになりました。
この時に、仏教以外のヒンドゥー神や様々な守護神などが仏像に加わりました。
その一つが明王像で、悪魔を降伏させる怒りの表情を持っている。

チベットに仏教が広まったのは、7世紀のチベット統一王朝成立時なので、密教が主になったのです。


下: 本堂の屋根





 
< 11. 住職家族の住まい >

本堂の隣、壁を隔てて住職の住まいがあります。
久しぶりに、古い住宅をまじかで見ました。



* 歴史を想う *

今回の中国旅行では、4種類の寺院―道教の道観(開封)、仏教寺院(開封)、モスク(蘭州)、チベット寺院(麗江)を見た。
また麗江ではナシ族の宗教、トンパ教の一端を見た。
様々な宗教が習合し、像や装束、建物などが影響され文化の混淆を見ることが出来た。

この地のチベット仏教やトンパ教を見て、大きな時の流れとアジアの交流について感じることがある。
麗江にチベット仏教が伝わったのは、おそらく茶葉古道を通じてだろう。
これは険しいアジアの屋根を2000kmも隔て行き交っての事だった。

一方、北のシルクロードから伝わった仏教が中国の大平原で漢文化と混淆し、道教と共にこの地に遡上するようになった。
これは昆明、大理(雲南)を経て入って来たのかもしれない。
しかし長江は香格里拉や麗江から四川省や武漢を経て上海で太平洋に注ぎ、これも経路の一つだったかもしれない。

この普济寺を建立したのは清朝の皇帝でした。
13世紀、モンゴル帝国はチベットを征服した折、それまでの原始宗教からチベット仏教を国教にします。
この後、北方や中央アジアにチベット仏教が広まった。
その後、北方の満州民族である清王朝が中国全土を支配した。
このことで、清王室の中にはチベット仏教を篤く信仰する人物が出た。
こうしてこの地には幾重にも宗教や文化が交錯することになった。

さらに不思議な事がある。
実は、遺伝子分析によると日本人(大和、アイヌ、琉球の民族)にもっとも近縁なのはチベット人で、分岐は3.5万年以前だそうです(所説あり)。
これは氷河期の事で、日本列島に新人類が住み始める前のことです。
その後も様々な交流が見られる。

かつて日本の水耕稲作はインド東端のアッサム地方から長江沿いに伝わったとされたが、現在の起源は長江中下流域のようですが、どちらにしても長江が関わっている。
またイザナギとイザナミが出てくる国生み神話の起源は、長江中流域にあるとの説もある。

訪れた成都の金沙遺跡と出雲大社の両遺構から復元された神殿が実によく似ている。
これも長江流域で見つかっている紀元前5千年前の高床式住居と日本の高床式から発展した神社建築様式の繋がりを示しているのだろうか?

身近なものにも驚きがあった。
アイヌのムックリ(口にくわえて鳴らす楽器)と同じような物を、この麗江(ナシ族)でも見ました。
調べてみると中国南部から東南アジアに広く分布しているようです。
不思議な事に、韓国、中国北方、アイヌ以外の日本では見られないのです。

こうしてみると、日本人や文化が長江流域と深く関わっていることを感じさせる。
この奥まった高原地帯の雲南、麗江は実に興味深い。



* 驚いたエピソード *

麗江古陳と他の観光地への移動では、ガイドがライドシェア(滴滴出行など)でタクシーなどを呼ぶのですが、今回は問題が発生した。
この寺から次の束河古陳まで移動するために車を呼ぶんのですが、幾ら待っても応じる車がないのです(辺鄙だからでしょう)。
そうこうするうちに、一人の中年女性が寺に車でやって来ました、
ガイドは帰ろうとする彼女に乗車を頼みました。
少しの交渉時間を経て、載せてくれることになりました。

私は、これまで親切な人に出会っていたので、てっきり善意で無料と踏んでいたのですが。
彼女は、お金を要求し、一人数十元で三人分要求している。
私はお金を支払い彼女の乗用車に乗りました。
移動は近いので、直ぐ着きました。

私達は助けられたのですが、それにしても彼女の勘定高いのには驚いた。
また辺鄙な観光地でのライドシェアやタクシーを呼ぶのは困難だと知りました。
バス交通の確認と、初めからチャーター車の利用を考えないといけないようです。

次回に続きます。








20200526

徳島の海岸と漁村を巡って 5: がんばれ日和佐





*1

今回は、美波町日和佐地区を紹介します。
ここには薬王寺と海亀産卵の大浜海岸があります。
幾度も来た所ですが、懐かしさよりも驚きが勝ちました。


 
< 2.散策ルート、上が北 >

上: 日和佐地区の全景
S: 散策の開始点と終着点、A: 日和佐城、 B: 薬王寺
下: 散策ルート
黄色線が恵比寿浜からのドライブルート、赤線が散策ルート、ピンク線が宍喰へのドライブルートです。
S: 散策の開始点と終着点
A: ㈱あわえ、地方創世で活躍する企業、散策中偶然知りました。
B: 観音寺
C: 美波町役場、御陣屋(郡代)跡 
D: 弘法寺
E: 八幡神社
F: 日和佐漁協
G: 日和佐城
H: 大浜海岸


 
< 3. 大浜海岸 >

防波堤のS辺りからの眺め。
右手から左手への眺めを、上から順に並べた。

上: 日和佐川の河口で、漁港への入り口でもあります。
中: 遠方左手に恵比寿浜と恵比寿洞
下: 大浜海岸、海亀が5~8月にかけて夜、産卵に上陸します。




 
< 4. 日和佐漁港 >

昼1時を過ぎていたこともあり、ほとんど人影はありませんでした。


 
< 5.町に入ります >

上: 海側から内陸側を望む。
中央に白い津波の避難タワーが見えます。

下: 特段、漁師町を感じさせるものはありません。


 
< 6. 古風な家屋がありました >

下: 大きな家がありました。
全景は次の写真です。


 
< 7. 廻船業で財を成した屋敷 >

上: ここは江戸末期より廻船業で成功を収めた「谷屋(たんにゃ)」です。
その繁栄ぶりは子供たちの遊び唄になったほどで、門構えは立派です。
現在改装中で入れませんでした。

下: 多くの家は改装が進んでいますが、写真のように昔の雰囲気を残す工夫が見られます。


 
< 8.古い銭湯  >

上: 銭湯の建物
私が、この趣のある建物で足を止め、石柱の「世間遺産・・・」に首をかしげていると、中から一人の男性が声を掛けてくれました。
呼ばれるままに中に入ると、そこは大正時代からの銭湯でした。

下: 事務所の内から表通りを見ている
中央に番台が見える。


 
< 9. ()あわえ >

実は、ここは銭湯の建物を保存しながら、ITソフトウェア開発と地方創生を行っている事務所でした。
上の写真の人物が案内してくれた社長です。
非常に気さくで、情熱を感じました。

彼を主人公に映画化されたのが、下の写真のポスターです。
味のある役者と日和佐の風景や暮らしが沢山出て来ます。
公開は2019年4月でした。

私は、これまで様々な国と日本の地方を訪れて、答えの見つからない問いを抱えていた。
北欧や中国では地方に行っても豊かさや発展を感じます。
北欧では、田舎は自然を生かした暮らしがあり、寂れている感じはなかった。
その一方、日本のほとんどの地方の町や村は活力を失い寂れています。
再生の術はないのかと・・・

この社長と言葉を交わす内に、日本にも可能性があると勇気づけられました。
詳しくは、後述します。


 
< 10. 美波町役場 >

明治が始まる60年前から明治に至るまで、ここに"御陣屋"(郡代所)
が設けられていました。
今は美波町役場です。

上: 役場前の史跡の説明板

下: 津波避難場所の看板
この町も、津波が襲って来ればひとたまりもありません。
この町の中で、避難出来る避難タワーは、先程の物とこれから紹介する物の二つで、後は数カ所の数階建てのビルだけです。
他は、裏の山に登るしかありません。

ここでも厳しい現実を見せられました。


 
< 11. 観音寺 >

上: 観音寺
ここは三十三観音霊場の第八番です。 
徳島海部郡をドライブしたり散策していると、海岸沿いの険しい道程、お遍路さんの路になっていました。

下: 広い道から狭い路に入ると石垣(塀)が所々に見られました。
道幅が狭く、漁師町の風情を残しています。

通る所が悪いのか、東由岐で見た「ミセ造り」などの漁師の民家を見ることはなかった。
どこかに残っているはずなのですが。



 
< 12.弘法寺 >

上: 弘法寺
江戸末期、日和佐の行者「栄寿法印」が評判を呼びました。
彼は荒行の末に数々の奇跡を行い、小松島では化け物を退治したそうです。

この寺は明治に入って信者によって建てられた。
石像は栄寿法印かもしれません。
この前の路は、かつて水路で船が入って来たそうです。

下: 山側(北側)の広い通り
東側を見ている。
通りの左奥に見える木々は八幡神社の境内のものです。


 
< 13. 日和佐八幡神社 >

上: 町民グランドの端に避難タワーが見えます。

下: 日和佐八幡神社
広い境内の周囲にだんじりの格納庫がたくさんありました。
10月中旬、布団だんじりが出て秋祭りが盛大に行われる。
この海岸側にウミガメ博物館があり、トイレもあります。


 
< 14. 大浜海岸に沿う通りより >

上: 遠方中央に、薬王寺が見える。

下: 防波堤の先端より、日和佐の町を望む。
一周し終わりました。

次の訪問地、宍喰を目指しドライブします。


 
< 15. 厄除け橋より >

地図のピンク線の橋の上から日和佐川の河口を眺める。
右手の小高い丘の上に日和佐城が見える。
翌日、またここを訪れます。


* ()あわえと地方創世 *

この美波町(由岐、恵比寿、日和佐も含む)は5年間で10%ほどの人口減が続き、65歳以上が占める高齢化率は日本の平均37%を上回り51%です。
また一人当たりの市町村民所得は182万円で、徳島県の最下位で、トップ阿南市の半分に過ぎません。

町を歩いても、見かけるのは高齢者が多く、家屋の新築も少ない。
漁師に声を掛けても、減り続ける漁獲量への嘆きが聞こえ、実際、漁獲量は減る一方です。

なぜ日本は、こうも地方の衰退が当たり前のように進むのか?
高齢化? 成長しない経済? それと生活スタイル?
前者二つは国の無策に起因しているが、後者はそれだけとは言えない。

例えば、クロアチアや北欧の海岸を行くと、豊かな自然が残る海岸に別荘が並び、港は漁船でなくレジャーボートで埋め尽くされていた。
スウェーデンでは、職住の地を郊外に求めるブームが起きているらしい。
それは物価が高く自然に乏しい都会を避け、仕事が終われば自然を愉しむことできる地を人々が求めているからです。

世界的には大都市への人口集中は穏やかになる傾向にあるが、日本だけはまだ続いている。

ところが、「あわえ」の社長の話を聞き、調べてみると、美波町に明かるい兆しが見える。

彼は、この地で生まれ、東京でセキュリティソフトの開発販売を手がけるようになった。
そして新たなワークスタイルの実現と人材採用の強化を目的に2012年この地にサテライトオフィスを開設し、現在はここを本社としている。
現在、地方と都市、自治体と企業を結び付けることにより、地域の活性化を目指している。

その一方、彼は漁船を所有し海釣りを楽しんでいる。
まさに職住一体で、自然との暮らしを楽しみながらリモートワークを行っている。

実績としては、ここ数年で19社のサテライト・オフィスをこの町に誘致し、全国1位を誇る。
日本全国の自治体100とも提携しアドバイスを行っている。

実は、美波町は2013年に転入者が上昇に転じ、翌年には転出者を上回った。
この町は大都市から2時間以上離れているにも拘らず、全国中でも好成績なのです。
当然、美波町も地域活性化に取り組んでいるお陰なのですが。

微かな動きかもしれないが、地域創生が一人の青年の想いから始まろうとしている。

つくづく、彼らの想いに答えられる政治が日本に興ることを願う。
そんな発見が得られた日和佐でした。


次回に続きます。