< 1. デンマーク軍のコペンハーゲン凱旋 >
今日は、北欧三ヵ国の戦争と平和を取り上げます。
北欧は長い戦いの末に先駆的な外交政策を行い、自国だけでなく世界の平和に貢献している。
< 2. 北欧の戦争 >
この地図は北欧三ヵ国(スウェーデン、ノルウェー、デンマーク)が如何に周辺諸国と戦争をして来たかを示す。
この地図はヴァイキング時代後の国家間の戦争を示している。
一方向の矢印は、一方的な戦争または侵攻を示し、黒は植民地化を示している。
周辺国以外の北欧の植民地は除いています。
両方向の矢印は通常の国家間の戦争です。
北欧の中ではスウェーデンとデンマークが、かって周辺諸国を併合し帝国と呼ばれた時代があった。
デンマークはユラン半島で大陸と陸続きなので、特に国境を接しているドイツと領土争いを長らく繰り返した。
写真1はその戦いの一つシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(19世紀)の一幕です。
< 3. ストックホルムにて >
上の写真: ユールゴーデン島のヴァーサ博物館のヴァーサ号。
これは17世紀のスウェーデンの戦艦で、初航海で沈没したのを引き上げ復元したものです。
64門の大砲を有する堂々とした全長69mの戦艦が蘇っています。
この戦艦はスウェーデンによるバルト帝国の最盛期を象徴している。
スウェーデンは16世紀初頭よりバルト海周辺諸国を併合し、1618年に始まった30年戦争(最大の宗教戦争)にプロテスタント国として参戦した。
この戦艦はバルト海に面したドイツの港の攻城戦に投入される為に、1628年に重装備を重ねて出港したが沈没した。
30年戦争が終わった時、スウェーデンは北ドイツにも領土を得ていた。
下の写真: ガムラスタン(旧市街)の大広場。
バルト帝国を築いたヴァーサ王朝はこの大広場で起きた事件を契機に誕生したと言える。
1520年、この広場で「ストックホルムの血浴」と呼ばれる虐殺が起きた。
当時、北欧三ヵ国はデンマーク王家が支配するカルマル同盟を結んでいたが、スウェーデン国内では独立を目指す内戦が続いていた。
反乱軍を制圧したデンマーク王は晩餐会を開くと偽り、スウェーデンの有力者を招き、この広場で多数処刑した。
この裏切りに怒ったスウェーデンの人々は、この事件で父を虐殺されたヴァーサを指導者にして独立戦争を戦い抜き、3年後に独立を得た。
こうしてヴァーサ王朝が誕生した。
< 4. オスロにて >
上の写真: ノルウェー抵抗運動博物館の外観。
小さな建物だが、地下にも展示場が広がっている。
建物に掲げられている肖像画はホーコン7世で、彼は第二次世界大戦でドイツの支配に抵抗したノルウェー王です。
これを描いた映画「ヒトラーに屈しなかった国王」が最近日本で上映された。
この博物館は当時の国民の抵抗運動を展示している。
下の写真: 博物館の展示。
< 5. オスロ湾にて >
上の写真: 写真の左側の島がオスロ湾で最も狭いドレーバク水道にあるオスカシボルグ要塞Oscarsborg Fortressです。
フェリーからオスロ側(北側)を見ている。
実はこの要塞からの砲撃が「ヒトラーに屈しなかった国王」のストーリーを作ったと言える。
この要塞を守る指揮官がオスロ湾に侵入するドイツ艦隊に独断で砲撃し、その旗艦を撃沈した。
私は映画を見て、これが及び腰の政府や象徴的な存在であった国王親子に抵抗する機会を与えたように思った。
ノルウェー各地から攻め込んだドイツ軍は圧倒的に優勢だったが、王家と政府の逃避行、ホーコン7世の降伏拒否、そして英国への亡命によって、国民はナチスの支配を拒否した。
こうしてノルウェーのレジスタンスは終戦まで続いた。
下の写真: 映画「ヒトラーに屈しなかった国王」。
タイトルはノルウェー語で、「王のノー」です。
この映画はスぺタクルではなく、主に国王の葛藤を描き、銀幕から王家の役割と大国に抗う小国の悲哀がひしひしと伝わって来ました。
< 6. クロンボ―城の地下 >
上の写真: デンマークのシェラン島北東部、幅7kmのエーレスンド海峡に睨みを利かすように建っているクロンボ―城。
下の写真: このクロンボ―城の地下に眠るホルガー・ダンスク像。
彼はフランク王国のカール大帝(8世紀)に歯向かった中世ヨーロッパの伝説上の英雄です。
やがてデンマークで、洞穴の眠れる英雄が国の有事に復活するというホルガー・ダンスク伝説が出現した。
第二次世界大戦中、デンマークもナチス・ドイツに占領されたが、この時のデンマークのレジスタンスは「ホルガー・ダンスク」と名乗った。
< 7. ロスキレ湾とヴァイキング >
上の写真: この地はヴァイキング時代の拠点の一つでした。
ここにヴァイキング船博物館があります。
下の写真: これらは沈没していた5隻のヴァイキング船の内の2隻で、修復され復元されたものです。
オスロ湾は奥深く入り込んでいて水深が浅いのですが、幾筋かの細くて深くなっている水道があります。
11世紀、5隻の船は敵の襲撃を防ぐために、この水道の一つを塞ぐように沈められていた。
このロスキレは11世紀から15世紀半ばまでデンマーク王国の首都でした。
ヴァイキング時代は11世紀半ばで終焉するのですが、この頃には侵略する側から攻められる側にもなっていた。
< 8. コペンハーゲン港の要塞 >
上の写真: カステレット要塞。
この写真は運河クルーズ船から撮影したもので、右側に人形の像が見える。
この要塞は上空から見ると典型的な星型要塞で、17世紀半ばに造られた。
しかしその雄姿を忍ばせる面影はない。
コペンハーゲン港は幾度も大艦隊による大規模な破壊に遭い、古い姿を留めることができなかった。
下の写真: Trekroner Fort。
左側に見えるのがコペンハーゲン港の入り口にある島の要塞で、18世紀初頭に造られた。
ナポレオンが覇権を拡大する中で、中立を望んでいたデンマークではあったが、その圧力に負けてフランス側に付くと、フランスに敵対した英国は大艦隊をもってコペンハーゲンに来襲した。
1801年、デンマークとノルウエーの艦隊、そしてTrekroner Fortなどが英国艦隊を迎え撃ったが、あえなく敗北を喫した。
< 9. フレデリクスボー城と絵 >
上の写真: フレデリクスボー城の中庭。
この城は16世紀中頃より19世紀中頃までデンマーク王の居城だった。
またこの期間はスウェーデンがカルマル同盟から独立していたが、ノルウェーはデンマークに統治され続けた時代にちょうど重なる。
この地はコペンハーゲンよりはオスロに近い場所と言える。
下の写真: フレデリクスボー城に掲げられていた絵。
額に「・・コペンハーゲン・・1659年2月10-11日」と銘記されていた。
この前年からスウェーデン軍は凍結した海峡を渡りコペンハーゲン港を攻略しており(氷上侵攻)、デンマークはこの敗北によってスウェーデン南部などの領土を失った。
スウェーデンが勢力を拡大し続ける中で、17世紀中頃からデンマークは小国へと没落していくことになった。
しかし、スウェーデン(バルト帝国と同盟軍)もヨーロッパを二分した大北方戦争(1700-1721年)でロシア帝国と同盟軍に破れ、没落することになった。
< 10. ノルウエーの平和貢献 >
上の写真: オスロ湾に面して建つノーベル平和センター。
ノーベル平和賞と平和について展示。
ノーベル賞の創設者ノーベルはスウェーデンとノルウェー両国の和解と平和を祈念して「平和賞」の授与だけはノルウェーで行うことにした。
これはなぜなのか?
北欧三ヵ国の中でもっとも人口の少ないノルウェーは1450年からの長きに渡りデンマーク、次いでスウェーデンに支配され続けて来た。
やっと1905年、ノルウェーはデンマーク王家から王子を迎え、立憲君主制を樹立し、平和裏に独立を行った。
この王子が「ヒトラーに屈しなかった国王」のホーコン7世になった。
映画によると、彼がヒトラーに降伏しないと返答したのは、自分が国民に選ばれた象徴(王)に過ぎず、勝手に重大な決断をすべきでないと考えたからのようでした。
この王の自覚と身命を賭した行動は、国民との間に絶大な相互信頼があったからでしょう。
この王家の姿は、北欧各国に通じるものです。
下の写真: 陸軍博物館の横にあるノルウエー退役軍人協会の建物。
その前に止めてあるカーゴの絵は、ノルウエー軍のアフガンでの活動を示しているようです。
* あとがき
現在、北欧各国は中立政策を維持し、一方で紛争国の仲介外交と国連の平和維持軍派遣などで世界平和に貢献している。
北欧の中立政策は小国ゆえとヨーロッパの北辺にあることだけで成し得たのではない。
多くの大国に囲まれ、時には圧力に屈し、軍備を保有しながらも周辺国からの信頼を重視する外交は特筆に値する。
また北欧、特にノルウエーとスウェーデンは世界平和に貢献してきた。
両国は多くの内戦激しい地域、コソボやソマリア、アフガンなどに平和維持軍を派遣して来た。
スウェーデンの元外交官ハマーショルドは2代目国連事務総長を務め、コンゴ動乱の調停に活躍したが、その途上、原因不明の墜落事故で死去した。
またスウェーデンのストックホルム国際平和研究所はこの分野では有名です。
ノルウエーは中東和平で大きな足跡を残している。
敵対するイスラエルとPLOの仲立ちを行い1993年、オスロ合意を取り付けた。
しかし調印したイスラエル首相が同国の和平反対派によって暗殺され、画期的であったが結局、進展することはなかった。
次回に続きます。