20170720

デマ、偏見、盲点 19: 既成概念を打破する



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世の中が保守的になってくると、人々は益々既成概念に囚われることになる。
必ずしも革新が良いわけではないが、発展が阻害されることになる。
今回は、既成概念を疑い打破することをお薦めします。
世の中を良くするヒントが見つかるかもしれません。


はじめに
人類は、長年信じられて来た既成概念を打破し、新しい取り組みを続けてこそ進歩を遂げることが出来た。
一方で大失敗をしたこともある。

既成概念を捨て新概念を生み出し成功している例を挙げます。

私有権(所有権)、訴訟権、仇討ち禁止、拷問禁止、商業手形発行、憲法制定、宗教改革、企業の無限責任から有限責任へ、<< 家族間の弁済責任(親の借金を子が弁済)の禁止 >>、三権分立、特許制度、奴隷制廃止、議会制民主主義、年金制度、所得税、累進課税、国連創設、普通選挙、金本位制離脱、軍の文民統制、労働基本権、化学兵器禁止条約・・・、ときりがない。

ひとつひとつに長期間にわたる生みの苦しみがあった。
既得権益層と新興勢力の対立、権力者と民衆の対立、国家間の対立などを乗り越え、平和や繁栄、安全、生活向上を求め大いなる決断と合意を繰り返して来た。

一方、新しい主義やシステムを過信し苦渋をなめた例を挙げます。
これは明確に失敗とは認識されていないが、人々に大きな損失をもたらしたと言える。
帝国主義、共産主義、ファシズム、2007年の世界金融危機を招いた金融手法が大きなものでしょうか。

既に見たように人類史は改革の積み重ねであり、既成のものから脱皮し続ける歴史でもありました。
その過程で失敗があっても、多くは改良し、稀に廃止することにより乗り越えて来たのです。
新規の技術や生産物は無数に生み出され、不要になったものや危険なものは使わなくなった。

それでは現実に常識として受け入れられている概念を一つ取り上げてみましょう。



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莫大な国の累積財政赤字
著名な政治家や経済学者の中には、財政健全化の為に増税するのは愚の骨頂で、むしろ赤字を拡大させてでも大幅な財政出動で、景気を浮揚させるべきだと言う。
これにより景気が良くなれば税収増となり、問題は解決すると言う。

既に日本が長年やって来た公共投資(土木・建築事業が無駄だっのかも)で赤字を増大させて来たのだが、まだ足りたいないと言う。

また、リフレ策が成功することにより経済成長とインフレの相乗効果で、いつしか累積債務が減少し、危険水域を脱すると言う。
現在、アベノミクスに、これらの良い兆しが見えていないが、成功は疑いないと言う。

ここで落とし穴があるか探ってみましょう。

当面、日本の累積財政赤字はGDPの250%程度になり、仮に危険水域は300%だとします。
アベノミクスが期待出来る一つのポイントは、インフレによって数十年後の累積財政赤字額が今の数分の1になることです。
これは単純な理屈で、順調に理想的な経済成長が実現さえすれば可能でしょう。

少し先のことを考えましょう。

今後、経済成長率よりもインフレ率が高くなると、未来の生活水準が今よりも低下することになる。
例えば経済成長率1%、インフレ率3.5%が30年続くと、生活水準は1/2になる。
この数値が逆転すれば生活水準は2倍になり、累積財政赤字額は1/3以下の可能性もある(通常、金利も上がるので赤字額の減り方は少なくなる。)。

しかしまだ以下の危険が存在する。注釈1

*累積財政赤字の更なる増大はいつか取り付け騒ぎを起こす。
赤字はすべて国内債務で、国民は従順で国を信任し続けるはずだから取り付け騒ぎは起こらないと言う。
確率は低いが、株式や土地の暴落のパターンを見ると、信任の崩れる時が来る可能性はある。

*恐慌の影響が大きい。
日本自身でなくても中国や米国、EUで恐慌が起きる可能性を無視してはならない。
ほぼ10年毎に起きているので、繰り返す可能性は高い。
アベノミクスにより日本の経済と金融の体質(恐慌への耐性)が悪化しており、他国発の恐慌にさらに脆くなって行くと予想される。

*リフレ策で財政赤字を解消させる姿勢は、健全財政への意欲を低下させる。
政府は無駄遣いと赤字国債発行を続け、さらに日銀による国債直接引き受けが常習化することによりハイパーインフレを招くだろう。

つまり、仮に現役世代には良策であっても、未来の世代には愚策かもしれない。
私の推測では、日本の所得の推移は現役世代で横ばいか若干恩恵を受けるかもしれない。
しかし、その一方で未来世代は横ばいか悪化を経験するかも知れない。
今より国の財政・金融の体質が劣化していく可能性が高いからです。

私の推測通りに事が進むとは断言出来ないが、起こりうる不幸を考えると、以下の事が重要になる。



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我々は如何にすべきなのか
この問題の本質は、現役世代が借金で消費(浪費)して、その弁済を未来世代に押し着けていることです。
実は、このことを既成概念として我々は受容してしまっているのです。

既に見たように、人類は親の借金を子供に返済させることを禁止するようになって久しい。
数十年先の人々が文句を言わないからと言って、未来世代に弁済義務を押し付けることは、時代に逆行している。

ここでもきっと為政者達は経済の永続的な発展の為には、エゴを捨てるべきだと言うでしょう。
しかし、これを受け入れれば入れるほど、政府のモラルハザード「倫理の欠如」は劣化するでしょう。

この悪い例が、金融恐慌の度に、放埓三昧で暴利を貪った巨大金融業や金融家を数兆円から数十兆円の税金で毎回救済しなければならなかったことです。
残念なことに、現状では救済せずに倒産させると被害は更に拡大してしまいます。
これを知っているからこそ、彼らは幾度も繰り返す常習犯になってしまったのです。

当然、世代間の弁済義務を放棄する権利があっても良いはずです。
政府が行政改革をせず、湯水のように税金をばら撒き、赤字を増やし続けるなら、国民は泣き寝入りするべきではない。
本来は選挙で政策変更を勝ち取るべきですが、議員達はしがらみがあり真剣には考えない(既得権益や選挙地盤との慣れ合い、惰性など)。


*4

されば国民は、一点突破で国に直接猛省を促すべきです。
その方法は、皆さんが貯金を下ろすことです(本当は保険の解約も必要なのですが)。

政府が赤字国債を発行できるのは、国民の貯金が銀行や農協にあるからです。
現状では市中銀行が政府が発行する国債を引き受ける為には国民の預金が必要なのです。
これに抵抗する為に行うのです。
しかし政府発行の国債を日銀が直接引き受け続けるならば、国民の抵抗は無駄になります。
従って早く事を起こさないと、日本の将来は益々危険なものになるでしょう。注釈2.
以下のグラフにその兆候が現れています。



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現在、1年定期の利率など知れています。
まして前回の金融恐慌が2007年なのですから、どこかで恐慌がそろそろ起きても不思議ではありません。
貯金を1年ぐらい下ろしても痛くも痒くもないでしょう。
皆が一斉に1年ぐらい解約するだけで良いのです。

これによって政府は国債発行の危さを実感し、真剣に税の無駄使いと適正な税制(累進制のある所得税など)を目指し、赤字国債の発行を抑えるようになるかもしれません。
それが皆さんの孫やひ孫を救うことになるでしょう。

尚、国債解約の取り付け騒ぎは起こらないでしょう、著名な経済学者が太鼓判を押しているのですから。


大事なことは、現状を疑い、未来を真摯に憂うことです。
いつも社会の悪化は、振り返れば小さな兆しが既にあったのです。
その芽を見つけて前もって摘むことが必要なのです。



注釈1
私はアベノミクス(リフレ策と大規模な財政出動)がまったくの愚策だとは思わない。
しかし、たとえ国民は一度好転を味わったとしても、挙げた三つの問題が発生し、従来より窮地に追い込まれる可能性が高いと考えます。
今の政府はこのことを厳密に検討せず、人気取りの為に猪突猛進しているように思える。

その典型的な悪例の一つに、幾度も指摘している「ふるさと納税」がある。
政府内で現状の返礼品競争と急増する額を施行前に予想出来る人、議員は無理でも官僚などにいたはずです。
それを官邸が抑え込んだのでしょう。
これを決断と実行の内閣と考えるのは早計です。
国民が地方自治体や民間企業を潤す良い施策と信じていることを良いことに、弊害には知らぬ振りです。
この手の姿勢、決断力と実行力をひけらかし、その実、稚拙であることが多い。
もしうまくいかなければ事実を隠蔽し、嘘をつき、過大に他を責め立てることが目立つ。

おそらくこの姿勢が続く限り、施策全体が信用出来ないものとなるでしょう。



注釈2.
本来、中央銀行(日銀)は中央政府から独立した機関であり、物価と金融システムの安定を図ることにより国民経済の発展に貢献するものです。
この目的の為に日銀は国の中で唯一紙幣(通貨)の発行が許されているのです。

通常であれば、日銀は景気刺激策の一環として市中銀行から国債の一部を買取り、通貨を銀行に供給し、間接的に国内の通貨流通量を増加させることをしてきました。
しかし、現在、上記グラフのように日銀は間接に、また政府から直接に国債を大量購入しています。

これが進むと、政府の財政規律が緩み、いつかは好きなだけ国債を発行するようになり、後にハイパーインフレが襲うことになります。

歴史的な反省から、これを避ける為に、世界では中央銀行を政府から独立した機関としたのです。
現状では、政府と日銀が一体となっているため、政府は国債発行と言うより、むしろ紙幣(通貨)を直接発行していると変わらない。
大規模な財政出動を増税無しにするには、手っ取り早い手のなのですが。

これは危険なことなのです。
単に1強では済まされない問題です。



20170719

フランスを巡って 26: ストラスブール最後の夜



 
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今回は、ストラスブールの最後の夜の散策と出来事を紹介します。
わずかに夕陽の赤味を帯びた旧市街の様子、二つのレストラン、そして大型スーパーについて記します。


 
< 2. 散策の概要 >

散策したのは、旅行日6日目、5月22日(月)、17:00~21:00です。
私達は最初にスーパーへ買い物に行き、一度ホテルに戻って荷物を置き、折り返し、旧市街に向かいました。

上の地図: 今回の散策ルート。上が真北です。
茶色線は大型スーパーSMに行った往復ルートです。
赤線は予約したレストランL1を目指して散策したルートで、黒線は代わりのレストランL2を経て帰ったルートです。
CAは大聖堂です。

下左の写真: 大型スーパーに行く途中で見かけたガンジーの像。
ストラスブールが幾多の紛争を乗り越え平和を獲得したことを如何にも象徴している像でした。

下右の写真: ガンジー像の周囲の花々の左奥に見えるのがショッピングモールで、このずーと奥に大型スーパーがあります。

大型スーパーはワンフロアですが非常に大きく、商品を探すのに苦労するほどでした。
ここでは主にお菓子とチーズを物色し、旅の途中なので少なめに購入したのですがミスをした。
帰国後、知ったのですが、ほとんどのチーズの正味期限が短いのです。
短いものでは1週間以内のがありました。
バルト三国でも買ったことがあり、柔らかいチーズは帰国までに形が崩れることは知っていたのですが、これには驚いた。
何種類も買って、帰国後が存分に楽しめたのですが、焦りました。

フランスを巡っていると、フランス人にとってワインとチーズは食事に本当に欠かせないものだと知りました。



 

< 3. ホテルの裏手を行く >

瀟洒なアパート群が目を引きます。
運河にはボートを楽しむ人々と、のんびり泳ぐ白鳥の姿があった。


 

< 4. 運河を渡る >

朝な夕なに、ジョキングや散歩する人の姿が見られた。
この都市は空気が綺麗です。


 

< 5. 大聖堂が見える >

800年の長きにわたり、この鐘楼は市民の熱気と血なまぐさい闘争の歴史を見て来たことだろう。

下右の写真: ひょっとすると城門の跡かもしれない。


 

< 6. 南側のイル川を渡る >


 

< 7. イル川の堤を散策 1 >


 

< 8. イル川の堤を散策 2 >

堤のそこかしこに、夕暮れの川風を楽しむ人々の姿を多く見かけた。


 

< 9. プチット・フランス 1 >

下の写真: 右奥に船の上下用の堰(閘門)が見える。


 

< 10. プチット・フランス 2 >


 

< 11. レストランL2にて >

今回の旅行での私達夫婦の楽しみの一つは、日本でフランスのレストランを予約しておき、その地の雰囲気と食事を愉しむことでした。
1回目のリヨンでは成功しましたが、2回目のストラスブールではトラブルに合いました。

事前にメールで予約確認のやり取りを済ませて、予約時間に地図のレストランL1の前に行きました。
すると青年6~8人のグループが、店の前にたむろしており、店はクローズしているようでした。
彼らの人相は悪くは無かったのですが、周囲に人通りはなく、一瞬不安がよぎりました。
意を決して、彼らをかき分けるようにして、店のドアの前に進みました。
すると彼らは残念そうに「店は閉まっています」と教えてくれました。
彼らも予約客だったようです。
おそらく私の顔はこわばっていたことでしょう。

私達は、仕方なく店から直ぐに立ち去りました。
帰国後、この店から、この前日にメールがパソコンに入っていたのがわかりました。
「申し訳ありません。急にキッチンの水道が故障したので、予約当日は閉店させて頂きます。後日、予約を頂ければ幸いです。」
後の祭りでした。
それでも、このレストランはトリップアドバイザーで人気のある地元料理(ドイツ系)の店だったので残念でした。

その後、気を取り直し、メインの通りでレストランを探し、写真の店L2に入りました。
実はこの店はスペイン料理、タパスを出すバール「BAR」です。
スペインのバルセロには2回行ったのですが、憧れのバールに入ったことが無かったので、衝動的に入ったのです。

しかし、ここでもハップニングがありました。
先ず失敗だと分かったのは、メニューを見た時です。
フランス料理のメニューは下調べしていたのですが、フランス語のスペイン料理はチンプンカンプでした。
困り果てていると、たまたま空いていた隣の席にアジア系の男性二人が座りました。

なんと彼らは日本語を話しだしました。
すかさず私は、彼らに救いを求めました。
すると一人はドイツ語なら自信があるのですが、フランス語も少しは使えるとのことで、私達の注文を手伝って頂きました。

この二人はある国立大学の先生と院生で、次の日に太陽電池の研究発表があると言うことでした。
その後、彼らと太陽電池の将来などについて話が弾み、楽しい一時を過ごしました。

旅行先での人との触れ合いは実に刺激的で楽しい。



 

< 12. メインの通り >

時刻は8:30前後でした。
月曜日は多くの店が閉まるのですが、夕時を愉しく過ごす人々が通りに溢れていた。


 

< 13. ストラスブールとのお別れ >

この大聖堂の姿を見ることが、ここ5年ほどの夢でした。
ヨーロッパの宗教革命の始まりや、ここ数世紀のストラスブールの苦難の歴史を調べているうちに、是非とも行きたくなっていた。
そして国境の町ストラスブールとアルザス地方を駆け足ながら直に見て感じることが出来ました。


次回は、アルザスとストラスブールについて語るつもりです。


20170717

フランスを巡って 25: 「ブドウ畑の真珠」と呼ばれるリクヴィル





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まるで中世そのままの町がブドウ畑の中にある。
さらにアルザスワインのワイナリーが数多くある。
私達は小さな村の散策を愉しみ、ワイナリーで試飲しました。



リクヴィルについて
この町はコルマールの北方12kmほどの処にあります。

ここは小高い山が途切れ、それに続くなだらかな斜面に広がるブドウ畑にあります。
この町は縦断するメインの通りが350mほどの長さしかない小さな町です。
しかし、第二次世界大戦の爆撃を幸いにも免れたことにより、16世紀以降の家並みが町全体に残っています。

また多くのワイナリー、アルザス最大手のワイナリーなどが町の中や周囲にあり、観光客を楽しませてくれます。

ここを訪れたのは旅行6日目、5月22日(月)、14:10~15:30です。
この日も快晴でした。





 

< 2. リクヴィルの地図、右が真北です >

下の写真: 黄線はリクヴィルの散策ルートを示します。
駐車場Sに到着し、東西に延びるメインの通りをポート・オートGまで行き、少し戻ってワイナリーWに入った。
試飲が終わると、自由時間となり、私は教会Cの前を通り、村の外周の一部を歩いた。
その後、駐車場Sからストラスブールに戻った。


 

< 3. 市役所と噴水 >

駐車場から最初に出会うのがこの市役所です。
この市役所のまえから西にメインの通りが伸びている。





 

< 4. メインの通りを行く >

上の写真: 緩やかに上っているメインの通りを西に向かって進む。

下右の写真: 1561年に切妻壁の建物をつなげて造られた6階建ての家屋で、アルザス地方で一番背の高い木組みの家の一つです。


 

< 5. 通りに面した店の顔 >

下二つの写真: アンシ作の看板。

この通りに面してアンシ美術館があります。





 
< 6. ドルダー・タワー >

ドルダータワーは13世紀に壁に沿って建てられた望楼で、中には鐘がある。
非常時の警報用です。

上左の写真: メインの通りからドルダータワーを見た。
上右の写真: ドルダータワーをくぐり抜け振り返った。


 

< 7. ポート・オート >

この門はドルダータワーの直ぐ外側に1500年に建てられた。
二重の重たい木からなる扉、ヨーロッパ一古いとされる落とし格子が備えられていた。

上の写真: 村の中側から見た。

下の写真: 村の外側から見た。
門の左側に壁らしいものが見える。




 

< 8. ワイナリーで試飲 >

上左の写真: 試飲したワイナリーの入口。




 

< 9. 教会と路地 >

ワイナリーの後は自由時間なので、私はこの路地を抜けて村の外に出ました。

下の写真: 路地から外に出るには、この写真右に見える民家にあるトンネルをくぐり抜けなければなりませんでした。


 

< 10. 村の北側外周 >

村の外に出てから、外周に沿って市役所の方に回り込みました。

この時、私はやっと気が付きました、この村は単に古いワイン作りの村ではなく、堅固な城塞都市ではなかったのかと。
上の写真に見える村を囲む城壁のような家屋、下の写真に見える噴水は堀の跡ではないかと。

それであれば、既に見た二重の門、城壁のような壁の名残が合点出来る。
この最後に、リクヴィルの歴史と城塞の種明かしをします。


 

< 11. メインの通り >

至るところに噴水が見られる。


 
< 12. 村の南側 >

南側には、ブドウ畑の中に現代の住宅が広がっている。
この駐車場からこの村とはお別れです。



リクヴィルの歴史
この町はローマ時代に遡る。
11世紀、この地一体を寄付された修道院がブドウ畑とリクヴィールを所有した。
1269年、神聖ローマ皇帝がここに城を建設し、アルザスで一番最初に要塞化された町となった。
その後、城主は幾度も替わり、公爵の城下町として栄えた。
16世紀に住民の多くがプロテスタントへと改宗した。
1796年、フランス革命軍との戦いの結果、公爵家はリクヴィルを含むアルザスの所領を放棄し、ここはフランスに併合された。
そして第二次世界大戦中、この一帯で戦禍を免れた数少ない町となった。




 

< 13. 城塞化の経緯 >

この地図から、1291年の城壁、さらに1500年、その外側に城壁が造られたのがわかる。
このことがドルダー・タワーとポート・オートの二重門が存在する理由でした。


 

< 14. 1644年のリクヴィルの俯瞰図 

これは町を東側から見たもので、手前が現在の市役所側になる。
二重の城壁と堀が見える。


私は、こののどかなアルザスの地にこれほど要塞化した村や都市が多いとは思わなかった。
今回訪れた、アルザスの三つの地がすべて要塞化されていた。
コルマールの要塞化については説明していませんでしたが、かつて城壁で囲まていた。
ストラスブールとコルマールは自由都市になっていた。

このアルザスはライン川が流れ、ドイツ(神聖ローマ帝国)とフランスの間にあって、交易上有利であったが戦火が絶えない地であったのだろう。


次回に続きます。