20170711

何か変ですよ! 62: 偏狭なものの見方




*1


今回は、巷に溢れる偏った歴史観を取り上げます。
日本の憲法や敗戦に関わる問題をみます。



結論は・・
一見、ここでも右派と左派、またはタカ派とハト派の違いがあるように見える。
しかし、より重要なのは単純に視野が狭いか広いか、より広い範囲の他者の気持ちに寄り添えるかです。

こうは言っても、視野が広いとは何を指すのか、また他者とは誰なのかは人によって異なります。
ここでは二三の例を挙げ、簡単に視野の狭さや他者との境界を指摘しながら、偏狭なものの見方の悲しさをみます。


ある人々が言い募る説とは
第二次世界大戦(太平洋戦争)の敗戦にまつわる恨み節が、今またぶり返している。
当時の米国による酷い仕打ちを盛んに言い募っている。
さらに言えば、相も変わらず侮辱感に囚われたままで、そこから脱皮出来ないようです。

「日本国憲法はマッカーサーの押し付けで、不当だ!」
「東京裁判は勝者による報復の茶番劇だ!」
「日本人の能天気な平和感は、米国の洗脳だ!」

目立つのは、こんなものでしょうか?
これからの話は、あまりまじめに考えて頂かなくて結構です。
どこに可笑しさがあるか判って頂ければ充分です。


 
*2


何が変なのか?
敗戦時、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本の占領政策を推進し、様々な改革を行った。
GHQを取り仕切ったのは米国のマッカーサーでした。
彼は公の場で「日本人は12歳だ」と発言していた。

そして、彼が日本国憲法案を日本に押し付けたとされている。
ある人々は、これを日本人が考えた憲法では無いから、けしからんと言い、作り変えるべきだと言う。

しかし、私はこれを聞いて不思議に思う。
当時、大日本帝国憲法(1889年公付)を後生大事に守り大失敗をしておきながら、明治に始まる神権的な前近代的制度から抜け出せずにいた為政者達が、果たして現代に通じる民主的な憲法を発案出来ただろうか?

確かに市井には進歩的な草案もあったが、政府は受け入れるはずもない。
軍事大国化し大陸進攻を図る過程で、反対する声は一部にはあったが、もみ消されたように。

情けないことなのだが、当時、日本の体制が自ら民主的な憲法を作り出すことは困難だったでしょう。
地主制、女性の選挙権などをみれば如何に遅れていたかが一目瞭然です。

それでは同じ占領されたドイツ(西ドイツ)はどうだったのでしょうか?
ドイツは第一次世界大戦の敗北を経験して、当時世界で最も民主的なヴァイマル憲法を1919年に制定していた。
これがあって、第二次世界大戦後の分断された占領下にあっても、各州代表による憲法制定会議が開催され、連合国によって批准されたのが今の憲法です。
つまり、下地が既に出来ていたのです。


 
*3

可笑しさはこれだけに留まらない
それほど屈辱感にさいなまれるなら、そんな横暴な米国の庇護の下から離脱すれば良いと思うのは私だけでしょうか?
安保法制、為替などの経済・金融政策、特定秘密保護法など、どこまで米国追従に深入りしていくのか?

ある人々は、現在の「寄らば大樹の陰」は必要だが、かつての横暴な仕打ちだけは許せないと言う。
この手の人が言う大人の態度とは、どちらも結果が良ければ良しだと思うのですが。

さらにこんな反論が出るかもしれない。
今の米国とかつての米国は違うはずだと!
少し、話が怪しい。

世界を見れば、侵略国や戦勝国の態度はどこも似たり寄ったりでした。
植民地支配された国は、当時、欧米から尊敬されたでしょうか?
もちろん侮蔑され差別された。

戦勝国は、占領国に対して侮蔑感をまったく持たずに接したでしょうか?
一部にはいたでしょうが、大勢は憎しみとの裏返しで侮蔑感を持つものです。
それが戦争です。
日本人も大陸に進攻し、現地を支配するようになると同じ轍を踏んでいった。

つまり、この屈辱感は何時でも何処でも敗者が勝者から受けるものなのです。
よくもまあ自国のことは棚に上げる身勝手な神経が私には理解できない。

もっとも、自分達の懐古趣味(天皇制や明治時代への回帰)を満足させるために難癖をつけているだけとしたら、これも悲しい。


 
*4


この御説はどうでしょうか?
東京裁判への批判も同様に狭量で身勝手な感情の基づいたものがある。
「戦犯はでっち上げで、無実だ!」と。

もし、連合国側が強硬に裁判を開き、戦時下での事実を公開しなければ、日本の国民は未だに真実を知ることはなかったでしょう。
当然、この裁判にはパール判事らが指摘したような問題―事後法の適用と植民支配の反省を棚上げする大国、がなかったとは言えない。
しかし、戦争事態が超法規的な行為であり、場合によっては事後法も止む得ない。
どちらにしても、当時、問題を含みながらも、世界が戦争の再発防止に協同し、従来よりは一歩前進した。

ここで指摘したいことは、同じ戦犯裁判(ニュルンベルク裁判)を受けたドイツの変化です。
これが行われていた当時、ドイツ国民は概ねヒトラーに騙された被害者としか考えていなかった。
しかし、それから十年ほどど経つと、国民の中から自らも戦犯を裁くべきとの世論が沸き起こった。
そして、真にヒトラーやナチスとの決別を図ることが出来たのです。

一方、日本はどうでしょうか?
いまだに、外国(主に米国)の謀略に嵌ったと言う被害者意識から抜け出せない人々がおり、さらに悪いことに、これら人々に支えられた人物が政治のトップになることが出来たのです。

実に、不思議な国があるものです。



さらに、これはどうでしょうか?
もっと単純な例として「日本人の能天気な平和感は、米国の洗脳だ!」があります。

結論から言うと、日本人の平和感は先天的です。
これは日本列島の地政学的な理由、歴史的に日本海の軍事的な障壁と唯一の大国中国からの距離に依存していた。

GHQが軍国主義復活を恐れて、平和の礎を強制的に植え付けようとしたのは確実です。
しかし、それが戦後70年を経た今まも、悪霊に取り付かれたかのように言うのは、国民を馬鹿にしている。

逆に言えば、米国の軍事戦略に乗って、日本を極東の防波堤にしようとする手段に利用されているように思える。

もし、70年前の出来事が、一国の心を支配し続けるとしたら、日本がかつて支配した東アジアの国々も同様に恨みを持つ続けることになりますが?
おそらく「米国の洗脳だ!」と指摘する人々は、これとは違うと言い逃れるでしょう。


まとめ
ざっと諸説の可笑しさを見て来ました。
何が可笑しさを生み出しているのでしょうか?

一つは「自分が、自分が、・・・・」にあります。
別の言い方をすれば、狭い身内、広くて日本列島本島(大和民族)しか念頭にないからです。
このような考え持つ人は、身びいきで、同調する人や付き従う人々には寛大で有難い存在です。
つまり、他者との境界が非常に狭いのです。

もう一つもこれと関連すのですが、都合の良い事実しか見ないのです。
つまり、世界の歴史は当然、都合の悪い自国の歴史も否定します。

おそらく最も本質的な事は、他者への共感が苦手なのでしょう。
この手の人々は身内には共感出来るのですが、地球の裏側の人々への共感が無理なのでしょう。
これは本質的な心性のひとつです。

分かり易い例があります。
実は動物は、本来、同種であっても縄張り外の者(他者)に対して敵意をもつように進化しました。
一番、鮮明なのはチンパンジーです。
チンパンジーは同じ群れであれば、最高度に協同して狩りなどを行います。
しかし、部外者が縄張りの近く現れると、大声で恐怖の声を挙げ、下痢をしながら飛び回るのです。

しかし、進化した人類はこれと異なり、縄張り外(国外)の人、言語や人種の違いを乗り越えて協力することができるからこそ、今の発展があるのです。
時たま、チンパンジーより残酷になるのがたまに傷ですが。


 
*5



最後にお願い
どうか皆さん、くれぐれもおかしな風潮に流されないでください。

20170710

フランスを巡って 22: ストラスブール旧市街1




*1


いよいよ待ちに待った旧市街を巡ります。
プチットフランスと大聖堂が有名です。
今回は、前半を紹介します。


なぜストラスブールに惹かれたのか?
以前、私がヨーロッパの宗教改革を調べている時、その発火点の一つがこのアルザス地方とストラスブールだったと知ったからです。
さらに、それに遡る数世紀前に、ストラスブールの人々がどれほどの熱意をもって当時最大高さを誇る大聖堂の建設に挑んだかも知りました。

また二度の大戦の経緯を調べている時も、ドイツとフランスがストラスブールを流れるライン川を挟んで数百年以上戦い、国境が幾度もストラスブールの東西に移動したことを知りました。
その後、この地は平和を築き、平和の象徴としてEUの重要施設が建てられた。

今回、フランスを旅行する直前に、フランスの大統領選がありました。
この争点の一つにEU存続と移民問題がありましたが、これと関連して異民族間の平和のヒントはストラスブールに行けばあるかなと思いました。

こうして私はストラスブールの旧市街と大聖堂を直に見たいと思うようになったのです。


 

< 2.旧市街の観光ルート、上が真北 >

旧市街を徒歩観光したのは、旅行日6日目、5月22日(月)、8:30~10:20頃です。
この日も素晴らしい天気でした。
青線が徒歩観光のルートで、上の地図のSから始め、番号1~9を見て、下の地図のEを通りました。
その後、さらに南側の駐車場まで歩き、バスに乗りコルマールに向かいました。

 
 

< 3. クヴェール橋 >

この三枚の写真は地図番号Sと1から撮影した。
上の写真から順次、北から東の方を見ている。

上の写真: 左側はヴォーバンダムです。

中央の写真: 中央に見える川は旧市街の北側を流れるイル川で、船の上下用の堰(閘門)が見える。

下の写真: 三つの塔の間の遠くに大聖堂の鐘楼が見える。
こちらの川が南側を流れるイル川です。
ヴォーバンダムの建屋の屋上が展望台になっており、ここからこの写真を撮った。

このクヴェール橋は4つの塔と三つの橋からなっている。
この橋は旧市街を分岐して掘りのように囲むイル川の上流側に造られている。

最初、これを見た時、この都市は無防備な開口部を持っていると感じた。
戦乱に明け暮れる中世の都市なら高い城壁に囲まれ、ここら辺りに城門があっても良いはずなのにと思った。
きっと、この開放的なのは商業と水運で栄えた自由都市ゆえのことだろうと一人納得していた。
だが、後で私の勘違いとわかりました。

この橋は最初、13世紀に防備の為に建設され、その後、戦時の守備隊駐屯の為に屋根が設けられたが、18世紀には廃止された。
1690年、直ぐ上流に橋と堰を兼ね持つヴォーバンダムが建設されると、クヴェール橋は防備の役割を終えた。


 

< 4. ヴォーバンダム >

上の写真: クヴェール橋から見たヴォーバンダム。地図番号1.
13のアーチからなり、それぞれに堰がある。

中央の写真: ヴォーバンダム屋上から見たイル川上流、南西を望む。
右手のガラスの建物は近代美術館。

下の写真: ヴォーバンダムの内部。
私達はそのアーチの上を歩いている。
写真の上側に鉄製のチェーン巻き上げ用の車輪があり、これでかって水門を上下したのだろう。

てっきり、このヴォーバンダムは敵船の侵入防止に役立つと思ったのですが、
1870年の普仏戦争の時に、この水門を閉じて都市の南側を水没させ、プロイセン軍(ドイツ)の侵入に抵抗した。


 

< 5.クヴェール橋からプチットフランスへ >

上の写真: 橋の上を歩く。地図番号2.

中央の写真: 橋の上から下流側、東側を望む。

下の写真: この川の右側をこれから歩くことになる。


 

< 6. プチットフランス 1 >

木組みが露出している独特の建物が川沿いにびっしりと並んでいる。
これら建物と川を細い道と歩道橋が繋いでいる。
この景観は16~17世紀に始まる。

この建物の多くは皮なめし業のものだったので、屋根裏部屋で皮を乾燥させていた。
その為に屋根には空気循環用の窓が多くみられる。
またボーヌで紹介したように、ここでも屋根瓦に特徴がある。
どうやらアルザス地方は、下の写真に見られるようなうろこ状の平瓦が使われているようです。

このプチットフランスの名前は耳に心地よく、かつてドイツにあって、フランスを懐かしんだようなイメージを抱かせる。
この呼び名は、実は、ストラスブールが神聖ローマ帝国領だった15世紀、この島(川洲)に梅毒の病院が建てられ、ドイツ語で梅毒を「フランスの病気」と呼んでいたことから来ている。


 

< 7. プチットフランス 2 >


 

< 8. プチットフランス 3 >

右手にこれから行く地図番号4の小さな広場がある。
川の水はあまり綺麗とは言えないが、川面に青空が映えて実に素晴らしい景観でした。





 

< 9. 通り 3 >

地図番号4から5の間の通り。


 

< 10. サン・ト―マ教会 >

この教会はプロテスタントの教会ですが、かつてはカトリックの教会でした。

1517年、ルターがドイツで「95ヶ条の論題」を発表し、宗教改革が始まりました。
そしていち早く、1524年には、この教会はプロテスタントに改宗しました。
そして宗教改革者のマルチン・ブツァーが1532年より、アルザス地方で布教活動を行い、この教会で説教を行っている。
その後、神聖ローマ帝国内でプロテスタントの後退が起き、1549年、迫害を逃れ英国に渡り、英国の教会改革に関わった。



 

< 11. グーテンベルグ広場 >

グーテンベルグの像が立っている。
彼はルネサンス三大発明の一つ、活版印刷をヨーロッパで初めて実用化した。
この広場はこれを記念したものです。

グーテンベルグはドイツのマインツに生まれだが、1434~1444年の間、ストラスブールに住んでおり、この間に活版印刷技術を完成させていたらしい。
その後、マインツに移り住み、印刷所を開始し、最初の印刷聖書「グーテンベルク聖書」を1455年に出版した。

この技術によって聖書が量産されプロテスタントへの理解が広まり、宗教改革を後押しすることになった。
またそれまでの写本や木版本に替わり、大量の出版が可能になり、各国の言語統一に拍車をかけることにもなった。

後半は、次回紹介します。


ストラスブールの城郭について
帰国後、調べていると城郭地図が見つかりましたので紹介します。


 

< 12. ストラスブールの地図、上が真北 >

上の地図: Pプチットフランス、Cが大聖堂、Wが唯一残っている城壁跡。

下の地図: イル川に囲まれた旧市街の全景。


 
< 13. ストラスブールの城郭図 >

この三枚の地図により、中世のストラスブールの様子がよくわかります。

上の図: 1644年当時。By Wikipedia.
この俯瞰図は、旧市街を東北東から見たもので、イル川の下流側から大聖堂を見ている。
現在の分岐したイル川の外まで五稜郭のような星型の城郭が広がり、南側のイル川を行く船は二つの塔の間を進んでいくようです。
中洲に出来た現在の旧市街も城壁で囲まれているのが見える。


中央の図: 1680年の形らしい。上が真北です。
上の俯瞰図の平面図と考えられる。
Pプチットフランス、Cが大聖堂です。

下の図: 18世紀末から1870年の形らしい。上が真北です。
この時期になると、更に城郭は拡大している。

Pプチットフランス、Cが大聖堂、Wは唯一残っている城壁跡に対応すると考えられる。
ライン川の対岸にあるKEHLは現在ドイツ領ですが、ここにも城郭が見える。
ストラスブールは1690年代に神聖ローマ帝国領からフランス領になり、また1871年に、ドイツ領(プロイセン)になっている。

ストラスブールの15世紀以降の古地図や俯瞰図を見ると、イル川の中州に出来た現在の旧市街だけの城郭は16世紀になってから、旧拡大していることがわかる。

16世紀と17世紀はヨーロッパ中が宗教戦争に巻き込まれた時期でした。
17世紀末になると、ルイ14世によってフランスは最盛期を迎え、領土拡張が進んだ。
これらが、ドイツとフランスの国境沿いに戦争を頻発させ、城郭の拡大に繋がったようです。

つまり、当初私が感じたような無防備な都市ではなくて、ストラスブールは巨大な城郭都市でもあり、水運も考慮した都市だったようです。
これはバビロンの古代都市にも似ているし、中洲から発展したパリとも似ている。


次回に続きます。