20170128

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 28: ビルニュス 3




 *1



今日はビルュニス旧市街観光の残りを紹介します。
2016年10月3日、月曜日の朝、霧に包まれた町を歩きました。



 
< 2. 地図 >

上の地図: 徒歩観光したルート。上が北方向。
紫線は夜の街歩き、赤線は前回紹介した旧市街、紺線は今回紹介する旧市街です。


中央の地図: この旅行で歩いた旧市街。上が東方向。
上の地図と同じ色でルートを示している。
二つのオレンジ枠は後に紹介するヴィリニュス・ゲットーだった所です。

下の地図: 今回の徒歩ルート。上が東方向。
今回の紹介はSから始まり、Eで終わります。
途中のGは市庁舎広場の噴水に近く、ゲットーの表示があるところです。


 

< 3. 市庁舎広場の噴水近くから >

上の写真: 南側の中央に旧市庁舎が見える。
中央の写真: 中央に東側の聖母マリア教会。
下の写真: 北側のニコラス正教教会の鐘楼が見える。


 

< 4. 市庁舎広場から夜明けの門通りに入る >

上の写真: 左に聖カジミエル教会の屋根が見える。
No.1の写真が拡大したものです。

中央の写真: 聖カジミエル教会の正面。
1604年にイエズス会よって建てられ、帝政ロシアの時代には頭の王冠がタマネギに付け替えられ、正教教会になった。
ソ連時代は「無神論」博物館にさえなった。



 

< 5.様々な教会  >

上の写真: 中央に聖三位一体教会が見える。
この教会はカトリックとロシア正教会の習合によって生まれた宗派の教会。

中央の写真: 中央奥に夜明けの門が見える。
その左にテレサ教会の正面が見える。

下の写真: ピンク色で外観が変わっている聖霊教会。
上の写真の人だかりがその場所です。
リトアニアにおけるロシア正教の中心的な存在。
ここは観光客や参拝客が多かった。



 

< 6. 夜明けの門 >

上左の写真: 夜明けの門をくぐると城外になる。
左側の建物に小さな扉があり、そこから階段を上ると中央のイコンを拝める。
無料です。

上右の写真: この門は昔の城壁でした。
この旧市街には城壁は一部しか残っていない。

下の写真: 黄金に輝くイコン。
このイコンは今も奇跡を起こす力があると信じらていると聞きました。
私は階段を上って、すぐ横まで行ったのですが、諦めて戻りました。
東アジアの物見遊山の観光客が、敬虔な信者達をしり目に我勝ちに占拠する姿を見て、悲しくなったからでした。



 

< 7.夜明けの門を出て >

上の写真: 門から来た道を振り返っています。
中央の写真: 門を外側から見ている。
下の写真: 少し離れた所から門を見ている。

これだけキリスト教会が多いのにユダヤ教のシナゴーグが見当たりませんでした。




二つの悲しい歴史



 

< 8. 近代リトアニアの生い立ち  >

A: 署名者の家。
ピリエス通りに面した「Signatarų namai」の表記がある建物で、場所は地図のSの辺りです。

B: ポーランド・リトアニア共和国(1569-1795)の最大版図、1619年頃。
現在の国境を重ねて表示。

C: 三度に亘るポーランド分割(1772-1795)の推移。
リトアニアはプロシア(ドイツ)、ロシア、オーストリアで分割され、最後にはロシア領に組み込まれた。
赤丸がビルニュス。

D: 第二次世界大戦以降(1939~)、バルト三国はソ連によって占領された。

E: 1920年、ポーランドのビルニュス進攻。
ゲディミノ大通りをカテドゥロス広場の大聖堂に向かって進軍。


リトアニアの独立を巡って
1918年、上記「署名者の家」で始めてリトアニアの独立宣言が行われ、他のバルト三国も同じ年に行った。
1990年、リトアニアは2回目の独立宣言を行い、1年後、バリケード事件の年に他のバルト三国も行った(「リガ3」で紹介済み)。

この2回の独立は、バルト三国の悲しみを象徴し、特にリトアニアは悲惨でした。
それは、リトアニアがヨーロッパのポーランドやドイツとロシアに挟まれていたからでした。
バルト三国の南部は東西の大国が領土を拡張する時は、いつも修羅場になった。

18世紀末以降、国土の大部分はポーランド・リトアニア領からロシア帝国に組み込まれていった(No.8の地図BとC)。
ところが第一次世界大戦にかけてロシア革命(1905、1917)が勃発すると、
民衆はかつての支配国のドイツ、ソ連の革命軍(赤軍)と反革命軍、ポーランド寄りに分かれて戦った。
その間隙を突いて、1918年に前述の独立宣言を行い、諸外国から承認された。

しかし、その後もソ連とポーランドによって領土は分割され、1939年、ついにナチスドイツが進攻し、密約によりソ連領とされた(No.8の写真D)。
第二次世界大戦の1940年、ソ連が侵攻して来たが、41年には独ソ戦が始まった。
民衆は独立を目指し、広大な原生林に隠れながら抵抗運動(パルチザン)を行った(No.9の写真A)。

この間、多くのリトアニア人は国外脱出を図り(米国など)、ソ連は見せしめの大量虐殺とシベリア抑留でこれを弾圧した。
特にスターリンによる粛清は過酷を極め、また偽パルチザンやスパイの暗躍,また
裏切りによって人々は疑心暗鬼になっていった。

やがて、1985年、ゴルバチョフのペレストロイカが始まると、バルト三国に雪解けが起きた。
けっして平坦な道ではなかったが、タリンの「歌の革命」(No.9の写真B、現在のもの)、3ヵ国による「人間の鎖」(No.9の写真C)、リガの「バリケード事件」(No.9の写真D)を経て、バルト三国は真の自由を得た。


なぜ人は独立の為に戦うのだろうか?
バルト三国を巡っている時、上記の問いが脳裏から離れなかった。
私には独立の為に命を捨てる覚悟はないだろう。

ビルニュスの青年に、1991年の独立について添乗員に聞いてもらった。
彼の感想を要約します。

今でも、この戦いの評価が分かれている。
若い自分としては、独立によって自由を得られたことが大きい。
今は、大学を出ても就職先に困る欠点はあるが、昔は、何もなく貧しかった。
年寄の中には、昔の方が良かったと言う人もいる。」

参考: 現在、リトアニアの失業率は10%ほどです

私は少し安堵した。
独立闘争が美化されておらず、国民が冷静に歴史を見ていると感じたからです。
これは想像を絶する分断との闘いだったからかもしれない。
実は、ポーランドでも同じような質問していますが、後日、紹介します。

一方、問題もある。
それは反乱を防止する目的などで占領地の住民を強制移住させ、そこにロシア人を移民させていることです。
地域によればロシア人の比率が高く(エストニアのナルバなど)、不満が鬱積するとロシアへの統合を求め分裂するかもしれない。
そうすればウクライナと同様の事が起きる。

小国バルト三国は、今もロシアの一挙手一投足に怯えているのではないだろうか?
その一方、ロシアの人々は無関心であった。


 

< 9.バルトの闘い >




 

< 10. ビルニュス・ゲットー 1 >

上の写真: 市庁舎広場の噴水近くの西側に延びる通路。
この撮影場所はNo.2地図のGです。

下左の写真: この通路の右手入口に「ビルニュス・ゲットー」の説明板がある。
下右の写真: 「ビルニュス・ゲットー」の説明板。





 

< 11.ビルニュス・ゲットー 2  >

A: 1902年当時の市庁舎広場。
No.3の下の写真とほぼ同じ方向を撮影している。

B: 1939年、ドイツ軍の制服を来たリトアニア軍がビルニュスに進軍。
奥にカテドゥロス広場の大聖堂が見える。

C: ビルニュス・ゲットーの入り口(1941年以降だろう)。
 
D: ビルニュス・ゲットー内の様子(1941年以降だろう)。

E: ビルニュス・ゲットーで1942年に結成されたパルチザン。


ユダヤ人の悲劇、ビルニュス・ゲットーについて
ヨーロッパ各地を旅行していると、ユダヤ人と関わる不思議な発見をすることがある。

ハンガリーのブタペストでシナゴーグを訪れ、ドイツ軍による大規模なユダヤ人虐殺を知った。
シナゴーグ内で座っていると「あなたはスペイン人ですか?」と数回聞かれ、不思議に思った。

後に、スペインのトレドを訪れた時、レコンキスタ終了後の1492年にゲットーが造られたことを知った。

実はこのことが、ブタペストでの質問に繋がったようです。
キリスト教徒の国、ヨーロッパではユダヤ教徒を忌避していたのですが、このスペインの事件以降、排斥されたユダヤ人は、ヨーロッパを東へ東へと移動したのです。
そして東欧やロシアに入ったのでした。

このリトアニアのビルニュスには16世紀からユダヤ人が住むようになり、18世紀末以降は「リトアニアのエルサレム」と称されるようになった。
さらに第二次世界大戦が始まると、ドイツ軍占領下のポーランドを逃れてユダヤ難民が押し寄せ、ビルニュスのユダヤ人人口は15万人に膨れ上がった。

そして、ドイツ軍の進攻と共に惨劇が始まった。
この初期に杉原千畝領事がカウナスでユダヤ人を大量に救ったのでした。

1941年、ドイツの保安警察と反ユダヤ主義のリトアニア人補助兵がユダヤ人虐殺を始めた。
次いで、ヴィリニュス・ゲットーが造られ、ユダヤ人はそこに隔離された。

1943年、ヒムラーの「労働できるユダヤ人は強制労働収容所へ移送し、それ以外の者は全て殺害せよ」との命令により、移送と殺害が始まった。
この間に、抵抗運動は起きたが、最後は森に逃げた。

1944年、ソ連軍がヴィリニュスを再占領した時、2500人ほどのユダヤ人が隠れて生存していただけであった。
ニュルンベルグ裁判(1945-46)で、ホロコーストの3人の証人の一人は、このビルニュス・ゲットーのユダヤ人でした。

イスラエル建国時や中東戦争で活躍した人、イスラエルの強硬派の指導者にはロシアや東欧での苦難や戦いを経験した人が目立つ。
悲しい巡り合わせです。


次回に続きます。





20170126

Bring peace to the Middle East! 63: Why was it exhausted ? 1: Introduction


中東に平和を! 63:  なぜ疲弊したのか 1 :はじめに





*1


From now on, we are going to pursue the troublesome problems related not only to the Middle East but also to the world.
It is about many societies that had to be exhausted.

これから中東だけでなく世界に関わる厄介な問題を追います。
それは疲弊せざるを得なかった多くの社会のことです。





*2

Introduction
We have seen the conflict of the Middle East until now and if keeping track of its origin and background, you must notice the tremendous darkness.
Many people seem to know it, but actually don't know it.

About ten years ago, I have asked three men about some conflicts.

Question 1,  "Why are there many civil wars in Africa?"

The answer,  "I am sure the reason is because each tribe is blocked by jungle."

Question 2,  "Why are there less conflicts in Southeast Asia (Continent)?"

The answer,  "I think it is because each country is blocked by several mountain ranges."

Question 3,  "Do you think it was good that the Cold War ended?"

The answer,  " The world got worse. The world was peaceful because the United States and the Soviet Union were facing each other, but the civil wars began to occur in various places since then."

Those who answered were ordinary men, but I think their social consciousness was somewhat high.
What do you think of their answers?
It seems to be like certainly true.
At that time, in the process of looking for the answer, I felt a little query about the answers, but I could not deny it.

After all, it is necessary to know the truth to understand the problems of the Middle East.


はじめに
今まで中東の紛争を見て来ましたが、その起源や背景を追って行くと、途方もない闇に気付くことになります。
多くの方は、このことを知っているようで知らない。

十年ほど前、私は身近な三人に紛争について質問したことがあります。

質問1 「なぜアフリカに内戦が多いのでしょうか?」

答え 「それは各部族がジャングルで遮らているからに決まっている。」

質問2 「東南アジア(大陸部)はなぜ紛争が少ないのでしょうか?」

答え 「それは各国が幾つもの山脈によって遮られているからだと思う。」

質問3 「冷戦が終わって良かったと思いますか?」

答え 「悪くなった。米ソが睨み合っているからこそ世界は平和だったのに、タガが外れたから各地で内戦が起きたではないか。」

答えた方は一般の人ですが、社会意識は若干高いと思います。
皆さんはこの答えをどう思いますか。
一理あるようにも思えますね。
当時、私は答えを模索中で、この答えに疑問を持ったのですが否定出来なかった。

やはり中東問題を理解するには真実を知る必要があります。





*3


What does it mean to know this truth?
There are three stages.

A:  There are structural factors that certain society (nation) continues to be exhausted.

B:  Many of its origins occurred by external pressure.

C: Everyone else is indifferent to the external pressure.  

You can consider two examples.

Case 1
A large earthquake hit an island and half of the houses collapsed.
On the other hand, the fields and the fishing ground were safe.
All residents were able to help each other, receive assistance from nearby islands, and the island returned to normal living.

Case 2
A gold mine was discovered on an island, and eventually struggle began.
A continental merchant who knew it sold the islanders weapons and the battle became decisive.
This winner and the merchant gained wealth.
Later, when a massive earthquake struck the island, nobody helped each other, and it turned into a battlefield again.

This simple cases illustrates the mentioned three stages.
I think you roughly understand about the stage A and B.
I think it is difficult to understand the stage C.
The problem is to say that people of the continent do not know the acts of the merchant and are indifferent about it.
But actually, the people of the continent indirectly got the economic benefit, and the islanders were holding a grudge against it.



この真実を知るとは、どのような事なのか?
三つの段階があります。

A 社会(国家)が疲弊し続ける構造的要因がある。

B その起源の多くは外圧によって起こった。

C 他者はその外圧に無頓着である。

二つの例で考えてみます。

事例1
ある島を大地震が襲い、家屋の半分は倒壊した。
一方、田畑や漁場は無事だった。
住民は助け合い、近隣の島からも援助を受けて、やがて島は平常の暮らしに戻った。

事例2
ある島で金鉱が発見され、やがていがみ合いが始まった。
それを知った大陸の商人が武器を売り、勝敗は決した。
この勝者と商人は富を得た。
その後、大地震が島を襲った時、誰も助ける者はなく、また戦場と化した。

この単純な事例は前述の三つの段階を説明しています。
段階AとBについては雰囲気が分かっていただけると思います。
段階Cは分かり難いと思います。
問題は、その商人の行為を大陸の人は知ることもなく、無頓着だと言うことです。
実は、大陸の人は間接的に経済的に潤い、かつ島の人からは恨まれているのです。





*4

What I want to clear
From now on, we pursue the disasters brought by colonization (imperialism) for centuries and the Cold War for half a century.
Countries that didn't suffer this disaster doesn't seem to exceed 10 among 200 countries.
The important point is not the hugeness of the casualties and deprivation but what reason a lot of societies had to continue to be exhausted.

Unless we can understand this, human beings deepens the breakup, and there is a possibility of entering the century of war again.

My way of doing deals with some representative facts and will summarize its structure.

This continues the next time.


これから明らかにすること
これから私達は、数百年間の植民地化(帝国主義)と半世紀の冷戦がもたらした災いを追います。
この災いを受けなかったのは世界200国中、10カ国を越えないでしょう。
重視すべきは、死傷者や収奪の甚大さではなく、どのようして多くの社会が疲弊し続けることになったかと言うことです。

これを理解できない限り、人類は分裂を深める、再び戦争の世紀に突入する可能性があるからです。

進め方は、幾つかの代表的な事実を扱い、その構造を概括することになります。


次回に続きます。





20170124

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 27: ビルニュス 2








*1

今日からビルュニスの旧市街を紹介します。
2016年10月3日、月曜日の朝、町全体が霧に包まれていました。
新市街1カ所と旧市街の半分ほどを紹介します。



< 2. 地図 >

上の地図: リトアニアを示しています。上は北です。
首都ビルニュスは国の右下の方にあり、他の二カ国の首都が海に近いのとは異なります。
これは広大なリトアニア帝国の名残であり、また都市が交易で発展していなかったことに関係しています。

中央の地図: ビルニュスの拡大です。上は北です。
赤い線は前回紹介した夜の街歩きのルートで、ホテルからカテドゥロス広場の大聖堂までを示しています。

Aは杉原桜公園です。

黒枠は今回紹介する旧市街の半分です。

下の写真: 上記の黒枠部分です。上は東方向です。
赤線は前夜歩いたゲディミノ大通りです。

Sは朝、観光バスを降りて徒歩観光を始めたカテドゥロス広場です。
黄線は徒歩観光のルートです。
Eは今回紹介する最後の地点です。

以下の写真は撮影順に並んでいます。





< 3. 朝の光景 >






< 4. 杉原桜公園 >

上の写真: ネリス川の西側(下流)を見ている。
写真の右手に杉原桜公園が広がっている。

中央の写真: 杉原桜公園。
毎年春になると、この公園の200本の桜が咲きます。
桜は杉原千畝生誕100年を記念して2001年に植樹されたものです。
茶色の石碑が杉原千畝領事の記念碑です。

この右手を入ると私達のホテルがあります。

下の写真: 杉原千畝領事の記念碑。


杉原千畝について
彼は東洋のシンドラーと呼ばれる。
第二次世界大戦中、リトアニアの臨時首都であったカウナスに領事として赴任していた。
1940年、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなどから逃れて来たユダヤ人に、外務省の訓令に反してビザを発行した。
彼らはロシア経由で避難し、命を救われた。





< 5. 町の光景 >

上の写真: ネリス川。






< 6. 徒歩観光の始まり >

上左の写真: カテドゥロス広場の大聖堂と鐘楼。
この大聖堂は18世紀の改築によってクラシック様式になった。
この塔の基礎は13世紀の城壁の塔が使われている。

上右の写真: この鐘楼の下部にある記念プレート。
これは以前紹介したバルトの道(人間の鎖)のリトアニア側の端を示す。

下の写真: カテドゥロス広場からゲディミノ大通りを望む。





< 7. 大聖堂の内部 >

上左の写真: バロック様式の聖カジミエルの礼拝所。
聖堂を入って右奥にある。




< 8. カテドゥロス広場から始める >

上の写真: 左に大聖堂、右に再建中の王宮がある。

中央の写真: カテドゥロス広場の木々。

下の写真: 旧市街のメイン通りのピリエス通り。
振り返ると、丘の上にゲディミナス城の塔が見える。



 

< 9. ピリエス通り >

上の写真: 聖ヨハネ教会が奥に見える。
14世紀にリトアニアがキリスト教を受け入れて建設が始められ、18世紀の火災の後、バロック様式で改築された。
現在は離接するビルニュス大学の教会になっている。

下の写真: 聖ヨハネ教会の鐘楼、旧市街で最も高い。




< 10. 二つの教会 >

上の写真: ピリエス通りの突き当りに小さな正教会が見える。

下の写真: 聖ミカエル教会。




< 11. 聖アンナ教会 >

上の写真: レンガで作られた聖アンナ教会。
今回紹介する徒歩観光の終点にある。
16世紀後半に建てられたゴシック様式の教会。
1812年、ナポレオンがロシアへ攻め上がる途上、この教会を見て「フランスに持ち帰りたい」と語ったほど美しい。

下の写真: 奥に見えるのはベルナルディン教会。



あとがき
このリトアニアは数奇な運命と言うか、過酷な歴史を負った国です。
そしてルニュの旧市街にもその痕跡がある。

他のバルト二ヵ国はドイツ人(騎士団)によって経済と文化が発展し、宗教はプロテスタントになったと言える。
その一方、独立まで長らくドイツ人が支配層に君臨した。
そのことが、タリンやリガのドイツらしい町並みを造った。

しかし、ルニュの旧市街の趣は異なる。
かつてリトアニアは13~18世紀、黒海に接する大帝国で、ロシアを圧することもあった。
やがてロシアへの対抗上、接していたヨーロッパの大国ポーランドと連合した。
しかし、ポーランドが政治と文化で支配的になっていった。
また、この国は農業国で都市の経済発展が進まなかったので、リトアニア人は農民として地方に住んでいた。
1931年当時、ルニュの住民はポーランド人66%、ユダヤ人28%、ロシア人4%で、リトアニア人は1%未満であった。
ソ連支配後のポーランド人追放により、現在はリトアニア人が58%です。
リトアニア全体ではリトアニア人83%、ポーランド人6%、ロシア人5%です。

こうしてルニュ街並みは他のバルトと異なるものとなり、宗教はポーランドの影響でカトリックが主流となった。


次回に続きます。




20170122

Bring peace to the Middle East! 62: Religion and Politics 2



中東に平和を! 62:  宗教と政治 2





*1



Last time, we thought about religion and politics.
We think about contemporary relationship between religion and law this time.

前回、宗教と政治について考えました。
今回は現代の宗教と法の関係について考えます。





*2


About Holy War (Jihad)
The problem that we are most concerned about the Islam of the Middle East seems to be jihad.

Extremism advocating jihad is abnormal beliefs from a standpoint of moderate beliefs being the overwhelming majority of Muslim.
However, the extremism (rigorism) continues to live historically, and then is in Saudi Arabia now.
Although, biased beliefs such as fundamentalism are also in other religions.

What is the problem?
First of all, currently, it is to admonish the jihad ( fatwa for starting an armed struggle) very easily.
Furthermore, there is no end to the number of men who participate in it with indignation and support it.
In the past, there were many cases that voluntary armies contributed in the world, but the current state of the Middle East is a lawlessness without controlling, and the some groups may be a group of thieves.



聖戦(ジハード)について
私達が中東のイスラム教で一番気になる問題はジハードでしょう。

ジハードを唱える過激思想は、穏健なムスリム全体から見れば異常なものです。
しかし、過激思想(厳格派)は歴史上も、現在のサウジアラビアにも生き続けています。
もっとも、他の宗教でも原理主義など偏向した思想は存在します。

何が問題なのでしょうか。
先ず、現在、ジハード(武力闘争開始のファトワー)がいとも簡単に発せられていることです。
さらに、それに義憤を感じて参加する人、また支援する組織が後を絶たないことです。
かつて世界には義勇軍が貢献した例は多々ありますが、中東の現状は統率なしの無法状態で、盗賊団になり下がている場合もある。




<3.  Father of liberation of Algeria >
< 3. アルジェリア解放の父 >

Jihad is one of the obligations for Muslim, and means "effort" and "struggle".
Once, it was declared at a defense of their community and an attack on enemy, and it is something they can't do without.
However, the current jihads only expand many conflicts and deepen cracks between people.

The problem is not interpretation of the jihad (holy war) or the extremism beliefs.
The essence is "Islamic law can not punish jihad involving violence as a crime".
Looking back on legal history of the world, most society has been advancing the concept of justice in time with the change, and unifying it in time with the unity of countries.
Then, people has been creating a social system for achieving the justice.
In conclusion, it is necessary to move away from the Islamic law to go to the national law.
In other words, the society has to be controlled by a legal system built by a democratic regime (separation of the three branches of government).



ジハードはムスリムにとって「努力」「奮闘」の意味で義務の一つです。
かつて、共同体の防衛や進攻に際し宣言され、共同体に無くてはならないものでした。
しかし、現状のジハードは紛争を拡大させ、亀裂を深めるだけです。

問題はジハード(聖戦)の解釈や過激思想にあるのではない。
本質は「イスラム法では暴力を伴うジハードを犯罪として処罰出来ない」ことにあると考えます。
世界の法制史を振り返ると、社会は発展と統合に合わせて正義の概念を変え、かつ統一し、それを実現する社会体制を造り挙げて来たのです。

結論を言うと、イスラム法から国法への脱皮、つまり民主的な政体(三権分立)で築かれた法制度に社会を委ねることです。




<  4. Radhabinod Pal >
< 4. パール判事 >

Indian Pearl Judge who advocated Japan's innocence in the Tokyo Tribunal of War Criminals said as below.

"The law is a dynamic human force that allows to survive our human society"

He said that the law must express "truth" (Hindu law), but to keep the social order, and it is essential that humans continue to improve the law.

There is a possibility that current Islamic legal system(the relationship between Sharia and national law)can not adapt successfully to real society.
Especially as for violence involving people in conflict, it is necessary to apply strict law, and it can't be said that it is merely the difference of interpretation.
For this purpose, people have got to consolidate the democratic administrative body that has a consistent legislation, judicature, and section getting tough on crime.

This is a secular politics.

However, it may not be necessary to accomplish this at a stroke.
Even in Iran of a Islamic Republic, the status of women is improving.
I think lots of Ulema widely cooperate and should begin from improving application of jihad.

I start another theme from next time.




東京裁判で日本無罪論を唱えたインドのパール判事はこう述べています。

「法は人間社会の存続を可能とする動的な人間力である」注釈1.

彼は、法は「真理」(ヒンドゥー法)を表現しなければならないが、社会秩序を保持する為に、人間が法を改善し続けることこそが必要不可欠と言っている。

現在のイスラム圏の法制度、シャリーアと国法の関係は、現実社会に対応出来なくなっている可能性があります。
特に社会を紛争に巻き込む暴力に対しては、厳格な法の適用が必要で、解釈の違いで済まされないのです。
この為には民主的で一貫性のある立法、裁く司法、犯罪を取り締まる行政が整備されなければならない。

これは政教分離と言えるでしょう。

但し、これを一気呵成に成し遂げるこ必要はないかもしれません。
イスラム共和制のイランでさえ、女性の地位は向上しつつある。
広くウラマーが協力し、ジハードの適用から改善していくべきだと思います。


次回からは別のテーマで始めます。



注釈1.
この文は1984年の東京裁判研究会からの引用です。
彼はヒンドゥー法を専攻し、インドの法学部教授や裁判所判事、国連国際法委員長を歴任した。
彼の日本無罪論は、日本に戦争や虐殺に対する責任はあるが、法的に侵略罪を問うことが出来ないと言うものです。


20170120

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 26: ビルニュス 1





< 1.リトアニア国立ドラマ劇場 >


今日から、バルト三国で最後の国、リトアニアの首都ルニュを紹介します。
今日は、夕暮れのビリュニスと、夜の街歩きを紹介します。
訪れたのは2016年10月2日、日曜日です。



*2

リガから南下し田園地帯を抜けて、やがて販売店やアパート群が見えて来ました。
ルニュの人口は56万人で、リガの70万人とタリン42万人の中間です。



*3





*4

思ったより大きく近代的な都市だと感じました。




*5



< 6.夕食のレストランへ >

バスを降りて、レストランに向かっている。
下の写真: このレストランでリトアニア料理を食べました。


夜の街歩き
私達は夕食後、新市街にあるホテル「Best Western Hotel」に到着した。
次いで、添乗員に案内してもらってショッピングモール「Vilniaus Centrinė Universalinė Parduotuvė」(open10:00-22:00)に行きました。

その後、皆と分かれて、私達夫婦は旧市街に向いました。
ネリス川を渡り、メインストリートのゲディミノ大通りを抜けて、片道2.5kmを歩きました。





< 7.カテドゥロス広場 1 >

上の写真: カテドゥロス広場から今歩いて来たゲディミノ大通りを振り返る。

中央と下の写真: カテドゥロス広場の大聖堂と鐘楼。





< 8.カテドゥロス広場 2 >

私達はまたこの広場を次の日に観光ツアーで歩くことになります。





< 9.カテドゥロス広場 3 >

途中、ほとんど観光客らしいグループを見かけることはなかった。
見たのは、おそらくは地元の人々で、多くは足早に帰宅する人のようでした。
広場のベンチには幾つもの恋人のシルエットがあった。

照明のある大通りや広場を歩いた感じでは、治安に不安を感じるような所はなかった。
実に、感じの良い都市だと思いました。





< 10.ホテルに戻る >

上の写真: 行政府広場から見たゲディミノ大通り。
中央の写真: 帰る途中。
私達のホテルの近くにある大天使ラファエル教会が見えます。

下の写真: ネリス川の向こうに大天使ラファエル教会が夜空に浮かび上がっている。


次回に続きます。