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今日は、首都リガ紹介の3回目です。
< 2. リガの地図 >
地図: 今回紹介する範囲で、上が南です。
黄色線が徒歩観光ルート。
Sは前回に続いて聖ペテロ教会、Aは猫の家、Bは火薬塔、Cはスウェーデン門、Dは聖ヤコブ教会、Eはドゥァマ広場。
下左の写真: 前回紹介した聖ペテロ教会。
下右の写真: 猫の家に向かっていく途中の通り。
< 3. 猫の家 >
上の写真: 猫の家はリーヴ広場に面している。
下の写真: 猫の家。
屋根の上の猫は、かつて反対方向を向いていた。
この家の裕福なラトビア商人が、ビッグ・ギルドに加わりたいと願った。
しかしギルドはドイツ人が支配的であった為、拒否された。
そこで怒った商人は、猫の尻をギルドに向けた。
< 4. 火薬塔 >
上左の写真: 薬草酒の販売店。
添乗員に連れられて皆は店内に入りました。
試飲するとアルコールが効いて、雨に濡れて冷えた体が一気に火照りました。
結局、小瓶を買いました。
このリガの町には、いくつか同様の店があるようです。
上右の写真: これで2度目の火薬塔です。
下の写真: 奥に赤いレンガ積みの城壁があり、さらに奥に火薬塔の緑の屋根が見えます。
写真のすぐ右側にスウェーデン門がある。
前日の夜、この通りの左側のレストランで食事をしました。
< 5. スウェーデン門の今昔 >
上の写真: 現在のスウェーデン門。
左が外側から、右が内側から写した写真です。
下の写真: 1991年のバリケード事件の写真。
スウェーデン門の外側にはトラックを置き、内側で市民が暖を取っています。
< 6.聖ヤコブ教会 >
上の写真: 聖ヤコブ教会の横から見たイェーカバ通り。
突き当りにドゥァマ広場が見える。
右側に碑が見え、「1991年、バリケード」と書かれている。
下の写真: 聖ヤコブ教会。
この教会の最初の記録は13世紀と古く、15世紀に建て直された。
< 7. ラトビア国会議事堂の今昔 >
上の写真: ラトビア国会議事堂。
この建物はイェーカバ通りに面し、聖ヤコブ教会と向き合っている。
下の写真: 1991年のバリケード事件の写真。
右にラトビア国会議事堂、左に聖ヤコブ教会が見える。
多くの市民が集まっており、数台のトラックが見える。
< 8. 三人兄弟 >
上の写真: 「三人兄弟」の建物を左右から見ている。
下の写真: この三つの建物は中世の住宅で、外観は当時の姿をほぼ保っている。
右の17番が15世紀のもので、リガの一般住宅としては最も古い。
中央の19番が17世紀中頃のもの。
左の21番が17世紀後半のもので、土地が少なくなった為か窮屈になっている。
しかし窓税の廃止により、17番に比べて窓を大きくとっている。
< 9. 昼食のレストラン >
ここは聖ヤコブ教会のすぐ近くにあるニンニク料理の店です。
私は始めてニンニク入りのビールを飲みました。
美味しく、温まりました。
< 10. ドゥァマ広場に戻って来ました >
下の写真: イェーカバ通りからドゥァマ広場のリガ大聖堂の雄姿を再び見ることになりました。
右に少し見る赤い建物は証券取引所で、風格があります。
< 11. ドゥァマ広場の今昔 >
下の写真: 1991年1月のバリケード事件の写真。
上下の写真はほぼ同じ位置から撮影しています。
ここでも多くの市民と車が集まっています。
< 12. バリケード事件 >
1991年1月のバリケード事件について
1991年の8月までに、すべてのバルト三国がソ連の軛を脱し独立した。
そして同年12月にソ連は崩壊した。
ラトビアで起きたこの事件は、これらと深く関わっていました。
既に紹介したように、1988年、エストニアのタリンで「歌う革命」が起きていた。
これを境に、バルト三国はソ連支配からの独立を共同で目指し始めました。
一方、ソ連国内ではゴルバチョフ主導のペレストロイカにより、連邦内の各共和国の意見が反映されるようになっていた。
しかしモスクワでは旧体制への揺り戻しが起き、混乱していた。
こうした中、リトアニアが1990年3月、一番に独立を宣言しました。
すると1991年1月、リトアニアの首都ビルニュスで親モスクワ派がデモを敢行し、これに呼応してソ連軍の戦車が侵攻し、14人の死者と数百人の負傷者が出た。
この様子はメディアを通じて世界に伝えられ、世界の同情を集めた。
この翌日、ソ連軍はリガの占拠を開始した。
これに対して数万の市民は車や廃材を持ち込み、旧市街の要所にバリケードを造り、非暴力で防衛した。
この日(13日)、エリツインがタリンを訪問し、エストニアの支持を表明した。
1月20日、モスクワで10万人のデモが起こり、バルト三国への支持を訴えた。
こうして同年の8月、残り二か国は独立宣言に至る。
この間のリガの死傷者は6人でした。
あとがき
この美しく静かな中世の街並みと石畳は、バルト三国の人々の自由への熱望と英知を秘めていたのです。
バルト三国は数百年に及ぶ異民族や最後のソ連による支配に喘ぎ続けていた。
しかし彼らは、非暴力と三国の協力をもって、さらに世界の支持を得て、ほぼ無欠の革命と独立を成し遂げたのです。
私はこの事件の写真を見ながら、その石畳の上に立っていた自分に熱いものを感じています。
次回に続きます。