20170112

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 24: リガ 3





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今日は、首都リガ紹介の3回目です。


 

< 2. リガの地図 >

地図: 今回紹介する範囲で、上が南です。
黄色線が徒歩観光ルート。
Sは前回に続いて聖ペテロ教会Aは猫の家、Bは火薬塔、Cはスウェーデン門、Dは聖ヤコブ教会、Eはドゥァマ広場。

下左の写真: 前回紹介した聖ペテロ教会。

下右の写真: 猫の家に向かっていく途中の通り。


 

< 3. 猫の家 >

上の写真: 猫の家はリーヴ広場に面している。

下の写真: 猫の家。
屋根の上の猫は、かつて反対方向を向いていた。
この家の裕福なラトビア商人が、ビッグ・ギルドに加わりたいと願った。
しかしギルドはドイツ人が支配的であった為、拒否された。
そこで怒った商人は、猫の尻をギルドに向けた。


 

< 4. 火薬塔 >

上左の写真: 薬草酒の販売店。
添乗員に連れられて皆は店内に入りました。
試飲するとアルコールが効いて、雨に濡れて冷えた体が一気に火照りました。
結局、小瓶を買いました。
このリガの町には、いくつか同様の店があるようです。

上右の写真: これで2度目の火薬塔です。

下の写真: 奥に赤いレンガ積みの城壁があり、さらに奥に火薬塔の緑の屋根が見えます。
写真のすぐ右側にスウェーデン門がある。
前日の夜、この通りの左側のレストランで食事をしました。



 

< 5. スウェーデン門の今昔 >

上の写真: 現在のスウェーデン門。
左が外側から、右が内側から写した写真です。

下の写真: 1991年のバリケード事件の写真。
スウェーデン門の外側にはトラックを置き、内側で市民が暖を取っています。


 

< 6.聖ヤコブ教会 >

上の写真: 聖ヤコブ教会の横から見たイェーカバ通り。
突き当りにドゥァマ広場が見える。
右側に碑が見え、「1991年、バリケード」と書かれている。

下の写真: 聖ヤコブ教会。
この教会の最初の記録は13世紀と古く、15世紀に建て直された。



< 7. ラトビア国会議事堂の今昔 >

上の写真: ラトビア国会議事堂。
この建物はイェーカバ通りに面し、聖ヤコブ教会と向き合っている。

下の写真: 1991年のバリケード事件の写真。
右にラトビア国会議事堂、左に聖ヤコブ教会が見える。
多くの市民が集まっており、数台のトラックが見える。



< 8. 三人兄弟 >

上の写真: 「三人兄弟」の建物を左右から見ている。

下の写真: この三つの建物は中世の住宅で、外観は当時の姿をほぼ保っている。
右の17番が15世紀のもので、リガの一般住宅としては最も古い。
中央の19番が17世紀中頃のもの。
左の21番が17世紀後半のもので、土地が少なくなった為か窮屈になっている。
しかし窓税の廃止により、17番に比べて窓を大きくとっている。


 

< 9. 昼食のレストラン >

ここは聖ヤコブ教会のすぐ近くにあるニンニク料理の店です。
私は始めてニンニク入りのビールを飲みました。
美味しく、温まりました。


 

< 10. ドゥァマ広場に戻って来ました >

下の写真: イェーカバ通りからドゥァマ広場のリガ大聖堂の雄姿を再び見ることになりました。
右に少し見る赤い建物は証券取引所で、風格があります。


 

< 11. ドゥァマ広場の今昔 >

下の写真: 1991年1月のバリケード事件の写真。
上下の写真はほぼ同じ位置から撮影しています。
ここでも多くの市民と車が集まっています。



 

< 12. バリケード事件 >

1991年1月のバリケード事件について
1991年の8月までに、すべてのバルト三国がソ連の軛を脱し独立した。
そして同年12月にソ連は崩壊した。
ラトビアで起きたこの事件は、これらと深く関わっていました。

既に紹介したように、1988年、エストニアのタリンで「歌う革命」が起きていた。
これを境に、バルト三国はソ連支配からの独立を共同で目指し始めました。

一方、ソ連国内ではゴルバチョフ主導のペレストロイカにより、連邦内の各共和国の意見が反映されるようになっていた。
しかしモスクワでは旧体制への揺り戻しが起き、混乱していた。
こうした中、リトアニアが1990年3月、一番に独立を宣言しました。

すると1991年1月、リトアニアの首都ビルニュスで親モスクワ派がデモを敢行し、これに呼応してソ連軍の戦車が侵攻し、14人の死者と数百人の負傷者が出た。
この様子はメディアを通じて世界に伝えられ、世界の同情を集めた。

この翌日、ソ連軍はリガの占拠を開始した。
これに対して数万の市民は車や廃材を持ち込み、旧市街の要所にバリケードを造り、非暴力で防衛した。
この日(13日)、エリツインがタリンを訪問し、エストニアの支持を表明した。
1月20日、モスクワで10万人のデモが起こり、バルト三国への支持を訴えた。

こうして同年の8月、残り二か国は独立宣言に至る。
この間のリガの死傷者は6人でした。


あとがき
この美しく静かな中世の街並みと石畳は、バルト三国の人々の自由への熱望と英知を秘めていたのです。
バルト三国は数百年に及ぶ異民族や最後のソ連による支配に喘ぎ続けていた。
しかし彼らは、非暴力と三国の協力をもって、さらに世界の支持を得て、ほぼ無欠の革命と独立を成し遂げたのです。

私はこの事件の写真を見ながら、その石畳の上に立っていた自分に熱いものを感じています。

次回に続きます。



20170111

Bring peace to the Middle East! 59: when religions were born 7: Islam 2

中東に平和を! 59: 宗教が誕生する時 7: イスラム教 2



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I again investigate the birth of Islam.

前回に続いて、イスラム教の誕生を追います。




< 2. oasis town >
< 2. オアシス都市 >

What Muhammad indicated
Since immigrating to the Medina, he reigned as a religious leader, a commander of the military, and a policymaker of the town.
He was acknowledged by many people and tribes as a superior commander through a distribution of loot and a release of slaves, and also as a prophet who appeared in Arabia.
He thoroughly fought against antagonistic tribes, behaved generously to obedient tribes, and eventually created a solid empire tied by faith.
As a result of this, a peace came to the peninsula where was constantly at war.

ムハンマドが示したもの
彼はメディナへの移住以降、宗教指導者、軍の司令官、また町の為政者として君臨した。
彼は戦利品の分配や奴隷の解放などによって、優れた統率者として、またアラビアに出現した預言者として多くの人々と部族から認められた。
彼は、対立する部族には徹底抗戦し、従う部族には寛大に接し、やがて信仰で結ばれた強固な帝国を作り上げた。
これによって抗争が絶えなかった半島に平安が訪れた。

God's revelation lasted until his later years, and because he was illiterate, the revelation was handed down orally by his disciples.
The Koran was compiled at 20 years after his death.
Hadith is an important book next to the Koran.
This was a book that Muhammad's words and actions handed down and was compiled from around the 9th century.

神の啓示は彼の晩年まで続き、彼は文盲であった為、啓示は弟子たちの口頭により伝承された。
コーランは彼の死後20年経ってから編纂された。
コーランに次ぐ重要な書物としてハディースがある。
これはムハンマドの言葉や行動が伝承されたもので、9世紀頃から編纂された。




<  3.  Film "Lawrence of Arabia" >
< 3.映画「アラビアのロレンス」 >

Point of the doctrine
Muhammad himself said I am not God but the last prophet.
Islam had received the same God Allah as Christianity and Judaism.
But he said the revelation was given to Muhammad because the above religions had made a mistake.
In these three monotheism doctrines, there are many similarities such as "resurrection", "prohibition of idolatry", "angel" and so on, and Islam is similar to Judaism in "pork evasion" and "emphasis on precepts".
The duty of Muslims is Aqidah and Five Pillars, and well-known faith, prayer, Charity, fasting, pilgrimage to Mecca are the Five Pillars.

教義のポイント
ムハンマド自身が、私は神では無く最後の預言者と言っている。
またイスラム教はキリスト教とユダヤ教と同じ唯一神アッラーを戴くが、前述の宗教は間違いを犯しているのでムハンマドに啓示が下ったのだとする。
これら三つの一神教の教義には「復活」「偶像崇拝禁止」「天使」などの共通点も多く、イスラム教は「豚肉忌避」「戒律重視」でユダヤ教と似ている。
イスラム教徒の義務は六信五行で、よく知られている信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼が五行にあたる。




<  4.  Islamic prayer >
< 4. イスラムの礼拝 >

Point of the Islam
Muslims have very large numbers of laws and norms, not just their obligations to God, and then their scope of application extends to every detail of life situations, marriage, heritage, trade, punishment, trial and so on.
Many of them, such as "Jihad", "polygamy system", "ban of interest" and so on, were effective for rule the chaos in the 6th century.

イスラム教のポイント
イスラム教には法と規範が非常に多く、神への義務だけでなく、その適用範囲はあらゆる生活場面、結婚、遺産、交易、刑罰、裁判などの細部に至る。
そこにある「聖戦」「一夫多妻制」「利息禁止」などは、多くが6世紀の乱世を治めるには効果を発揮したものでした。

The law of early Islamic community was only the Islamic law (Sharia).
Besides the Koran and Hadith, laws were added daily by the agreement of the community and Islamic scholars (Ulama).
There is also an admonition (Fatwa) by Ulama.
Currently it is used in conjunction with the law of the country.

In the early Muslimic country, the calipf (leader) who took over Muhammad had the highest authority of the religion.
Before long, the monarch (Sultan) became to grasp the real power of politics and religion.
The characteristic of the Islamic society is basically that there is no full-time religious worker and does not have a hierarchical governance structure.
This is based on the principle that Muslims are all equal, and it is still being.
There are educational institutions (universities) such as Islamic law scholars.

This continues to the next.


初期のイスラム共同体の法はイスラム法(シャリーア)のみでした。
それはコーランやハディーズ以外に、共同体やイスラム法学者(ウラマー)の合意によって日々、法は追加されていった。
またウラマーによる勧告(ファトワー)も行われている。
現在は国家の法と併用されている。

初期のイスラム国家ではムハンマドを引き継いだカリフ(指導者)が宗教の最高権威者であった。
やがて君主(スルタン)が政治と宗教の実権を握るようになっていった。

イスラム社会の特徴は、基本的に専従の宗教従事者がなく、階層的な支配構造を有していないことです。
これはムスリマはすべて平等であるという原則によるもので現在も貫かれている。
尚、イスラム法学者などの教育機関(大学)は存在します。


次回に続きます。


20170109

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 23: リガ 2



< 1.中央市場 >


今日は、首都リガ紹介の2回目です。
訪れたのは2016年10月2日(日)です。


 

< 2.リガの地図、すべて上が南です >

上の地図: 今回紹介する範囲。
黄色枠が今回紹介する旧市街の観光ルート。
Aは最初に訪れた中央市場、Bは科学アカデミー。

下の地図: 黄色枠の拡大。
黄色線が徒歩観光ルート。
Sはスタート地点、Cはドゥァマ広場、Dは市庁舎広場、Eは聖ペテロ教会。



 

< 3.雨のリガ >

外は土砂ぶりの雨でした。

上の写真: リガ市街。
下の写真: ダウガヴァ川。

 

< 4.中央市場 1 >

午前中で土砂ぶりの雨にも拘わらず地元の人で賑わっていました。

上の写真: 中央市場は大きな4つの建物からなるのですが、隣接の露天市場もある。
左遠方に見えるのは科学アカデミーで、スターリン・クラシック様式の21階の建物です。
モスクワでも見ましたが、ソ連時代のシンボル的な建物が当時の共産圏の首都に見られます。

下の写真: チーズなどの乳製品のコーナーです。
チーズやバーターなどを買いました。

この建物は、20世紀初頭に建てられた時は、ヨーロッパにも例がない大きさと設備だった。
大戦中はドイツ軍が使用していた。

バルト三国からポーランドを観光中、現地ガイドの口から、ソ連や大戦中のドイツの支配にまつわる話がよく出て来た。
こんなところにも、大国の狭間で喘いだ国の悲哀を感じる。


 

< 5.中央市場 2 >

上の写真: 蜂蜜の売店。
ここではハーブ入りの蜂蜜を買いました。

旅先で買い物をする時と帰宅して初めて味わう時は実に楽しいものです。
たまに、予想が外れてがっかりすることもありますが。
ちょうど今、毎朝、パンに塗って味わっています。

下の写真: 海産物や魚介類の売店。
今回の旅行中で食べたニシン料理が美味しかったので缶詰を買いました。
25年以上前、ドイツや北欧で食べたニシン料理が塩辛くて単調な味だったのですが、今回のどの訪問国でも良かった。






 

< 6.中央市場 3 >


 

< 7.ドゥァマ広場 1 >

上と中央の写真: リガ大聖堂。
13世紀初め、教皇が派遣した北方十字軍が上陸し占領し、ここを宗教的中心地として教会の建設を開始した。
現在の形になったのは18世紀後半でした。
この大聖堂もタリンの大聖堂と同様に地盤沈下を起こしていた。
中には入っていません。



 

< 8.ドゥァマ広場 2 >


 

< 9.ブラックヘッドのギルド >

上の写真: ブラックヘッドのギルドに向う途中。

下の写真: 市庁舎広場に建つブラックヘッドのギルド。
左手の教会は聖ペテロ教会

この建物はドイツ軍の空襲で破壊されていたが、2000年に完全に再建されたものです。
この元の建物はギルドによって15世紀に建てられた。
正面には美しい時計、ハンザ同盟の4つの都市の紋章、ギリシャ神話の像があり、入り口の右側には、建物名の由来になった黒人の浮彫が見える。

当時は、この市庁舎広場がリガの中心で、祭りや条例の布告、刑の執行も行われていた。
ブラックヘッドのギルドの向かいに再建された市庁舎がある。



 

< 10.聖ペテロ教会 >

上の写真: 市庁舎広場の中央に建つ、リガの守護神ローランド像。
ドゥブロブニクのルジャ広場にもこの像が立っていました。
ヨーロッパの自由都市の象徴で交易とも関係しているようです。

下左の写真: 聖ペテロ教会。
13世紀の初めに建てられ、18世紀にほぼ現在の姿に改築された。

下右の写真: 来た道を振り返った。
遠くに見える尖塔の屋根は聖ヤコブ教会です。
この辺りは次回紹介します。


 

< 11.聖ヨハネ教会 >

上の写真: 聖ヨハネ教会。
この建物は13世紀に創立され、16世紀に再建されたゴシック様式の教会。
古い様式の教会を再建した為か、低い為か通常見られる側壁が見られない。

写真の聖ペテロ教会との間にある石畳とこの教会は雨に濡れて何やら中世の陰鬱さを感じさせる。

この教会の壁には二人の修道士が志願して埋められているが、これと似た話はクロアチアの首都ザグレブでも聞いた。
信仰の篤さに驚く。

下の写真: ブレーメンの音楽隊の像。
これは聖ペテロ教会の横に立っている。
これはハンザ同盟都市のブレーメンと関係があるようです。


あとがき
中世ヨーロッパの時代、ドイツの貴族や商人が東方に植民し、チェコやポーランドの支配層になったことは知っていたが、バルト三国にまで及んでいたことには驚いた。
また12世紀の十字軍はエルサレム進攻が目的だと思っていたが、布教と領土、商圏獲得の為に、この地まで剣を携えて乗り込んで来たことにも驚いた。

このような遥か昔の事件を、現地に立ち、実感出来ることが旅の魅力でもあります。

次回に続きます。





20170107

Bring peace to the Middle East! 58: when religions were born 6: Islam 1

中東に平和を! 58: 宗教が誕生する時 6: イスラム教 1





<  1.  the Kaaba in Mecca >
< 1. メッカのカーバ神殿 >

I investigate the birth of Islam in twice.

二回に分けて、イスラム教の誕生を追います。





<  2.  Three trade routes  >
< 2. 三つの交易ルート >


The age when Muhammad (around 570 - 632) was born
Two ancient civilizations were born in the Middle East, but the desert Arabian Peninsula was out of the area.
Country began to be born in the southwest and northern parts of the peninsula since about A.D., and several countries had contested there in  about the 3 rd century.
Cities were born in plateaus and oases, camel caravans in the desert were responsible for trade, and caravan cities were made in the routes.
Nomads who were living in tents made tribal societies, sometimes joined hands and at other times separated from others, and repeatedly had fought.
There were three routes of east-west trade on the Peninsula, two sea routes going through the Persian Gulf (blue line) and the Red Sea (red line), and a land route (brown line) parallel to the Red Sea.
Mecca where Muhammad was born was one of the caravan cities in this land route.


ムハンマド(570頃―632年)が生まれた時代
二つの古代文明が中東で誕生していたが、砂漠のアラビア半島は園外だった。
紀元前後から半島の西南端と北部に国が誕生し始め、3世紀頃になると数ヵ国が分立するようになった。
高原やオアシスには都市が生まれ、砂漠ではラクダの隊商が交易を担い、隊商都市も出来た。
天幕で暮らす遊牧民は部族社会を造り、離散集合を繰り返し抗争していた。
半島には三本の東西交易のルートとしてペルシャ湾(青線)と紅海(赤線)を行く海上ルート、それに紅海に並行した陸上ルート(茶線)があった。
ムハンマドが生まれたメッカはこの陸上ルートの隊商都市の一つだった。

The Persia and the Byzantine Empire of the two great empires were fighting each other, it began to influence the whole peninsula since about the 4th century.
With this, civilization and the sophistication of weapons advanced throughout the peninsula.
On the other hand, when the Persia and the Byzantine Empire entered a peace treaty in the second half of the sixth century, the main trade route became the Persian Gulf, the caravan cities of the land route declined, the nomadic population increased in reverse, and the conflict intensified.
This is "Jahiliyyah" in Islam.
However, in the beginning of the 7th century, when both empires began war, trade route returned to the land route.


4世紀頃から、二大帝国のペルシャとビザンチンは互いに争いながら半島全域まで影響を及ぼし始めた。
これにより半島全体に文明化と武器の高度化が進んだ。
一方、ペルシャとビザンチンが6世紀後半に平和条約を結ぶと、交易ルートはペルシャ湾が主になり、陸上ルートの隊商都市が衰退し、遊牧民が増大し、抗争が激化することになった。
これがイスラムで言う「無明時代」です。
しかし、7世紀始め、両帝国が戦争を始めるとまた陸上ルートに交易が戻った。

At that time, the north-south ethnic groups of the peninsula deepened exchanges and had Arabic of common language.
In the peninsula, there was a polytheism of idolatry, but Christianity propagation progressed by the influence of the two great empires.
Judaism also had spread by Diaspora Jewry, and many Jews had lived in Medina.
In Mecca, there was the Kaaba that many statues were enshrined since a long time ago.

当時、半島の南北の民族は交流を深め、共通語のアラビア語を持つようになっていた。
半島には偶像崇拝の多神教があったが、二大帝国の影響によりキリスト教の布教が進んでいた。
また離散民によってユダヤ教も広まり、メディナには多くのユダヤ教徒が住んでいた。
メッカには古くから多くの像を祭った多神教のカーバ神殿があった。





<  3. Muhammad in Medina >
< 3. メディナのムハンマド >

The act of the Muhammad
He was born as a member of a large tribe of Mecca, was married and had succeeded in commerce trading, but suddenly, heard the revelation of Allah of the one God at about the age of 40.
Because he preached this, made a group of believers, and accused the idolatry of the Kaaba, they were persecuted by ruler class in Mecca.
However, people of the Medina impressed with his doctrine asked him to save mess of the town.
Then, he moved to the Medina with his believers and family (Hijra).
Before long, he conflicted with Jewish in the Medina about ritual, defeated them in battle, and completed a strong Islamic community "Ummah".
Then he won the fight against Mecca's army corps.
He died shortly after dominating Mecca, but already the Islam had spread throughout the Arabian Peninsula.

This continues the next time.


ムハンマドの行い
彼はメッカの大部族の一員として生まれ、結婚し隊商交易で成功していたが、40歳頃、突如、唯一神アッラーの啓示を聞いた。
彼はこれを説いて信徒集団を作り、カーバ神殿の偶像崇拝を非難した為、彼らはメッカの支配層から迫害を受けた。
彼の教説に感銘を受けたメディナの人々が、彼に町の混乱を救って欲しいと要請した。
彼は信徒達や家族と共にメディナに移り住んだ(ヒジュラ)。
やがて、彼はメディナのユダヤ教徒と儀礼で対立し、これを戦闘で破り、強固なイスラム共同体「ウンマ」を完成させた。
次いでメッカの軍団との戦いに勝利した。
彼はメッカを支配後、まもなく死去したが、すでにイスラムはアラビア半島の全土に及んでいた。

次回に続きます。