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今回は最後の訪問地、予科練平和祈念館を紹介します。
ここで太平洋戦争で散った若人達の生きざまを知ることが出来ます。
霞ヶ浦の淵、自衛隊駐屯地の脇に記念館はあります。
< 2.予科練平和祈念館の位置、上が北 >
赤の四角が、記念館の位置です。
この土浦の阿見町には、大正時代から霞ケ浦海軍航空隊が置かれ、第二次世界大戦開始共に、ここに予科練が移転し、全国の予科練教育の中心となった。
戦時中の爆撃で施設は壊滅したが、現在、跡地に陸上自衛隊の駐屯地があり、その中に予科練戦没者の遺書や・遺品を収めた雄翔館がある。
この駐屯地に隣接して広大な公園があり、その中に近代的な記念館がある。
私は雄翔館を見てから記念館を訪れました。
< 3. 雄翔館を目指す >
私は予科練平和祈念館の前の駐車場に車を置き、雄翔館に向かう。
ここに行くには駐屯地に入らなければならず、衛兵に挨拶して向かった。
雄翔館は16:30に閉館します。
上: モダンな建物が祈念館。
下: 駐屯地に並ぶ戦車群(現役ではないようです)。
< 4. 雄翔館 >
上: 雄翔館の正面。
下: 雄翔館の入口から駐屯地を望む。
建物は大きくはない。
< 5. 雄翔館、遺書の展示 >
彼らの遺書を見て目頭を熱くしたが、以前訪れた鹿児島の知覧特攻平和会館でも同様でした。
予科練と言えば颯爽とした若き航空兵と言うイメージだったが、彼らも多くは特攻兵になった。
終戦までの15年間で24万人が入隊し、うち2万4千人が戦地に赴き、特攻に進んだものも多く、戦死者は8割にのぼった。
< 6. 雄翔館、遺品の展示 >
< 7. 山本五十六連合艦隊司令長官の書簡 >
これは彼がこの予科練の司令官に送ったもの。
彼はこの書簡を書いた18日後に撃墜されている。
文面は予科練司令官に、ガダルカナル島撤退以降の日本の苦境を吐露しながらも、米軍の物量優位に勝るには、「立派に死ねる闘士を育てることが肝要」と訴えている。
当時、真珠湾攻撃からほぼ1年が経ち、ミッドウェー海戦からガダルカナル島撤退へと日本の敗戦色は濃厚になっていた。
当然、国民は真実を知らず、まだ勝利に酔いしれていた。
理知的で知られる最高指揮官の彼ですら、精神論を振りかざすしか手がないのが如何にも口惜しい。
もし国民が真実を知らされていたなら、違った国の舵取りが行われただろう。
そして若い人々は、死に急ぐことはなかった。
いつも思う。
彼らの国に殉じる思いは尊い、当然命も。
しかし、殉じることで国は救えず、圧倒的な物量の前では無駄な死と言えるだろう。
何も知らない若者をそんな境遇に追い込んだ時代が悲しい。
二度と馬鹿げた軍事国家を作ってはいけないと唇を噛み締める。
< 8. 人間魚雷、回天 >
< 9. 予科練平和祈念館 >
上: 外観。
下: フロア図。
内部は撮影禁止なので、ホームページから写真を借用しました。
展示室は7カ所に分かれています。
この番号に従って、次の写真にテーマ紹介があります。
< 10. 展示室のテーマ >
記念館は大きくなく、見学時間はそうかかりません。
斬新な展示だが、今一つ要領を得ていない。
史実を分かり易く伝えると言う意味では中途半端だと感じた。
それでもこの手の展示は必要だと思う。
< 11. 当時の全国予科練の設置状況 >
< 12. 霞ヶ浦の夕陽 >
一度は訪れて見たかった霞ヶ浦だったが、記念館の閉館(17:00)共に外に出ると辺りは暮れていた。
直ぐ裏手の淵に辿り着くと、正に夕陽が沈む所でした。
雲に覆われ、微かに赤い西の空が予科練生の生きざまを象徴しているようでした。
悲しくも美しい生き様がここにはあった。
次回に続きます。