20261009

連載 国民の責任 4; 皇軍の軍人魂とは

   


国が戦争を始めた時、「国民に責任があるのか」、日本と米国について考えます。

 

 

今回は、太平洋戦争が如何に異常であったかを知ることで、この戦争が肯定出来るものではなかったことを示します。

 

 

神風特別攻撃隊について

 

映画『永遠の0』が、神風特攻隊を賛美する一大ブームを引き起こした。

原作者の百田尚樹氏は、安倍元首相と親交のあった小説家です。

小説の中の特攻隊員たちは「死んで祖国を守ることができるのなら、潔く死ぬ」と誓い、「さわやかな笑みを浮かべ」米軍の艦艇に向かって突撃した。

原作で百田氏は、一人一人の日本兵がどれだけ純粋な心をもって戦ったのかということをたびたび強調している。

 


 

この手の美化は繰り返されて来た。

日露戦争以降、多くの軍神が祀り上げられて来た。

日本最初の軍神、海軍の広瀬中佐は沈みゆく艦内へ部下の救出に向かい、最後は爆死した。

後に神風特別攻撃隊を提案した大西中将は幼い頃に、この広瀬中佐に憧れていた。

陸軍の軍神、肉弾三勇士は敵陣の鉄条網を爆破するために破壊筒を抱えて突入し爆死した。

いずれも歌や映画になり、彼らの「自己犠牲の美徳・忠君愛国の鑑」は賞賛され続けた。

 

 

しかし、これらには誇張もあり、事実と異なる部分がある。

特攻隊に殉じた隊員や生存者には、人間扱いされなかった事を嘆き、別れを告げる相手は家族や母に対してであったと語る者もいる。

基本は志願兵であったが、末期、人員不足になると無理やり、知らされずに派遣され、逆らえず特攻に出た者もいた。

ある母親は特攻の息子の死後「神風特攻隊作戦の立案者大西中将は死ななければならない」と言い、死去するまで軍部を許さなかった。

 

神風特別攻撃隊とは、太平洋戦争末期の1944年に海軍によって編成された、爆弾を搭載した航空機で敵艦船に体当たり攻撃を行う特別攻撃隊です。

これは生存を前提としない作戦であり、航空特攻だけで陸海軍合わせて約4,000人もの若い命が失われました。

 


 

 


 

なぜ特攻が生まれたのか?

 

既に負けが続いていた1944年、マリアナ沖海戦で400機もの空母艦載機と空母3隻を失い、遂に日本軍は機動力をなくしてしまった。

軍上層部は、太平洋で優位に立つ連合軍には通常の攻撃では対抗できないと判断し、特攻による体当たり攻撃しかないと考えるようになった。

そして同年、航空艦隊司令長官の大西中将が、神風特別攻撃隊を編成したのが始まりでした。

大西は、出撃するパイロットに『お前たちだけを死なせはしない』と言って一人ひとり握手して送り出した。

 

大西が、許可を渋る上司に特攻構想について述べていた。

「たとえ特攻の成果が十分に挙がらなかったとしても、この戦争で若者達が国のためにこれだけのことをやったということを子孫に残すことは有意義だと思う」

また後に、こうも語っている「ここで青年が起きなければ、日本は滅びますよ。しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」

 

実は、この特攻の構想は、13年前に語られていた。

後に大西に進言する人物が、山本五十六に相談しており、山本は「僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語っていた。

 

梅津参謀総長が、特攻の戦況を上奏した折り、天皇は「体当リキハ大変ヨクヤッテ立派ナル成果ヲ収メタ。命ヲ国家ニ捧ケテ克(よ)クモヤッテ呉レタ」と賛辞を述べている。

 

特攻は、日本軍にとって当然の作戦であり、軍人として立派な行為、精神と見られていた。

これは封建時代の残滓、滅私奉公の文化だと、私は思う。

 

 

 

米国から見た特攻

米海軍は、特攻による甚大な被害を受けていた。

海軍のハルゼー長官は、特攻に関して「いかに勇敢なアメリカ軍兵士と言えども、少なくとも生き残るチャンスがない任務を決して引き受けはしない」「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と衝撃を受けていた。

 

突撃された米駆逐艦の水兵は当時を振り返り、「特攻機のエンジンとパイロットの死体を見ました。人生がこれからだという若者が神風のパイロットになるなんて。恐ろしさに、私は海軍を去りました」

 

特攻は、米国から見れば脅威であり、狂気でした。

民主主義、個人主義の米国から見れば、日本は狂気に満ちた異様な国に見えたのだろう。

 


 「最後の御前会議、1945年8月14日、米内海相は最前列左から3番目」

 

 

敗戦に抗した日本軍人; 特攻発案者の大西中将の場合

 

1945年8月10日、天皇は「これ以上戦争を続けることは、これ以上国民を苦しめるだけである。私自身のいかようになろうとも、これ以上の犠牲者を出したくない」と和平受諾を表明された。

8月15日、日本が敗戦を受け入れ、天皇がラジオで降伏を国民に伝えた(玉音放送)。

しかし、ここに至るには徹底抗戦派と和平受諾派の熾烈な暗闘があった。

陸軍と海軍の一部は強硬に抗戦を唱え、受諾の引き伸ばしを図った。

 

和平派の米内海軍大臣は、海軍軍令部の豊田総長と大西中将を呼び出し、激しく叱責した。

これは大西らが、海軍大臣を差し置いて、陸軍と一緒になり、和平反対を天皇に奏上していたからでした。

大西は、叱責された後も和平受託の引き延ばしに奔走した。

彼は、「われわれが特攻で2000万人の命を犠牲にする覚悟を決めるならば、勝利はわれわれのものとなるはずです」と説いていた。

 

天皇の玉音放送が流れた未明、大西は割腹して果てた。

特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。

特攻に関りながら、知らぬふりをして責任逃れをした他の上級軍人に比べれば、彼は潔い。

しかし以前、イタリアの戦犯のニュースを聞いて、彼は「おれなんか、生きておったならば、絞首刑だな。特攻を出して若いものを死なせ、悪いことばかりしてきた」と述べていた。

 

 

まとめ

 

知覧や霞ヶ浦の記念館で特攻隊の遺影を見ると涙が止まらない。

幼さが残る青年達が、家族との未練を断ち、自ら命を捨てた生き様を想うと、畏敬の念を抱く。

しかし、一方で、怒りが湧いてくる。

日本の軍隊は、かくも人の命を粗末に扱うのかと。

これは特攻に限らない、海外侵攻時の兵站不足や無謀な作戦により、多くの戦死者、餓死者、病死者を出していた。

 

大西中将ら抗戦派は、敗戦を目前にして「国土を焦土化し、多くの青年が命を投げ捨てた戦いの果てにこそ、日本が行き残る」との趣旨を唱えていた。

彼らは、人間一人ひとりの命より、国体(天皇を含む日本の体制)や戦う精神を重視していた。

 

さらに言えば、特攻を始める時に、既に敗北を予感していた彼が、この時になっても、まだ敗北を認めようとしなかった。

多くの軍人は、開戦に向かて威勢は良かったが、負けが続くと、国民や国土は念頭になく、只々、敗戦を引き伸ばしているようにみえる。

負けを認めることが出来ず言い訳しているようにしか聞こえない。

 

この上級軍人たちの意識と、戦争を拡大していった経緯を見ると、こんな軍人達の下で戦争した国民はなんと不運だったことか。

 

一方で、多くの反対や暗殺の脅威に晒されながらも終始、戦争拡大を避け、和平に向けて内閣をまとめようとした米内大将には頭が下がります。

そして昭和天皇が軍部の意見を遮り、ポツダム宣言受諾の決断したことにより日本は焦土から逃れることが出来た。

私は、この二人が居てくれたことに感謝仕切れない。

陸軍に任せていたら、まさに廃墟になっていただろう。

 

 

--目次---

 

1話;悪化の責任は誰に

2話;皇軍が選んだ道

3話;独裁に魅了された人々

4話;皇軍の軍人魂とは

5話;日本の戦争を振り返る

6話;軍備と敵について

7話;戦争に向き合う

8話;米国民へのお願い

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿

どうぞご意見をお書き下さい。Please write an opinion.