< 1. ヴァーサ―号の模型 >
今回は、ヴァーサ―号博物館と、この巨大な戦艦建造時のスウェーデンを紹介します。
写真の撮影は2018年6月2日(土)10:36~11:00です。
< 2. ユールゴーデン島内の観光ルート、上が北 >
訪れた所: オレンジ□印はビジターセンター、黒〇印は北方民族博物館、赤〇印はヴァーサ―号博物館、赤枠はスカンセン(野外博物館)です。
黒線は歩行ルートで、一つは最上端のバス停Djurgårdsbronから、北方民族博物館とヴァーサ―号博物館見学を経て、トラムとバスの停留所Nordiska Museet/Vasamuseetまでを示します。
青線はSkansenまでの7番トラム乗車を示します。
この間は67番のバス で行く事も可能です。
停留所Skansenを降りると、スカンセン(野外博物館)の大きなゲートが見えます。
ヴァーサ―号博物館退出以降は次回紹介します。
< 3. 北方民族博物館を出て >
北方民族博物館を出て、南側に進み、西側に曲がるとヨットハーバーが見えました。
今日は土曜日なので市民が芝生広場でくつろいでいました。
< 4. ヴァーサ―号博物館が見えた >
上の写真: ヴァーサ―号博物館。
下の写真: 北方民族博物館の裏側。
< 5. ヴァーサ―号博物館に入館 >
上の写真: ヴァーサ―号博物館の入り口付近。
下の写真: 博物館に入ると、最初に目に飛び込む光景。
ここも非常に暗い。
逆に、この暗さの中だからこそ輪郭が定かでなく、スポットライトで浮かび上がる戦艦に圧倒されることになる。
* ヴァーサ―号について
これは17世紀に建造された当時スウェーデン最大の戦艦でした。
マストの頂上から竜骨(底)までは52メートル、船首から船尾までは69メートル、そして重量は1200トンもありました。
また64門の大砲が装備されていました。
この戦艦が初航海で沈んだのは、王の命令でより多くの大砲を装備するために甲板を2層式に嵩上げし、バランスが悪くなったためでした。
この船は海中から引き揚げた本物ですが、そのまま展示すると自壊してしまうので全てに樹脂を浸透させています。
< 6. 左舷 >
まるでパイレーツ・オブ・カリビアンの世界! 不謹慎だが。
船体表面にこびりついたものがうねりながら光沢を放つ光景は実に生々しい。
この船が沈没したのは、初航海の1628年で、そして引き上げられたのは1961年でした。
まさに400年間の眠りから蘇った。
< 7. 船尾と飾り >
上の写真: 船尾部分。
下の写真: このカラフルな彫刻像は、上の船尾に付いている木製像を復元したものです。
この船には700体の彫刻品で飾られていました。
< 8. 最上階から眺める >
甲板や帆柱を見ることが出来る。
* ヴァーサ―号建造時のスウェーデン
私は初航海、それも内海を1kmほど帆走して横転沈没したと知って失笑しかけた。
しかしスウェーデン国民はこの戦艦を誇りにしており、確かに来館者も多い。
私にはこんなつまらない結果を招い王、グスタフ2世アドルフが滑稽に思えるのだが?
しかし歴史は面白い、この王こそが強国、最もスウェーデンがヨーロッパで輝いた時代を作り上げたのでした。
私が1年前、フランスのアルザス地方を訪れた時、宗教戦争(三十年戦争)でプロテスタント側のストラスブールはスウェーデンの軍事援助を受けていたと知った。
この時、スウェーデンはヨーロッパの雄、プロテスタントの旗手だったのです。
グスタフ2世アドルフ(在位1611-1632)はデンマークからの独立を果たしたヴァーサ―朝の第6代スウェーデン王でした。
彼が即位した当時、スウェーデンはバルト海の制海権をめぐってロシア・ポーランド・デンマークと交戦中であった。
当時ポーランドはリトアニアと共和国を成し広大な国で、かつスウェーデンと王位継承を巡り仇敵であった。
一方、宗教改革後、カトリック勢と神聖ローマ帝国はプロテスタント勢と熾烈な戦いを続けており、やがて北欧プロテスタントの国々を脅かす最大の敵となっていた。
そこで彼はポーランドとの泥沼の戦いを休戦し、カトリック勢と戦う為に三十年戦争に参戦した。
その嚆矢となったのがデンマークと同盟を組んで戦った1628年のシュトラールズント攻囲戦で、この勝利がスウェーデンの版図拡大をもたらした(この年にヴァーサ―号が沈没)。
残念ながら彼は1632年、38歳で戦死した。
このことがまた彼を宗教改革での殉教者にした。
彼は若くして王になり、生涯、戦場を駆け巡ったが、それだけではなかった。
彼の統治によりその後のスウェーデン国制が出来たと言える。
4つの身分からなる議会制度や司法制度、また地方行政を整えることにより徴兵制度を築いた。
大学やギムナジウムなどの教育機関を創設した。
また軍事教練、戦法、兵器を発展させ、ヨーロッパの軍事大国になった。
このことが巨大砲艦ヴァーサ―号への建造に繋がった。
経済力の貧弱なスウェーデン軍が、強大になれたのはその国家誕生に起因するかもしれない。
1523年、独立を戦ったのはヴァーサ率いる農民達でした。
このことが4つの身分(聖職者、貴族、市民、農民)からなる議会制度を可能にし、徴兵制度を容易にし、大陸のような費用の掛かる傭兵制度を不要にした。
こうしてスウェーデン帝国への道のりと、ヴァーサ号が結びついているのです。
< 9. グスタフ2世アドルフ治世の版図 >
白丸がシュトラールズント、黒丸がストックホルムです。
彼が帝国の礎を作った。
< 10. グスタフ2世アドルフとシュトラールズント攻囲戦 >
シュトラールズントはハンザ同盟に属する港湾都市で自治都市でした。
ここを神聖ローマ帝国軍(カトリック連盟軍)が攻めると、この都市はデンマークとスウェーデンに救援を求め、形勢は逆転した。
< 11. 三十年戦争の変遷 >
番号③がグスタフ2世アドルフが参戦した経路です。
プロテスタント勢は英国と北欧、バルト三国、北ドイツです。
次回に続きます。
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