20140928

私達の戦争 45: 核攻撃 2


広島の原爆ドーム 


< 1. 広島の原爆ドーム >

今日は、米ソの核兵器競争を振り返ります。
この競争には立派な抑止論が唱えられていましたが、常識から外れていました。


キューバ危機
< 2. キューバ危機 >

冷戦時代の核兵器競争とは
大戦前、欧米にとってソ連は脅威で、その抑えを期待してドイツの軍事化を容認していました。
しかし日独伊が牙を剥くと、米国はソ連と手を握りました。
これも大戦が終わるまでで、米国はソ連の通常戦力の優位を恐れ、核兵器武装で対抗し始めた。
遅れて、ソ連も核開発を成功させ、互いに配備競争に突入します。
この競争が一息つくのは、ソ連の崩壊まで待たなければなりませんでした。

米ソの核弾頭備蓄量 
< 3. 米ソの核弾頭備蓄量 >

米国の動き―グラフ3の青線
物理学者アイシュタインがヒトラーの核開発に先んじるように米国に進言した。
こうして米国が核兵器を生みだしヒトラーが去り、世界は救われたように思えた。

米は大戦後、ソ連の工業力を過大評価し、ソ連の通常兵器による欧州侵略が可能とし、核兵器による壊滅的な報復(抑止)が必要と判断した。
1953から61年在任のアイゼンハワー米大統領は、報復手段として核兵器が安上がりで、「全面核戦争に拡大してしまう大量報復の恐怖」は、ソ連や自国も含めた世界の紛争の抑止になると考えた。
これがグラフの急上昇を示す。
やがて60年代に始まる二つの軍事技術により核備蓄は低下する
偵察衛星によりソ連の実情を正確に把握出来るようになった。
潜水艦発射弾道ミサイルは奇襲攻撃を受けることなく反撃出来るので、破壊されることを前提にした核備蓄が不要になった。

ソ連の動き――グラフ3の赤線
米国は60年代にベトナム戦争に介入し、75年まで泥沼へと深入りしていった。
ソ連は、この時期に米国より優位に立とうとし、核兵器を増産した。
しかしこれはGDPに占める軍事費を20%まで高め、経済を大きく圧迫していた。
この状況の打破を期待されてゴルバチョフ大統領が誕生した。
彼は平和外交を目指し、1990年、米ソの合意により冷戦が終結した。

潜水艦発射弾道ミサイル
< 4. 潜水艦発射弾道ミサイル >


核戦略の変遷―しどろもどろの抑止論
54年、米国はソ連大都市への核兵器による大量報復能力を持つことで、ソ連の核攻撃と通常兵器による侵攻を抑止する「大量報復戦略」を唱えた。
57年、ソ連は、米国の爆撃機の核攻撃に対抗して大陸間弾道ミサイルで先制核攻撃上優位に立った。
こうして米ソはミサイル競争に突入した。
60年代始め、米国は、敵から発見され難い潜水艦発射弾道ミサイルを配備した。
62年、キューバ危機が発生し、米国で「核の大量報復は狂気であり、威嚇として通用しない」と批判が起きた。
そこで米国は、いきなり全面核戦争に陥らないように、攻撃を軍事目標に限定する「柔軟反応戦略」を唱えた。
これ以降、米国は対軍事力に絞った小型の「戦術核兵器」を生みだしていく。
65年、急に米国はソ連の人口1/3と産業施設2/3を確実に破壊出来る「確証破壊戦略」を発表した。
この戦略転換は、増大する軍事費への苦肉の策であった。

しかし双方の迎撃体制が進む中、新たな問題が起きた。
互いがあるゆる核攻撃に対して迎撃可能になり、何処か防御に弱点が露わになると、そこを先制攻撃する誘惑に駆られ、むしろ抑止が不安定になるとの考えが出て来た。
そこで米国は、互いの迎撃ミサイルを自制し、先制核攻撃にも生き残れる潜水艦発射弾道ミサイルを保有し合うことで抑止力を残す「相互確証破壊戦略」を唱え、ソ連もこれに同調した。

一方、ソ連が巨大な核爆弾を開発し戦略核戦力を急速に増大させ、70年代半ばに米国を凌ぐようになった。
これで疑心暗鬼に陥った米国は、ソ連へのあらゆる核攻撃で、ソ連が想定するだろう米本土攻撃の損害と相殺させるとした「相殺戦略」を唱えた。
その後、弾道数で勝っていたソ連ではあったが経済が低迷し、軍事技術で劣勢になった。

83年、レーガンが強気のスターウォーズ計画(ミサイル衛星)を発表したことにより、ソ連は核兵器競争を諦めることになった。
こうして85年、米ソは「抑止のための核兵器」の考えで始めて正式に一致し、核兵器削減を始めた。



米国の核兵器総保有数と作戦配備数 
< 5. 米国の核兵器総保有数と作戦配備数 >

現代の状況
今だ、米ソ合わせて16000発の核弾道を保有し、ミサイルや爆撃機により作戦配備されているものはその内、計4000発ある。
核爆弾の威力は人口密度により異なるが300ktの大都市投下で、40~220万人の被害、死者は半数と予想される。
広島に投下された原爆は15ktだった。
したがって米ソ核兵器の2009年の総出力19200Mtが総べて使用されたら、26~140億人が被害を受け、13~70億人が死亡するだろう。

米ソの核兵器競争のジレンマ―不思議な抑止論
大戦後、米ソは互いに抑止力と称して核兵器の製造に血眼になった。
そしてピーク時には、双方合わせて地球人口を7度死滅させるだけの威力を保有するようになった。
「総べてが死滅する恐怖こそが抑止力である」
これこそが冷戦時代、核戦争を逃れた理由だと主張する人々がいる。
この手の軍事研究者は米国で官民学合わせて1万人を超えるのではないか、私にはこれを間違いだと言い切る力は無い。

しかし、単純に考えていただきたい。
抑止と言いながら、自国も自滅する兵器を造り続ける判断は正常だろうか?
増大する軍事費は自国経済の足枷となった、ソ連は特に深刻であった。
その権威ある核抑止理論だが、辻褄が合わなくなり幾度も様変わりした。

抑止で始めた核兵器であったが、やがて先制攻撃が主眼になり、互いに破壊し合い、残った核ミサイルによる反撃を想定するようになった。
その時、既に国民は死滅し、放射能で生命は永久に誕生出来ないにも関わらず。
ある時は、互いに配備の弱点を曝し確認し合うことにより、先制攻撃の誘惑を排除しようと信頼の手を差し伸べた(相互確証破壊戦略)。
ここまで行くなら、後一歩で和平交渉になるのではないだろうか?

もっとも、核開発にばく進した米国もキューバ危機とベトナム戦争の苦さを噛みしめ、それに猛追したソ連も経済悪化に耐えきれず、やっと競争の無駄に気がつき始めた。
それに40年から70年を要し、未だに真の反省に至っていないように見受ける。

何かがおかしい、頭が良すぎて、現実が見えないのか、軍事的職務に忠実なだけなのか。
軍産共同体で生きる人ならいざ知らず、一般人には不合理この上なく、抑止論は言い訳にしか聞こえないだろう。

より深刻な問題
オバマ大統領のがんばりで米ソの核兵器は減るだろうが、まだまだ多い。
それよりも核兵器が拡散し9ヵ国まで広がり、後続を止めるのが困難な状況にある。
銃社会で検討したように、今後、偶発事故やテロ、狂信的な指導者による核戦争の恐怖は増していくだろう。

抑止を単純に信じることの愚かさから抜け出して、新たな平和戦略を生みださないと、それこそ手遅れになる。

もう一つは、原発事故で経験したように、核兵器の廃棄も問題です。
ニュースにはならないが、米国のハンフォード・サイトでは放射能汚染が起きている。

次回は、別のテーマを扱います。







20140926

私達の戦争 44: 核攻撃 1

北朝鮮のミサイル発射

< 1. 北朝鮮のミサイル発射 >

今日は、身近な軍事的脅威、核攻撃について見ます。
これは人類が高々ここ半世紀ほどで生みだしたパンドラの箱のようなものです。
ここにも落とし穴があります。

日本のミサイル防衛システム 

< 2. 日本のミサイル防衛システム >

核ミサイル攻撃を防御する
多くの日本人は北朝鮮からの核ミサイル攻撃を現実の脅威と感じておられるはずです。
自衛隊はこれに対応した迎撃システムを持っています。
簡単に、迎撃するとはどのようなものかを見ます。

この迎撃は日本海のイージス艦(SM3)と陸上配備(PAC3)の2種類のミサイルで行います。
核ミサイルは北朝鮮から5~10分で日本に到達します。
飛来する核ミサイルを同時に数発~十発(?)打ち落とせるイージス艦が数隻、日本海で常時待機しています。
陸上のPAC3の迎撃半径は25kmなので、全土(四大島のみ)をカバーするには220発以上が均等配備されることが必要です。
同じ場所に5発飛来すると仮定したら、5倍の1100発以上が必要になります。
おそらく現在、全域をカバーせず、重要拠点で同時2~6発までの迎撃を目指している。
攻撃が朝鮮半島北部からPAC3配備地点に2発程度に限定されていれば迎撃可能でしょう。

イージス艦より迎撃ミサイル発射 

< 3. イージス艦より迎撃ミサイル発射 >

都合の悪い攻撃だったら
いつもそうですが、攻撃側は相手の裏をかくもので、最悪の事態を想定することも必要です。
例えば、四発が同時か連続的に発射されたらどうでしょうか。
もし近距離であれば5分で飛来しますので、首脳部の判断が間に合わずイージス艦の発射が間に合わない可能性があります。
残りは陸上の迎撃率75%のミサイルで撃ち落とすとして、確率的に1発は着弾してしまいます。
そうすれば数十万人から百万人は被害を受けることになるかもしれません。
しかし、これも迎撃ミサイルが配備されている所に飛来した場合に限ります。
軍事専門家が指摘する北朝鮮の攻撃ミサイルは命中率が低いので問題ない、軍事拠点についてはそうですが、国民にとって核爆弾とはそのようなものではありません。

いくらでも、防御をくぐり抜ける攻撃方法が工夫されるでしょう。
核ミサイルを朝鮮半島北部からでは無く、偽装艦艇や潜水艦、日本海以外からの発射もあり得ます。
さらにおとり弾や高弾道を使うかもしれません。
もっと言えば、爆撃機による核爆弾投下、原発を狙ったテロ攻撃でも、同規模の被害は起こるでしょう。
ミサイルの迎撃率(現在70~80%)が将来向上すると軍事専門家は言明するが、相手のあることを無視してはいけません、いたちごっこになるでしょう。

大雑把にみても、けっして迎撃システムが日本本土を核爆発から救ってくれることはないのです。
もっとも無いよりはましですが。

陸上で迎撃ミサイルPAC3発射

< 4. 陸上で迎撃ミサイルPAC3発射 >

一つの問題は費用対効果・・現実的な想像力で
既に、レーダー網や艦艇などの基本配備や研究開発費(数兆円から将来10兆円)は概ね済んでいますが、今後増やすにはPAC3一発5億円、SM3一発20億円、イージス艦一隻1千数百億円の費用が必要になります。
当然、軍事技術は日進月歩し、さらに軍拡競争が始まれば、今後、更新費用は膨大になるでしょう。

実は、核ミサイルの方が高精度な迎撃ミサイルより安いので、北朝鮮が核ミサイルを10から200発所有していると言われているが、200発の可能性も充分あります。
ちなみに北朝鮮のGDPは4兆円に過ぎませんが、軍事費は1兆円ですので。
これは驚くに値しないのです。
現在、地球上で2万発の核ミサイルが陸上のサイロと潜水艦で、核爆弾が爆撃機で臨戦態勢にあるのです。
当然、これらすべてを迎撃することなど不可能です。

ここで感じて頂きたいことは、核ミサイルの迎撃は非常に分が悪いことです。
実は、「攻撃は最大の防御なり」孫子か信玄の言葉だと思うのですが。
攻撃、戦争を推奨しているわけではありません。
実はこのジレンマにはまり込んだのが、冷戦時代の米ソの無謀な核開発競争だったのです。

*5

次回、冷戦時代の米ソの核開発競争を見ます。
そこには恐ろしいほどの人間の創造力と途方もない愚かさが共存しているのです。




20140924

私達の戦争 39: 抑止力とは


 *1

防衛を語る際、よく抑止力が使われます。
理解しているはずの抑止力ですが、これがまた危うい。
落とし穴を見ていきます。

抑止とは
身近な例を挙げると。
適度な運動をし、効能のある食品を摂取し続ければ、病気を抑止することになる。
犯罪の罰則を強化し、警察が逮捕を確実にすれば犯罪が減り、犯罪を抑止することになる。
よく使われる抑止だが、意味合いは単なる予防から、他者の意志を操作して損害を防止する段階まである。

*2

攻撃に対する抑止とは
危害や攻撃を加えるおそれのある相手(国)に対して、報復の形で、より大きな損害を与えうることを相手にわからせて,その行為を思いとどまらせることを期待する戦略をいう。
これを聞いただけでは、疑いの無い実効ある戦略だと納得してしまいます。

少し例を見てましょう。
日本は米国との戦争を避ける為に、日独伊三国同盟を締結しましたが、1年後、太平洋戦争を開始せざるを得なくなりました。
この同盟の目的は、快進撃しているドイツが世界の覇者になることを確実視した日本が、その軍事力を背景に米英の戦意を挫くことでした(他の理由もあり)。
しかし逆に、中国からの撤退を日本に要求していた米英は、それにより日本が更なる中国侵攻の意志を強めたと考え、大打撃を与える経済制裁に出た。

この抑止が逆効果になった理由は、日本が予想していた通りには米国が認識しなかったことにある。
日本は、日独の軍事力が米国に大きな脅威を与えると予想したが、米国は意に介さず、日本が引き下がらないなら早く開戦し叩くべきであると判断した。
この例からわかるように、互いの認識が予想と異なると逆効果になりうるのです。

*3

抑止の成立条件
抑止が効果を発揮するには、三つの条件があるようです。
A.       攻撃側(日本)よりも、防御側(米国)の軍備が優勢で、戦意が高い。
B.       攻撃側(日本)が、この防御側(米国)の軍備と戦意を正確に把握か、過大に評価している。
C.       攻撃側(日本)が、防御側(米国)を攻撃する時は、互いの軍事力や得失を合理的に判断している。

この三つの条件がすべて満足されていれば、通常、攻撃側は戦争を始めないはずで、抑止が効いて戦争が起きないことになります。

しかし太平洋戦争の開戦はどうだったでしょうか?
日本は上記成立条件のBで、自国と同盟側を過大評価し相手を過小評価した。
Cでは、自ら退路を断ち追い込まれたあげく、いたしかたなく短期決戦への奇襲攻撃となった。

このような例は、あらゆる開戦時や、戦火が拡大していく過程でいつも大なり小なり起こっているのです。

*4

理由は簡単
自国の軍事力を大きめに誇示したり、部分的に不明瞭したりすることはあっても、全体として小さめに見せることはありません。
要は、相手の戦力や戦意を適確に把握することは困難なのです。
さらに、戦争気運が盛り上がっている時や戦争継続中において、自国と相手国の軍備や戦意を合理的に判断することは至難の業です。
この問題は遙か昔からあったことで、歴史的に有名な軍師や戦略家は、自国の軍事力をカムフラージュすることで、敵将の判断を誤らせ勝敗を制した。

*5

抑止の問題はこれだけではない
現代では、異なる問題が重要です。
それは上記成立条件Aの「戦う意志を示す」にあります。
これをわかりやすく言えば「なめられてたまるか」「見くびられてたまるか」でしょうか。

かつてベトナム戦争の戦略についてエルズバーグ博士が国務長官のキッシンジャーに悲観的な見解を述べたことがありました。
この時、キッシンジャーは「見くびられると相手をつけあがらせるから」と、より強硬な戦略立案を要求した。
一世を風靡したキッシンジャーですが、戦争を有利に終わらせる為には、こちらがより強硬に戦う意志を示すことが重要だと信じていたのです。
ベトナム側も巨悪を撃退するには、同様だと信じていたのです。
これでは戦争の終結は遠のくばかりです、後に気づいて異なる戦略を採りますが。

実は、仮想敵国と想定した時から抑止を考慮し始めるので、両国は戦意や敵意を相互に高めていくのです。
例を見ます。
三国同盟を締結した松岡外相は、帰国後、一気に外務省から親米派を根こそぎ排除しました。
通常なら、米国を最大の仮想敵国としたのですから、米国の情報通を温存すべきなのですが。
彼にとっては、それよりも親独派で一本化することの方が政局を乗り切れると考えたのです。
この例は少しわかりにくいですが、他国を敵とし抑止を想定することは、互いに警戒、情報隠蔽、干渉を始め、ついには疑心暗鬼に陥るのです。


まだ問題があります
それは自衛の項で説明したように、この抑止力程度からやがて無限連鎖のように軍備拡大競争に陥るのです。
米ソの核開発競争が最近の例でした。

もう一つは、米国の銃社会で見た問題です。
各人の銃所持が犯罪を抑止する程度よりも、衝動的で容易に銃犯罪を増加させることにより、結果的に銃死亡者が増えました。
同様に自由な軍事力保持は、抑止力よりも国家間の戦争や内戦も増加させるはずです。

つまり抑止は戦争を減らすよりも、潜在的に戦意を高まらせ、軍拡競争を行わせ、最後はちょっとした切っ掛けで戦争を始めさえもするのです。
抑止とは単純に信じられるものではないのです。








20140922

A separation from the carp




carp



< 1. left is the red carp, center is big white carp, right is red and black-dappled small carp, photo from October,2011 >

Today, I would like to talk about slightly lonely story that I obtained a good lesson by.
It began from keeping some goldfishes and some carps together.


今日は、少し寂しくて、教訓を得た鯉の話をします。
それは金魚と鯉を一緒に飼うことから始まりました。


big goldfish,three young carps,
< 2.  left is big goldfish, right are three young carps, photo from October,2011 >

The beginning of it
My wife has brought some young goldfishes.
After several years from when I began to keep it with an aquarium, only red goldfish survived and grew big.
The red goldfish has pursued other goldfishes and is evil and has vitality.

Around Five years ago, because she got three young carps, I decided to keep it with two aquariums separately.
Before long, the largest white carp grew until over 20 cm, had the glittering silver beauty, and became larger than the red goldfish.


ことの始まり
妻が金魚の稚魚を数匹持って帰って来ました。
水槽で飼い始めて数年経つと、赤い金魚だけが一匹生き残り、大きくなりました。
赤い金魚は他の金魚を追いかける性悪で生命力のある金魚でした。

5年ほど前、鯉の稚魚を三匹貰いましたので、二つの水槽で別々に飼うことにしました。
やがて一番大きい白い鯉は20cmを越えるまで成長し、銀色に照り輝く美しさがあり、赤い金魚よりも大きくなっていました。

Then, I bought an aquarium of 60cm and put into it the three carps and the red goldfish together daringly.
Before long, the red goldfish came to occasionally pursue the white carp.
One day, the white carp had been floating.
Since then, red and black-dappled small carp came to be pursued by the red goldfish and died.

Therefore I released the red goldfish to the big pond one year ago.


そこで60cmの水槽を買い、思い切って三匹の鯉と赤い金魚を一緒に入れました。
やがて赤い金魚が白い鯉をときおり追いかけるようになりました。
私は、それを見つけると水槽に長い箸を入れ、赤い金魚を追い払うことまでしました。
しかし、ある日、白い鯉は浮いていました。
その後、一番小さな赤黒の鯉が赤い金魚に追われるようになり、やがて死にました。

そこで、1年前、赤い金魚を大きな池に放ちました。


red carp
< 3.  The red carp surviving till the last, photo from September, 2014 >

The red carp survived in solitude grew up to near 30cm, and then the aquarium became small.
A few days ago, I released the red carp to the pond in my walking course.
I am looking in the pond for meeting the carp every day, but I cannot meet.
However, the carp seems to be living healthily.

残った赤い鯉は一匹ですくすくと成長し30cm近くになり、水槽が手狭になりました。
数日前、この鯉を私の散歩道にある池に放ちました。
毎日、姿を見たくて池を覗きますが、会うことはかないません。
しかし、どうやら元気に暮らしているようです。

What the red carp taught me
When the red goldfish clung to these carps, the white carp was the most sensitive and escaped.
On the other hand, the second biggest red carp hardly moved, even if the red goldfish clung to it.
In light of the situation of two dead carps, I found that the super-sensitive response by fearing and hating would ruin itself.
I disliked the red goldfish and had feeling of the pity to the white carp, but I got over it.

In this way, many goldfishes and carps went away from my side.


鯉が教えてくれたこと
赤い金魚が鯉達にまとわりつくと、白い鯉が一番、過敏に逃げていました。
一方で、二番目に大きな赤い鯉は、金魚が寄って来ても、ほとんど動きませんでした。
二匹の死んだ鯉を見ていると、怖がったり嫌がったりして過敏な反応することは身を滅ぼすことになると気づかされました。
私は赤い金魚が嫌いで、白い鯉に憐憫の情を抱いていましたが、吹っ切れるものがありました。

こうして多くの金魚と鯉が私の側から去っていくことになりました。






20140920

Awaji Island of early autumn: Nature that I found at my kitchen garden

cluster amaryllis 
 < 1.  cluster amaryllis >

The voice of insects that told the vestiges of summer heat already disappeared and autumn came gradually.
From my yard and my kitchen garden, I introduce the autumn harvest and the breath.

暑さの名残を告げる虫の声も消え、いつしか秋が訪れました。
自宅の畑と庭から、秋の実りと息吹を紹介します。

full moon on Osaka Bay
< 2.  full moon on Osaka Bay >

a full view of my kitchen garden, a fruit and a flower of pumpkin, eggplant
< 3. a full view of my kitchen garden, a fruit and a flower of pumpkin, eggplant > 

beans and flowers
< 4.  beans and flowers

This year is a good harvest

We did not need to buy other than cabbage and lettuce about vegetable for over one month, because the vegetables that could be taken from my kitchen garden were good harvests.
This summer, there were many delightful things.
Any one of two kinds of watermelons and oriental melons being fresh came to be provided at the dessert almost everyday.
The malus of my yard produced first the red fruit after ten years when we planted it.

今年は豊作
今年は畑から採れる野菜が豊作で、ここ1ヶ月以上、野菜でキャベツとレタス以外は買わずに済みました。
今年の夏は、嬉しいことがたくさんありました。
採れたての小玉ズイカ、黄ズイカ、まくわうりのいずれかが毎日のように食卓のデザートに上るようになりました。
庭の姫リンゴが、植えて10年経って初めて赤い実を付けました。


an insect and a butterfly, a watermelon, malus
< 5. an insect and a butterfly, a watermelon, malus >

Impressive encounter
Although there were a lot of new things this year, I introduce to you impressive encounter at the end.
It was a time when I did watering to the green soybean that we planted as always every year.
Suddenly, a small brown thing went ahead several meters quickly.
If I looked gingerly, it was a small rabbit.
It is settling in for about one week.
Therefore the watering became my fun.
It seemed to have escaped from the mountain nearby.
The rabbit is not going to escape in a large way.
This situation is new one since we started the kitchen garden ten years ago.
Until now, I have had a chance to nurture a larva of swallowtail butterfly attaching to leaf of carrot.
It is a good old memory.


ときめく出会い
今年は始めてのことが多かったのですが、最後に感動的な出会いを紹介します。
それは毎年植えている枝豆にいつものように水やりをしている時でした。
突如、茶色の小さなものが数m小走りに動きました。
恐る恐るのぞくと小さなウサギでした。
ここ1週間ほどは、住み着いてくれています。
それからと言うもの、水やりが楽しくなりました。
近くの山から逃げて来たようです。
ウサギはまだ私達には懐いていませんが、大きく逃げようともしません。
このようなことは、10年前から畑をしてから始めてのことです。
今までに、人参の葉についたアゲハチョウの幼虫を蝶まで育てたことがありました。
幼虫の世話、蝶との別れが今でも、懐かしく思い出されます。

the rabbit
< 6. the rabbit >

I thank to be able to contact with this nature these days.

自然と触れ合えることに感謝する今日この頃です。




20140918

達の戦争 42: 質問に答えて「日本の失敗とは・・」4

       

今日が、「日本の失敗」について最後の考察になります。
前日の記事から続いています。

      

軍部の動き
陸海軍が定める方針(国策遂行要領)が、これまた不思議なものだった。
真珠湾攻撃の年、幾度も出される大方針は平和交渉と日米開戦準備の両論併記。
軍の派兵は中国侵攻の続行、満州への大幅増派(対ソ威圧)、日米開戦に備えて南方攻略(資源確保)の3論併記だった。
米国との和平交渉と言えば聞こえは良いが、米国が譲らない中国撤退を無視して妥協の余地なしとし、期限まで決めて進展するはずがない。
絶体絶命の経済封鎖をまったく予想せず、南方攻略で米英を怒らせ、それを自ら招いた。
2年前のノモンハンの惨敗に懲りず、自ら望み日ソ中立条約を結んだ2ヶ月後、裏切られたはずの独ソ戦好調に気分は変わり、満州に演習と称して大量派兵し再度ソ連を威圧した。
ドイツとの同盟が米国を押さえ、米国は交渉で譲歩し経済封鎖などの強気の手段を取らないはずだと確信し、当然手を打つこともなかった。

*3

世界情勢、特に敵である英米情勢を無視し、運を天に任せ情勢変化があっても、誰も決断せずズルズルと成り行きに任せた。
奇襲攻撃で初戦を叩けば、南方の石油を手に入れ勝算ありとしたが、直ぐに制海権と制空権を握られ、タンカーが沈められ最後の頼みの南方からの石油は絶たれた。
これも戦史上繰り返されたことだが、一斉風靡した古き良き戦闘教義―日本の場合は海上で大艦巨砲、陸戦の突撃で島を占拠―に拘り、連敗を重ね、気づいても時既に遅しであった。
それにもまして奇襲攻撃は米国民の敵愾心を煽り、米英首脳は晴れて軍事協同を行えるようになった。
こうして米国は膨大な物量を持って独伊、ソ連と中国も見方につけて日本を追い込むことになった。

*4 

蟻地獄で
日本の首脳は、あがけばあがくほど深みにはまり抜け出せない蟻地獄に落ちたようなものでした。
軍上層部の脳裏にあるのは、「勝てると進言し裁可を頂き続けた天皇や、犠牲にした幾多の英霊(太平洋戦争前で数十万人)、扇情で盛り上がった国民に、いまさらどの面下げて、領土と神国の名誉を捨てろと言えるものか」でした。
とことんやって、国土が焦土と化しても生まれ代わることが大事だ、そんなことを口にする軍人もいた。
政府首脳にしてみれば、自ら無謀な戦端を開くことは避けたいが、精一杯駆け引きをしていると、なぜか戦争になってしまった。
まさにそんな感じだった。

当時、国民は真の情報、必要な情報からは完全に閉ざされ、戦意高揚と国民一丸への教育宣伝が官民一体となって行われていた。
国民は、この政府や軍部首脳の実態を知ることはなかった。
こうして日本は無責任な軍部主導の政府によって戦争へと突き進んだ。

*5

それでも真因は別にある
なぜ、このような政治状況になったかと言う問題が残る。
統帥権干犯、御前会議、軍閥支配の矛盾は目に余るが、なぜこうなったのか?
これら開戦時の政治状況は、明治維新に起因にしたものもあるが、日本が軍拡路線を推し進める過程で、主に軍人達が手に入れて来たものでした。
初期は、大国ロシアを仮想敵国とし、その橋頭堡として朝鮮半島を手に入れるべく日清、日露を戦い、圧勝した。
しかし満州を手に入れ、第一次世界大戦で漁夫の利でドイツから青島を手に入れた頃から、本土防衛より領土欲が増していくことになる。
かつて英国は日露戦争時、助けてくれた同盟国で、ドイツは第一次世界大戦では敵国だった。
やがて軍部は中国政策でうるさく干渉し始めた英米をソ連よりも仮想敵国とするようになった。
この間、幾度もあった冷害や恐慌に喘いだ国民は連戦連勝する内に、領土拡大に希望をつなげ、身内が敵国で殺されるに及んで戦争への抵抗感は消えていった。
当時、子供の出世の最上位は軍人となっていた。

政治制度(旧憲法)や政治文化など日本固有の問題もあるが、国家も国民も上記の歴史上繰り返されて来た「戦争の罠」にはまっていったのでした。

このことを皆さんに少しでも実感していただければ幸いです。
話はわかりやすさを優先し、厳密さを欠いていますのであしからず。

次回から、別のテーマになります。













20140917

私達の戦争 41: 質問に答えて「日本の失敗とは・・」3


    

今日は、日本の失敗について考察します。
狭義には、太平洋戦争による大敗を指します。
だが重要なのは無謀な戦争をなぜ行ったかにあります。


日本の失敗とは何か?
多くの方は、太平洋戦争を失敗と見なすことで異論はないでしょう。

この戦争によって日本は多くの生命と生活、資産を失った。
遡る1世紀の間、国民の血と汗を注いで得た海外権益を一瞬のうちに消失した。
さらに隣国の怨念は消えるどころか、再燃しつつある。
おそらくこれが最も厄介な失敗になるだろう。

しかし、失敗と言われることに憤然とされる方もおられます。
少し、この点を検討しましょう。

    

「もし勝っていれば」
おそらく結果は同じでしょう。
世界に、かつての併合や植民地の後遺症はあるが、現在、植民地を持つ国は無い。
世界は、両大戦を契機に植民地を解放し、無法を粛正する趨勢になったのです。
日独伊は遅れて帝国主義の夢を追ったが、時代は変わり、大量破壊兵器と総力戦による大量殺戮と甚大な被害が世界を襲った。
一方、国民国家と海運の発達は、世界が協力して無法を正すようにもなった。

「大東亜共栄圏、植民地の解放と言う大義名分があった」
これが侵略のカモフラージュだったことは、被支配国の教科書で既に見ました。
もっとも被支配国には先客の侵略者がおり、日本が肩代わりしたとも言えなくもない。
どちらの被害が少なかったかは様々だろうが、残念なことに日本が最後だったのは痛い事実です。

    

「米国にはめられて戦争をしてしまった」
これは一理あるが、並み居る皇軍の将や参謀が、ころっと騙されたとは・・。
日英米の軍縮会議で日本の軍艦は米の6割しか持てず、全量輸入に頼る石油(米から7割輸入)を突如禁輸される中で、勝利への一縷の望みは奇襲攻撃しか無かったと日本は考えた。
同情出来そうですね、しかし、少し待って下さい。
日本の軍艦所有量は国力差を示しており(実際は一桁違う)、日本の戦争意欲を挫く為に英米が石油禁輸に出ることは当然予想出来たはずです(以前から経済封鎖は段階的に進められていた)。
日本は、米国が要求を呑めば勝ち目の無い戦争を止めても良いと戦争準備をしたが、経済封鎖が始まると、後になればなるほど勝ち目は無くなると慌てふためいた。
単純に言えば、読みが甘すぎる、その場しのぎのつけが最後に回って来た。

ざっと見ても、失敗を取り繕うことは難しい。
重要なことは、なぜ無謀な戦争に突き進んだかにあります。

    


太平洋戦争は如何に始まったのか
既に、この連載「当事者が振り返る戦争とは」で見たように、軍中堅層は戦争で沸き立っていた。
満州や中国、仏印などで、現地の参謀などが独断で多くの戦端を開き、軍中央が渋々追認して来た。
しかも、彼らは罰せられることがなかった。
1930年代の相次ぐクーデターにより、軍の政権支配が始まり、血気と銃剣が国を動かすようになったのか。
天皇や政府、軍の首脳が彼らに振り回される、そんなことが考えられるだろうか。

外交では日英同盟破棄(1921年)、国連脱退、日独伊三国同盟締結、日ソ中立条約締結(1941年)が真珠湾攻撃の年まで進められていた。
これら政策は、当時破竹の勢いであったドイツと結び、中国侵攻に反対する米英を押さえ、隣国のソ連を鎮める算段であった。
しかし日本の読みはことごとく逆に作用し最悪の事態へと進んだ。
太平洋では役に立たないドイツとの同盟は、米国をむしろ態度硬化させただけで、さらにヒトラーの裏切りによるソ連侵攻は、米ソによる日本の挟み撃ちを招く結果となった。
しかも真珠湾攻撃の2日前、ドイツは半年前に始めたソ連への快進撃で20万人の死者を出してモスクワを目前に撤退を始め、早くも陰りが生じていた。

真珠湾攻撃を決する御前会議の前日(攻撃の9日前)、天皇は海軍のトップ二人を呼んで質問された。
「ドイツが欧州で戦争をやめたときはどうかね」
嶋田海相は答えた。
「ドイツは真から頼りになる国とは思っていません。ドイツが手を引きましても、差し支えありません」

    

この質疑には、この戦争主導体制の特徴がよく出ている。
海軍は、創設時の経緯で英米寄りであり、英米の情報量が多く、勝ち目のない戦争に反対であった。
陸軍は、これも創設時の経緯によりドイツ信奉で、米英を軽んじていた。
ここ20年ほど、政府と軍部内で、上記の対立を繰り返しながらも、ドイツの威光を借りて英米を黙らせる方向で進んでいた。
その前提が無くなることは国策の根幹が崩れるのであるが、大臣には当然のように対案もなく諦め口調であり、責任感も無い。
天皇も心配になり言葉を交わすが、軍指導部の提案を御前会議で予定通り裁可するのが常であった。
このような事例は枚挙に事欠かない。
国策の最高決定機関となっていた御前会議(天皇と政府首脳)の実態はこのようなものだった。


次回も続きます。