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20200512

世界が崩壊しない前に 25: 細るエネルギー供給








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今回は、私達の経済活動や生活に不可欠なエネルギーの将来についてみます。


電気・ガス・ガソリンが無くなる生活を想像できるでしょうか。

かつてオイルショックで経験したように、ここ半世紀、石油価格の上昇下降が世界経済を揺さぶるようになった。
米国は石油が狙いで、中東に軍事干渉することが度々あった(イランなど)。
日本が太平洋戦争に突き進む切っ掛けも石油禁輸でした。

現在、エネルギー源のほとんどは地下資源(石油、石炭、天然ガス、ウラン)ですが、いつまで採掘可能なのか?



 
< 2. 石油生産量のピークは過ぎた >

IEA(国際エネルギー機関)は2010年、在来型石油(シェールガス・石油を除く)の世界生産のピークは2006年に越えたと発表した。
これは従来の油田が枯渇して行く中で、新しい油田の発見が少なくなり、採掘コストが高くなっているからです。

益々、採掘コストが上昇している為に、地球奥深くに化石燃料があっても役に立たない。
石油では、20世紀初頭、1単位のエネルギー投資で100単位のエネルギーを得られたが、ここ25年間で35~11単位と急速に低下している。
一時、花形だった北海油田も限界が見えて来た。

これを補ってくれたのが2010年代に始まった米国のシェールガス革命でした。
しかし、ここ数年、採掘会社が急激な赤字に陥っている。
理由は坑井の寿命が短く、次から次への開発にコストが掛かり過ぎているからです。
FRBは低利融資でこれら会社を何とか存続させているが続かないだろう。
さらにコロナ危機で原油先物価格が一時マイナスまでになった。
これで米国のシェールガスは立ち行かなくなるかもしれない。


 
< 3. 低下する世界の原発発電量 >

残念な事に、期待のエネルギー源も様々な副作用を持っている。

原発は大災害、シェールガスは公害を引き起こしている。
日本列島の原発は断念せざるを得ない。
地震と津波が頻発する列島、放射線廃棄物の処理、海洋汚染による漁業資源への悪影響を考慮すれば当然です。

またメタンハイドレートや石炭、バイオ燃料(生産時)は、温暖化ガス(炭酸ガスなど)排出で地球温暖化に悪影響を与えます。


 
< 4. 増え続けるエネルギー消費 >


* 何が問題か? *

上記三つのグラフは危機の到来を示している。

世界のエネルギー消費は増え続けるが、エネルギーになる地下資源は枯渇に向かっている。
もし化石燃料輸出国が、枯渇への不安と自国の消費増を受けて、輸出を絞り、さらには禁止したら・・・。
輸入大国の日本は・・・?
コロナによるマスク入手の困難とはわけが違う。

国民が耐え偲ぶだけで過ごせるとは思えない。
悪くすれば強奪の戦争が勃発するかもしれない。

日々、限界に近いづいている。
打開策を講じなければならない。


次回に続きます。





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20200510

徳島の海岸と漁村を巡って 2: 由岐漁港 1





*1

これから2回に分けて由岐漁港を紹介します。
今回訪れた漁港の中では最も北にあります。


 
< 2. 散策図、上が北 >

上: 由岐漁港を俯瞰
二つの岬が漁港を挟み、島が港の入口を護っている。
しかも開口部が南を向き、紀伊水道を通る台風の風から守るには最適です。
この形は、京都丹後地方の伊根港に似ている。

下: 由岐漁港拡大
おおよそ港の中央が港町、右が東由岐で、左が西由岐です。
写真右上の隅に、大きな池「大池」があり、後に紹介します。


 
< 3. 港を眺める >

上: 西由岐を望む。

下: 左手に東由岐、遠方中央に箆野島(へらの)が見える。


 
< 4.東由岐の漁協 >

覗いたのが11時だったので、がらんとしていた。
一人の漁師が、今が旬の鰆(さわら)をさばいていた。

下: 蛸が逃げる!
ふと床を見ると、大きな蛸が逃げるように這っていた。
私が「蛸が!」と声を掛けると、漁師が素早く捕まえたところ。


 
< 5. 東由岐の街並みに向かう >

上: 西側を見ている。

下: 防波堤を乗り越えて、東由岐側に入ったところ。
道奥に住吉神社に向かう階段が見える(南側を見ている)。


 
< 6.東由岐の街並み >

昔ながらの漁師町の家が残っていると思って訪れたが、かなり改装が進んでいた。
中でも保存が良いのを撮影しました。
おそらくこの後、20年もすれば消失してしまうでしょう。

下: 赤矢印がミセ造り(蔀帳)、黒矢印が出格子です。

外観の説明を引用します。
「由岐のミセ造り(蔀帳)は、半間幅の腰高、窓につくタイプで、腰をかけるというよりは物を置いたり、作業をするためのものです。
全国的にみても珍しく、貴重な建築様式です。
出格子は取り外しできるものもあり、蔀帳のかわりに「縁台」になります。」

これらは海部郡の他の漁師町でも見られたが、ここが一番保存が良いようです。


 
< 7. 天神社の鳥居 >

この神社は先ほどの街並みの北側にある。

下: 鳥居の右側にハットするものがあった。



 
< 8. 「南海地震津波最高潮位」の碑 >

これは1946年の地震に伴う津波の高さを石碑の横線で示しているのでしょう。

記録によると
「大地震が発生し、約10分後に津波が来襲して大きな被害を受けた。
旧三岐田町分(旧由岐町より狭い)の被害は死者8人、重軽傷者24人、家屋の流失48戸、全壊66戸、半壊220戸、床上浸水618戸、床下浸水70戸、船舶の流出39隻などであった。」


 
< 9. 天神社の階段から望む >

上: 東由岐の街並み越しに日和佐を望む

下: 西由岐の方を望む
中央奥に城山公園の小さな岡が見える。
かつて城があった。


 
< 10.天神社の境内から望む >

上: ほぼ北側を望む。

下: 北東を望む
この右手、この神社のある山沿いに250m行った所に「康暦の碑」が立っている。
写真では建物で見えないが、この碑の前に「大池」がある。

この碑は「古典太平記」に記された康安元年 (1361年)の大地震大津波で亡くなっ た人々のための“供養碑”とされ、現存する日本最古のものです。
この津波で壊滅した「雪湊」の集落が沈んで出来たのが、この「大池」だといわれていて、池の底からは 「土器片」や「古銭」27枚が発見されています。
この時、1700軒も建ち並ぶ「雪湊の町」が海底に沈んだとあり、当時としては大きな港町であったことが窺われる。
次回、この「雪湊の町」について紹介します。

実は、この地方を襲った津波はこれだけではない。
1854年、安政元年の南海地震が襲った。
1944年、熊野灘で起こった東南海地震では2mの津波が日和佐を襲ったが、被害はなかった。
1960年、チリ地震による津波で由岐は30cmほど浸水した。

この地は、津波と共に生きていかなければならない。


 
< 11. 天神社 >

上: 境内

下: 境内から北側に降りた階段
後で気が付いたのですが、これは今後起こる東南海地震津波の非難用の階段でした。


* 感想と説明 *

当初、日本の漁村と歴史などを知りたくて訪れたが、予想外の展開になった。
それは漁村と漁業の衰退、そして津波の恐ろしさを肌で感じたことです。
一方で、日和佐の町を歩いていて少し希望を見出した。

この地域と日本の漁村と漁業について概説します。

美波町について
2006年に旧由岐町と旧日和佐町は合併し美波町になっている。
日和佐町は、海亀の産卵と薬王寺で有名です。
美波町の現在の人口は6400人だが、年々1割ほど減少している。
その内、農業就業者は4.4%、漁業就業者は美波町で5.3%だが県内の15%を占める。
漁獲量の多いものから太刀魚(22%)、カツオ類、海藻類(14%)、鯛類、貝類(37%)、ブリ類、海老類(13%)です。
( )内は徳島県内のシェアで、特産品が鮑、さざえ、伊勢海老なのがうなづける。

由岐漁港
ここは西由岐と東由岐で漁協が分かれている。
古い町並みは東由岐に残っている。
両者を比べると、漁業従事者は東93名、西58名、漁獲高(金額)は東:西で2.2:1です。
東由岐は沖合底びき網漁業が盛んで、インドネシアからの実習生3名を受け入れている。
由岐は、アワビ稚貝やヒラメ等の種苗放流事業を実施している
しかし由岐全体の漁獲高は年々1割ほど低下している。

同様に日本の漁獲量(トン)は1984年から同様に年々減少し、66%減になっているが、実は漁獲高はここ数年増加傾向にあり、54%減に留まっている。
これは遠洋漁業の落ち込みを養殖業でカバーしているからです。
ちなみに日本の水産物自給率は魚介類59%、海藻類68%です。

日本の人口減と高齢化が、この地域ではより急激に進みつつある中で、新しい動きがある。
美波町は、伊座利地区の集落再生、様々な町おこし、サテライトオフィスの誘致などに力を入れて、町の活性化に成果を出しつつある。
このことは後に紹介します。

次回に続きます。




20200503

世界が崩壊しない前に 23: 映画「太陽の蓋」を紹介





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福島原発事故を今一度教訓として欲しい!
無料動画「太陽の蓋」を紹介します。
また私の想いを詩にしました。


 
*2

* 「太陽の蓋」を見た感想 *
https://www.youtube.com/watch?v=x29d7YMhmm8

なぜ日本は、いまだに危機に上手く対応出来ないかが良くわかる。
それは体制が麻痺しているからに尽きる。

数人の首脳が全身全霊であがいても・・・
そんな虚しさの中にも光明を感じることがあった。
身を挺して原発の残った人々と陣頭指揮を執られた人が居たことを。
そして突然の巨大な災厄にもめげず、立ち向かった多くの人々がいたことを。


*「憂いの詩」 私の想いを託しました *


何を恐れるのか

座して逡巡する君よ

持して朽ち果てる故国こそ恐れよ

いま船出する時

渇きや荒波を恐れるな

出でて求めよフロンティアを

闇の中、頼れるのは己一人と覚悟して

家族を愛し、友と手を携え

いざ立ち上がれ



次回に続きます。




20190127

北欧3ヵ国を訪ねて 48: オスロ 7: 冒険家達の足跡








< 1.フラム号博物館 >


今回はビィグドイ地区の住宅街と三つの博物館を紹介します。
これら博物館はノルウェーが如何に海と深く関わり、偉大な海洋冒険家を頻出したかを教えてくれます。



 
< 2. ビィグドイ地区の散策ルート、上が北 >

1: ノルウェー民族博物館、既に紹介。
2: ヴァイキング博物館、既に紹介。
3: フラム号博物館、今回紹介。
4: ノルウェー海洋博物館、今回紹介。
5: コンチキ号博物館、訪問していませんが紹介。

黄線、ピンク線が博物館への徒歩ルートです。
ヴァイキング博物館からフラム号博物館までは約1.5kmで徒歩20分以内です。



 
< 3. ヴァイキング博物館のロッカー >

蛇足ながら博物館のロッカー事情を簡単に紹介します。
これまでスウェーデンとノルウェーの博物館を数多く訪れ、多くはバックなどを預ける必要がありました。
預けるべき場合は、すべて上記写真のような小さなロッカーがあり、無料でした。
小さなリュックは入るが、それ以上大きいものはどこのロッカーにも入れることが出来ません。
扱い方法は様々で、貸与してくれるコインやロッカー付属の鍵などを使う場合が多い。
分からなければ係員が近くに居て教えてくれます。

しかし、ここは少し違っていました。
ここだけはロッカールームが館外にありました。
この写真のように任意の番号を入力し、レバーを倒す方法もここだけでした。
少し戸惑ったが、扉の裏に英語で取り扱いが書かれています。



 
< 4. ヴァイキング博物館とお別れ >

上: ヴァイキング博物館。
下: 住宅街を歩き始める。


 
< 5. 高級住宅街 >

大きな住宅が並び、新築や改装中の建物も見ました。
平等の国のイメージがあるのですが、ここに富裕層が集まっているのか、それとも皆が裕福なのか、疑問に思いながら歩いた。



 
< 6. フラム号博物館が見えた >

下: 右手奥の三角屋根がフラム号博物館。
歩いている間に公共交通機関のバスの行き来を1回ぐらいしか見なかったように思う。
離れた三か所の博物館を繋ぐ便利な公共交通機関は無いようです。

 


< 7. フラム号博物館に入る >

上: 三角屋根がフラム号博物館。
右手にノルウェー海洋博物館。

下: 中に入ると、巨大な船体がすぐそこにあった。


 
< 8.甲板上  >

上: 船外の階段を登って甲板上に渡る。

下: 甲板中央から船首の方を見ている。
甲板の左右と前方を囲むように巨大なスクリーンがあり、フラム号が氷山の流れる荒海を航海している状況を再現している。
さらに音響とライトによる稲妻が臨場感を盛り上げていた。



 
< 9.フラム号の探検航路 >

上: 甲板中央から船尾を望む。
下: フラム号の3度の探検ルート。
左が二回行われた北極海の探検。
このフラム号による最初の探検は右側のルートで、ナンセンによるものです。
左側は二回目の別人による探検ルートです。

右が南極探検。
これは1910~1912年に行われたアムンセンによるもので、彼は人類史上初めての南極点への到達に成功した。


* ナンセンによる北極探検とノーベル平和賞受賞
ナンセンは科学者であり探検家でしたが、後に自国の独立と世界平和に貢献することになる。

彼は北極海を横断する海流を調査するために、このフラム号で漂流し確認しようとした。
この為に、彼は8年分の燃料と6年分の食料を積み込み、1983年に出港し、シベリア沖まで行き、そこで氷に閉じ込められ、3年間の漂流(地図中の下降)の後に寄港し、この調査探検は成功した。

一躍有名になった彼は、当時熱を帯びていた「ノルウェーのスウェーデンからの独立」に外交官として駆り出されることになる。
そして彼はロンドンで国際世論に訴え、独立の理解を求めた。
ついに1905年、ノルウェーは国民投票により無血で独立を勝ち得た。

第一次世界大戦後、彼は国際連盟の難民高等弁務官に就任した。
彼はソ連と交渉し、ロシア革命で共産政府と対立し海外移住を望んだロシア人に初めて国際的な身分証を発行した。
これにより140万人が難民移住出来ることになり、彼はノーベル平和賞を受賞した。

彼に続いてノルウェーから多数の海洋冒険家が出た。
また国として紛争仲介やノーベル平和賞授与などを通じて世界の平和に貢献し続けている。



 
< 10. ノルウェー海洋博物館 >

私にとって興味深かったのは数々の古い漁港のジオラマや木造船の模型でした。



 
< 11. コンチキ号博物館 >

ここは訪問していません。
上: 洋上のコンチキ号。
下: 航海ルート。

1947年、ノルウェーの文化人類学者ヘイエルダ―ルは自作の筏「コンチキ号」で南米からタヒチ島近くまで漂流航海を行った。
彼はイースター島のモアイ像がぺルーの像に似てるとして、ポリネシア人(南太平洋)は南米からの移住者と想定し、南米から航海が可能だったことを証明したかったのです。

彼の漂流航海は一応可能性を示せたのですが、残念ながら遺伝子分析でポリネシア人はモンゴロイドが主に台湾から航海移住によって拡散したことが現在わかっています。

それにしてもノルウェー人の冒険心を併せ持つ探求心には関心させられました。


次回に続きます。




20181127

湖北・湖東の紅葉を訪ねて 2: 鶏足寺 2




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前回に続いて鶏足寺の後半です。
今回紹介する所が最大の見せ場です。



< 2.森を抜けると・・・真っ赤な >

竹藪や茶畑を横目に細い山道を抜けると、急に視界が開け、深紅と黄金色の一角が現れた。
ここは山腹の御堂に続く階段の両側に広がる紅葉エリアの最も下にあたる。


< 3. パンフレットで良く見る参道 >

落ち葉の風情を楽しむ為に、ここだけ立ち入り禁止になっている。

上の写真: 下側から望む。
下の写真: 上側から望む。

誰かが、この紅葉を称して「まるで血を撒いたようだ」と話していた。
始め、この言葉に抵抗を感じたが、しばらくするうちに納得するようになっていた。


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ちょうど小雨が降り始め、赤や黄色に色づいた葉がしっとりと濡れて少し輝きを増したようです。


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雨傘の列が、御堂からの石の階段を下りて行く。
ここの石段はほぼ自然石のまま並べられているので歩き難い。
非常に人が多く、上り下りに危険を感じている人もいた。
幸いにも小雨はすぐ止んだので、石段がそれほど濡れずに済んだ。


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今回は紅葉の最盛期に来られたようで幸いでした。
さすがに人が多く、人を避けて写真を撮ることは出来ませんでした。
雨は降ったが、傘を持たずに撮影できる程度だったのが不幸中の幸いでした。

誰がいつの頃にこれだけのもみじ植えてくれたのか、至福の時を得させて頂いたことに感謝し、ここを後にした。


次回は多良狭を紹介します。