20200518

連載中 何か変ですよ 217: 悲しい社会




*1

我々の未来は明るいはずだ!
日本に暮らす今、コロナ危機下にあっても、そう信じたい!
しかし一抹の不安が、いなむしろ絶望すら感じる!


 
< 2.懐かしのメモリー >


* 周りを見渡すと *

人々はおおらかで誠実で屈託なく暮らし続ける。
コロナの死者は少なく、やっとトンネルから抜け出て、自治体と政府の支援策も見えて来た。
これからも皆が共に手を携えて進めば、きっと明るい未来が待っている。
そう信じたい。

だがふっと気がかりが脳裏をかすめる。

この2年間で北欧と中国を旅して、日本が取り残されていることを実感した。
北欧は、ここ半世紀ほどの間に幸福で公正な社会、加えて豊かな経済を手に入れた。
1世紀前の北欧はかなり貧しく、国を捨て米国に移住した人も多かった。

中国もここ30年ほどで、経済的に大変貌を遂げ、地方まで浸透し、さらに加速すらしている。
それに連れて、人々の意識やマナーに変化が起きている。

一方、日本はどうだろうか?

1990年代より、明らかに経済は停滞し、それに連れて国際的な指標、幸福、貧困、ジェンダー、報道、政治腐敗など全てが低下し続け、さらに悪化の度合いを強めいている。
それだけに止まらず、国の財政悪化も勢いを増している。
ここ数年、良かったのは株価と失業率ぐらいでした(これには喜べない理由がある)。

さらにコロナ危機で日本の実態が露見した。
縮小されていた感染医療体制、乏しい危機と遅い対応、躊躇する国民支援、政府の心根がいみじくも露呈してしまった。
一方、自粛に見られる国民の高い共同体意識と自治体首長の活躍が目立った。
(重傷者、死亡者が少ないのは東アジアの韓国・台湾とBCG接種国に共通し、少ない感染者は少ないPCR検査による)


* 何が悲しいのか *

人々の好悪感で国の進路が歪められ、暴走が続いていることです。

「韓国・中国が嫌いだ! 弱い日本は嫌いだ! 強いリーダーが好きだ!」
この世論が、ここ10年ほど日本を牽引して来た。
そして防衛が優先され、隣国に妥協しない頑強な政府が出来上がった。

そして何が起きたのか。
期待したアベノミクスは?
おそらく8割の人は好況を実感したことはなかっただろう。
非正規が増え、賃金低下、貯蓄の取り崩しが定着した。
このことが増税とコロナ危機でより経済を悪化させる。
政府は赤字国債大量発行と超金融緩和で乗り切るだろうが、これも将来禍根を残すことになる。

加えて弱者と少数意見が無視され、富裕者・大企業優先で格差が拡大した。
それだけではない、首相の虚言と隠蔽、内閣による官僚とマスコミ操作により、不正が蔓延していても尻尾が掴めない。


一方、この政府に嫌悪感を抱く人々がいる。
「不正・政治腐敗が許せない! 弱者を軽視し大企業優先ばかりが許せない!」と

今の政府に惹かれ、すがる人々は、これらを無視してはばからない。
私は、このような社会に不安を感じる。

大戦前、ドイツ国民も前者と同様の理由でナチスを熱烈に支援した。
ヒトラーが独裁者となり、弱者(ユダヤ人、身障者など)を虐待し始めても、圧倒的多数の人は無視した。
しかし一部の人は地下に潜り、救済を行った。
だが官憲に捕まり、国家反逆罪で死刑になった人も多い。

結局、この悪行を重ねたヒトラーとナチスは自国を破壊し滅んだ。
ヒトラーは大嘘を隠し通したが、現首相の虚言はトランプのように日常的になっている。

翻って、今の米国を見てみれば、黒人嫌い、軍縮反対、中絶が許せない人々が、それだけの理由でトランプを支援する。
トランプがどんなに不正やトンチンカンをやってもお構いなし。

こんな幼稚な社会に、私は絶望しか見出せない。

終わります。





20200517

中国の外縁を一周して 38: 万古楼と大石橋付近のレストラン





*1

今回は、万古楼と大石橋付近を紹介します。
麗江で、私が最も目を奪われたのは、
大石橋付近の菊に囲まれた清流の美しい街並みでした。
この近くで昼食をとりました。


 
< 2. 万古楼の入口 >

上: 万古楼の入口
下: 中に入ったところ


 
< 3. 万古楼 >

 
< 4. 万古楼を中心にした地図、上が北 >

次に万古楼の最上階から見た360度の眺望を紹介しますので、この地図を参考にして下さい。
この麗江の盆地の広さは、赤矢印の東西で幅11kmあります。
麗江市の人口は114万人です(市の範囲は写真より広い)。
ナシ族の人口は31万人だが、麗江以外にも住んでいる。

赤矢印: 麗江古陳内、万古楼が丘の上に建つ獅子山公園
茶色矢印: 玉龍雪山
黒矢印: 長江、下から上に(北)流れている
黒枠: 麗江三義空港 



 
< 5. 北から東までの眺め >

上: 真北を望む
遠方中央の小山の左麓に黑龙潭がある。
さらに遠方に雲を被った玉龍雪山が見える。
下側の木々は獅子山公園で、右手側に麗江古陳が広がる。

中央: 真東を望む
麗江古陳の中央でしょうか。

下: 東南を望む
右手前に木府の屋根(少し青みがある)が見える。


 
< 6. 南から西までの眺め >

上: 真南を望む
遠方の丘陵地麓の左側に新幹線の麗江駅があり、その丘陵地を右に迂回したら空港に至る。
写真中央、麗江古陳の南端(瓦屋根が途切れる辺り)に、後に紹介する古城忠义市场があります。

中央: 南西を望む

下: 真西を望む
中央の山の向こうに拉市海(湖と湿地)があり、さらにひと山越えると、長江が急激に流れを変える長江第一湾がある。


 
< 7.西北から北までの眺め >

上: 西北を望む
遠方中央、山脈が途切れる谷間を抜ける道を行くと、拉市海や長江に辿り着く。
この道の右手の山の南斜面中腹に普济寺がある。
後にこのチベット仏教寺院を紹介します。

かつて茶葉古道は、南の昆明、大理を経て麗江古陳を通り、ここで西に向かい、長江沿いに香格里拉、チベットに至った。


下: ほぼ北北西を望む
中央遠方、山の麓に束河古镇があります。
後に紹介します。

これで360度、一周しました。


 
< 8. 万古楼から >

上: 万古楼の最上階からほぼ西を見下ろす。

左下: 万古楼内部。
木造造りで高さ33mあります。

右下: 万古楼から東側に降りたところにある展望台


万古楼からの眺めは良いが、それだけです。
万古楼から四方街への下りの道は、登りと違った道をとりました。


 
< 9. 素晴らしい眺め >

上: 四方街

下: 大石橋
前夜、ライトアップされた橋と清流の眺めも魅惑的でしたが、昼も良い。


 
< 10. 大石橋の上から >

上: 下流を望む

下: 上流(北)を望む



 
*11


 
< 12. 昼食のレストラン >

ガイドさんに紹介してもらいました。

上: レストランのテラス席から川の方を見る。

下: 店の方を見る。
ここは大石橋の川を少し北上した所にあります。
昨晩、この店の前を通った時は、非常に賑わっていました。


 
< 13. 食事 >

メニューもガイドさんと相談しながら決めました。
この麗江は食材が豊かで松茸も採れる。
料理は彩が綺麗でしたが、深みが無く、美味しいとは言えませんでした。
どちらかと言うとさっぱりした味でした。
強いて言えば高いだけの料理でしょうか。


次回に続きます。


20200515

徳島の海岸と漁村を巡って 3: 由岐漁港 2





*1


今回は由岐港の後半、西由岐を紹介します。
この漁港を歩き、
切実な現実と興味深い歴史を知ることになりました。


 
< 2. 散策マップ、上が北 >

上の白枠が下の地図の範囲を示す。
赤線が前回紹介した東由岐、ピンク線が今回紹介する散策ルートです。
西由岐はピンク線の下側、港の左(西側)の町です。

S:スタート地点
A: 東由岐漁協
B: ミセ造りなどが見られる古い町並み
C: 天神社
E: かつて由岐城があった城山公園
F: 八幡神社


 
< 3. 不思議なもの >

上: 写真中央、小山の斜面を覆うコンクリート壁に金属製の階段と回廊が見られます。
はじめ分からなかったのですが、後に驚きの事実を知ることになりました。

下: 小魚(イワシ?)の出荷作業が行われていた。


 
< 4. 広い通り >

上: ほぼ中央、南北に延びるもっとも広い通り。
北方向を見ており、真直ぐ行くとJR牟岐線の由岐駅に出会う。

下: 東西に延びる通り
中央に見えるのが城山公園がある丘です。
丘の上が平らになっており、かつて由岐城があった。
城の名残りは無いそうです。

 
< 5. 八幡神社 1 >

上: この道を進むと右手、丘の中腹に八幡神社があります。
この左手が城山公園の丘で、かつては両側の丘は繋がっていた。

下: 八幡神社の下に来ました。

 
< 6. 八幡神社 2 >

上: 八幡神社の境内
実は、私はこの境内が由岐城跡だと勘違いしていて、それらしいものを探したが見つからなかった。
そこでさらに裏山まで踏み込みました。
帰宅後、城山公園が城跡だと知ったのですが。

下: 境内の右側に細い登り道があったので、進みました。
すると、この道の右側に看板(写真中央)があり、赤字で「想定 津波高さ」と書いてありました。
その看板の位置から眼下(東側)を見下ろすと、町のすべてが水面下に没することが分かった。
一瞬、寒気がした。


 
< 7. 八幡神社の岡からの眺め >

上: 前述の看板の位置からの眺め

下: 岡から西側を眺めた。


 
< 8. 丘を西側に降りる >

上: 墓地が斜面一杯に広がっていた。

下: ちょうど、丘を下りきり、振り返ったところ。


 
< 9. 西由岐を行く >

上: 八幡神社が見える

下: 漁港に出てから、来た道を振り返った。


 
< 10. 漁港に戻った >

上: 西由岐側を望む
右側、自転車が置いてある向こう側で、ワカメの天日干しが行われていた。
黒いビニールのようなもので上部を覆っていた。
10分ほどの間に、二人がワカメの干し具合を調べに来ていた。

下: 東由岐の方を見た

私は、ここで持参の弁当を食べた後、次の港に向かった。



* 由岐を歩いて *

様々なことを知り、実感することが出来た。

 
< 11. 東南海地震による津波の恐ろしさ >

上: 散策している時に見つけた表示板
これによると青色で示されるているように、すべての街並みが水面下に沈む。

赤色部分が高台で、写真で見た金属製の階段のあった場所です。
八幡神社、天神社、城山公園も標高は高くて10mほどしかありません。
しかし最大津波高さは、下の図(赤矢印)にあるように徳島県沿岸は20mを越えると予想されています。

最大津波高さは防波堤などで抑制され、浸水深さは最大10mと想定されているようです。
徳島県のH24年の想定では、美波町の津波による死亡者は2300人だそうです。

しかし素人の私ですが、この港にそのような防御効果があるとは思えない。
さらに、津波の第一波(+20cm)は地震発生の12分後、最大波は29分後だそうです。
高齢者が多い中で、どれだけの人が高台に逃げれるのか?

如何に日本が脆弱かを知ることになった。




< 12. いにしえの海路 >

今回訪れた海部郡の港は、古くから海路としても使用されていた。

平安時代、紀貫之が土佐(高知)での国司の任務を終え京都に帰ります。この時、2ヵ月の船旅となり、この様子を「土佐日記」に残しました。
船の航行は海岸に沿い、座礁と海賊を避けながら、多くの港に停泊し、風待ちも行わなければならなかった。
左下地図の赤線が凡その航路で、実際は黒点の港にそれぞれ1から10泊しています。
右下地図の赤丸は予想された寄港地で、下は高知県野根(徳島県宍喰の隣)、上は日和佐(由岐と同じ美波町)です。


 
< 13. 鎌倉時代から戦国時代 >

上: 屋島の戦い
由岐の港は、鎌倉時代には雪の浦や雪湊と呼ばれていた。
源平合戦、屋島の戦いから逃げた平維盛は「平家物語」によると、南下し、
雪の浦(東由岐の大池の辺り)から船で鳴門、和歌山の方に向かったとされている。

下: 戦国時代末期の四国の勢力図
当時、由岐の辺りは三好勢が支配していたが、長曾我部が勢力を伸ばし、海部郡一帯の城を南側から攻め落としていった。
この時、由岐城も降伏し、その後、城主の由岐有興は別の戦いで討ち死にしている。
海部郡にはかつて20を越える城があった(多くが城跡)。
今回は日和佐城を眺めることが出来た。

 
< 14. 由岐漁港 >

由岐港の歴史から漁師の活躍、漁業の発展が見えて来る。

A: 明治時代の漁師の船、カンコ船(手漕ぎで帆の無い全長7~8m)?
B: 石垣弥太郎
C: 楠本勇吉
D: 延縄漁
E: 毎年10月に由岐で行われる伊勢海老祭り


由岐・志和岐の二人の漁師がフロンティアとなった。

石垣弥太郎は明治21年、カンコ船十隻を従え博多へ出向きました。
鯛の一本釣りではうまくいかず空しく由岐へ舞い戻りましたが、「レンコ」(鯛)のほか「アカモノ」(体表が赤色)が釣れるのを知った弥太郎は、挫けることなく毎年レンコ延縄(図D)に挑戦した。
明治35年には一本釣りの全盛期を迎え、後に以西底引網(九州西岸以西で行われる)へと発展する。
彼が正に北九州の漁場開拓を行ったと言える。

カツオ、マグロ漁船員であった楠本勇吉は、明治35年、カツオ漁を目指して岩手県大船渡村へ渡りました。
現地は沿岸漁業の不振で悩んでいましたが、勇吉は意外に豊富な「アカモノ」に目をつけ、故郷でやっていた「てんてん釣り」の漁法を指導した。以後漁獲量は飛躍的に伸び、彼の滞在は28年にも及んだ。

この事例を見ていると、明治期に既に地元の沿岸漁業に見切りをつける漁師がいたこと、また遠方へ進出する気概があったこと、さらには漁法の改革が進んでいったことがわかる。
当時、漁業権や縄張りの争いは無かったのだろうか?


次回に続きます。



20200514

中国の外縁を一周して 37: 木府から万古楼への路







*1

今回は、木府を出て獅子山公園の万古楼までの路を紹介します。
散策したのは2019年10月26日、この日は曇りでした。



< 2. 散策ルート >

上: 赤線がルート、上が南です。
Sからスタートし、四方街を通り、Eが万古楼の前です。
赤の矢印は、途中休憩した展望の効く喫茶店です。
9時40分に出て、万古楼に到着したのは11時15分でした。




< 3. お土産 >

妻が現地ガイドに食べ物の名物を聞いたら、途中の路に面したこの店を教えてくれた。
ここは水牛の肉の燻製や甘辛煮が主です。
この手の食材は、麗江ではよく見かけた。
試食をしてから買った。
日本人の口に合うと思います。


 
< 4. 四方街で踊り >

ナシ族の民族衣装を着た人と、観光客が一緒に輪になって踊り始めていた。


 

< 5. 踊りのビデオ >


 
< 6. 丘の上の獅子山公園を目指す >

 
*7

 

< 8. 喫茶店 >

上: 右の二階が休憩した喫茶店
ガイドが薦めてくれた所で、眺めが素晴らしい。
麗江の甍が眼下に広がる。
普通にコーヒーがあります。

 
< 9. 屋根の面白い物 >

左の二枚: 魔除けだろうか?


 
< 10. 公園の入り口 >

門をくぐり、階段を登る。

 

< 11. 途中の路 1 >

 
< 12. 途中の路 2 >

次回に続きます。



20200513

連載中 何か変ですよ 216: 「検察庁法改正案に抗議します」を巡って!







*1


ここ数日盛り上がっている検察庁法改正案について感じたことを記します。
私は当然、検察庁法改正案に反対で、火事場泥棒を許せない。


 
*2

* 最初に *

先ず、600万人が瞬時に反対を表明したことが素晴らしい(ツイッターで)。
これは野党、弁護士会、知識人、芸能人が声を上げただけでなく、一般の人も大いに危機感を持っている事の現れです。

しかし一方で相変わらず政府や与党のとぼけた国会対応、加えて保守やウヨの猛反撃がある。
態度表明した芸能人が苦渋の果てに表明を取り下げた。

また吉村知事、堀江貴文、高橋洋一氏などは、改正案を当然とし、反対する人は勉強してから文句を言えと吐き捨てる。
三氏の理屈を要約すると、検察を民主的にするためには内閣が関わるべき、分からない人間がマスコミと検察に踊らされている、単に定年延長だけの話と言うことになる。

反対するには、確かに法案に目を通した方が良いだろう。
しかし、家が放火され燃えている時に、放火犯の逮捕を優先し、家が燃え尽きるに任せる人はいない。


* 国民はなぜ検察庁法改正案に反対するのか *

私の見るところ、安倍首相が検事総長を自分の言いなりにし、周辺で起きている不祥事の摘発を妨害しようとしている、と国民は見ているからです。

この推測を裏付ける状況証拠は腐るほどある。

候補とされる黒川検事長は、多くの自民党議員の摘発を握り潰し、野党議員の摘発に暗躍して来たと言われている。小渕議員、甘利議員、森友事件(佐川理財局長)、大阪地検特捜部証拠改ざん事件後の刑事訴訟法改悪、陸山会事件(小沢議員)など。つまり彼は自民党にも安倍首相にも守護神となる。

この改正案は突如として浮上し、経緯が不明瞭。国会で法務大臣が追求されても答えられなかった。

安倍首相が国民の為、つまり民主的で透明性のある官僚制度の改革を行ったと信じる人は少ない。彼が関わったことにより官僚は捏造、隠蔽、証言拒否を繰り返し、官僚の忖度が横行するようになった。つまり、真逆の改悪を行っているのだから。


 
*3


さらに、安倍首相と自民党が国民の為に官僚改革を行うはずがない理由がある。

堀江氏が指摘する通り、日本の検察は傲慢横暴で判事ともつるんでいる。
既に、検察と裁判所は上級官僚を通じて内閣(長期政権)の意向に沿うようになっている(高等裁判所で必ず原発裁判は覆される)。
この意味では、検察を民主化する必要はあるが、現内閣が関与を深めることは悪化しか起こらない。
民主化なら最高裁判事の国民投票のような方法が必要でしょう。
おそらく三氏はこのことを知った上で言っているのだから質が悪い。

もう一つ、見落としてはならないことがある。
安倍政権は官僚を抱き込むことに力を入れて来たが、決して官僚の聖域には手を付けていない。
特別会計や天下りなど、野党がかつて指摘して来た膨大な無駄にはまったく触れていない。
結局は官僚の特権を護る代わりに、官僚を従わせて来た。

このような性格の政権が、コロナ危機の中で急いで改正案を潜り込ませて、強行しようとするなら、火事場泥棒と思われても仕方がない。
改正案が廃案になっても問題あるとは聞かない。

むしろ国民は危険が迫っているのだがら、改正案に反対することは当然です。
単純に、危険な首相と政府がやるから反対でも正解だ!

日本国民が政治に無関心過ぎることが、こんな災いを招いたのだから、この機会に改めることは良い事だ!


終わります。



20200512

世界が崩壊しない前に 25: 細るエネルギー供給








*1


今回は、私達の経済活動や生活に不可欠なエネルギーの将来についてみます。


電気・ガス・ガソリンが無くなる生活を想像できるでしょうか。

かつてオイルショックで経験したように、ここ半世紀、石油価格の上昇下降が世界経済を揺さぶるようになった。
米国は石油が狙いで、中東に軍事干渉することが度々あった(イランなど)。
日本が太平洋戦争に突き進む切っ掛けも石油禁輸でした。

現在、エネルギー源のほとんどは地下資源(石油、石炭、天然ガス、ウラン)ですが、いつまで採掘可能なのか?



 
< 2. 石油生産量のピークは過ぎた >

IEA(国際エネルギー機関)は2010年、在来型石油(シェールガス・石油を除く)の世界生産のピークは2006年に越えたと発表した。
これは従来の油田が枯渇して行く中で、新しい油田の発見が少なくなり、採掘コストが高くなっているからです。

益々、採掘コストが上昇している為に、地球奥深くに化石燃料があっても役に立たない。
石油では、20世紀初頭、1単位のエネルギー投資で100単位のエネルギーを得られたが、ここ25年間で35~11単位と急速に低下している。
一時、花形だった北海油田も限界が見えて来た。

これを補ってくれたのが2010年代に始まった米国のシェールガス革命でした。
しかし、ここ数年、採掘会社が急激な赤字に陥っている。
理由は坑井の寿命が短く、次から次への開発にコストが掛かり過ぎているからです。
FRBは低利融資でこれら会社を何とか存続させているが続かないだろう。
さらにコロナ危機で原油先物価格が一時マイナスまでになった。
これで米国のシェールガスは立ち行かなくなるかもしれない。


 
< 3. 低下する世界の原発発電量 >

残念な事に、期待のエネルギー源も様々な副作用を持っている。

原発は大災害、シェールガスは公害を引き起こしている。
日本列島の原発は断念せざるを得ない。
地震と津波が頻発する列島、放射線廃棄物の処理、海洋汚染による漁業資源への悪影響を考慮すれば当然です。

またメタンハイドレートや石炭、バイオ燃料(生産時)は、温暖化ガス(炭酸ガスなど)排出で地球温暖化に悪影響を与えます。


 
< 4. 増え続けるエネルギー消費 >


* 何が問題か? *

上記三つのグラフは危機の到来を示している。

世界のエネルギー消費は増え続けるが、エネルギーになる地下資源は枯渇に向かっている。
もし化石燃料輸出国が、枯渇への不安と自国の消費増を受けて、輸出を絞り、さらには禁止したら・・・。
輸入大国の日本は・・・?
コロナによるマスク入手の困難とはわけが違う。

国民が耐え偲ぶだけで過ごせるとは思えない。
悪くすれば強奪の戦争が勃発するかもしれない。

日々、限界に近いづいている。
打開策を講じなければならない。


次回に続きます。





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20200510

徳島の海岸と漁村を巡って 2: 由岐漁港 1





*1

これから2回に分けて由岐漁港を紹介します。
今回訪れた漁港の中では最も北にあります。


 
< 2. 散策図、上が北 >

上: 由岐漁港を俯瞰
二つの岬が漁港を挟み、島が港の入口を護っている。
しかも開口部が南を向き、紀伊水道を通る台風の風から守るには最適です。
この形は、京都丹後地方の伊根港に似ている。

下: 由岐漁港拡大
おおよそ港の中央が港町、右が東由岐で、左が西由岐です。
写真右上の隅に、大きな池「大池」があり、後に紹介します。


 
< 3. 港を眺める >

上: 西由岐を望む。

下: 左手に東由岐、遠方中央に箆野島(へらの)が見える。


 
< 4.東由岐の漁協 >

覗いたのが11時だったので、がらんとしていた。
一人の漁師が、今が旬の鰆(さわら)をさばいていた。

下: 蛸が逃げる!
ふと床を見ると、大きな蛸が逃げるように這っていた。
私が「蛸が!」と声を掛けると、漁師が素早く捕まえたところ。


 
< 5. 東由岐の街並みに向かう >

上: 西側を見ている。

下: 防波堤を乗り越えて、東由岐側に入ったところ。
道奥に住吉神社に向かう階段が見える(南側を見ている)。


 
< 6.東由岐の街並み >

昔ながらの漁師町の家が残っていると思って訪れたが、かなり改装が進んでいた。
中でも保存が良いのを撮影しました。
おそらくこの後、20年もすれば消失してしまうでしょう。

下: 赤矢印がミセ造り(蔀帳)、黒矢印が出格子です。

外観の説明を引用します。
「由岐のミセ造り(蔀帳)は、半間幅の腰高、窓につくタイプで、腰をかけるというよりは物を置いたり、作業をするためのものです。
全国的にみても珍しく、貴重な建築様式です。
出格子は取り外しできるものもあり、蔀帳のかわりに「縁台」になります。」

これらは海部郡の他の漁師町でも見られたが、ここが一番保存が良いようです。


 
< 7. 天神社の鳥居 >

この神社は先ほどの街並みの北側にある。

下: 鳥居の右側にハットするものがあった。



 
< 8. 「南海地震津波最高潮位」の碑 >

これは1946年の地震に伴う津波の高さを石碑の横線で示しているのでしょう。

記録によると
「大地震が発生し、約10分後に津波が来襲して大きな被害を受けた。
旧三岐田町分(旧由岐町より狭い)の被害は死者8人、重軽傷者24人、家屋の流失48戸、全壊66戸、半壊220戸、床上浸水618戸、床下浸水70戸、船舶の流出39隻などであった。」


 
< 9. 天神社の階段から望む >

上: 東由岐の街並み越しに日和佐を望む

下: 西由岐の方を望む
中央奥に城山公園の小さな岡が見える。
かつて城があった。


 
< 10.天神社の境内から望む >

上: ほぼ北側を望む。

下: 北東を望む
この右手、この神社のある山沿いに250m行った所に「康暦の碑」が立っている。
写真では建物で見えないが、この碑の前に「大池」がある。

この碑は「古典太平記」に記された康安元年 (1361年)の大地震大津波で亡くなっ た人々のための“供養碑”とされ、現存する日本最古のものです。
この津波で壊滅した「雪湊」の集落が沈んで出来たのが、この「大池」だといわれていて、池の底からは 「土器片」や「古銭」27枚が発見されています。
この時、1700軒も建ち並ぶ「雪湊の町」が海底に沈んだとあり、当時としては大きな港町であったことが窺われる。
次回、この「雪湊の町」について紹介します。

実は、この地方を襲った津波はこれだけではない。
1854年、安政元年の南海地震が襲った。
1944年、熊野灘で起こった東南海地震では2mの津波が日和佐を襲ったが、被害はなかった。
1960年、チリ地震による津波で由岐は30cmほど浸水した。

この地は、津波と共に生きていかなければならない。


 
< 11. 天神社 >

上: 境内

下: 境内から北側に降りた階段
後で気が付いたのですが、これは今後起こる東南海地震津波の非難用の階段でした。


* 感想と説明 *

当初、日本の漁村と歴史などを知りたくて訪れたが、予想外の展開になった。
それは漁村と漁業の衰退、そして津波の恐ろしさを肌で感じたことです。
一方で、日和佐の町を歩いていて少し希望を見出した。

この地域と日本の漁村と漁業について概説します。

美波町について
2006年に旧由岐町と旧日和佐町は合併し美波町になっている。
日和佐町は、海亀の産卵と薬王寺で有名です。
美波町の現在の人口は6400人だが、年々1割ほど減少している。
その内、農業就業者は4.4%、漁業就業者は美波町で5.3%だが県内の15%を占める。
漁獲量の多いものから太刀魚(22%)、カツオ類、海藻類(14%)、鯛類、貝類(37%)、ブリ類、海老類(13%)です。
( )内は徳島県内のシェアで、特産品が鮑、さざえ、伊勢海老なのがうなづける。

由岐漁港
ここは西由岐と東由岐で漁協が分かれている。
古い町並みは東由岐に残っている。
両者を比べると、漁業従事者は東93名、西58名、漁獲高(金額)は東:西で2.2:1です。
東由岐は沖合底びき網漁業が盛んで、インドネシアからの実習生3名を受け入れている。
由岐は、アワビ稚貝やヒラメ等の種苗放流事業を実施している
しかし由岐全体の漁獲高は年々1割ほど低下している。

同様に日本の漁獲量(トン)は1984年から同様に年々減少し、66%減になっているが、実は漁獲高はここ数年増加傾向にあり、54%減に留まっている。
これは遠洋漁業の落ち込みを養殖業でカバーしているからです。
ちなみに日本の水産物自給率は魚介類59%、海藻類68%です。

日本の人口減と高齢化が、この地域ではより急激に進みつつある中で、新しい動きがある。
美波町は、伊座利地区の集落再生、様々な町おこし、サテライトオフィスの誘致などに力を入れて、町の活性化に成果を出しつつある。
このことは後に紹介します。

次回に続きます。