20180123

フランスを巡って 56: パリ散策4





*1


今日はパリ最古の通り、市民に人気のムフタール通りを紹介します。
この通りには多くの小さなマルシェや多国籍のレストランが並んでいます。
私達も1時間の間につい2回も食事してしまいました。


 
< 2. 散策マップ >

上の地図: 上が北。
赤矢印4のシテ駅から地下鉄に乗り、途中オデオン駅とジュシュー駅で乗り換え、黒矢印5のプラス・モンジュ駅で降車しました。

下の地図: 左が北。
プラス・モンジュ駅を出て、Sから歩き始め赤線を右端まで行き、折り返して黄線のEで、往復1.2kmの散策を終えた。
散策したのは2017年5月27日(土)の18:00から19:30です。
Fは生牡蠣を食べた魚屋、Rはタルトを食べたレストラン、Pは楽しい人々と出会った公園です。


 
< 3. 地下鉄駅 >

上の写真: 乗車したシテ駅

下の写真: 乗り換えたオデオン駅


 
< 4. ムフタール通りに出た >

上の写真: 乗り換えたジュシュー駅

下の写真: プラス・モンジュ駅を出た時は人出が少なかったが、ムフタール通りに出て、時間が経つうちに人が増えて来た。


 
< 5. 楽しい! >

下の写真: このおじさんが手回しで管楽器を鳴らし、名調子の高い声で歌っていました。
笑顔と笑い声が素敵な人でした。


 
< 6.教会 >

下の写真: 地図の右端付近にある教会。


 
< 7. 折り返し付近 >

この辺りで散策を折り返しました。
通りや広場のテラスでは多くの人が食事と会話を楽しんでいました。


 

< 8. 様々な店先 >


 
< 9. 牡蠣を食べた魚屋 1 >



 

< 10. 牡蠣を食べた魚屋 2 >

最初この前を通った時、この店でカップルが牡蠣を食べていたのを見ていました。
戻る途中、無性に食べたくなり意を決して店に飛び込みました。

声をかけると若い店員がメニューを持って来ました。
私達はわけも分からず、中間の値段のものを注文しました。

そして出て来たのが、この写真の生牡蠣とワインでした。
牡蠣は冷えていて実に美味しかった。
さらにワインがびっくりするほど美味しかった。

この日より、私達はシャルドネの虜になりました。
帰国後はフランス産やチリ産などの安いシャルドネを何本か買っては飲みましたが、二度と同じ味に出会うことはなかった。

このように美味しいものに出会うのも旅の楽しみです。


 
< 11. メニュー >

これは注文時のメニューです。
帰国後、内容を調べました。

一番上のオレンジの下線は生牡蠣のフランス内の名産地を示し、「Hunters」は牡蠣を意味する。
オイスターの表示はどこにもなかった。
次の下線は牡蠣の等級を示すようです。
三番目の下線はワインのグラス売りで、4番目の下線はワインの種類「シャルドネ」を示す。
シャルドネは「白ワインの女王」と呼ばれ、シャルドネはブドウ品種の名前です。

この時、面白いエピソードがありました。
注文を受けた青年が、ワインのボトルを持って来てテーブルに置き、私達が驚いたのを見ると彼は笑みを浮かべ、さっと引き下がり、二つのグラスワインをもって来ました。
これは彼の冗談(ユーモア)で、私達を精一杯歓待してくれたのです。

実は、この青年はどうやら写真9の夫婦の息子のようで、このお父さんは私達観光客なんか相手にするなと言う態度を取っていました。
今回のフランス旅行では、幾度も若い人達の好意を感じることがありました。

海外で個人的にレストランなどに入るのは不安で失敗もしてきましたが、そこには束の間の出会いがあり、実に楽しいものとなります。





< 12. タルトを食べた店 >

写真のように道路に面したショーケースにたくさんのタルトが並んでいます。
東南アジア系の女性が一人で店を切り盛りしていました。
非常に小さな店ですが、結構、お客さんが途切れず買いに来ていました。
私達は中に入って食べました。
焼き立てではない為か、特に美味しいとは思いませんでした。


次回はムフタール通りの残りとラ・デファンス到着までを紹介します。







20180121

フランスを巡って 55: パリ散策3



*1



今日はカルチエ・ラタンからシテ島までの散策を紹介します。
ルートは大学街を抜けアラブ世界研究所からノートルダム大聖堂までです。


 
< 2. 散策ルート、上が北 >

赤線が散策ルートで、地下鉄駅M1「クリュニー・ラ・ソルボンヌ」から歩き始め、地下鉄駅M2「シテ」まで行きました。
Sはソルボンヌ大学、Cは立ち寄ったカフェ、Aはアラブ世界研究所、Caはノートルダム大聖堂です。
私が歩いたパリ大学横の通りはエコール通りです。

このセーヌ川左岸のエコール通り一帯はカルチェ・ラタンと呼ばれ、ここはパリ誕生期からキリスト教の中心地で、やがて神学教育の場から現在の大学の街となりました。
シテ島はパリの起源となった所で、古くは様々な侵入者、バイキングなどを迎え撃つために要塞化した島でした。


 
< 3. 地下鉄駅から地上に出る >

「クリュニー・ラ・ソルボンヌ」駅を出て、サン・ミシェル大通りを少し行き、左に曲がりエコール通りに入った。


 

< 4.パリ3・4大学(ソルボンヌ) >

2枚の写真は共にパリ大学(地図S)ですが、この一帯にはパリ大学の13校が集中しており、ソルボンヌの名が冠せられている大学は上記含め3校だけです。


 
< 5. エコール通りの光景 >

下の写真: 通り沿いにある公園。

途中、本屋や人通りが少ないので気が付いたのですが、私は散策ルートを間違っていました。
私が行きたかった所は学生街のあるラ・ソルボンヌ広場で、サン・ミシェル大通りを一筋早く左に曲がってしまっていた。
結局は、このまま歩いて行きました。


 
< 6. カフェ >

上の写真: エコール通りの突き当りにパリ6・7大学が見える。
下の写真: パリ6・7大学の手前を左に曲がるとカフェ(地図C)があった。
カフェにカメラを向けると、テラス席の青年がピースサイン(V字の指)で応えてくれた。
トイレ休憩をするために中に入り、ドリンクを注文した。


 
< 7. アラブ世界研究所 >

上の写真: カフェの中。
下の写真: アラブ世界研究所(地図A)

当初、私がここに来たのはアラブの情報、アラブ料理、屋上からの眺望が目的でした。
中に入るとたくさんの人がおり、特別展が開催されていて、アラブ関係の書店もありました。
しかし、結局は屋上からの眺望を楽しむだけにしました。


 
< 8. アラブ世界研究所からの眺め >

上の写真: 眼下にセーヌ川、左手にノートルダム大聖堂が見えます。

下の写真: 北方向を中心にパノラマ撮影した。
中央はサン・ルイ島です。

この屋上からの眺望は北方向には開けているのですが、南方向には障害の建物があります。
入場は無料です。


 
< 9. セーヌ川の左岸 1 >

アラブ世界研究所を出て、セーヌ川沿いを行きました。


 
< 10. セーヌ川の左岸 2 >


 
< 11. シテ島に入る 1 >

多くの市民がそれぞれの楽しみ方でセーヌ川で憩っていました。


 

< 12. シテ島に入る 2 >

上の写真: 橋の上からサン・ルイ島、東側を望む。

下の写真: ノートルダム大聖堂の正面。
中に入ろうと思ったのですが、大勢の人が行列をなしていたので止めました。

皆さんに注意を一つ!
大聖堂横を歩いていると南西アジア系の数人の若い女性が「アンケートをお願いします」としつこく寄って来ました。
恐らくはアンケート用紙に記入している間に財布をスルのが目的だと思います。
新手のスリでしょう。


 
< 13. シテ島中央 >

下の写真: 最高裁判所。


 
< 14. 花市 >

中央に緑が一杯の場所があり、ここが常設の花市でした。


次回に続く。



20180119

何か変ですよ! 91: 何が問題か? 14: 英国はなぜ衰退したのか?



< 1. ロンドンの万国博覧会、1851年 >


今回は、繁栄を享受していた大国がなぜ没落したかを見ます。
そこでは今の日本とまっく同じことが起きていた。
誰しも自分の不幸の予兆を知りたくはないが、知れば心構えが変わるかも!



 

< 2.栄枯盛衰 >

上は1876年のロンドン、下は20世紀初頭の米国の写真です。


*はじめに
かつて大英帝国は軍事的・経済的に世界を席巻し西欧文明、いや人類文明の模範でした。
しかし、その絶頂期にあった19世紀の後半からわずか数十年、急激に生気を失い、覇者の座を失った。
覇権国の栄枯盛衰は世の習いではあるが、資本主義社会で起こったその衰退過程が日本の低迷と恐ろしく似ているとしたら、どうでしょうか?

皆さんにこの英国の歴史から感じて頂きたいことが三つあります。

A: 衰退の原因はその社会が作り出していた。
B: 衰退の渦中にいながら人々はその欠陥を正すことが出来なかった。
C: 間違った手段で起死回生を企て一層社会は衰退し、さらに世界大戦へと突き進んだ。

歴史は過ぎ去ったものであり、まして外国のことなど関りがないと思われるかもしれないが、恐ろしいほど似たことが起きていたのです。


 

< 3.英国の繁栄と衰退 >

赤枠は繁栄を極めた英国が19世紀後半から転落していく様子を示す。


*繁栄を極めた英国
17世紀、英国はピューリタン革命と名誉革命を経験し、いち早く議会が王権を牽制するまでになった。
16世紀以来、海外の領土を拡張していたことと、上記の社会体制の変化が相俟って、世界で最初の産業革命が英国で1760年代に興った。
19世紀半ばには「世界の工場」と称され、1851年にロンドンで始めて開かれた万国博覧会はその自信の現れだった。


 

< 4. 帝国主義に拍車がかかる >

上は1886年の英国の植民地、下は1921年のものを示す。
この間に英国は中東とアフリカに侵略を開始した。
英国では何が起きていたのか?


*一方で破滅への道が準備されていた
1825年、過剰生産による恐慌が英国で始めて起こり、その後ほぼ10年ごとに恐慌は起こったが、19世紀前半の恐慌は主として英国内にとどまっていた。
しかし1857年に初の世界恐慌が勃発し、1873の恐慌ではヨーロッパ(英国も)は22にわたる経済不況へと突入した。

一方、ヨーロッパ大陸ではフランス革命(1789年)が起こっていたが、その後のナポレオン戦争への勝利が列強による軍事同盟(ウィーン体制)を生み、逆に国内の自由主義を19世紀半ばまで抑圧することになった。

恐慌の翌年の1874年、英国では総選挙で帝国主義的外交を唱える保守党(貴族、大資本家が支援)が圧勝し、スエズ運河買収(1875年)、インドを直轄領からなる帝国化(1877年)へと推し進めることになった。

こうして英国を含めたヨーロッパ諸国は競い合って世界を植民地化し、ついには二度の世界大戦へと突き進んだ。


 

< 5. 英国の衰退要因 >

上左のグラフは1914年の英国の資本輸出、上右のグラフは英国の資本輸出の推移(1816-1914年)を示し、下のグラフはその結果として工業生産高が伸びなくなっている状況を示す。
英国が衰退した最大の理由は膨大な資本輸出(他国の建設や設備への投資)にあり、これが国内投資を激減させ、国内産業の競争力の低下を招き衰退に至った。



*英国は自ら衰退の道を歩んでいた
二度の大戦で多くの国は戦火を被ったが、衰退する英国を尻目に米独日などは経済大国へと躍進することになる。
英国の衰退は1880年代には始まっており、20世紀の初頭には米独に追い抜かれていた。
衰退は英国で進行していた社会・経済の変化にうまく対応できなかったことによる。

英国は産業革命をやり遂げてはいたが、鉄と石炭の産業が中心であり、次代を担う電気やガスを中心とする重化学工業には対応出来ていなかった。
これは新規技術導入に消極的だったことによるものだが、かつての企業家精神は半世紀余りの間に完全に廃れていたからでした(保護政策)。

何が英国で起きていたのか?
産業革命により貿易は拡大し、人口は都市に集中し、都市労働者の生活スタイルが変わり、食料品や日用雑貨の大量輸入が不可欠になり、自由貿易が進められた。
すると国内生産の農作物価格が暴落し、大規模農場経営は行き詰まり、貴族(ジェントルマン)は資産を不動産から金融資産へと変えていった。
一方、勃興した産業資本家も金融資産を増やしていた。

産業革命当初、英国の輸出は旺盛で貿易黒字は優勢であったが、やがて輸入が上回り万年赤字になった。
しかし、世界トップシェアを占める海外貿易に伴う船賃収入や、それまでに蓄えた外貨(貿易黒字)による海外投資の利益が貿易赤字を上回るようになった。
こうして英国は世界の新興国や発展途上国に投資し、ますます資本家は貪るように海外投資で利益を得るようになっていった。
こうしてロンドンシテイは世界の金融をリードするようになったが、英国内への産業投資は尻すぼみとなり、競争力は衰えるばかりだった。
金融資本家は急成長し資金が不足する米国やドイツの産業や産業基盤(鉄道)に競って投資し、競合国の経済成長を助け、自国産業の衰退に加勢すらした。

さらに植民地への投資資金と植民者の安全確保の為と称して、植民地への軍事行動が国民の合意の下に行われることになり、帝国主義は国を挙げて行われていった。


*英国社会では何が起きていたのか
大英帝国の貿易と経済、植民地のシェアは世界で群を抜いてトップだった。
また大英帝国には莫大な資本蓄積があり、多数の大金融資本家(ロスチャイルド家)がおり、人々は繁栄を謳歌していた。

19世紀末から20世紀初頭の英国の人々の暮らしや意識を追ってみます(注釈1)。

・大都市の暮らしに憧れ、都市生活を享受した。
・その一方で地方暮らしや海外赴任を嫌い、遂には外貨を稼ぐ船員も激減した。
・添乗員兼通訳付きの海外向けパック旅行が大ブームとなった。
・国内旅行では温泉がブームになった。
・都市では展覧会、博覧会、スポーツ競技などのイベントが花盛りになった。
・古典は疎まれ、イラストの無い読み物は敬遠されるようになった。
・健康ブームとグルメブームが興った。
・理想主義、犠牲や粘り強く行うべき改革は嫌われ、「勝手気まま」が合言葉のポピュリズムが持てはやされた。

この時代は英国が築き上げた繁栄から半世紀以上が経過し、所得の増加や福祉向上が進み、都市生活が定着し、大量の中産階級が生まれていた。
しかし19世紀後半には経済が陰り始めたが、人々(中産階級)は更なる繁栄を求め、保身と海外展開に望みを託し保守化していった(注釈2)。

残念なことに、1世紀前の苦労やかつての克己心は忘れ去られ、快楽追及や利己的なものが重視されるようになっていた。


 

< 6. 今繰り返されようとしている英国の世紀末 >

上のグラフは19世紀末の資本(投資利益)が労働(賃金収入)よりも如何に稼いだかを示し、凡そ7倍あった。
中央のグラフは、その結果として20世紀初頭、如何に所得格差が開いていたかを示し、両グラフから21世紀初頭も同じことが起こりつつあることを示している。
下のグラフは、最近の日本の民間資本の肥大化を示している。

この三つのグラフは、日本を筆頭に差はあるものの先進国では莫大な資本が百年前の世紀末を再現しつつあることを物語っている。


*日本と比べて
おそらくここまで読まれた方は、あまりにも現在の日本に似ていることに驚かれるはずです。
政治家、企業家や資本家、中産階級の嗜好と目指すものは両国で酷似しています。

内憂(恐慌や衰退)を国内で解決するのではなく、海外の植民地拡大に矛先を転じていました。
実は植民地政策は搾取する割には軍隊派遣や植民地への投資で赤字になるだけでなく、多くの自国民の血も流した。
現在の日本も似ていますが、1910年代の好景気を経て30年代に大陸進出する大正から昭和の初めとも似ています。

企業家や資本家はやがて保守的になり、蓄積した膨大な金融資産は国内に向かわず、海外に利を求め、国内投資は漸減し、自国の競争力は失われた。
これは国としては自分で自分の首を絞めるに等しいのですが、個々には最適な利殖行動の結果なのです。

中産階級の浮かれ具合は両国でまったく同じです。
しかも当時、この英国の浮かれ具合を古代ロ―マの衰退期と同じだと指摘した出版物が出たと言うから、歴史は繰り返すようです。

実は、もう一つ共通していることがあります。
それは社会が本当に衰退している時ほど、楽観論(衰退を無視)がまかり通るようです。


*まとめ
冒頭で述べた以下の三点について皆さんはどのように感じられたでしょうか?

A: 衰退の原因はその社会で生まれていた。

経済発展が経済(産業や金融)と社会(主力の階層)を変え、今度はこの社会が経済の不具合(業界保護と国内投資減)を制御出来なくなってしまった。


B: 衰退の渦中にいながら人々はその欠陥を正すことが出来なかった。

国の発展を牽引するはずの企業家や資本家は利益を求めるだけで、社会や国の衰退を顧みることはなかった。

C: 間違った手段で挽回を企て一層社会は衰退し、さらに世界大戦へと突き進んだ。

政治家や資本家は、国内経済の低迷打破に安易で国民の反発が少ない海外進出に舵を切った。
そして植民地の関係は泥沼化し、また列強との競争が激化し、やがて戦端を開くことになった。


*あとがき
英国の衰退を説明し、かつ日本の現状との類似を指摘することは難しい。
したがって、分かり易さと大きな流れを掴んで頂くために、かなりの歴史的事実や経済データーなどを割愛して、極端に論理を圧縮しています。
関心のある方は、以下の参考文献を参照してください。


次回に続きます。


注釈1: 文献「なぜ国家は衰退するのか」中西輝政著、1999年刊。
記事は主に第三章から抜粋。

注釈2: 文献「概説 西洋社会史」野崎直治編、1994年刊。
この分析は、-17の「帝国主義時代のイギリス社会」に詳しい。

ドイツ国民がナチスに傾倒して行った過程でも、保守化した中産階級(定義は異なるかも)が主役を成した(別の文献)。


参考文献
*「21世紀の資本」トマ・ピケティ著、2015年刊。
*「新版 概説イギリス史」青山吉信共編、1995年刊。
*「図説 イギリスの歴史」昭博著、2002年刊。
*「概説イギリス経済史」米川伸一編、昭和61年刊。
  今回の英国経済衰退について最も詳しく書かれている。
*「概説世界経済史Ⅱ」ロンド・キャメロン共著、2013年刊。
  今回の英国経済衰退についての要約と世界経済の関係が分かる。
*「現代のイギリス経済」中村靖志著、1999年刊。
今回の英国経済衰退について第一章に少し書かれている。
*「世界の歴史25 アジアと欧米世界」中央公論社刊、1998年刊。
今回の英国衰退期の歴史(社会、貿易、帝国主義)について詳しい。
*「世界経済の成長史1820~1992年」アンガス・マディソン著、2001年刊。
今回の英国経済衰退について世界経済の関係が分かる。
*「イギリス病・イタリア病・日本病」中村忠一著、昭和52年刊。