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今日は、快晴の旧市街を紹介します。
前回紹介した早朝歩いた場所と幾分重なりますが、ガイドの説明を聞くと印象はがらっと変わりました。
< 2. 地図 >
上の地図: 早朝歩いたルートです。上が東側です。
緑線が行きのルートで、青線が行きと異なる帰りのル-トです。
緑字のSはホテルで、赤字のSはツアーの徒歩観光の起点です。
赤字のDは城壁で囲まれた旧市街の中心に位置するマーケット・プレイスです。
上の川はポーランド最長のヴィスワ川です。
中央の地図: ツアーの徒歩観光のルートです。上が東側です。
S:起点。 A:ワルシャワ・ゲットの記念碑。 B: キュリー博物館。 C:城門バルバカン。 D: 旧市街のマーケット・プレイス。 E: 展望台。 F:聖ヨハネ大聖堂。
下の地図: ポーランドとワルシャワを示す。上が北側です。
< 3. クランシスキ宮殿とワルシャワ蜂起記念碑 >
上の写真: 左にクランシスキ宮殿、右に最高裁判所。
下の写真: 最高裁判所の前のワルシャワ蜂起記念碑。
ワルシャワ蜂起については後で解説します。
地図のS地点から撮影。
< 4. ワルシャワ・ゲットの記念碑 >
上の写真: 最高裁判所の横。
下の写真: ワルシャワ・ゲットの境界跡と記念碑。
地図のA地点で撮影。
ワルシャワ・ゲットの解説は次回行います。
< 5. 新市街 >
上の写真: 北側を見ている。
地図のB地点で撮影。
すぐ右手の白い建物はキュリー博物館です。
彼女は放射能の研究で最初のノーベル賞をもらった。
彼女はここで生まれ、青春時代を過ごし、学業と研究の為にポーランドを出てパリに移り住んだ。
当時、ポーランドは帝政ロシアに併合されており、教育者だった両親ら知識層は行動を制約されていた。
下の写真: 南側を見ている。
ここを真っすぐ行くと旧市街の城門に至る。
< 6. 旧市街の城門 >
上の写真: 旧市街の城門バルバカン。
最初は16世紀に造られたが、第二次世界大戦で破壊され、1952年に17世紀の様式で再現された。
地図のC地点で撮影。
下の写真: 旧市街の広場に向かう通路。
< 7.マーケット・プレイス >
上下の写真: マーケット・プレイス。
18世紀末までワルシャワの中心でした。
1944年のワルシャワ蜂起に対するドイツ軍の報復で完全に破壊されたが、1950年代に再建された。
地図のD地点で撮影。
< 8. 旧市街のたたずまい >
上の写真: ハトが青空に舞い上がる。
この地は幾度も強国ロシア(ソ連)とドイツに交互に、または同時に蹂躙されて来た。
今度こそは平和が長く続きますように祈ります。
下左の写真: これは何の変哲もない古い民家の門に見えるのですが、再建時、瓦礫となった石材や美術記録など頼りに忠実に再現されたものです。
戦火の傷跡が生々しい。
下左の写真: 屋根に取り付けられたドラゴン。
< 9. 展望台 >
上の写真: マーケット・プレイスの裏手にある展望台からヴィスワ川を望む。
地図のE地点で撮影。
中央の写真: 展望台から聖ヨハネ大聖堂の裏手に行く途中。
バルコニーの支えの部分に銃弾の跡が見える。
これはワルシャワ蜂起の激戦の痕跡です。
下の写真: 聖ヨハネ大聖堂の裏手。
地図のF地点付近。
< 10. 聖ヨハネ大聖堂周辺 >
上左の写真: 右のレンガ建築が聖ヨハネ大聖堂の側壁です。
塔の下のトンネルを抜けると聖ヨハネ大聖堂の正面の通路に出ます。
地図のF地点付近。
上右の写真: 指さしているのはポーランド抵抗の印です。
上述のトンネルの中ほどにありました。
至る所に見られます。
下の写真: 上述の聖ヨハネ大聖堂の側壁に埋め込まれた軽戦車のキャタピラ。
ワルシャワ蜂起のものです。
< 11. 聖ヨハネ大聖堂の正面 >
すぐ右が聖ヨハネ大聖堂の正面です。
この通路を行くとマーケット・プレイスに出ます。
地図のF地点付近。
ワルシャワ蜂起
第二次大戦末期に起こったポーランド地下軍とワルシャワ市民によるドイツ占領軍に対する蜂起。
ソ連軍によるワルシャワ解放が目前と思われた1944年7月下旬に一斉蜂起した。
8月1日、ほとんどの市民が蜂起に参加し市の中心部が解放された。
ソ連は進軍するかに見えたが、ヴィスワ川対岸で停止して、いっさいの援助をしなかった。
ようやく9月10日以降、ポーランド人部隊の渡河作戦を許したが、蜂起を救うには遅すぎた。
孤立した蜂起軍と市民はドイツ軍によって徹底的に全市を破壊され20万の死者を出した。
ついにワルシャワ蜂起は10月2日の降伏で無惨に終わった。
この時のソ連(スターリンがトップ)の行動は、反ソ感情の強いポーランドが衰弱してから占領する方が得策と考えたからでした。
< 12. ワルシャワ蜂起 >
A: 赤枠はポーランド地下軍が蜂起した場所。
黒の四角は私達のホテル、黒の円枠は旧市街の城壁。
B: ドイツ軍が占領しているビルを銃撃するポーランド兵士。
C: ワルシャワ蜂起62周年の再現シーン。
D: 当時の若いポーランド兵士。
E: 旧市街で戦うポーランド兵士。
写真9や10で見た戦闘の傷跡はこの時のものです。
F: ドイツ軍によって破壊され炎上する旧市街。
G: 完全に破壊されたワルシャワ。
現在のワルシャワの人はこの蜂起をどのように見ているのだろうか?
直接、一人のポーランド女性と日本語で話すことが出来ましたので、質疑を要約します。
質問1:
「皆さんはドイツとロシアについてどう思っているのでしょうか?」
答え:
「ポーランド人にとって両国は長年の侵略国であるが、ロシアを嫌っています。
ドイツは戦後、謝罪したが、ロシアはその事実を否定しているからです。」
参考:
<カチンの森事件>不誠実な一例として。
1940年、ソ連軍はポーランド侵攻時、ポーランド将兵らの捕虜を2万人以上銃殺した。
ソ連は事件発覚後もドイツの犯行としていたが、ゴルバチョフが再調査し、1990年、事実を認め遺憾の意を示した。
質問2:
「皆さんはワルシャワ蜂起をどう見ているのですか?」
答え:
「毎年、議論されているが評価が分かれています。
悪いとする意見
将来ある多くのインテリゲンチャが若死にし、生き残った青年では将来を担うには力不足であった。
また関係のない多くの人が巻き添えになって死んだ。
良いとする意見
戦う伝説が作られた。
人々は、これからも他国の理不尽に対し戦う勇気を持つことが出来るだろう。」
私の感想
リトアニアでも同様でしたが、大国の侵略に対し蜂起したことに自画自賛だけで終わらない姿勢が素晴らしい。
ワルシャワ蜂起は、結局、ソ連に支配され続けただけなので、私には無駄死に思える。
しかし、今回巡って来た東欧四ヵ国の異民族支配への強い抵抗に、私は想像以上の篤い想いを見た。
だからと言って、私達日本人は経験したことのないこの想いをたやすく理解出来るとは思えない。
私達が、この想いを少しでも理解しょうとするなら、他国を戦争で侵略した後に取るべき態度とは何かが自ずと解るはずです。
それはこの女性が言った「謝罪したドイツを許している」からも明白です。
残念ながら日本は島国で平和に暮らして来たことが、他者への理解で災いしているように思える。
次回に続きます。