20160220

クロアチア・スロベニアを巡って 30: 首都ザグレブ 1





< 1.早朝の散策 >

今日から、クロアチアの首都ザグレブを紹介します。
ここは落ち着いたヨーロッパの古都の雰囲気があります。
これがバルカン半島の最後の観光となります。


早朝の散策
2015年9月5日、土曜日、朝6時半から1時間ほど、ホテルからザグレブ中央駅まで散策しました。
小雨が時折ぱらついていました。




< 2. ザグレブ市街、上部が北。 >

上の写真: ザグレブの中心部です。
緑枠は私達が散策したザグレブ中央駅の辺りです。
私達のホテルはこの地図の左下の方にあります。

下の写真: これは上図の緑枠で、後に観光する旧市街です。
緑線は観光ルートで、「S」は散策の始めと終わりの位置です。





< 3. ザグレブ中央駅の南側 >
上の写真: 南側から見た中央駅の裏側。
中央の写真: 中央駅の表側に通じる地下道の入口が中央に見える。
バス停で待つ朝の通勤客が見られた。
多くの人の服装からは経済水準が高いように思えなかった。

下の写真: 中央駅の南側を見ている。
こちらは中央駅の表側と違って、静かな住宅街と言うところです。



< 4. 中央駅への地下道のショッピング街 >
店はこぎれいで、清潔な感じでした。
中央駅までの往復に、ここを通ったのですが、朝7時を過ぎると人通りが多くなりました。

少し嫌な経験をしました。
昨日の夜、ホテル周辺を歩いて写真を撮っていた時、自転車に乗った青年が通りざまに私に声を掛けました。
「カメラはだめ!」
顔は笑っていましたが。

この地下道を歩いていると、6人ほどの若者達とすれ違いました。
すると彼らははしゃぎながら「カメラ!カメラ!」と連呼した。
周囲には、多くの人がいたのですが、少し不安を感じました。

後で思い出したのですが、ガイドブックに中央駅の裏側は不用心なので行かないように注意してあった。





< 5. 中央駅 >
上の写真: 北側から見た中央駅。
中央の写真: ホーム。
下の写真: 中央駅から北西側を見た。

この駅はクロアチア最大の駅で、かつてはオリエンタル急行が停車した。
しかし、それほど大きくはなかった。





< 6. 中央駅の構内 >
上と中央の写真: 古本市が行われていた。
値段は安かったが、言葉が分からない、残念!
絵本を数冊購入。

下の写真: バックパッカーに混じってホームレスらしい人がいるようだ。



< 7.トミスラヴァ広場 >
これは中央駅の北側に延びる新市街の中心にある広大な公園です。




< 8. 車窓からの新市街 1 > 
古都ウイーンを思わせる雰囲気があるが、よく見ると古く痛みが激しい外壁が目立つ。
経済的な苦境を感じさせる。




< 9. 車窓からの新市街 2 >
上の写真: ミマラ博物館。
中央の写真: 国立劇場。


次回に続きます。




20160217

クロアチア・スロベニアを巡って 29: スプリットからザグレブへ






< 1. 途中の景色 >

今日は、スプリットを離れて首都ザグレブ到着までを紹介します。




< 2. スプリット >

上の写真: 宮殿近くの港のレストランで昼食。
アドリア海の海岸を見て気づいたのは、漁船よりも圧倒的にレジャーボートが多いことです。
海岸沿いには別荘が並び、人々は海洋レジャーを楽しみ、地元の人々は観光で生計を立てているようだ。
これでアドリア海とはお別れして、高原を抜けてクロアチアの首都ザグレブに向かいます。

中の写真: 水道橋。
下の写真: 道路から見たスプリット市街。



< 3. スプリットの全景 >
上の写真: バスの移動中、時折、山の上に十字架が立っているのを見かける。
多くは地雷の犠牲者のもので、いまだに地雷が残っているところがある。
まだユーゴ内戦の傷跡がある。



< 4. 要塞 >

険しい岩山の上の要塞がスプリットを見下ろしている。
スペインを旅行した時もそうだったが、険しい断崖の上に廃墟となった要塞が見られた。
これは両地域の厳しい戦争の歴史を物語っている。



< 5. 湖 >
これはダムなどによる人工湖を見下ろすドライブインからの眺めです。



< 6. 途中 >

これはスプリットとザグレブの中間辺りの特徴的な景観です。
この日の午後、ザグレブに近づくにつれて雨雲が増え、時折、雨が降りました。

真中の写真: これは湖です。
下の写真: アドリア海に近づくほど、このような乾燥した岩山が多くなる。



< 7. ザグレブ近郊 >

広大な平野と緑に覆われた豊か台地が続きます。



< 8. ザグレブ >
上二枚の写真: ザグレブ市街の夕暮れの様子です。
下の写真: 中心部近くの夜の様子です。


次回に続きます。




20160214

クロアチア・スロベニアを巡って 28: 古代ローマの宮殿スプリット 2



< 1.鐘楼からの眺め >


今日は、ディオクレティアヌス宮殿跡を観光します。
2015年9月4日に訪れました。




< 2.青銅の門と宮殿の地下 >
上の写真: 海に面した「青銅の門」(南の門)。
他の二枚の写真: ディオクレティアヌス皇帝の私邸の地下部分。



< 3.宮殿の中庭 >
上の写真: 宮殿の中央部にある中庭です。
私達は今、中央の建物の地下を通って来ました。

中央の写真: このスフインクス像は中庭の奥左側にあります。
これは皇帝がエジプト遠征で持ち帰ったものです。

下の写真: この鐘楼は、皇帝の霊廟跡に建てられた大聖堂の鐘楼です。
大聖堂は8世紀、鐘楼は16世紀に完成している。



< 4. 鐘楼 >

私にとって、これがスプリット観光で最も印象深いものでした。




< 5.鐘楼からの眺め >
下の写真: 東側を見ている。
ここは人口20万の都市です。



< 6. 前庭 >
上の写真: 鐘楼が覗いています。
ここは皇帝の私邸の前庭で中庭に続いており、この下が先ほどの地下部分です。
このコーラスは、クロアチアの伝統音楽クラパです。
素朴で素敵な男性合唱で、私はCDを買いました。
私の録画ではありませんが、どうぞ楽しんでください。
https://www.youtube.com/watch?v=ae0gQ78lBTE



< 7.宮殿と民家 >
上の写真: 鐘楼と八角形の大聖堂が見える。
手前にあるのは、宮殿跡で暮らしている人々の住居です。

下の写真: 金の門(北の門)。
もっとも古い形が残っているようです。


ディオクレティアヌス皇帝と宮殿
彼は3世紀、この地方(ダルマチアのサロナ)で生まれたローマの軍人皇帝です、
彼はローマ帝国を2分割し、キリスト教徒を迫害したことで知られている。
彼は自ら引退し、生まれ故郷に近いこの地に宮殿を造り、余生を過ごした。

7世紀になるとスラブ人が侵入し、この地方は破壊され、離散した一部の人が廃墟になったこの宮殿内に暮らすようになった。
その後、至るところ民家に改造されていった。
一部復興はされているが、全体としては雑然とした不思議な空間になっている。
したがって世界遺産にはなっていない。



< 8. 銀の門と青空市場 >
上の写真: 銀の門(東の門)の外側に広がる露天。

下右側の写真: 宮殿外の東側にある青空市場。
観光客と地元の人で賑わっていた。




< 9. 広場 >
宮殿内の広場。


次回に続きます。





20160210

Went around Croatia and Slovenia 27 : Ancient Roman palace in Split 1

クロアチア・スロベニアを巡って 27: 古代ローマの宮殿スプリット 1




< 1.  At break of day at Trogir >
< 1. トロギールの夜明け >

I introduce an ancient Roman palace from now on.
Today, I introduce the sceneries from the shore of our hotel and from our bus on the way.

これから古代ローマの宮殿を紹介します。
今日は、ホテルの海岸からの景観や途中の景観を紹介します。




< 2. Trogir >
< 2. トロギール >

Upper photo:  The Adriatic Sea near by Trogir.
The opposite bank is an island.

Lower photo:  Trogir is an ancient harbor city and the world heritage.
This history of Trogir was made by ancient Greece, the Roman Empire, and Venice.
Parson that wants to sightsee to Trogir can go to it by taxi.

上の写真: トロギール近くのアドリア海。
対岸は島です。

下の写真: 世界遺産の港湾都市トロギールが見える。
トロギールの歴史は、古代ギリシャ、古代ローマ、ヴェネツィアによって作られた。
私達はここを観光しませんでしたが、ホテル到着後、タクシーで行くことが出来ます。



< 3.  At the shore of our hotel at night >
< 3. 夜、ホテルの海岸で >

Upper photo:  I look over at Trogir from the shore.
Lower two photos:  There were full of people who were enjoying the cool evening breeze in the shore.

Our hotel was built in forest facing the sea, and MEDEENA.
This is a big building built during the socialist era and the facilities were old, but we were able to enjoy it enough.

上の写真: ホテルの海岸からトロギールの方を望む。
下二枚の写真: 海岸には夕涼みを楽しむ人々で賑わっていました。

私たちのホテルは、MEDEENAで海に面した森林に建っていました。
これは社会主義時代に建てられた大きな建物で設備は古いですが、十分に楽しめました。



< 4.  At break of day from the shore of our hotel >
< 4. ホテルの海岸の夜明け >

Upper photo:  I look over at Trogir.
Lower photo:  There were people enjoying sea bathing before 7:00 A.M. on September 4.

上の写真: トロギールの方向を望む。
下の写真: 9月4日の朝7時前でしたが、海水浴を楽しむ人々がいました。




< 5.  Views from the top floor of the hotel 1 >
< 5. ホテルの最上階からの眺め 1 >

I took their three pictures at Trogir and they are expanded in turn.
A tower located in the center of the lower picture is the bell tower of cathedral that is representative of Trogir.

三枚の写真はトロギールを撮ったもので、順番に拡大しています。
一番下の写真中央に見える塔が、トロギールを代表する大聖堂の鐘楼です。




< 6.  Views from the top floor of the hotel 2 >
< 6. ホテルの最上階からの眺め 2 >
I was sequentially taking their pictures along with turning the west at the same place.
The break of day was warm and quiet.

ホテルの同じ場所から順次、西側を撮りました。
暖かく静かな夜明けでした。



< 7.  On the way to Split >
< 7. スプリットへの道から >

Second photo from the top:  It is city remains Salona of the Roman Empire period, and the population in the golden age was 20,000 people.
Here is the birthplace of emperor Diocletianus who built his palace in Split.

上から二枚目の写真: ローマ時代の都市遺跡サロナで、最盛期は人口2万人が暮らした。
ここはスプリットに宮殿を建てたローマ皇帝ディオクレティアヌスの生誕地です。



< 8.  The palace remains in Split >
< 8. 宮殿跡スプリット >

Split is the greatest city in the Dalmatia district of southern Croatia.
The palace remains that we just are going into were built 1,700 years ago.

スプリットはクロアチア南部のダルマチア地方最大の都市です。
今から見学する所は、1700年前の宮殿跡です。




< 9.  We just enter Split
< 9. いよいよスプリットへ入場 >
Lower photo:  A reconstructed picture of the palace.
This palace became ruins once, and was sinking partly, but people came to live there afterwards.

This continues next time.

下の写真: 当時の宮殿の復元図。
この宮殿は一度廃墟になり一部沈下しているのですが、その後、人々が住むようになりました。


次回に続きます。





20160206

クロアチア・スロベニアを巡って 26: 傷痕の町モスタル 5






< 1. 「ネレトヴァの戦い」で破壊された橋 >

今日は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の背景に迫ります。
そこには民族と宗教の皮肉な歴史がありました。

はじめに
写真1は、 1943年の「ネレトヴァの戦い」で破壊され保存されている橋です。
この戦いはネレトヴァ川で行われた。
第二次世界大戦中、劣勢のパルチザンはドイツ軍との戦いで大きな犠牲を出しながら後退していた。
この戦いでチトー率いるパルチザンが全滅を免れたことで、同年の旧ユーゴに誕生につながった。




< 2. ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の傷跡 >

上の写真: スレブレニツァ虐殺記念碑の墓地。
1995年、セルビア勢力がスレブレニツァの町に侵入し制圧を終えると、ムスリマの男性を1週間ほどで即決処刑し、その数は約8000人に及んだ。
この時、国連平和維持軍はいたが無力な為、制止できなかった。

中央の写真: 当時の避難する人々。
下の写真: 当時のモスタル郊外の惨状。



< 3. 戦いの果てに >

上の写真: ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時のサラエボの惨状、セルビア勢力、国連平和維持軍。

中央の写真: 紛争前後におけるボスニア・ヘルツェゴビナ内の民族分布。
緑色はムスリマ(Bosniaks)、赤色はセルビア人、青色はクロアチア人(HRVATI)を示す。
黄色い点はモスタルを示す。
ムスリマへの壮絶な民族浄化は、その後の棲み分けを決めた。

下の写真: 現在のボスニア・ヘルツェゴビナは桃色のセルビア人と青色のムスリマとクロアチア人との連邦になっている。

悲劇の遠因、歴史の皮肉
この内戦では同じ南スラブ民族の三つの民族が戦ったが、敵味方の識別は宗教の違い、カソリックと正教会、イスラムでした。
最も残虐だったのは正教会勢力(セルビア人)で、その大統領は国際裁判所で戦争犯罪の公判中です。
村を焼かれ多くの青年が殺され追い出されたのはムスリマでした。
彼らは数百年前「ボスニア教会」と呼ばれる異端のキリスト教徒で迫害を逃れ、この地に移り住み、オスマン帝国の時代にイスラムに転じた。
やがて彼らは地主や富裕層になり、キリスト教徒であるクロアチア人やセルビア人を使役するようになった。

時は下り、南スラブ人の大連合を成し遂げた旧ユーゴ時代、初代大統領チトーは異なる宗派や民族の融和を図るために、人々の混住化を推進した。
そして平和な半世紀が過ぎた。
しかし、瑣末な意見の食い違いが生じ、やがて指導者の野望と民衆の疑心暗鬼が一体となって戦端が開かれると、一気に憎悪と不安が燎原の火のように広がっていった。

彼らは歴史的な怨念を互いに多少持ってはいたが、先日までは仲良く暮らしていたのです。


次回から、次の観光地を紹介します。







20160204

クロアチア・スロベニアを巡って 25: 傷痕の町モスタル 4






< 1.石橋は紛争で破壊された >

のどかな山間の町が一瞬にして地獄になったことがありました。
それはボスニア・ヘルツェゴビナを民族浄化一色に染めた紛争でした。




< 2. ネレトヴァ川と一本の道 >

上の二枚の写真: 下流側(南側)を望む。
川の左側(東側)に旧市街があり、ムスリマは旧市街を中心に川を挟んで住んでいた。
川の右側を平行に走る道(一番下の写真)を境にして、紛争時、クロアチア勢力がムスリマの街を攻め、分断するために石橋を破壊した(写真1)。

上から三番目の写真: 上流側(北側)を望む。
一番下の写真: 北側を望む。
右側にネレトヴァ川と旧市街があります。




< 3. 紛争によるモスタルの傷跡 >


ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992~1995年)について
この紛争は一連のユーゴ内戦(1991~2001年)で最大の被害、20万人の死者と250万人の難民・避難民を出した。

ユーゴ内戦は、旧ユーゴを構成する6つの共和国から独立を宣言する国が出たことが引き金になった。
独立の是非を巡って、それぞれの国内の民族と宗派が対立し、セルビアが主導権を握る旧ユーゴ連邦軍が介入し戦争は拡大した。
最初にスロベニアが10日間戦争で1991独立し、ついでクロアチアが内戦(1991~1995)を経て独立することになる。
このクロアチア内戦でクロアチア人とセルビア勢力が戦っていた。

ボスニア・ヘルツェゴビナでは主導権を持つムスリマとクロアチア人、セルビア人が共に暮らしていた。
ムスリマとクロアチア人が独立宣言を模索し始めると、それを阻止する為に国内のセルビア人と隣国のセルビア軍、旧ユーゴ連邦軍が戦端を開いた。

ところが分割案を巡ってクロアチア人とムスリマも対立した。
ムスリマは、それぞれ隣国から支援を受けるクロアチア勢力とセルビア勢力に攻められ苦境に陥った。
この時、凄惨な民族浄化が起きた。

やがて国連と多国籍軍が停戦に向けて動き、NATO軍によるセルビア勢力への空爆、そして米国の仲介によって紛争は終結した。
その後、難民流入と民族問題で南部のコソボ、マケドニアへと戦火は広がった。


次回、悲劇の背景に迫ります。


20160201

Went around Croatia and Slovenia 24 : Deeply scarred Town Mostar 3

クロアチア・スロベニアを巡って 24: 傷痕の町モスタル 3













< 1.  I look at the old city from a riverside restaurant of Neretva >
< 1.ネレトヴァ川沿いのレストランから旧市街を眺めた >

A sequel to the introduction of Mostar
モスタル紹介の続きです



< 2.  Views of Strai Most (old bridge) from both sides >
< 2. 両側から見た石橋 >

Upper photo:  A view from the yard of the mosque.
A large cross stands on the top of the mountain.
Lower photo:  A view from the riverside on the downstream side.
A man just is going to jump into the river from the top of the bridge.
Each time he gets money, he jumps.
There is the jumping event annually here.

上の写真: モスクの庭からの眺め。
山頂に大きな十字架が立っている。

下の写真: 下流側の川辺から。
橋の上の中央から男性が今にも飛び込もうとしている。
彼はお金を貰っては飛び込んでいる。
年一度、ここで飛び込みの大会があります。



< 3.  Visit to “Turkish house” in the old city >
< 3. 旧市街の「トルコの家」を訪ねて >

Upper photo:  The minaret that we climbed can be seen.
Central photo:  When we were badly bunkered as we don’t find “Turkish house” at a map of a signboard, somebody called to us from behind and taught the pathway to it.
This kind man is the left side on the photo.
I think the map indicated not “Turkish house” but “Ottoman house”.

Lower photo:  “Turkish house”
When we arrived on it, we looked at only the entrance and had to return because our free time just was over.

上の写真: 私が登ったモスクのミナレットが見える。
中央の写真: 私達は看板の地図に「トルコの家」が見つからなくて困っていました。
すると後ろから声を掛けてくれる人がいて、道を教えてくれた。
その人が、写真左側の人でした。
看板には「トルコの家」ではなく「オットマン・ハウス」と表記されていたように思う。

下の写真: トルコの家。
辿り着いた時には戻る時間になっていて入口を覗くだけで引き返した。

We left Mostar and went to the next stage.

モスタルを出て、次の宿泊地に向かう。



< 4.  We left Mostar >
< 4. モスタルと別れる >

Lower photo:  I looked back toward Mostar located in the valley from the downstream side of Neretva.

下の写真: ネレトヴァ川の下流側から谷間にあるモスタルを振り返る。




< 5.  We parted from the Neretva >
< 5. ネレトヴァ川とも別れる >

We part from the Neretva at here, passed through the high plateau and went to the Adriatic Sea.
ここでネレトヴァ川とも別れ、高原を抜けてアドリア海岸へと向かう。




< 6. We passed through the high plateau >
< 6. 高原を抜けて >

This high plateau was a dry zone as a whole, but there also were lush green places.

On the next time, I introduce another scenery of Mostar, and Bosnian War.

高原は乾燥地帯だが、緑豊かな所もあった。

次回は、モスタルの新市街とボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を紹介します。





20160127

桂林を訪れました 15: 最後に






< 1. 少数民族雑伎ショー >

今日で、この旅行記を終えます。
書き残したことや雑感を記します。



< 2. これまでの記事の巻頭写真 1 >

この桂林旅行は2015年9月初旬に3泊4日で訪れたものです。
予想通りに天候に恵まれ、漓江下りと龍背棚田の景色を堪能しました。
また大墟古鎮やヤオ族の村の見学は短い時間ではあったが楽しめました。




< 3. これまでの記事の巻頭写真 2 >

少し残念なことは、ヤオ族の風習や宗教などに触れる時間がなかったことです。
それでも得るものはありました。
しかし、思わぬ拾いものが別でありました。
それは下の写真です。



< 4. 花山岩画 >

これは中国が2015年に世界遺産登録を申請したものです。
私達が穿山岩の鍾乳洞を見学していると偶然、この展示ポスターを見つけました。
これはこの広西省にあって、約2千年前にチワン族の祖先によって岩に描かれた絵でした。
この人物像のデザインは他の大陸では1万年前に遡ることがあります。
中国にはこの手の古い岩絵が少ないので、何だか嬉しくなりました。




< 5. 桂林 1 >

中国の奥地にあって、開発が遅れていると思っていたのですが、そうではなかった。
田園地帯に行っても建設中の家屋や、郊外にも高層マンションが林立していました。
郊外に産業団地があるのですが、研究所や公害を出さない事業体が誘致されていた。
町中を走っている車やバイクはほとんど電動車だそうです、公害防止の為に。
都市部を少し離れるとそこら中、砂埃をあげて道路工事やビルの建設中でした。



< 6. 桂林 2 >

私達夫婦は毎朝晩、町中を歩き回りましたが、危険や不安を感じることはなかった。
二軒の本屋の店員も、夜、道に迷って宝石店の店員に道を尋ねても、皆丁寧に対応してくれた。
残念ながら言葉は通じなかったが。

少数民族の雑伎ショーには私の期待していた少数民族の風習や暮らしを紹介するものはなかった。
それでも巻頭写真にあるような男女の掛け合いの歌は、山岳民族に最近まで続いていた「歌垣」を思わせるものがあった。
この歌による求婚方式は、日本では奈良時代で消えてしまった。

ここでは観光業に力を入れることにより、少数民族は肩身の狭い思いをすることなく暮らしているように思えた。
ただ観光化が進みすぎて、保存すべきものが失われているのが残念です。


最後に
私は中国の訪問が7回目ですが、20年ほど前に比べて中国は力強く発展を続け、人々の振る舞いも変わってきているように思う。
経済格差、古いものと現代的なもの、汚いものと洗練されたもの、ごった煮の状況は変わらないが。

やっと念願の奥地の桂林を訪問し、満足して去ることが出来ました。
皆さん、お読み頂きありがとうございました。