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今回が、厳原紹介の最後になります。
朝鮮通信使の所縁の地も訪ねます。
< 2. 散策ルート >
今回紹介するルートは茶色線と黒線です。
始めは、赤線と茶色線の交わった所から茶色線に沿って北上し、黒矢印辺りで折り返し、次いで黒線を南下し茶色矢印まで行き、終わりました。
ピンク矢印: 対馬藩家老(氏江家)屋敷跡。
黒矢印: 高麗門
青矢印: 旧日新館門
赤矢印: 桟原城跡(陸上自衛隊駐屯地)
茶矢印: 国分寺
< 3. 大歳神社から始める >
上: 大歳神社
大きなクスノキと石の鳥居、石塀に囲まれた小さな社が、川沿いに祀らていた。
江戸時代の大火を機に子宝の神から防火の神として敬われているようです。
下: 小川沿いを北上する。
ちょうど小学生の朝の登校時間で、一時賑やかになりました。
< 4. 馬場筋通りに出た >
上: ちょうど馬場筋通りに出たところ
北側を見ている。
下: 馬場筋通りの高麗門を過ぎた辺りから北側の桟原城跡の方を見ている。
ここからまた戻る。
< 5. 対馬藩家老(氏江家)屋敷跡 >
馬場筋通りの西側に面して立派な石壁と門がある。
家老屋敷跡に、今は長崎県対馬支庁や対馬振興局がある。
上: 長屋門
下: 長屋門に掲げられていた地図。
これは江戸後期の厳原の地図で、赤矢印が家老氏江家の屋敷でひときわ大きい。
馬場筋通り沿いに武家屋敷が並んでいる様子がわかる。
< 6. 高麗門と氏江家屋敷の石塀 >
上: 高麗門は馬場筋通りの東側にあります
これは桟原城の高麗門を復元移転したもので、市立厳原幼稚園の前に建っています。
下: 氏江家屋敷の石塀
場所は、先に紹介した家老屋敷跡、長屋門の北側にあり、西に延びています。
風情があります。
< 7.旧日新館門 >
ここは散策ルートから外れているのですが、観光バスから撮影しました。
馬場筋通りの西側に面しています。
ここは対馬藩主宗氏の中屋敷門でしたが、幕末には藩校日新館に用いられた。
江戸末期の大名家の格式を備えた武家屋敷門としては、長崎県唯一のもので、立派でした。
この日新館は幕末、勤王党の拠点になり、内紛で多くの藩士が命を無くした。
< 8. 地図の黒線に沿って歩く >
上: 川沿いを南下
下: カレイの日干し。
かつて対馬はイカが大量に取れて、大量に干されていたが、今は減ったそうです。
< 9.国分寺の山門 >
ここが朝鮮通信使の客館があった寺です。
1807年、徳川家斉の将軍襲職を賀す朝鮮通信使が来ることになり、ここに客館と山門が建立された。
その後、国分寺は焼失したが山門は免れ、客館は明治時代に解体された。
< 10.国分寺の境内 >
山の麓に墓地が広がり、山門との間には広い敷地がある。
かつては大きな寺や客館があったのだろう。
何せ江戸時代の通信使は、500人ほどが朝鮮半島から渡海して来たのだから。
< 11. 朝鮮通信使 >
私が、朝鮮通信使に興味を持ったのは滋賀県の近江八幡を訪れた時でした。
近江八幡の狭い道を散策していると、此処を朝鮮通信使が通ったと記されていた。
朝鮮通信使は対馬藩1500名を加えて、2千名近い人数で大阪から江戸、あるいは日光まで陸路を行ったのでした。
遠路はるばると大行列が海路と陸路を行ったのです。
しかも1回に100万両を費やした(100万石大名の1年分)。
朝鮮通信使は室町時代に始まり、途中中断はあったが、江戸時代には主に将軍の代替わりに計12回来ている。
江戸時代、日本は鎖国し、中国とヨーロッパの4ヵ国とは貿易をしていたが、国交を持ったのは琉球と李氏朝鮮だけでした。
徳川幕府にとっては、通信使は将軍の権威を誇示する儀礼として、あたかも朝貢使のように見せようとした。
一方、朝鮮にとってはかつての倭寇や秀吉の朝鮮侵略の経験から日本を監視する意図があった。
また朝鮮半島の大陸側では異民族の脅威があり、日本と友好を保つことに価値があった。
それでは小さな一藩に過ぎない対馬にどんな意義があったのか?
既に紹介したように関ヶ原の戦いの後、生き残るには家康が希望する朝鮮半島との国交と貿易再開が必至だった。
当然、貧しい対馬が生き残るためにも貿易は最重要だった。
対馬は幾度も朝鮮半島と日本の紛争の狭間で生き延びて来た。
そして朝鮮半島との国交と貿易では日本で唯一の窓口となり、繫栄することが出来た。
対馬は朝鮮半島に数ヵ所の貿易所を有し、認可を受けた貿易船が対馬と朝鮮を行き来した。
対馬は藩の貿易から重臣らの私的貿易、密貿易、さらには朝鮮王朝から下賜される形で高価な品物を手に入れることが出来た。
朝鮮通信使を介して、漢学、儒教、医学などの知識も入って来た。
こうして対馬、特に厳原は江戸時代、朝鮮との橋渡しで重要な役割を果たしていた。
次回に続きます。