20200804

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 3: 脇町うだつの街並み 前半

 






< 1. うだつ、矢印 >

 

これから吉野川沿いに発展した「うだつの町並み」を紹介します。

「うだつがあがらない」の「うだつ」です。

今回は脇町南町巡りの前半です。

 

 

 

< 2. 街並みの全体図、上が北 >

 

上: 脇町と道の駅 藍ランドうだつ

赤枠が下の「うだつの町並み」の地図の範囲です。

赤の風船印は脇城跡、青の風船印は「道の駅 藍ランドうだつ」を示す。

直ぐ下に吉野川が見えます。

脇町は吉野川中流の左岸、徳島県美馬市にあります。

 

下: うだつの町並み

紺色が伝統的建物で多くは商家です。

伝統的な街並みの東西の距離は400mです。

古い建築では江戸時代から明治・大正時代のものまであります。

 

青枠は道の駅の駐車場で、赤線が今回紹介する街並みの散策ルートです。

ピンク線は次回紹介するところです。

 

下側の紺色線は江戸時代の吉野川の石積みの護岸です。

ここに当時、吉野川の川湊があった。

 

 

 

< 3. 道の駅 藍ランドうだつ >

 

上: 駐車場内から道の駅、町の方を見る

 

下: 少し進んで振り返る

駐車場の先に吉野川の堤防が見える。

 

 

 

< 4. かつての吉野川の護岸 >

 

写真は共に西側を望む。

かつての護岸は現在、堤防沿いの国道と伝統的な街並みの間を流れる小川の片面になっているようだ。

それでもかつての石積みの様子を伺うことが出来る。

通りの南側の商家は表通りから敷地内で裏側の川湊に繋がっていた。

再現されている白塗りの蔵が見える。

 

 

 

< 5.観光交流センター >

 

駐車場から坂道を少し昇ると観光交流センターに出た。

ここにインフォメーションセンターや工房、茶房などがある。

 

 

 

< 6.南町の通りに出た >

 

ここがメインのうだつの町並みです。

ここを訪れたのは6月7日で、コロナ禍が少し収まった時期です。

歩き始めたは10時半頃でしたが、日曜日なのに人出は少なく、店によっては閉まっている所もあった。

 

上: 東側を望む

 

下: 西側を望む

ここから通りの端まで真直ぐ230mです。

 

 

 

< 7. 格子と蔀戸 >

 

下: 看板に蔀戸(しとみど)の説明があった。

上下の二枚の戸の内、上の戸は内側に跳ね上げて吊り下げ、下の戸は上に引き抜いて外して別置きにしたのだろう。

こうして昼には、内側にある格子戸で通気を行った。

夜と雨の時は元に戻して雨戸とした。

おそらく民家ではここまでの建具を造らなかっただろう。

 

 

 

< 8. 吉田家 >

 

ここは脇町一の豪商、染料藍の商家の吉田屋です。

1792年創業で、1835年と1865年の増築された(江戸中期から後期)。

当時、使用人50人を雇い、部屋数25室と三つの蔵を備えた屋敷で、表から裏の船着場までの奥行きは70mはあるだろう。

ここは入場が有料ですが店の間までは入れて、土産物を販売しています。

 

上: 表、「店の間」への入り口が見える

 

下: 裏、船着場側から見た

右に二つの蔵が見え、左にも藍蔵がある。

 

 

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< 9. 吉田屋の玄関、店の間に入った >

 

 

 

< 10. 吉田屋 2 >

 

表通りから吉田屋を見る。

 

下: 白壁に沿って右に行くと藍蔵(土産屋)がある

 

 

 

< 11. 森家と将棋名人の家 >

 

上: 森家

ここは18世紀半ばから味噌・醤油卸を営んでいた。

明治13年に建て替えられ郵便局として、大正には医院として使われた。

 

 

下: 将棋名人の家

ここは旅籠だった。

ここで生まれた子が泊り客の将棋を見て育ち、後に江戸に出て、明治23年、四国では唯一の将棋名人となった。

 

 

 

< 12. 通りの西の端 >

 

上: ばったり床几

通りの方に倒して足を出すと縁台になる。

 

下: 通りの西の端

 

ここに来るまでに幾つもの伝統家屋があり、最も古い建物では1707年、徳川綱吉の時代のものもあります。

かつての店舗も様々で、紹介した以外に飴屋、繭問屋、船頭屋、瀬戸物屋、呉服屋、家具屋、反物屋、お茶道具屋があります。

 

次回は、反対方向から通りを紹介します。

 

 

* なぜここに立派な商家通りが出来たのか? 

 

「うだつ」は本来、ここだけのもではなく歴史も古いはずだが、またなぜここに大量に残り、有名なのか?

 

幾つかの面白い経緯が重なったようです。

 

 

 

 


 

< 13. 脇町の位置、上が北 >

上: 赤矢印の脇町は東西に池田から鳴門までの撫養街道が吉野川に沿って通っていた。

また渓流に沿って山を越えると瀬戸内海に出る曽江谷越えもあった。

四国の各地域から陸路で関西に向かうには、吉野川沿いの街道が便利であったろう。

 

更に、吉野川も流通の要で、上は池田から辻、半田、貞光、脇町、岩津、川島、第十に川湊があった。

下流からの荷は、米や麦などの穀物をはじめ、肥料、味噌、醤油、塩、海産物、手工芸品、雑貨、生活用品・・・・・。

上流からは藍玉 、薪、木炭、たばこ、木材、繭、和紙などの特産物を乗せて舟が下ってきました。

輸送に使われた舟は、帆を張った、浅瀬でも航行出来るように喫水を浅くした平田舟でした。

 

これで脇町が二つの街道と川湊が交差する絶好の地であることが分かった。

 

 

下: 阿波九城

実はもう一つ重要な事がありました。

それは脇城の存在でした。

 

今は、城址しかない山城ですが、天下布武を成し遂げるまで行きかけた三好長慶が1533年にここに城を造ったのが始まりでした。

戦国時代末期、この阿波の地は三好家の本拠地で、土佐の長曾我部と激しく争っており、築城が進んでいた。

この状況は前の連載「徳島の海岸と漁村を巡って」の海部城(鞆城)も同様でした。

 

やがて秀吉が西国を平定した安土桃山時代末期になると、蜂須賀家が阿波を拝領することになり、廃城が再建され阿波九城が設けられた。

この一つが脇城だった。

 

この時、秀吉から拝命を受けた蜂須賀小六は子に阿波を任せ、まだ治まっていない領地であればこそ、要の脇城に家臣団筆頭の稲田植元を城代に置いた。

 

この稲田植元が、城下町の復興を命じた。

また、この町へ来て商業を営む者には、生国を問わず税や諸役も免除した。

こうしてこの町は一大発展を遂げた。

 

 

 

 

< 14.NHK大河ドラマ >

 

脇町に関わる人物のイメージを掴みやすいようにドラマの登場人物を紹介します。

 

上: 「麒麟が来る」の人物相関図

これは京都での覇権争いの様子を示す。

下剋上にあって、足利将軍家を蔑ろにする細川管領家、さらにそれを凌ぐ三好長慶がドラマで悪役に描かれている。

事実は、新しいことに取り組み急速に独自で軍事力を備えた三好長慶でした。

早死にするので、天下布武は叶わなかったが。

 

下: 蜂須賀小六と秀吉のシーン

蜂須賀小六は阿波を拝領する前は、西国四国攻めの過程で龍野城を拝領した。

この時、稲田植元にエピソードがある。

秀吉が戦の功により、小六に龍野、植元に別の領地を与えようとしたが、植元はこれを断った。

植元は以前、小六と義兄弟の契りを結んでいたので、小六の下で仕えたいと望んだ。

これが受け入れられ、後に家老職としての地位を得、脇城拝領に繋がった。

 

 

 

 

 

< 15. さらに不思議な縁 >

 

上: 龍野城

以前、龍野城の櫻を紹介しましたが、安土桃山時代に蜂須賀小六が城主だとは知らなかった。

当時は、平城では無く山城だったのだろう。

 

中央: 淡路島の洲本城

江戸時代、植元の稲田家が淡路島を領有し、洲本に城を造った。

しかし、明治になると稲田騒動が起きて、運命の歯車は逆転する。

 

下: 映画「北の零年」

これは稲田騒動後、士族としての配置という名目で、稲田家が北海道静内と色丹島に移住開拓を命じられ、荒野の広がる北の大地で悪戦苦闘する姿が描かれている。

 

この稲田騒動は、一言で言うと版籍奉還で稲田家の扱いが徳島藩より劣っていたことが始まりでした。

徳島藩は佐幕派であったが、稲田家は尊王派で明治維新では討幕運動で貢献していたが、版籍奉還で徳島藩と同じ士族扱いでなく低かった。

こうして両家で争いが生じ、政府はこれを収めるために、稲田家を士族扱いで荒地の北海道に送った。

 

私は今年になってから近場の旅行をするようになったが、色々な場所が、歴史的繋がっていることを知り驚いている。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

20200730

中国の外縁を一周して 47: 雲南民俗村を楽しむ 1







*1

 

これから数回に分けて、雲南民俗村を紹介します。

ここには雲南に暮らす25の少数民族の家屋、暮らし、衣装、祭事などが再現されています。

民族学や異文化に興味がある人には垂涎ものでしょう。

 

 

 

< 2. 先ずは門をくぐって >

 

売店が並ぶ通りを抜けて、チケット売り場に向かいます。

 

 

 

< 3.チケット売り場 >

 

上: チケット売り場

写真は各民族衣装を着た女性達がお出迎えしてくれた。

 

下: チケット確認の入場門

 

入場料は大人90元ですが、70歳以上だったので45元でした。

中国は、他国に比べ高齢者の割引が大きく、優遇している。

 

 

* 雲南民俗村について *

 

少数民族の博物館としては中国最大規模です。

この直ぐ隣に一般的な雲南民族博物館がありますが、妻も楽しめるだろと思い、この雲南民俗村を選びました。

 

特に良かった点

A 敷地内ではこの日、9:30から16:10の間に、23もの各民族の20分間の演舞が行われていました。

すべて無料で、他に有料のショーもいくつかあります。

入場時に演舞時間表をくれます。

 

B 敷地内には民族衣装を来た多くのスタッフがおり、案内や暮らしの再現を行っている。但し中国語。

 

C 建物や衣装、民具、祭事場と家屋周辺の自然環境の再現が丁寧に行われているように思える。

 

 

残念な点

D 案内や説明に日本語表記がほとんどなく、見るだけで終わった。

 

E 敷地が広大すぎて、見学と昼食に3時間半かけても半数ほどの村を素通りしただけでした。

また演舞も初めから終わりまで見たのは20分間の1本だけでした。

演舞の場所を探し、最前列に座って待つだけでも時間が掛かる。

もっとも時季外れなのか、観客は多く無かった。

演舞の時間が、重なっている場合もある。

 

全体としては、私にとって素晴らしいテーマパークでした。

 

 

 

< 4. 中国の少数民族 >

 

中国には56の少数民族が暮らし、その合計人口は8%を占める。

漢民族が大陸の中心部を占め、多くの少数民族は外縁部に暮らす。

最大なのはチワン族1700万人だが、紛争があるウイグル族は990万人、チベット族は540万人で、これに匹敵する規模の少数民族は他にも幾つかある。

 

今回、旅行して気付いたのは回族、1060万人を各地、特に開封、蘭州、麗江で見たことでした。

彼らはイスラム教徒なので、てっきりシルクロード沿いの西側、西安以西にだけ集中していると思っていたのですが。

回族の料理は、各地で不可欠となっていた。

 

元々、私は世界の文化人類学や民族学に興味がありました。

それは文化や宗教、社会の発展、そして他との交流の過程を理解するヒントが得られるからでした。

 

今回の中国旅行で最も知りたい内の一つが少数民族でした。

主に二つの理由がありました。

 

1. 中国政府が少数民族をどのように扱い、少数民族自身が意気揚々と暮らしているか?

 

中国政府は、ウイグル族やチベット族への強権的な対応で、世界から非難されている。

この政策が失敗すると、これらを含めた少数民族の不満が暴発し、中国の内乱要因になるかもしれない。

このことはやがて日本にも影響することになるだろう。

 

2. 中国南西部の山岳地帯、雲南地方の少数民族は文化的歴史的に見て興味深い。

 

紀元前一千年紀から漢民族が勢力を広げ、少数民族はその圧力に押されて辺境の地に散らばっていた、多くは南下し山岳地を転々とした。

福建省の客家、タイのタイ人、桂林のヤオ族、金沙遺址(成都)の蜀人は千年から二千年の時を経て移動した。

雲南省の各少数民族にも同様に歴史があるだろう。

雲南の地は西にチベットからインド、南に東南アジアへと交流し続けた歴史がある。

この地の少数民族の衣装や装飾品は素晴らしく、文字や神話も面白い。

 

 

これから速足で見学していきます。

 

 

 

< 5. 今回紹介する少数民族、上が北 >

 

上: 雲南民俗村の全景

敷地は東西1.2km、南北800mある。

赤枠が今回紹介する三つの民族展示場。

 

下: 上記の赤枠を拡大

今回紹介する三つの民族展示場。

赤線が主な見学ルート。

右の改札ゲートから入って、左下で終わりです。

 

 

 

< 6. 三つの少数民族 >

 

上: 黄色枠が三つの少数民族が暮らしている地域。

雲南省の西部、徳宏タイ族チンポー族自治州相当する。

盆地の標高は1000mまでだが、2000mほどの山脈に囲まれている。

彼らは亜熱帯の山間地で農業を営んでいた。

 

赤点は左から麗江、大理、昆明で、白線は新幹線のルートです。

 

 

下: 民族衣装

左は阿昌族(アチャン族)

中央は景颇族(チンポウ族)

右は德昂族(デアン族)

 

 

 

< 7. 阿昌族 >

 

阿昌族について

人口は3万人で、中国政府が公認する56の民族の中で39番目に多い。

言語はシナ・チベット語系チベット・ビルマ語派ビルマ語系に属する。

自民族の文字は無く、漢字などを使用。

かつては漢民族の地主による封建的な領主経済でした。

農業が主でしたが、手工業も発達していた。

辺境を守る駐屯兵から学んで作られるようになった阿昌刀が有名。

 

下: 民家

一階は土間で家事を行うところのようです。

 

 

 

< 8. 阿昌刀 >

 

上: 阿昌刀のようです。

 

下: 織物の実演。

 

 

 

< 9. 宗教的な部屋でしょうか >

 

宗教は主に小乗仏教のようです。

 

下: 台所でしょうか。

 

 

 

< 10. 景颇族 >

 

景颇族について

チベット・ビルマ語属で水田耕作、焼畑耕作を主とし、ミャンマー、雲南省、インドのアッサムに分布する。

総人口100万人と多いが、分散して暮らしているので言語も複数に別れ、生活水準や経済段階も様々。

雲南省には15万人が暮らす。

宗教は原始的でシャーマンが重用されていた。

 

上: 説明板

上から三行目に日本語表記があります。

 

中央: 広場に大きな柱が立っていた。

景颇族が毎年正月の15日から始める巨大な歌の祭典、目瑙纵歌节(ムゥナウゾング)があります。

この柱群はこの祭りの会場に立つ柱のようです。

数万人が打ち鳴らす長い太鼓に合わせて唄うようです。

 

下: 目瑙纵歌节の様子。

他のサイトから拝借。

 

 

 

 

< 11. 景颇族の長老の家 >

 

上: 池の端の祭祀場か

 

下: 長老の家。

立派でしっかりした大きな木造建築です。

どうやら首長が村を治めたのかもしれない。

 

 

 

 

 

< 12. 長老の家に入る >

 

上: 二階に上がる階段の壁にある不思議な飾り。

どうやら女性の乳房を模したものらしい。

私は卑猥に感じてしまったので、きっと何かの道具に違いないと、考えを巡らしたが、わからなかった。

 

後で調べると、これは階段の昇降に手摺りとして使われ、母親の偉大さに想いを馳せなさいということらしい。

 

中央と下: 家屋のすぐ横にある祭祀場

霊魂・精霊など崇めるアニミズムのようだ。

 

 

 

< 13. 2階の様子 >

 

仕切られた部屋は一部屋だけ設けられていたが、他は巨大なロングハウス(共用空間)で、おそらく家長が一部屋を使って寝るが、他は仕切りなしで寝るのだろう。

囲炉裏が二階にある。

 

 

 

 

< 14. 德昂族 >

 

上: 行先案内

 

德昂族について

雲南省とミャンマーに分布し、中国側の人口は2万人です。

言語は南アジア語系モン・クメール語族に属する。

自民族の文字は無い。

解放前までは長らく傣族(タイ族=タイ人と同じ語族)やチンポー族(景颇族)の統治と搾取を受け、社会経済は未発達でした。

宗教はタイ族の影響を受けて小乗仏教。

 

 

 

 

< 15. 德昂族の家屋 >

 

中央の写真に長い太鼓が見える。

これが景颇族の祭りで使われる楽器と同じなのだろう。

 

 

 

 

< 16. 寺院らしい >

 

おそらく德昂族のお寺と祭祀場なのだろう。

 

下: どことなくタイの寺院、チャオプラヤ川沿いにある「暁の寺」の小型版に見える。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

20200725

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 2: 川辺の街と村





< 1.うだつ >

今回は、この地方の街並みと山村を概観します。
街道や川湊沿いに発展したかつての街並み、
険しい渓谷や急峻な山で営み続ける山村、
そこにある生活と歴史を追います。


 
< 2. 訪問地の地図、上が北 >

詳しいは説明は前回の記事を参考にして下さい。


 
< 3. 脇町うだつの町並み >

地図のAにある街並み。
ここにはかつて吉野川の川湊があり、さらに二つの街道が交差していた。
また脇城の城下町として、藍染めの藍の集散地として発展した。
この街並みは軒から突き出した「うだつ」で有名です。


 
< 4. 貞光の旧家 >

地図のBの街中にある。
かっての庄屋の家屋を見学しました。

上: 塀越しの外観。
下: 台所と兼用の玄関。


 
< 5. 貞町うだつの町並み >

地図のBにある街並み。
ここは二層うだつの町並みで知られています。
ここの街並みは、脇町や池田町の古い町並みと異なり、吉野川と直角に延びていました。
ここは川湊に恵まれなかったが、剣山に至る貞光川が吉野川に注いでいる。
この通りは貞光の町と剣山の山村の暮らしを繋いでいた。


 
< 6. 渓谷沿いの家 >

地図のBCCDの景観。
険しい河谷に張り付くように建つ家々。

上: 貞光川
下: 祖谷川


 
< 7. 急峻な斜面の山村 >

地図のCDの景観。
祖谷川沿いの斜面には山村がかなり高い所まで広がっている。
人々は、今も暮らしている。
ここの暮らしには、幾つもの不思議がある。
なぜこのような不便な所に済まなければならなかったのか?
かつて生計は何に頼っていたのか?
平家の落人伝説との関りは?


 
< 8. 急峻な斜面にある家 >

平家の落人伝説を追って走っている間に、見かけた家々。


 
< 9.阿波池田うだつの町並み >

地図のFにある街並み。
ここは吉野川沿いの旧街道に発展した街並みです。
かつてたばこ等の集散地として発展した。



前回の旅では、日本の漁業を担う漁村と漁港を見て来ました。
そこは私達にとってはかけがえのない食の源です。
しかし、高齢化、漁家高の減少が相まって今や風前の灯火でした。
さらに東海大地震の津波が襲うことも確実です。

一部の人々は町の再生に尽力しているが、私の見た所、衰退を免れないだろう。
「持続可能な社会」「自然と穏やかに暮らす」「リモートワーク」などが定着しない限り、社会と政治が変わらなければ、未来は暗いものになるだろう。

今回は、川と山に育まれた街並みと村を見て行きます。
そこには、また違った気付きがあることでしょう。



次回に続きます。

20200721

中国の外縁を一周して 46: 昆明を訪ねて 2






*1

今回は、バスの車窓から見た昆明市内を紹介します。
公共のバスで昆明駅から雲南民俗村まで行きました。
まさに大都会でした。  


 
< 2. 昆明の衛星写真、上が北 >

青線がバスのルートで、「起」から乗って「終」で下車です。
各バス停に停車しながら45分ほどかけて到着しました。
衛星写真の下にびわ湖の3倍もある滇池が見えます。

下: 上を拡大
ホテルを8時20分頃出て、昆明駅の北側まで歩き、バスに乗った。
そしてバスは中心部を抜けて、やがて郊外にある滇池沿いに造られた雲南民俗村の前で私は降車した。


 
< 3. ホテル最上階の展望レストランから 1 >

朝食のレストランから昆明市内の360度眺望が楽しめた。

上: 西側
下: 北側


 
< 4. ホテル最上階の展望レストランから 2 >

上: 東側
下: 南側
写真中央、大通りの突当りに昆明駅の左半分が見える。


 
< 5. 朝食レストラン >

上: 朝食のレストラン

下: 大通りに出たら、朝食の屋台があった。


 
< 6. ホテルの前 >

上: 北側
下: 南側、昆明駅が見える


 
< 7. 昆明駅に近づいた >

前日、この駅で新幹線を降りた。

上: 北側
大通りの左手にホテルが見える。

下: 昆明駅


 
< 8. 昆明駅の前 >

上: 多くの人が立っている大通り沿いに、いくつかのバス停が並んでいる。
ここは昆明駅から道路一つ離れている。


 
< 9. バスは出発した >

バスは2階建てで、私は2階の最前列に陣取り、思う存分に町の眺めを楽しんだ。
朝の通勤ラッシュで、ここではまだ車に混じってバイクも多かった。


 
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郊外に来たようです。
バスに乗ってから35分ぐらい経った。


 
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下: 高級住宅街のようですが道路脇に、多くのレンタル自転車が見えます。


 
< 14. 雲南民俗村の前に到着 >

下: 乗って来たバスです。


次回に続きます。