20200529

中国の外縁を一周して 40: チベット仏教の寺






*1

今回は、麗江古陳から近いチベット仏教の普济寺を紹介します。
この地にはチベット仏教寺院が多い。
これはアジア大陸の悠々の歴史を物語っている。
少し驚いたエピソードも紹介します。

 
< 2. 地図、上が北 >

上: 麗江の位置を示す
黄色枠:麗江古陳、中央の白矢印:普济寺、白枠:束河古陳、黄色矢印:香格里拉。
雪を被った山が玉龍雪山で、その左側を上下に長江が流れている。

現在、麗江古陳からチベット圏東南端の都市、香格里拉までは長江沿いに車で200km、4時間の道のりです。
麗江からの観光ツアーがあります。
さらに香格里拉からチベットの古都ラサまではさらに車で1570km、24時間の道のりです。

今でさえ麗江からラサまでこれだけ遠いのですが、1300年以上前、道なき道を商隊や僧侶が馬や徒歩で行き交ったのです。
当時、茶葉古道は麗江を通り、左(西)に折れて、長江に沿った道だったようです。

下: チベットと雲南省、四川省間の主要な道
左上の雅安から始まる道が四川省成都に通じる。
左下に延びる道が、プーアル茶の産地で有名な普洱に通じる。


 
< 3. 古城忠义市场を出発 >

古城忠义市场の前は、すでに都市部の街並みです。
ここから西側の山に向かってタクシーで向かいます。


 
< 4. 普济寺に到着 >

普济寺は麗江にあるチベット仏教5大寺院―玉峰寺、福国寺、指云寺、文峰寺の一つです。
私がチベット寺院に連れて行ってくれとガイドに頼んで、来たのがこの寺です。
この寺は麗江古陳から最も近いが、他の寺院の方が有名です。

下: 普济寺の門
木々に覆われた小高い丘の上に建っています。
この寺は一辺70mほどの壁に囲まれています。
門の両側に大きなマニ車が見える。
ここの創建は清朝の乾隆帝の時代、1771年で、後に数度修復されている。




 
< 5. 境内に入る >

私達が入った時は、住職以外に人はいなかった。
古い建物が境内を囲み、大きくない境内は樹木で一杯でした。
春になると梅の花が綺麗だそうです。
この地域の寺には紅梅が多いようです。


 
*6

 
< 7. 本堂に入る >

上: 入り口の左にあるマニ車
信者がこれを回すと、回した数だけお経を読んだことになり、功徳があるとされる。
側面にマントラ(密教の真言)が古いインド文字で刻まれている。
この筒の中には経典が納められている。

左下: 右が入口

右下: 内部に入ると目の前に、天井から吊り下がっている布が目に入る。
どうやらチベットのタルチョーのようだ。
タルチョーは祈祷旗で、五色の青・白・赤・緑・黄の順に並び、それぞれが天・風・火・水・地を表している。
これが筒状に、2段に重ねられている。



 
< 8. 正面 >

上: 正面の奥を見ている
狭い堂内はカラフルで、壁一杯に掛け軸や写真、絵が飾られている。
仏画の掛け軸はタンカと呼ばれる。
正面は観音像のようです。
逆三角形の顔の輪郭と耳まで覆う大きな冠はチベット仏像の特徴です。
左下に釈迦如来像らしいものが見える。

下: 正面の左側を見る
奥に千手観音像が見える。
チベット仏教では釈迦像や如来像よりも観音像が重視されているようです。


 
< 9. 右側面を見る >

 タンカが沢山見られる。


 
< 10.明王像か >

上: 仏像の表情は眉がつり上がり、怒りの様相をし、また鎧を纏っているので明王像らしい。
また獣に乗って従えているように見える。

明王像は、インドで仏教が衰退する直前の7世紀頃、最後に花開いた密教と関りがあります。
日本の密教は弘法大師が広めたことで知られています。
密教は、それまでの悟りや戒律重視の仏教から、祈祷や呪文が重用される世俗的なものになりました。
この時に、仏教以外のヒンドゥー神や様々な守護神などが仏像に加わりました。
その一つが明王像で、悪魔を降伏させる怒りの表情を持っている。

チベットに仏教が広まったのは、7世紀のチベット統一王朝成立時なので、密教が主になったのです。


下: 本堂の屋根





 
< 11. 住職家族の住まい >

本堂の隣、壁を隔てて住職の住まいがあります。
久しぶりに、古い住宅をまじかで見ました。



* 歴史を想う *

今回の中国旅行では、4種類の寺院―道教の道観(開封)、仏教寺院(開封)、モスク(蘭州)、チベット寺院(麗江)を見た。
また麗江ではナシ族の宗教、トンパ教の一端を見た。
様々な宗教が習合し、像や装束、建物などが影響され文化の混淆を見ることが出来た。

この地のチベット仏教やトンパ教を見て、大きな時の流れとアジアの交流について感じることがある。
麗江にチベット仏教が伝わったのは、おそらく茶葉古道を通じてだろう。
これは険しいアジアの屋根を2000kmも隔て行き交っての事だった。

一方、北のシルクロードから伝わった仏教が中国の大平原で漢文化と混淆し、道教と共にこの地に遡上するようになった。
これは昆明、大理(雲南)を経て入って来たのかもしれない。
しかし長江は香格里拉や麗江から四川省や武漢を経て上海で太平洋に注ぎ、これも経路の一つだったかもしれない。

この普济寺を建立したのは清朝の皇帝でした。
13世紀、モンゴル帝国はチベットを征服した折、それまでの原始宗教からチベット仏教を国教にします。
この後、北方や中央アジアにチベット仏教が広まった。
その後、北方の満州民族である清王朝が中国全土を支配した。
このことで、清王室の中にはチベット仏教を篤く信仰する人物が出た。
こうしてこの地には幾重にも宗教や文化が交錯することになった。

さらに不思議な事がある。
実は、遺伝子分析によると日本人(大和、アイヌ、琉球の民族)にもっとも近縁なのはチベット人で、分岐は3.5万年以前だそうです(所説あり)。
これは氷河期の事で、日本列島に新人類が住み始める前のことです。
その後も様々な交流が見られる。

かつて日本の水耕稲作はインド東端のアッサム地方から長江沿いに伝わったとされたが、現在の起源は長江中下流域のようですが、どちらにしても長江が関わっている。
またイザナギとイザナミが出てくる国生み神話の起源は、長江中流域にあるとの説もある。

訪れた成都の金沙遺跡と出雲大社の両遺構から復元された神殿が実によく似ている。
これも長江流域で見つかっている紀元前5千年前の高床式住居と日本の高床式から発展した神社建築様式の繋がりを示しているのだろうか?

身近なものにも驚きがあった。
アイヌのムックリ(口にくわえて鳴らす楽器)と同じような物を、この麗江(ナシ族)でも見ました。
調べてみると中国南部から東南アジアに広く分布しているようです。
不思議な事に、韓国、中国北方、アイヌ以外の日本では見られないのです。

こうしてみると、日本人や文化が長江流域と深く関わっていることを感じさせる。
この奥まった高原地帯の雲南、麗江は実に興味深い。



* 驚いたエピソード *

麗江古陳と他の観光地への移動では、ガイドがライドシェア(滴滴出行など)でタクシーなどを呼ぶのですが、今回は問題が発生した。
この寺から次の束河古陳まで移動するために車を呼ぶんのですが、幾ら待っても応じる車がないのです(辺鄙だからでしょう)。
そうこうするうちに、一人の中年女性が寺に車でやって来ました、
ガイドは帰ろうとする彼女に乗車を頼みました。
少しの交渉時間を経て、載せてくれることになりました。

私は、これまで親切な人に出会っていたので、てっきり善意で無料と踏んでいたのですが。
彼女は、お金を要求し、一人数十元で三人分要求している。
私はお金を支払い彼女の乗用車に乗りました。
移動は近いので、直ぐ着きました。

私達は助けられたのですが、それにしても彼女の勘定高いのには驚いた。
また辺鄙な観光地でのライドシェアやタクシーを呼ぶのは困難だと知りました。
バス交通の確認と、初めからチャーター車の利用を考えないといけないようです。

次回に続きます。








20200526

徳島の海岸と漁村を巡って 5: がんばれ日和佐





*1

今回は、美波町日和佐地区を紹介します。
ここには薬王寺と海亀産卵の大浜海岸があります。
幾度も来た所ですが、懐かしさよりも驚きが勝ちました。


 
< 2.散策ルート、上が北 >

上: 日和佐地区の全景
S: 散策の開始点と終着点、A: 日和佐城、 B: 薬王寺
下: 散策ルート
黄色線が恵比寿浜からのドライブルート、赤線が散策ルート、ピンク線が宍喰へのドライブルートです。
S: 散策の開始点と終着点
A: ㈱あわえ、地方創世で活躍する企業、散策中偶然知りました。
B: 観音寺
C: 美波町役場、御陣屋(郡代)跡 
D: 弘法寺
E: 八幡神社
F: 日和佐漁協
G: 日和佐城
H: 大浜海岸


 
< 3. 大浜海岸 >

防波堤のS辺りからの眺め。
右手から左手への眺めを、上から順に並べた。

上: 日和佐川の河口で、漁港への入り口でもあります。
中: 遠方左手に恵比寿浜と恵比寿洞
下: 大浜海岸、海亀が5~8月にかけて夜、産卵に上陸します。




 
< 4. 日和佐漁港 >

昼1時を過ぎていたこともあり、ほとんど人影はありませんでした。


 
< 5.町に入ります >

上: 海側から内陸側を望む。
中央に白い津波の避難タワーが見えます。

下: 特段、漁師町を感じさせるものはありません。


 
< 6. 古風な家屋がありました >

下: 大きな家がありました。
全景は次の写真です。


 
< 7. 廻船業で財を成した屋敷 >

上: ここは江戸末期より廻船業で成功を収めた「谷屋(たんにゃ)」です。
その繁栄ぶりは子供たちの遊び唄になったほどで、門構えは立派です。
現在改装中で入れませんでした。

下: 多くの家は改装が進んでいますが、写真のように昔の雰囲気を残す工夫が見られます。


 
< 8.古い銭湯  >

上: 銭湯の建物
私が、この趣のある建物で足を止め、石柱の「世間遺産・・・」に首をかしげていると、中から一人の男性が声を掛けてくれました。
呼ばれるままに中に入ると、そこは大正時代からの銭湯でした。

下: 事務所の内から表通りを見ている
中央に番台が見える。


 
< 9. ()あわえ >

実は、ここは銭湯の建物を保存しながら、ITソフトウェア開発と地方創生を行っている事務所でした。
上の写真の人物が案内してくれた社長です。
非常に気さくで、情熱を感じました。

彼を主人公に映画化されたのが、下の写真のポスターです。
味のある役者と日和佐の風景や暮らしが沢山出て来ます。
公開は2019年4月でした。

私は、これまで様々な国と日本の地方を訪れて、答えの見つからない問いを抱えていた。
北欧や中国では地方に行っても豊かさや発展を感じます。
北欧では、田舎は自然を生かした暮らしがあり、寂れている感じはなかった。
その一方、日本のほとんどの地方の町や村は活力を失い寂れています。
再生の術はないのかと・・・

この社長と言葉を交わす内に、日本にも可能性があると勇気づけられました。
詳しくは、後述します。


 
< 10. 美波町役場 >

明治が始まる60年前から明治に至るまで、ここに"御陣屋"(郡代所)
が設けられていました。
今は美波町役場です。

上: 役場前の史跡の説明板

下: 津波避難場所の看板
この町も、津波が襲って来ればひとたまりもありません。
この町の中で、避難出来る避難タワーは、先程の物とこれから紹介する物の二つで、後は数カ所の数階建てのビルだけです。
他は、裏の山に登るしかありません。

ここでも厳しい現実を見せられました。


 
< 11. 観音寺 >

上: 観音寺
ここは三十三観音霊場の第八番です。 
徳島海部郡をドライブしたり散策していると、海岸沿いの険しい道程、お遍路さんの路になっていました。

下: 広い道から狭い路に入ると石垣(塀)が所々に見られました。
道幅が狭く、漁師町の風情を残しています。

通る所が悪いのか、東由岐で見た「ミセ造り」などの漁師の民家を見ることはなかった。
どこかに残っているはずなのですが。



 
< 12.弘法寺 >

上: 弘法寺
江戸末期、日和佐の行者「栄寿法印」が評判を呼びました。
彼は荒行の末に数々の奇跡を行い、小松島では化け物を退治したそうです。

この寺は明治に入って信者によって建てられた。
石像は栄寿法印かもしれません。
この前の路は、かつて水路で船が入って来たそうです。

下: 山側(北側)の広い通り
東側を見ている。
通りの左奥に見える木々は八幡神社の境内のものです。


 
< 13. 日和佐八幡神社 >

上: 町民グランドの端に避難タワーが見えます。

下: 日和佐八幡神社
広い境内の周囲にだんじりの格納庫がたくさんありました。
10月中旬、布団だんじりが出て秋祭りが盛大に行われる。
この海岸側にウミガメ博物館があり、トイレもあります。


 
< 14. 大浜海岸に沿う通りより >

上: 遠方中央に、薬王寺が見える。

下: 防波堤の先端より、日和佐の町を望む。
一周し終わりました。

次の訪問地、宍喰を目指しドライブします。


 
< 15. 厄除け橋より >

地図のピンク線の橋の上から日和佐川の河口を眺める。
右手の小高い丘の上に日和佐城が見える。
翌日、またここを訪れます。


* ()あわえと地方創世 *

この美波町(由岐、恵比寿、日和佐も含む)は5年間で10%ほどの人口減が続き、65歳以上が占める高齢化率は日本の平均37%を上回り51%です。
また一人当たりの市町村民所得は182万円で、徳島県の最下位で、トップ阿南市の半分に過ぎません。

町を歩いても、見かけるのは高齢者が多く、家屋の新築も少ない。
漁師に声を掛けても、減り続ける漁獲量への嘆きが聞こえ、実際、漁獲量は減る一方です。

なぜ日本は、こうも地方の衰退が当たり前のように進むのか?
高齢化? 成長しない経済? それと生活スタイル?
前者二つは国の無策に起因しているが、後者はそれだけとは言えない。

例えば、クロアチアや北欧の海岸を行くと、豊かな自然が残る海岸に別荘が並び、港は漁船でなくレジャーボートで埋め尽くされていた。
スウェーデンでは、職住の地を郊外に求めるブームが起きているらしい。
それは物価が高く自然に乏しい都会を避け、仕事が終われば自然を愉しむことできる地を人々が求めているからです。

世界的には大都市への人口集中は穏やかになる傾向にあるが、日本だけはまだ続いている。

ところが、「あわえ」の社長の話を聞き、調べてみると、美波町に明かるい兆しが見える。

彼は、この地で生まれ、東京でセキュリティソフトの開発販売を手がけるようになった。
そして新たなワークスタイルの実現と人材採用の強化を目的に2012年この地にサテライトオフィスを開設し、現在はここを本社としている。
現在、地方と都市、自治体と企業を結び付けることにより、地域の活性化を目指している。

その一方、彼は漁船を所有し海釣りを楽しんでいる。
まさに職住一体で、自然との暮らしを楽しみながらリモートワークを行っている。

実績としては、ここ数年で19社のサテライト・オフィスをこの町に誘致し、全国1位を誇る。
日本全国の自治体100とも提携しアドバイスを行っている。

実は、美波町は2013年に転入者が上昇に転じ、翌年には転出者を上回った。
この町は大都市から2時間以上離れているにも拘らず、全国中でも好成績なのです。
当然、美波町も地域活性化に取り組んでいるお陰なのですが。

微かな動きかもしれないが、地域創生が一人の青年の想いから始まろうとしている。

つくづく、彼らの想いに答えられる政治が日本に興ることを願う。
そんな発見が得られた日和佐でした。


次回に続きます。



20200523

連載中 何か変ですよ 218: 国民に自己責任を問う!





*1

経済も社会も悪化し孤立を深める日本!
こんな日本にしたのは誰か?
一人安倍首相か?
いや違う、選んだ国民だ!


 
*2


* 自己責任 *

「自己責任」は小泉政権から言われ始めた。
小泉首相は安全を、竹中大臣は貧困を自己責任とした。

つまり取材であっても危険な地に踏み込めば、殺されても仕方ないと。
また貧乏になる道を選んだのだから自業自得だと。

この論に従えば、唯一先進国で凋落に突き進む政権を選んだ人々にも自己責任があるはずだ。

それもかなり大きな、ここ三十年ほどで起きた凋落に対する責任がある。

悪化し続ける経済 ― 成長しない経済、低下する賃金、庶民の増え続ける税、生産性低下、増加一途の累積財政赤字・・

先進国から取り残される社会 ― ジェンダー、貧困率、格差、報道の自由度、人間開発指数などの国際指標が急速に悪化・・

先進国ではありえない政治腐敗 ― 首相・大臣・自民党議員・官僚の不正・怠慢とその隠蔽工作・・

散在する割には国民に百害あって一利なしの外交 ― トランプとプーチンに掻き回され、隣国と隔絶を深め、コロナウイルスを呼び込みマスクも入手出来ず・・

危険を指摘されながらも無視・無策・・・原発事故や感染症の予防対策を怠り、さらに施設と予算を削減・・

挙げればきりがない。
これらは自民党政権と特に安倍政権が招いた。

私は、この末路を予想出来たので自民党に票を入れなかったので、私には責任がない。


* なぜこんなことになったのか? *

ひとえに長期政権による官民政財界の癒着と腐敗に尽きる。
さらに安倍首相の米国追従と右傾化がダメ押しになった。

今の政府を歓迎した人には強国・最強政府に見えたことだろう。
しかし、これが如何に底の浅いものだったことはコロナ危機で露呈した。

このまま安倍首相と自民党に任せていては凋落するだけだ。
腐敗政治も問題だが、それ以上に間違った経済路線が致命傷になっている。
日本を取り戻すには、大きな経済政策の転換が必要だ!

こんな政府を選んだ人々には責任をとってもらおう。
たとえ騙されたと言い逃れしようが。
この手の人々は、歴史を見ない、発展途上国以下の社会意識しか持ち合わていない。
つまり視野狭窄が、また錯誤を繰り返すことになる。

当然、選挙に行かなかった人も間接的に協力したことになり同様だ。


しかし、私は「自己責任論」はまやかしと考えている。
(自己責任論は、80年代から主流になり社会経済を疲弊させている自由主義や放任経済に由来している)

つまり、今の政府に騙されたと自覚できるのなら反省し行動すれば良い。


終わります。

20200522

中国の外縁を一周して 39: 小さな橋と古城忠义市场






*1

今回は、麗江古陳内の美しく小さな橋と、
古い佇まいを残す庶民の古城忠义市场を紹介します。


 
< 2. 大石橋から始める >

上: 前回紹介した大石橋です。
これからこの川沿いを南下し様々な小さな橋を訪ねます。
最後に市場へと向かいます。

下: 百岁桥(百歳橋)
橋の上の左に、赤い漢服を着た女性が見えます。
観光客に写真の被写体を頼まれたようです。
若い女性が、漢民族風の着物を着て観光地を歩く姿をたまに見かけた。
厳密な漢民族の服と言うより、ファンタジクな中国歴史ドラマで見かける自由なデザインのようです。
多くは一人から数人です。

以前、私はフランス、アルザス地方のコールマールを訪れたことがあります。
この地も、花に彩られた古い町並みと小川や橋で有名でした。
麗江と比べて町や川、橋は大きい。
しかし、菊で飾られた麗江の街並みと小川はさらに見応えがありました。
菊で飾られた時期に行くべきだとは思いますが。


 
< 3. 様々な橋 >

右下: 橋を渡ると、概ねこのような家に挟まれた小路を行くことになります。


 
< 4. 少し広い通りに出た >

 
< 5. 万古楼が見える >

下: 獅子山公園の丘の上に立つ万古楼が見える


 
< 6. 古城忠义市场の一角に入った >

この一角は、植物、果実、根などの乾物が売られている。
この地は松茸の産地です。
サイズはかなり小さいが、大きな袋に沢山入って安かった。
妻は、大量の干し松茸を買った。
しかし香はほとんどせず、日本に帰ってからもあまり使用していない。
日本の松茸とは異なる。

 

< 7. 地元の人が買っているようです >


 
< 8. 食材が豊富です >

ここを訪れたのは13:30頃でした。
時間帯のせいか、あまり客はいない。
当然、この大きさなので、時間ともなれば多くの市民がくるのだろう。


 

< 9. 様々な店舗形態があります >


 
< 10. 肉売り場 >

先ず、この広さにびっくりした。
そして、ここでは相変わらずの衛生感覚のようです。
下の写真のように、客が肉を手づかみで選んでいる。
もっとも、麗江には近代的なスーパーや商店街もあり、衛生管理が行き届いた店も沢山あります。
違和感なく新旧が混在している、不思議な感じがする。


 

< 11. 鳥や魚類の販売 >

先ず驚いたのは、淡水魚の扱いが多い事でした。
それも活けで売られている。
こんな高地で、これだけあるとは思はなかった。
おそらく池などの養殖が進んでいるのでしょう。

左上: この一角では、鳥と日本人が口にしない様々な小獣をケージに入れて販売しています。
30年以上前、中国の広州や台湾の台北の市場で見た光景を思い出します。





 
< 12. そろそろ市場の端に来ました >

下: 民族衣装を着た老婆が足早に去って行きます。

私達が、例えばアイヌのように日本で民族衣装を着た人を見ると、観光用を連想します。
しかし、中国では少し趣が異なるようです。
特に雲南省で目立ちます。
それは観光用だけではなく普段着、さらに言えば誇りを持って着ているように見えることです。
これは中国の少数民族政策の反映だと思う。


 
< 13. 市場の本来の入り口 >


次回に続きます。


20200520

徳島の海岸と漁村を巡って 4: 恵比寿浜と恵比寿洞





*1

今回は、綺麗な湾と自然に出来た洞穴を紹介します。
少し行くと日和佐の大浜海岸に出ます。


 
< 2.ドライブルート >

上: 由岐から恵比寿浜までのドライブルート、上が北。
青い線がドライブルート、茶色矢印が由岐、赤矢印が恵比寿浜。
オレンジ色枠が下の写真の範囲です。

下: 恵比寿浜と日和佐を示す、上が南。
A:恵比寿浜、B:恵比寿洞、C:日和佐の大浜海岸


 
< 3. 由岐から恵比寿浜までのドライブルート >

上: 由岐から恵比寿浜までのドライブルート
私は海岸線を見ながら走りたくてこの道を選んだが、失敗でした。
海はほとんど見えず、さらに対向車線が無い。
対向車が来れば、どちらかが数百mほどバックしなければならない。
皆さんは避けた方が良いでしょう。

下: 恵比寿浜
ここにはキャンプ場があり、張ったテントから直ぐ前がこの海岸です。
今から三十年ほど前、台風が接近している時に子供達を連れて来ました。
打ち寄せる大きな波に嬉々としていた子供達を思い出しました。


 
< 4. 左右を望む >

写真3の下とほぼ同じ位置から撮影。
上: 右手、西側
下: 左手、東側


 
< 5. 恵比寿浜西側より >

上: 中央反対側の海に突き出した小山が恵比寿洞です。

下: 浜の最深部で、写真の右端にキャンプ場があります。


 
< 6. 恵比寿浜橋の上から >

恵比寿浜の奥に亀井港があり、その間を水路が繋いでいます。
この橋はこの水路に架かっています。
ちょうど漁船が戻って来たところです。

上: 恵比寿浜の沖合を見る
右手に古い石積みの堤が見えます。
コンクリートでないのが歴史を感じさせます。

下: 亀井港を望む

恵比寿浜は波浪に弱いが、奥まった亀井港なら大丈夫でしょう。
実は、紀貫之が日和佐に4泊5日しているのですが、悪天候を避けるとしたら日和佐の大浜や恵比寿浜より、この亀井港かもしれません。


 
< 7. 恵比寿洞 >

海岸伝いに日和佐に出る途中に、この洞があります。
上の写真の看板が道の端にあり、その前に数台の駐車スぺースがあります。
この岬の小山へと進みます。


 
< 8. 岬を巡る小路 >

駐車場から一度下って、小山を一周する小道があります。
先ずは登ります。

上: 眼下に後に下ることになる小路が見えます。
小路の左に洞があります。

下: 小山の頂に至る小路。


 
< 9. 頂の展望台 >

上: 南側を見ている
下: 東側を望む
恵比寿浜の東側にある岬の先端


 
< 10. 頂から >

上: 西側を望む
中央に日和佐の大浜海岸が見える。

下: 洞に向かって急な階段を下る
右手に洞がある。


 
< 11. 恵比寿洞 >

上: 恵比寿洞
以前、台風接近時、ここに立ったことがある。
大きな波がこの穴を抜けて押し寄せて来る様は圧巻でした。
後で、子供連れは危険だと後悔したのですが。

下: 左手に洞の口が見える。


 
< 12. 大浜海岸 >

上: 恵比寿洞を大浜海岸寄りからクローズアップで撮影。
中央が恵比寿洞の小山。

下: 海亀の産卵で有名な大浜海岸


次回に続きます。