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今回は、海外の歴史から日本の現状を打開するヒントを紹介します。
それは世界で感動を呼んだ数々のデモです。
< 2. デモの地 >
* デモが社会を変える時
人々が集団で意思表示し、政治を変えた例を見ます。
通常、国民は議員や大統領の選挙公約を選択し、政策転換や政治刷新を実現します。
しかし、政治が国民を向かず、惰性に流され、腐敗まみれになって、通常の手段では埒が明かない時、国民に残された手段は直接行動しかない。
国民は、国家(警察、軍)に対して無力なだけに、出来る限り大きな集団で体を張って訴えます。
* 世界の例
力の無い人々が知恵と情熱、そして団結することにより国を変えた行動には感動があります。
事例はかなりデフォルメし単純なストーリーにしています。
3 「A」
A: 独立を勝ち取った人間の鎖
1991年、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)はソ連からの独立をほぼ戦火を交えずに果たした。
これはソ連のペレストロイカが幸いしたのですが、民族を異にする三国が共に手を携えたことが大きい。
これは三国の首都を結ぶ600kmを、各国の600万人国民が手を繋いだ人間の鎖でした。
当時、各国政府は徐々にソ連の支配から脱しつつあったが、いつソ連軍が侵攻してくかを恐れていた(実際2ヵ国は短期間の侵攻を受けた)。
これら小国は数世紀にわたり、大国に支配され続け、独立抵抗の辛酸を舐めて来た。
1989年、彼らは世界に人間の鎖をアピールすることにより、2年後の西欧諸国のいち早い独立承認を得ることが出来た。
こうして彼らは平和裏に独立を勝ち得た。
ポイント
・ 小国が大国から独立する為に、彼らは武力ではなく国民の強い意志を世界にアピールする方法を選んだ。
・ 彼らは世界中に散らばった移民と協力しながら事を進めた。
4 「銃反対デモ」
B: 戦争を終わらせたデモ
米国は米ソ対立下で次第にベトナムで戦火を拡大させ、21年間で全死者800万人を出すに至った(爆撃量は大戦を上回った)。
米国の大統領が三代にわたり、のめり込んだ泥沼の戦争はなぜ終戦を迎えることが出来たか?
その転機は、学生らが中心になって全米各地で反戦デモを展開したことにある。
1967年と69年にワシントンで大規模デモを行い、71年まで続き、1回に最大30万人が参加し、総勢100万は越えただろう。
1968年には報道番組においてジャーナリストのクロンカイトが戦争継続に反対を表明した。
1969年、「名誉ある撤退」を掲げる相手候補を負かして大統領になったニクソンは、その後も戦線を拡大させていったが、一方で和平交渉を開始していた。
1971年、ホワイトハウスが隠蔽していたベトナム戦争の虚構を「ペンタゴン・ペーパーズ」が暴露し、反戦ムードはさらに広がった。
こうして1973年、和平協定が結ばれ、米軍はベトナムから撤退した。
ポイント
・ 議会や大統領は戦争拡大を容認し続けた(負けたままで止められない)。
・ 国民の反戦世論とデモが圧力になった。
・ ホワイトハウスに抵抗し戦争の真実を伝え続けた報道と内部告発は不可欠でした(今は規制緩和で力を失ったが、まだ日本よりは良い)。
蛇足ながら。
あれほど米国が恐れ、排除しようとした共産国家北ベトナムは無害だった。
彼らは米国の傀儡、腐敗した南ベトナム政権を打倒するのが主目的だった(戦後のマクナマラの会談で判明)。
この戦争は日本が防衛と称して朝鮮半島から満州に侵攻し、傀儡政権を擁立した状況によく似ている。
5 「C」
C: 東西を融合させた行進
今のドイツがかって壁やバリケードによって遮られていた国だったことは嘘のようです。
大戦後、ソ連と欧米によって分断させられた一つの民族が、なぜ半世紀後に再統合が出来たのか。
その契機は、東ドイツの都市ライプチヒの教会にあった。
東ドイツの共産政権時代、この教会は毎週月曜に平和のあり方を考える「平和の祈り」を細々と続けていた。
やがて言論・政治活動の自由を求める人々によって規模は拡大し、粛々とした行進を教会外で行うようになっていた。
彼らは警官隊の暴力に耐えながら、「自分たちの手で自由な国を創ろう」と訴え続けた。
1989年8月、数千人の東ドイツ国民がハンガリーの協力によりオーストリア国境を越えて西側に亡命を果たすピクニック事件が起きた。
この年の10月7日、東ベルリンで建国40周年記念式典に参加していたゴルバチョフは、上記の状況を無視し改革に背を向けるホーネッカー書記長を否定し、書記長は失脚した。
この2日後、ライプチヒで7万人の参加者が「我々こそが主権者たる国民だ」と叫びながらデモ行進を行った。
そして同年11月10日、東ドイツ政府は通行の自由を認め、ベルリンの壁は崩壊し、1年後に東西ドイツが統一された。
ポイント
・ 弾圧を受けながらも自由を求める非暴力の行進が大規模になり、国民の意思を政府に見せつけた。
6 「D」
D: 女性達の歌声が内戦に終止符
アフリカ西岸のリベリアは内戦で血まみれでした。
大統領も近隣のアフリカ諸国もこの内戦の停止を望むが、各地の武装勢力が入り乱れ交渉は決裂するばかりでした。
この内戦で25万人が死に、100万人の難民が生まれていた。
2002年、一人の女性レイマ・ボウィがキリスト教徒、ムスリムを問わず平和を訴える非暴力の「平和のための女性リベリア大衆行動」を組織します。
彼女達は白いTシャツを着て大統領の行列の前で歌い踊り、プラカードで停戦を訴え続けます。
やがて、彼女らは大統領との会見に成功し、ガーナでの和平交渉への参加を確約させた。
しかし、男達の交渉はいっこうに進展しなかった。
そこで彼女達は、ガーナの会議場に座り込み、交渉成立を迫った。
彼女らの強制排除が始まると、レイマは服を脱ぎはじめた。
アフリカでは、自分の母親の全裸を見ると不幸になるという言い伝えがあり、男達はようやく重い腰を上げた。
この結果、翌年に内戦は終結し、国連の平和維持軍が到着し、2006年のアフリカ初の女性大統領誕生に繋がった。
ポイント
・ 続く内戦で荒んだ社会にあって、女性の熱情が武装集団の深刻な対立を制した。
実は、彼女らは戦う夫への性交拒否と言う数少ない武器を使ってはいたが。
彼女はノーベル平和賞をもらった。
7 「E」
E: 一人の女性の「ノー」から始まった運動
米国がベトナム戦争に深入りし始めた1955年、南部の州都モンゴメリーで一人の女性ローザ・パークスがバスの席を譲らない事件が起きた。
彼女はバス内で警察官に逮捕され1日収監の後、罰金刑を課せられた。
これが後に米国を揺るがす大運動に繋がった。
これは黒人の彼女が白人専用の席に座り、人種分離法に違反したからでした。
この地に1年前赴任していたルーサー・キング牧師(26歳)がこの事件を知ると、彼はモンゴメリーのすべての黒人にバス・ボイコット運動を呼び掛けた。
利用者の75%以上を占めていた黒人が歩いたりして、バスを利用しなくなったのでバス路線を運営する市は経済的に大きな打撃を被った。
ローザ側は、人種分離の条例を違憲として訴え、翌年、連邦最高裁は違憲とし、公共交通機関における人種差別は禁止された。
ボイコット運動は1年以上続き、この違憲判決の翌日に収束した。
キング牧師はこの後、全米各地で公民権運動を指導し、非暴力と不服従を掲げて1963年にワシントン大行進で25万人を集めた抗議集会を開催した。
翌年、公民権法が成立した。
ポイント
・ 一人の冷静で勇気ある行動が、優れたリーダーの下に非暴力の大衆運動に結実し、選挙で変えることの出来なかった差別を突き崩すことになった。
8 「I」
他の歴史的なデモ
F: 1913年、日本で民衆数万が護憲を叫び国会包囲。
G: 1930年、インドのガンジーによる塩の行進。
H: 1993年、マンデラのサッカー競技場での演説。
I: 2016年、韓国で5ヵ月間、朴槿恵大統領の退陣求める100万人デモ。
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* 最後に
日本の政府首脳と与党はデモを非常識な行動と非難し、さらに国民の非暴力の行進とアピールに対して、大量の警官隊が国会周辺を取り囲み封鎖し威圧している。
世界には非暴力のデモが、しばしば腐れきった政府や強権を発動する体制を刷新して来た。
これは人類が生み出した民主主義の重要な一発現です。
次回に続きます。