20140126

社会と情報 11: 戦争拡大の道のり

ジャングル戦 

< 1.ジャングル戦 >

ベトナム戦争も複雑な経緯を辿って、戦線が拡大していきました。
先ず、戦争の主要な転換点を振り返ります。
後に、米国政府の意図と世論、それを結ぶ情報を見て行きます。

戦線拡大のポイント
簡単にするため北ベトナムの動きを省略し、米国大統領の動きを中心に見ます。

トルーマン: 1949年、インドシナ戦争でフランス支援を決定。
アイゼンハワー: 54年、ジュネーブ会議はベトナムの停戦と南北分割を決めるが、米国と南ベトナムは統一選挙実施で調印を拒否。
南ベトナム: 米国は、この政権に反共産を条件に軍事・経済援助、軍事顧問団派遣を行う。
この政権は、宗教対立や不満に弾圧で臨んだため、国民は離反し、武力蜂起が起きる。
北ベトナムは、この反体制派(解放戦線)に援助し内乱は深まる。
ケネディ: 61年、内乱を鎮める為に軍事顧問団を増強し、実際は数百名の戦闘部隊が攻撃を開始した。


弾圧に抗議し焼身自殺する仏教徒 

< 2.弾圧に抗議し焼身自殺する仏教徒 >

南ベトナム: 63年、政権がクーデターで交代するが、以降幾度も繰り返される。
ジョンソン: 64年、北ベトナムに攻撃された報復に大規模な軍事行動を開始(捏造事件)。
これにより中ソの北ベトナムへの軍事援助が本格化し、北ベトナムと南ベトナム解放戦線は米軍と直接地上戦に入る。


爆撃

< 3.爆撃 >

この報復に米軍は北爆、最大55万の派兵、ジャングルや農村部への無差別爆撃を行い、戦争拡大。
68年、戦争反対の世論に押され、北爆を停止する。
ニクソン: 69年、大統領選挙の公約通り米兵撤退を一部行い、北ベトナムと和平交渉を開始。
一方、北ベトナムの補給路を断つ為、隣国2ヵ国に侵攻を開始するが、失敗に終わる。
72年、和平条件を有利にする為、大規模な北爆と機雷封鎖を実施。
これにより、北ベトナムは軍事拠点と経済に壊滅的な打撃を受け、大量の死者を出し、戦闘続行が不能となった。
この北爆は国際世論の反発を招き、中止。
73年、北ベトナムと米国は和平条約を締結し、米軍が全面撤退。
南ベトナム: 75年、北ベトナムと南ベトナム解放戦線による攻撃で政権が崩壊し、1年後に統一選挙が行われた。

素朴な疑問
米国の膨大な人命損失と経済損出、それを遙かに上回るベトナムの国土破壊と人命損失をなぜ食い止められなかったのか?
本当に、「共産主義封じ込め」政策が必要だったのか?
現在、ベトナムは共産国家として成長を遂げている。
その後の世界や東南アジアの状況を見ると、その政策は誇大妄想に思えるのだが。


ジュンソン大統領とマクナマラ国防長官

< 4.ジュンソン大統領とマクナマラ国防長官 >

何が問題か
米国の歴代大統領は真剣に、自国と同盟国の安全保障の為に努力した。
しかし、その結果は、常識的に見て失敗だと思える。
その食い違いはなぜ起きたのか?

戦争を指揮する政府に過失や別の意図、又は不作為があったのかもしれない。
今、一つは、国民が政府と戦争の実情を知らされず看過したのか、情報操作で踊らされたのかもしれない。

次回から、この事を検証していきます。










20140125

社会と情報 10: 戦争を招いた情報の欠陥 1

 朝鮮戦争

< 1.朝鮮戦争 >


前回紹介したエルズバークは、ベトナム戦争の経緯を分析し、大統領府の犯罪性に憤り、告発の挙に出ました。
国家が戦争に深入りしていく過程で、情報がどのように関わっているか、要点を見ます。

はじめに
皆さんは、自国の戦争が無駄で、犯罪と指摘されることに憤るでしょう。
ましてや身近な人が負傷し死亡されておられればなおさらです。
また、戦争は好んでするものではなく、憎むべき極悪の敵国があればこそだと思っている方も多いはずです。
一方で、正義の戦争があるとしても、戦争は小さく短く終わって欲しいとも思われるはずです。


当時の共産圏首脳 

< 2.当時の共産圏首脳 >

ベトナム戦争の泥沼へ
この長大な戦争を、人々の感情と情報の観点から、要点を切り取り、見ていきます。
そこには思わぬ落とし穴と情報の欠陥が待ち受けていました。

1945年、第二次世界大戦は日本への原子爆弾投下で幕が閉じましたが、これを命じたのがトルーマン大統領でした。
敗戦後、トルーマンは米ソに共通の敵が無くなることから先手を打ち、ソ連に対して強硬路線を取り(トルーマン・ドクトリン)、冷戦時代へと突入することになります。
50年に朝鮮戦争が勃発し、急激に共産主義への脅威が高まり、赤狩り(マッカシー旋風)が米国に吹き荒れます。
大戦時のヒトラーや中国共産軍への初動の抑え込み不徹底が、戦火の拡大を招いたとの反省が起こります。
こうして、米国はこの後、「共産主義封じ込めの民族支援」で世論が一致し、長らくその呪縛から解けなくなります。

一方、ベトナムは2千年にわたる中国とフランスからの独立を戦い抜いて来ました。
そのゲリラ戦は筋金で入りでした。
大戦後、北部ベトナムに共産主義政権が興りますが、当時、多くの植民地も同様に独立を目指していました。
米国政府は、植民地化政策に反対だったのですが、フランスが負けると、ベトナムの自由主義を守る意図で、介入していきます。

こうしてトルーマンに始まり、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンの5人の大統領が政策を継承し戦争を拡大していくことになります。


1945~74年の米国の大統領

< 3.1945~74年の米国の大統領 >


この初期の米国に、何か問題があったのでしょうか?
この段階で失策だとは断言出来ない、残念だとは思うが。

日本の明治維新から太平洋戦争への経緯もそうですが、最初は確かに脅威が存在しました。
そして戦いを継続していく内に、初期の脅威論とは別の意図や世論が拡大を促しました。
どこかで道を間違ったのは確かですが、そのターニングポイントの指摘では意見が分かれるところです。

しかし一つだけ、言えることがあります。
戦争を遂行する上層部には、正しく状況を把握している人々が少なからずいたはずです。
その真実が国民に伝われば、犠牲を強いられる人々は進路変更を早く望んだはずです。

次回、ベトナム戦争が拡大していく過程で情報がどうなるかを見ていきます。










20140124

社会と情報 9: ホワイトハウスとどのように闘ったか

博士の告発を描いたドキュメンタリー映画 


< 1.博士の告発を描いたドキュメンタリー映画 >

最初、エルズバーク博士はベトナム戦争収束のために、ホワイトハウスの最上級スタッフに働きかけた。
しかし、それは総べて徒労に終わった。
彼は、大統領率いるホワイトハウスを敵に回すことを覚悟しなければならなかった。


ホワイトハウス

< 2.ホワイトハウス >

闘いの火蓋は開かれた。
1969年10月、彼は国防総省の極秘ペンタンゴン・パーパーをコピーし始めた。
最初、議会の有力議員にこの7000頁の極秘資料の公開を依頼した。
最初興味を示した良識派の議員も、土壇場になるとリスクに恐れをなし、公開を拒絶する。
そこで71年春、博士はニューヨーク・タイムズ紙の記者にコピーを渡した。
しかし公表の確約はもらえなかった。
告発を決心してから2年が経とうとしていた
博士は、さらに頼れる議員を捜し、徴兵に抗して議事妨害を行っている議員を新聞で知った。
その議員に演説ネタとしての極秘資料を渡す為に、現地に飛び妻とホテルで待機していた。
その71年6月13日、ニューヨーク・タイムズが極秘ファイルの連載を始めた。
その新聞社は、公表すれば責任が持てないと弁護団から見放されていた。


現在公開されているペンタゴン・ペーパーズ

< 3.現在公開されているペンタゴン・ペーパーズ >

夫婦でホテルのテレビを見ていると、FBIが博士の自宅乗り込む様子を生々しく放送していた。
博士は匿名で動いていたのだが、誰かが彼の名を漏らした。
博士は、命の危険と逮捕を予想して数多くのコピーを協力者に配布しておいた。
その後、夫婦でホテルに潜伏することになる。
一方、ニクソン大統領はホワイトハウスで彼を潰す為に、FBI長官と秘密部隊にハッパをかけていた。
政府の申し立てで、地裁は新聞社に連載停止の仮処分命令を出した。
すると次いで他の新聞社が、そのコピーの公開に踏みだしたが、またもや連載停止命令が出た。
しかし政府の意向に逆らってでも、勇気ある新聞社や出版社がこれに続いた。
さらに17日後、新聞社の申し立てで最高裁は素早く掲載を認める判決を下した。


ニクソン大統領とキッシンジャー

< 4.ニクソン大統領とキッシンジャー >

遂に、博士は逮捕され、機密文書の不法所持やスパイ容疑などの12の罪状で禁固110年を越えていた。
素晴らしい協力者もいたが、裏切りもあり、ついに絶体絶命となった。

CIAと元FBIで編制された秘密部隊「鉛管工グループ」に、大統領は博士の身辺を調査し、マスコミを使って彼の信用を失墜させることを命じた。
彼らは博士かかりつけの精神分析医事務所に忍び込み、書類をあさった。
ところが思わぬ展開が待っていた。
その鉛管工グループが翌72年、大統領選挙の内情を探る為に民主党のビルに不法進入し、逮捕された(ウォーターゲート事件)。
このことから、鉛管工グループの博士に対する犯罪行為や電話の盗聴が判明し、73年、地裁は博士に対するすべての控訴を棄却した。


1975年、終戦と独立に沸き立つサイゴン(現ホーチミン)

< 5.1975年、終戦と独立に沸き立つサイゴン(現ホーチミン) >

こうして博士は自由の身となり、圧勝で2期目を手に入れたが大統領は、74年、この事件で弾劾され去ることになった。
彼の行動が、ベトナムからの撤兵を大きく押すことになった。





20140123

Go around the world of Buddha statues 9: the statues of Korea and Japan

 one of the Four Heavenly Kings, Beomeosa temple, South Korea

< 1. one of the Four Heavenly Kings, Beomeosa temple, South Korea >
When I am traveling in Korea and China, I wonder why it differs from Japanese Buddha statues.
The Japanese Buddha statues began from imitation of the Korean Peninsula and China.
The difference seemed to have become big gradually.
I investigate about the difference between Korea and Japanese Buddha statue today.


韓国や中国を旅行していると、日本の仏像となぜ違うのか不思議に思う。
日本の仏像は朝鮮半島と中国の模倣から始まりました。
いつしかその違いは大きくなったようです。
今日は、韓国と日本の仏像の違いについて探ってみます。


two of the Four Heavenly Kings, Pulguksa temple, South Korea

< 2. two of the Four Heavenly Kings, Pulguksa temple, South Korea >
The Four Heavenly Kings of Beomeosa temple and Pulguksa temple seems to be relatively new.
In these images, there is a different characteristic from Japanese things.
The greatest thing of the different expression is a round big eye.
Furthermore, a dragon and a ball, a Biwa (stringed instrument) in his hand is different from Japanese things.


梵魚寺と仏国寺の四天王像は比較的新しいように思える。
これらの像には、日本の四天王と異なる特徴がある。
異なる表情の最大のものは丸い大きな目です。
もう一つは、手に持っている龍と玉、琵琶(弦楽器)が日本と異なります。


Four Heavenly Kings, Kaijyusen temple, Kyoto, 8~13th century

< 3.  Four Heavenly Kings, Kaijyusen temple, Kyoto, 8~13th century >
This is the typical Four Heavenly Kings of Japan.
Above-mentioned Four Heavenly Kings of Korean does not have a raged aspect, and there is rather the atmosphere of the welcome in the aspect.
On the other hand, I seem to have not dignity in the aspect.

これは日本の四天王の代表的な姿です。
韓国の上述の四天王には憤怒相が無く、むしろ歓迎しているような雰囲気がある。
一方で、私には威厳が無いように思える。

We look at early Four Heavenly Kings of Korean Peninsula

韓国の初期の四天王像を見ます


statues of Sokkuram temple, Korean, Silla period, 774 years 

< 4.  statues of Sokkuram temple, Korean, Silla period, 774 years >
Above fig.:  a Buddha in central, Kongorikishi on both sides, and carved relief of Four Heavenly Kings of the gateway.
Below fig.:  enlarged image of Four Heavenly Kings.
Most of early Four Heavenly Kings are stone statues, and their expression is not clear.
Then, we look at a slightly old Four Heavenly Kings in China.


上図:中央に如来、左右に金剛力士、通路左右に4体の四天王のレリーフ。
下図:通路の四天王の2体を拡大。
初期の四天王と金剛力士像は石像が多く、表情が鮮明でない。
そこで少し古い中国の四天王像を見ます。


statues in Longmen Grottoes, China, Tang period, 675 years 

< 5.  statues in Longmen Grottoes, China, Tang period, 675 years >
Left side: one of Four Heavenly Kings with a small story pagoda.
Right side: this Kongorikishi image resembles Japanese thing.
When Buddhism was spread from China to Korean Peninsula, the Four Heavenly Kings seems to have had a raged aspect.
Gradually, the statues were covered with a crown, changed the belongings, and changed the facial expression, too.


左側:宝塔を持っている四天王。
右側:この金剛力士像は日本のものに似ている。
中国から仏教が伝播した初期、朝鮮半島の四天王像も憤怒相を持っていたのだろう。
それがいつしか、冠を被り、持ち物を変え、表情も変わっていった。


amitabha Buddha triad, Muwis Temple, Korea, Korea Dynasties period,1476 years

< 6. amitabha Buddha triad, Muwis Temple, Korea, Korea Dynasties period,1476 years >
I think that the Buddha statues are typical things, when I watched with sightseeing of Korea.
Maybe it's because it is covered gold leaf, but I think it is considerably different from Japanese statues.
The facial expression and head of the center Buddha, and a crown of right side Bodhisattva is different from Japanese statues.
Especially the outline of the face became richly square from the slender face of old times.

これらの仏像は、私が韓国の観光で見た仏像の平均的な姿だと思う。
金箔のせいかもしれないが、日本の如来三尊像とはかなり違う印象を受ける。
中央の如来の表情と頭、右の菩薩像の冠が異なる(左は地蔵菩薩か)。
特に顔の輪郭が昔の細面から豊かに角張っている。


Buddha seated, Buseok Temple, Korea, Goryeo, 11~12th century

< 7. Buddha seated, Buseok Temple, Korea, Goryeo, 1112th century >
This statue is several hundred years older than the statues of the above image.
I feel it is near to the aspect of the Japanese statues.

Next time, I infer what occurred in Buddha statues of Korea.

この像は上図の如来像より数百年古く、表情に日本の如来像に近いものを感じる。

次回は、韓国の仏像世界に何が起きたかを推理します。















20140121

社会と情報 8: ベトナム戦争を止めようとした男

ベトナム戦争

< 1、ベトナム戦争 >

ホワイトハウスの内部から、一人の男がベトナム戦争を止めようと動いた。
彼の行動は、盛り上がりつつあった反戦運動の火に油を注いだ。
政府は彼を「アメリカで最も危険な男」と呼んだ。


ベトナム戦争

< 2、ベトナム戦争 >

彼の内部告発を語る前に、ベトナム戦争の概要を紹介します。
1961~75年、米国がベトナム全土で戦った。
敵味方の総兵力330万人がジャングルと水田で戦った。
投下爆弾は第二次世界大戦の3倍以上だった。
行方不明・死者の総数は800万人を越える。
米国は兵員最大55万人を送り、日本のGDP1年分に相当する戦費を使い、死者6万人を出した。


1975年、ベトナム戦争終結時 

< 3、1975年、ベトナム戦争終結時 >

戦争の経緯
この地域はフランスが長らく植民地としていた。
第二次世界大戦後、米ソは冷戦時代に突入し、この地でも独立運動が起きた。
米国は「共産勢力の侵略から自由主義陣営を守る」を旗印に、ベトナムの南部に傀儡政権を樹立、経済・軍事援助を開始した。
米国の軍高官は、小さな後進国を圧倒的な戦力で制圧出来ると楽観視していた。
しかし、戦況は泥沼、膠着状態となる。
ホワイトハウスが如何に言い繕っても、真実は漏れ、国民に厭戦気分が徐々に広がっていった。


反戦デモ

< 4、反戦デモ >

70年には全米で百万人の反戦デモが起きた。
ニクソン大統領が名誉ある撤退を模索する間にも、戦争は拡大していった。
この時期、エルズバーグ博士が内部告発(ペンタゴン・ペーパーズ事件)を行い、2年後完全撤退が行われた。
この撤退の2年後、ベトナムは統一され共産国家になった。
米国は多大な人命、戦費、爆弾を費やして、遂に目標を達成出来なかった。
50年代のベトナム介入から、完全撤退まで5人の米国大統領がこの戦争に関わることになる。


1971年、ペンタゴン・ペーパーズ暴露記事 

< 5、1971年、ペンタゴン・ペーパーズ暴露記事 >

ペンタゴン・ペーパーズ事件とエルズバーグ博士
1971年、ニューヨーク・タイムズ紙が国防総省の極秘ファイルを連載し始めた。
これはエルズバーグ博士が、国防総省内でコピーして持ち込んだものでした。
この資料は「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれ、1945年から68年の「ベトナム政策の意志決定過程」の調査報告書で、省内のあらゆる記録情報が網羅され、7000頁に及んだ。


エルズバーグ博士

< 6、エルズバーグ博士 >

彼はこの調査報告書の作成にも関わり、かつ閲覧を許されている10名程の内で、全編を読んだ数名の一人だった。
彼は経済専門だが、国防総省内でゲーム理論を使い核抑止の政策や実際の侵攻計画を練っていた。
端的に言えば、彼は戦略研究者であり情報分析官、作戦立案者であった。
彼は国防省の将官クラスとして、またホワイトハウスにも出入りしベトナム戦争に深く関わることになる。















20140120

Travel to South Korean 8 : Sightseeing of Busan and Daegu

At October 21and 22, I saw the sights of the suburbs of Busan and Daegu.
I introduce the main of the sightseeing spot.

1021日、釜山近郊、22日大邱を観光しました。
観光地の要所を紹介します。


I looked at Busan from the airplane. 

< I looked at Busan from the airplane. >
We have gone away from Kansai Airport and land at the international airport of Busan soon.
First, we visit  Beomeosa temple and go to Daegu. 
Beomeosa temple was introduced in “Travel to South Korean 7”.

関西国際空港を飛び立ち、釜山の金梅国際空港にもうすぐ着陸。
最初に、梵魚寺を見学し、大邱に移動。
梵魚寺は「韓国旅行 7」で紹介済み。


the big market of Chinese herb in Daegu

the big market of Chinese herb in Daegu

< the big market of Chinese herb in Daegu >
It is in the central part of Daegu and consists of about 350 stores of Chinese herb.
Because it was only the stores of Chinese herb, I of a tourist did not enjoy.

ここは大邱の中心部にあり、韓方薬店が350軒ほど並んでいます。
漢方薬材の店だけなので、観光客の私には楽しめるものはなかった。


View of Mt. Palgongsan from the observatory

< View of Mt. Palgongsan from the observatory >
It is distance of 20 km from the north side of Daegu.
I expected colored leaves, but it was still early.
We can take a walk around the observatory and can enjoy a view of Mt. Palgongsan, and overlooking landscape.

ここは大邱の北側20kmの所にある。
紅葉を期待していたのですが、まだ早かった。
展望台周辺は散策が出来、八公山と眼下の眺めを楽しむことが出来ます。


the ropeway to the observatory of Mt. Palgongsan 

 the ropeway to the observatory of Mt. Palgongsan 



< a view of the direction of Daegu from the observatory


Donghwasa temple, the front temple 

< Donghwasa temple, the front temple >
It is in the foot of Mt. Palgongsan.
This temple belongs to the same denomination as Beomeosa temple that I introduced last time.
Although the foundation is old, it suffered abandonment.
The present building was reconstruction in the 18th century.
If we pass through under the front temple, we can go to the precincts of Daeungjeon.


ここは八公山の麓にある。
この寺は前回紹介した梵魚寺と同じ宗派に属します。
創建は古いのですが、長らく廃寺で、現在の姿は18世紀の再建です。
中央に見える鳳棲楼の下を抜けると、大雄殿がある境内に出ます。


Bell tower and Yakushi Buddha in Donghwasa temple

 Bell tower and Yakushi Buddha in Donghwasa temple
The front temple is visible to the left of the Bell tower.
The placement such as river, bridge, gate, and buildings is about the same with Beomeosa temple.
The stone statue of 33m in height was made in 1992.


梵鐘楼の左に先ほどの鳳棲楼が見えます。
川、橋、門、楼、大雄殿等の配置は梵魚寺とほぼ同じです。
高さ33mの石像は、1992年に造られた統一薬師如来大仏です。

















20140118

社会と情報 7: 到来しつつある社会

1969年、月面着陸のテレビ放送 

< 1969年、月面着陸のテレビ放送 >

既に見ましたが、一人の内部告発者が巨大産業の不正を暴き、社会が良くなりました。
この成功は1990年代の米国だから可能だった。
恐らく現在の日本や、20世紀中頃以前の欧米も不可能だったでしょう。
その違いを探ります。

告発が成功した社会背景(ワイガンド博士の事例から)
当時、民間企業の内部告発者を保護する法律はありませんでした。
以前の法制度下では、告発者は、いとも簡単に合法、非合法によって社会から抹殺されてしまいます。
司法は、適用可能な法と証拠が無ければ何も出来ません。
このような状況を救ったのはマスコミ(テレビ局と新聞社)でした。


1960~75年、ベトナム戦争の報道

< 1960~75年、ベトナム戦争の報道 >

マスコミはなぜ告発者に味方したのでしょうか?
マスコミには告発された組織からの妨害に立ち向かう強い動機があったからです。
それは国民のマスコミに対する期待と信頼であり、盛り上がる世論です。
米国の有力マスコミは、ここ半世紀あまり、政府の失策や企業の腐敗を暴いて来ました。
そのマスコミは、政府から機密漏洩、企業から損害賠償の訴訟に晒され、時には大統領からの圧力を受けることもありました。
しかしその圧力を名物編集長やプロデユーサーらがはねのけて来たのです。
そのことが、有力テレビ局や新聞紙の存在理由かもしれません。


1982年、100万人反核デモの報道

< 1982年、100万人反核デモの報道 >

それではなぜ、半世紀前以前の米国と状況が異なるのでしょうか? 
それは相次いで起きた内部告発が世論を巻き込み、大きな成果を挙げるようになったからです。
それがまた、内部告発(公益通報者)保護法の成立と改良に向かわせたのです。
つまりは、告発が瞬時に国中の世論と呼応するようになったからです。


1989年、ベルリンの壁崩壊の報道

< 1989年、ベルリンの壁崩壊の報道 >

情報ネッワークが急速に発展している。
米国において、19世紀中頃には新聞は大衆化していた。
1946年、北アメリカでラジオの聴衆者が人口の85%に達する。
1960年までに、米国のテレビ視聴時間がラジオを抜いて、最大のメディアになる。
国民は、興奮する月面着陸や悲惨なベトナム戦争、大統領の素顔、世界の事件を生放送で見ることが出来るようになった。
1980年代、世界の多くの地域で、テレビが余暇活動の中心に、また主要なニュース源となる。

現代社会は、情報ネットワークが国民の最有力な武器と成りつつあるのです。

次回、ベトナム戦争を終結に向かわせた内部告発を紹介します。