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今回は、麗江古陳から近いチベット仏教の普济寺を紹介します。
この地にはチベット仏教寺院が多い。
これはアジア大陸の悠々の歴史を物語っている。
少し驚いたエピソードも紹介します。
< 2. 地図、上が北 >
上: 麗江の位置を示す
黄色枠:麗江古陳、中央の白矢印:普济寺、白枠:束河古陳、黄色矢印:香格里拉。
雪を被った山が玉龍雪山で、その左側を上下に長江が流れている。
現在、麗江古陳からチベット圏東南端の都市、香格里拉までは長江沿いに車で200km、4時間の道のりです。
麗江からの観光ツアーがあります。
さらに香格里拉からチベットの古都ラサまではさらに車で1570km、24時間の道のりです。
今でさえ麗江からラサまでこれだけ遠いのですが、1300年以上前、道なき道を商隊や僧侶が馬や徒歩で行き交ったのです。
当時、茶葉古道は麗江を通り、左(西)に折れて、長江に沿った道だったようです。
下: チベットと雲南省、四川省間の主要な道
左上の雅安から始まる道が四川省成都に通じる。
左下に延びる道が、プーアル茶の産地で有名な普洱に通じる。
< 3. 古城忠义市场を出発 >
古城忠义市场の前は、すでに都市部の街並みです。
ここから西側の山に向かってタクシーで向かいます。
< 4. 普济寺に到着 >
普济寺は麗江にあるチベット仏教5大寺院―玉峰寺、福国寺、指云寺、文峰寺の一つです。
私がチベット寺院に連れて行ってくれとガイドに頼んで、来たのがこの寺です。
この寺は麗江古陳から最も近いが、他の寺院の方が有名です。
下: 普济寺の門
木々に覆われた小高い丘の上に建っています。
この寺は一辺70mほどの壁に囲まれています。
門の両側に大きなマニ車が見える。
ここの創建は清朝の乾隆帝の時代、1771年で、後に数度修復されている。
< 5. 境内に入る >
私達が入った時は、住職以外に人はいなかった。
古い建物が境内を囲み、大きくない境内は樹木で一杯でした。
春になると梅の花が綺麗だそうです。
この地域の寺には紅梅が多いようです。
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< 7. 本堂に入る >
上: 入り口の左にあるマニ車
信者がこれを回すと、回した数だけお経を読んだことになり、功徳があるとされる。
側面にマントラ(密教の真言)が古いインド文字で刻まれている。
この筒の中には経典が納められている。
左下: 右が入口
右下: 内部に入ると目の前に、天井から吊り下がっている布が目に入る。
どうやらチベットのタルチョーのようだ。
タルチョーは祈祷旗で、五色の青・白・赤・緑・黄の順に並び、それぞれが天・風・火・水・地を表している。
これが筒状に、2段に重ねられている。
< 8. 正面 >
上: 正面の奥を見ている
狭い堂内はカラフルで、壁一杯に掛け軸や写真、絵が飾られている。
仏画の掛け軸はタンカと呼ばれる。
正面は観音像のようです。
逆三角形の顔の輪郭と耳まで覆う大きな冠はチベット仏像の特徴です。
左下に釈迦如来像らしいものが見える。
下: 正面の左側を見る
奥に千手観音像が見える。
チベット仏教では釈迦像や如来像よりも観音像が重視されているようです。
< 9. 右側面を見る >
タンカが沢山見られる。
< 10.明王像か >
上: 仏像の表情は眉がつり上がり、怒りの様相をし、また鎧を纏っているので明王像らしい。
また獣に乗って従えているように見える。
明王像は、インドで仏教が衰退する直前の7世紀頃、最後に花開いた密教と関りがあります。
日本の密教は弘法大師が広めたことで知られています。
密教は、それまでの悟りや戒律重視の仏教から、祈祷や呪文が重用される世俗的なものになりました。
この時に、仏教以外のヒンドゥー神や様々な守護神などが仏像に加わりました。
その一つが明王像で、悪魔を降伏させる怒りの表情を持っている。
チベットに仏教が広まったのは、7世紀のチベット統一王朝成立時なので、密教が主になったのです。
下: 本堂の屋根
< 11. 住職家族の住まい >
本堂の隣、壁を隔てて住職の住まいがあります。
久しぶりに、古い住宅をまじかで見ました。
* 歴史を想う *
今回の中国旅行では、4種類の寺院―道教の道観(開封)、仏教寺院(開封)、モスク(蘭州)、チベット寺院(麗江)を見た。
また麗江ではナシ族の宗教、トンパ教の一端を見た。
様々な宗教が習合し、像や装束、建物などが影響され文化の混淆を見ることが出来た。
この地のチベット仏教やトンパ教を見て、大きな時の流れとアジアの交流について感じることがある。
麗江にチベット仏教が伝わったのは、おそらく茶葉古道を通じてだろう。
これは険しいアジアの屋根を2000kmも隔て行き交っての事だった。
一方、北のシルクロードから伝わった仏教が中国の大平原で漢文化と混淆し、道教と共にこの地に遡上するようになった。
これは昆明、大理(雲南)を経て入って来たのかもしれない。
しかし長江は香格里拉や麗江から四川省や武漢を経て上海で太平洋に注ぎ、これも経路の一つだったかもしれない。
この普济寺を建立したのは清朝の皇帝でした。
13世紀、モンゴル帝国はチベットを征服した折、それまでの原始宗教からチベット仏教を国教にします。
この後、北方や中央アジアにチベット仏教が広まった。
その後、北方の満州民族である清王朝が中国全土を支配した。
このことで、清王室の中にはチベット仏教を篤く信仰する人物が出た。
こうしてこの地には幾重にも宗教や文化が交錯することになった。
さらに不思議な事がある。
実は、遺伝子分析によると日本人(大和、アイヌ、琉球の民族)にもっとも近縁なのはチベット人で、分岐は3.5万年以前だそうです(所説あり)。
これは氷河期の事で、日本列島に新人類が住み始める前のことです。
その後も様々な交流が見られる。
かつて日本の水耕稲作はインド東端のアッサム地方から長江沿いに伝わったとされたが、現在の起源は長江中下流域のようですが、どちらにしても長江が関わっている。
またイザナギとイザナミが出てくる国生み神話の起源は、長江中流域にあるとの説もある。
訪れた成都の金沙遺跡と出雲大社の両遺構から復元された神殿が実によく似ている。
これも長江流域で見つかっている紀元前5千年前の高床式住居と日本の高床式から発展した神社建築様式の繋がりを示しているのだろうか?
身近なものにも驚きがあった。
アイヌのムックリ(口にくわえて鳴らす楽器)と同じような物を、この麗江(ナシ族)でも見ました。
調べてみると中国南部から東南アジアに広く分布しているようです。
不思議な事に、韓国、中国北方、アイヌ以外の日本では見られないのです。
こうしてみると、日本人や文化が長江流域と深く関わっていることを感じさせる。
この奥まった高原地帯の雲南、麗江は実に興味深い。
* 驚いたエピソード *
麗江古陳と他の観光地への移動では、ガイドがライドシェア(滴滴出行など)でタクシーなどを呼ぶのですが、今回は問題が発生した。
この寺から次の束河古陳まで移動するために車を呼ぶんのですが、幾ら待っても応じる車がないのです(辺鄙だからでしょう)。
そうこうするうちに、一人の中年女性が寺に車でやって来ました、
ガイドは帰ろうとする彼女に乗車を頼みました。
少しの交渉時間を経て、載せてくれることになりました。
私は、これまで親切な人に出会っていたので、てっきり善意で無料と踏んでいたのですが。
彼女は、お金を要求し、一人数十元で三人分要求している。
私はお金を支払い彼女の乗用車に乗りました。
移動は近いので、直ぐ着きました。
私達は助けられたのですが、それにしても彼女の勘定高いのには驚いた。
また辺鄙な観光地でのライドシェアやタクシーを呼ぶのは困難だと知りました。
バス交通の確認と、初めからチャーター車の利用を考えないといけないようです。
次回に続きます。