20201230

中国の外縁を一周して 59: 中国と北欧、そして日本 3: 家族、教育、移民・多民族、親切について

  

*1

 

 

今回は、家族、教育、多民族、親切を切り口に北欧と中国を見ます。

そこから社会の適応力と多様性が見えて来ます。

これらは社会発展の原動力になっている。

 

 

 

< 2. 教育現場、北欧の公園にて >

 

上: ノルウェー、首都オスロ郊外の湖にて

平日の朝早く、湖を見に行った。

8時を過ぎると、中学生か高校生らしい十数名のグループがやって来て、スポーツを始めた。

 

下: デンマーク、ロスキルの公園にて

平日の1時半頃、公園内を通り抜けた時、至る所で小学生や中学生のグループが見えた。

どうやら先生が引率して、何か課外授業を行っているようでした。

 

12日間の旅行中、緑豊かな公園で生徒が先生と一緒に居る光景を数多く見た。

この時期、北欧は長い冬をやっと終え、正に待望の初夏到来だったからもあるだろうが、それにしても自然と共に過ごすことを重視している事に感銘を受けた。

 

 

 

< 3.垣間見たチャレンジ精神 >

 

オスロ湾の島に掛かる橋Ulvøya bridgeにて。

海面より10mの高さから中学生らしい男女のグループが飛び降りようとしていた。

平日の午後3時頃でした。

おそらく授業は終わったのだろうが、それにしても危険だとして禁止されている雰囲気は無かった。

 

 

 

 

< 4. 教育現場、中国の大学にて >

 

共に廈門大学の構内にて

この中国旅行で、私が教育に関わるものを見たのはこの大学だけでした。

この大学の見学は、友人の特別な計らいにより実現出来た。

中国の観光ツアー客もいたが、門でチェックを受けていた。

 

上: 最も目立った校舎

緑が多く広いキャンバスに校舎、図書館、博物館、寮、食堂などが点在している。

 

下: この区域には寮や食堂が多い

歩いている学生に東南アジア系の人が思ったより多くいた。

この大学は、中国の中では国際交流と留学生の受け入れに積極的だそうです。

構内を案内してくれた中国人は、大学の国際交流担当の係員で、日本に行ったこともあり日本語を流暢に話していた。

廈門大学には日本語・日本文学科がある。

 

中国国内を旅行していると分かるが、外国人を見かけることは少ない。

雲南に行くと、隣接すらからだろうが東南アジアの人をたまに見かけることがあるぐらいだ。

 

廈門空港で経験したが、外国人の移動には神経を尖らせているようだった(ツアー旅行ではないからかも)。

まだ中国は、広く一般の外国人を受け入れるつもりは無いようだ。

 

そうは言っても、中国人の海外への関心は高い。

中国からの海外旅行者の多さもそうだが、海外留学も年間70万人(2018年、約5年で倍増)に近く、50%以上が米国に行っている。

彼らが帰国して、中国の技術や経済の発展を支えることになる。

これは華僑の精神が、今も生き続けいてるからだろう。

 

同年の日本のからの海外留学生は9万人、その25%が米国だった。

人口比率で見ると日本の方が多いが、日本の場合は年々低調になっている。

また多くは1ヶ月ほどの語学留学になってしまった。

 

これでは日本が遅れ取っても不思議ではない。

 

 

* 北欧と中国の教育について

 

北欧では、スウェーデンのストックホルム大学の構内を散策したが、実に開放的でした。

校庭には学生グループに混じって親子連れなど一般市民が広い芝生で楽しく過ごしていました。

一方、中国は監視が厳しいので、これは出来ないようだ。

 

北欧では教育の場において、自然と共にのびやかに生きることを教えているようでした。

北欧の学費は無料だが、進学については先ずは休学して社会を経験し、自分の目指すことを見っけてから、再度、学びを始めることが可能になっている。

これを可能にする制度と社会の受け入れ態勢が出来ている。

これは日本に無い個人を尊重した文化の現れでしょう。

 

一方、中国では、聞くところによると、学歴(学力かも)が重視され詰め込み教育が為されているようです。

これは日本とそっくりと言えるが、海外への関心の高さは北欧に近い。

ただ、海外留学組は中国の裕福な家庭に限られるので、貧富の差が開き、固定化する可能性があるだろう。

 

 

 

< 5. 移民・多民族、北欧で >

 

上: スウェーデン郊外、Älvsjö にて

土曜日朝7時頃、鉄道駅の横のバス停にて。

これから出勤する所でしょうか、アフリカ系、白人、ヒスパニックかインド系、ムスリムも居るようです。

私の見るところ、談笑しているようでした。

 

この地域は、移民が多く住んでいる。

もっともスウェーデンでは外国に背景を持つ人は25%にもなります。

従ってこの地域の移民が30%を越えても特別では無い。

 

 

下: スウェーデン郊外、Märsta station の前にて

平日の午前11時前、駅に向かっていた。

この日は、私が北欧観光の1日目で、通勤の光景を見るのが始めてでした。

驚いたことに、白人に混じって、かなりの非西欧人が駅に向かって歩いていた。

 

34年前の北欧とはかなり雰囲気が異なりました。

当時もホテルのウェイターに非西欧人はいたが、町で見かけることはほとんど無かったように思う。

変化が凄い。

 

北欧三ヵ国は、大戦中、概ね中立を守り、特にスウェーデンの戦争被害が少なかった。

それ以前は貧しいかったので移民を出す国だったのだが、戦後復興を一早くやり遂げるために移民受け入れを精力的に行った。

当然、受け入れ態勢も、安く使い捨てすれば良いといものではなかった。

これが人口増加と経済成長を後押した。

 

北欧は、単に経済的な手段としてではなく、世界平和の観点から難民受け入れにも積極的だった。

こうして外国を背景にする人が溢れることになった。

 

なぜ日本のように移民や難民に閉鎖的では無いのだろうか?

 

二つの要因が大きいと考える。

やはり、ヴァイキング精神が息づいており、世界との繋がりをいつも意識している。

日本でも海外に勢力を広げた倭寇は存在したが、なぜか日本文化に影響を与えなかった。

今一つは、北欧が小国で、西欧や東欧の大国の意向に翻弄され、かつ適当に離れていたことが大きい。

従って、北欧は生き残るために、世界の国々による認知と支援が必要だった。

これはバルト三国にも通じる。

このことが、北欧が世界平和に積極的になった一因だろう。

 

こうして移民を受け入れた事と大戦を避けた事が幸いして、北欧の恵まれた社会が誕生したと言えそうです。

 

そうは言っても、北欧も移民問題では苦労し始めている。

 

 

 

 

< 6. 多民族、中国で >

 

上: 昆明の公園にて

 

下: 麗江の市場にて

 

昆明、麗江の紹介で詳しく記しましたので、詳細は省きます。

 

一言で言うと、多くの少数民族が保護され優遇され漢民族と共存している。

欧米ではマイノリティへの優遇策は最近縮小傾向にあるが(右翼化も一因)、中国では現在も有効なようです。

しかも日常的に民族衣装を来ている姿から、誇りすら感じているように思える。

共産主義だから息苦しと思っている人も多いだろうが、そう単純ではない。

 

 

* 北欧と中国の移民・多民族の共生について

 

北欧に民族問題は無いのか?

実はスカンジナビア半島北部に暮らすサーミ人は代表的な少数民族です。

北欧三ヵ国(ゲルマン系)とは人種・言語・生業(元は遊牧民)が異なります。

かつて苦労したようだが、現在、大きなトラブルはないようです。

 

中国は人口減の時代に突入したので、移民政策を採る必要があるだろう。

多民族国家を無難に乗り越えたが、香港やウイグル族の扱いのように、体制の転換を恐れるが為に、移民政策を進めることが出来ないかもしれない。

そうすれば経済成長にブレーキがかかるだろう。

 

翻って、日本はアイヌ以外に民族問題は無く、移民・難民を大きく制限しており、一見、安泰のように思える。

 

しかし、人口減の影響は大きく、移民を受け入れない影り、経済成長は期待出来ない。

ところが技能実習制度と呼ばれる隠れ蓑で、低賃金で汚い過酷な労働を担わせている。

これを放置すると、日本はやがて欧米と同じ移民問題で苦しむことになる。つまり、外国人労働者の低所得と低水準の教育が、悪循環を生み、やがて底辺層の治安悪化と日本人との仕事の奪い合い(賃金低下)に発展するだろう。

 

 

 

< 7.家族、北欧で >

 

上: オスロ、ベイエリア開発区の裏側にて

平日、午後4時前頃。

中近東系の男性がベビーカーを押している。

 

父親が子供を連れている姿を他でも見ることがあり、子連れの女性より男性の方が目だった。

 

 

下: スウェーデン郊外、Älvsjö にて

平日、朝7時半頃。

父親が娘二人を学校にでも連れていくようです。

 

北欧では、男女平等、夫婦共稼ぎが普通であり、祖父母と同居していないので、家事や子育ては夫婦で分担することになる。

 

 

 

< 8. 家族、中国で >

 

上: 麗江の古陳にて

土曜日、午後1時過ぎ頃。

中国ではどこに行っても、祖父母が孫をあやしている、または連れている光景を見る。

 

これは一人子政策の名残りと、若夫婦共稼ぎ、そして50歳代で祖父母が定年退職で年金暮らしになるからです。

少なくとも、祖父母には愉しみがあり、また家族の繋がりが強いとは言えそうです。

 

下: 廈門の公園にて

平日、午前9時半頃。

時折、お父さんが子供を連れている姿を見ることがありました。

特に子連れの女性が多いと言う印象は有りませんでした。

 

 

* 北欧と中国の家族について

 

意外に思えるのだが、北欧も中国も共稼ぎで、夫婦で家事や育児を分担している。

対極にある国のようだが、似ている。

一方、日本と言えば、両地域に比べ、共稼ぎの割合が低いにも関わらず、家事分担どころではなく男女平等とは程遠い。

 

だが中国と日本で似ている所もある。

それは祖父母と若夫婦の繋がりで、日本では祖父母と同居する率は高い。

中国の同居率を知らないが、毎日、孫の面倒を見れる距離に住んでいる人が多いのだろう。

これは儒教の影響だろうか。

 

北欧にも不思議なことがある。

あれだけ若い夫婦が家庭を大事にしているのに、子供は高校生ぐらいから独立を始める。

そして親は老齢になっても、子供と暮らすことを望まず、最後は一人暮らしを続ける。

東アジアの人間にすれば、寂しい人生に思えるのだが。

 

これもヴァイキング時代からの文化が根付いているのだろうか。

冷涼な北欧では、ヴァイキングは狩猟・漁労・農業とさらに交易で生計を立てなければならなかった。

つまり、子供に資産や土地などを残す術は限られていた。

そこで独立心と冒険心を植えることが子供への遺産だったのだろう。

この精神文化が今も健在とするなら驚くべきことです。

 

中国南部の山岳地帯に暮らした人々、客家もこれに似ている。

彼らは、漢民族の圧力に押されて南下したが、やがて海外に活路を求めた。これが華僑の始まりでした。

 

 

 

< 9. 親切、北欧で >

 

ツアー旅行で無いフリーの旅では、人の親切は身に沁みます。

またその国の国民性を直接感じることが出来ます。

北欧では多くの人の温かい一言や親切に触れました。

 

 

上: オスロの地下鉄駅にて

朝、地下鉄に乗ろうとして構内に入ったが、どのホームに向かうべきか迷っていた。

すると一人の夫人が、私に寄って来て、どちらに行くのかと聞いてくれた。

すると彼女は行くべきホームをジェスチャーを交えて英語で教えてくれた。

お陰で目的を達することが出来た。

彼女は通勤途中にも関わらず、時間を割いてくれた、有難い。

 

 

下: ストックホルムの中央駅近くにて

バス停を探しても見つからず、途方にくれている時、通りがかりの高齢の夫人に声をかけた。

バス停の位置を聞くと、写真の高架の上の道路上にあると言って、逆戻りして、階段の下まで私を案内してくれた。

案内を終えた時の彼女の笑顔が素敵でした。

 

 

北欧では、こちらから道などを訪ねた時の応対が実に親切で有難かった。

一方で、私が困っているを見て、声をかけてくれる人も度々いた。

特に日本に好印象を持っている人が多かったように思う。

 

 

 

< 10.親切、中国で >

 

上: 新幹線の開封北駅にて

開封駅では、2回も助けられた。

一回目は、外から駅構内に入る時、税関で手荷物検査をしている時でした。

係員が厳しい口調の中国語で、制止した。

困っていると、後の青年が「刃物が有るか」と英語で教えてくれた。

スーツケースを空けると、係員は小さな十徳ナイフを見つけ出し、確認後、通過を許してくれた。

 

二回目は、待合所で新幹線の到着を待っている時でした。

新幹線の車両は大変長く、改札は新幹線到着直前にしか開かないので、私は予めホームの何処を目指して行くべきか不安でした。

近くにいた若い女性を探し、英語で教えてくれと頼むと、快く引き受けてくれた。

改札が開くと、彼女は私ら夫婦を導いてくれて、ここで待つように言った。

そこには何の印も無かった。

やがて列車が停車すると、乗るべき車両の扉は私の前に来ていた。

 

 

下: 蘭州の街中にて

新幹線の駅からタクシーに乗り、都市の中心部まで来たが、運転手はホテルが分からず、迷ってしまった。

ぐるぐる都心部を回っていると、運転手は通りすがりの一人の青年に声をかけた。

青年は助手席に乗り、ホテルまで案内してくれた。

私は青年に感謝を伝え、そこで別れた。

爽やかな青年でした。

 

 

* 北欧と中国の親切について

 

二つの地域を比べて、どちらがより親切かを断言できない。

しかし両方共に、親切だったことは間違いない。

 

それでも少し違いはある。

理由は定かではないが、北欧では年配者ほど親切なようです。

一方、若い女性に尋ねた時は、良い返事が得られなかったことが多い。

ひょっとすると若い女性(駅で2回ほど)には、なぜか英語が通じなかったのかもしれない(移民の子女か)。

ただスウェーデンの鉄道駅や空港の係員には、英語が出来ないと冷たくあしらう人がいた。

 

一方、中国では、年寄りよりも若い人の方が親切でした。

若い人は日本に関心を持っており、英語の出来る人が多かった。

中年以上ではマナーが悪かったり、私が列に割り込んだ時「リーベンレン」と小さく吐き捨てるように言われたことがあった(私が悪いのだが)。

 

成都空港でタクシーに乗って運転手に近距離を頼むと、うるさく文句を言われ続けた(2回も)。

逆に、北京で中国版ウーバー(滴々出行)に乗った時、変な体験をした。

初めて乗ったは良いが、手違いで行先が間違っており、キャンセルや変更が出来ず、更に現金払いも出来ず、私達は途方にくれた。

結局、運転手は嘆き、私に文句は言うが怒ることはなく、私の現金も受け取らず、去っていった。

運転手はどうやら滴々出行の評価システムを気にしているようでした。

ここでも中国の新しい側面を見ることが出来た。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

20201223

平成イソップ物語 19: 狐と狸と鼠

  


*1

 

 

昔々、ある野に気高き一匹のボス狐がいました。

その狐は多くの狸を引き連れ、さらに多くの鼠を養っていました。

そこは一見、活気に満ちていました。

 

 

一匹の鼠がボス狐に訴えました。

「最近、我々の仲間が一匹、一匹と姿を消していきます」

 

ボス狐

「私が責任を持って調べよう」

 

それから1年の歳月が過ぎました。

 

別の鼠がボス狐に問いました。

「益々、仲間が姿を消しているが、あなたの周りで血の付いた鼠の毛が見つかることがあります」

 

ボス狐

「それは隣の群れの鼠のものだろう。私はまったく関りが無い。」

 

 

 

*2

 

周囲の狸も声を揃えて罵りました。

「立派な狐様に無礼だぞ! 疑いだけで非難するな!」

 

鼠たち

「我々は気高きボスを信じ、従うしかないのだろうな。」

 

それからまた1年が経ちました。

 

ボス狐

「犯人が分かったぞ。私の部下の狸がすべて一存でやった事だから、私が処分しておいた。これで安心だ!」

 

それから数年もすると、その野には鼠と狸の白骨が無数に散らばっていました。

 

 

 

*3

 

このようなことは人類史に幾度も起こりましたとさ!

これは決して今の日本を揶揄したものではありませんので、

非難のほどはご容赦を・・・

 

終わります

 

 

 

 

20201221

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 14: 平家落人伝説を追って 1

  


*1

 

 

これから数回に分けて、祖谷の平家落人伝説が残る史跡を紹介します。

今回は、武家屋敷 旧喜多家と鉾杉を紹介します。

訪れたのは2020年6月9日午前9時頃でした。

 

 

 

< 2. ドライブルート、共に上が北 >

 

朝、かずら橋の旅館を出て、祖谷川沿いを10kmほど上流に沿って走りました。

そこから左手の山の急斜面を車で登って行きます。

 

上: 今回の旅で訪れた平家の史跡はこの範囲に限られます。

詳しくは巻末の観光地図を参考にして下さい。

 

右(東)から左に蛇行しているのが祖谷川と祖谷街道です。

左の方の白い点が武家屋敷への登り口で、赤のバルーンが武家屋敷です。

標高は登り口で510m、武家屋敷が850mで、その間4km以上を蛇行した林間の細い道を走ります。

右端に落合集落が見えます。

その手前、左手の山側に安徳天皇の史跡があり、次回紹介します。

 

下: 武家屋敷 旧喜多家までのルートを拡大

赤矢印が旧喜多家、白矢印が登り口です。

 

 

 

< 3. 旅館を出て祖谷街道を行く >

 

この辺りの道は広いが、突如狭くなる所がある。

下の写真では、土木工事の多くの作業者が準備を始めていた。

走っていると幾度も道路工事を見かけた。

道路は整備され、便利になり観光開発の目的もあるだろうが、高額な土木工事費が気になる。

過疎地の開発手法に違和感を覚える。

 

 

 

< 4. 武家屋敷に向かって登り始める >

 

上: 登り口が分からず、行き過ぎてから戻っているところ。

左は祖谷川への断崖、右は切り立つ斜面に挟まれた細い道。

 

中央: 右手に登り口が見えた。

 

下: 登り始めた。

 

 

 

< 5. やがて現れた >

 

急斜面を曲がりくねって進む細い路を行く。

対向車が来ないことを祈るばかりでした。

幸いな事に、まったく出くわすことはなかった。

 

下: もうすぐ峰に届くかもしれないと思ったが、どうやら路は行き止まりで、少し開けた土地に出た。

農家の左側に茅葺の大きな屋敷が見えた。

 

 

 

< 6. 屋敷の敷地へ >

 

上: 石垣の擁壁の右側に階段があり、登った。

 

下: 雨戸はすべて閉まっていたが、大きな屋敷が出現した。

 

 

 

< 7. 屋敷の周囲 >

 

上: 裏手

左下: 凝った雨戸の戸袋。

右下: 雨戸。

 

 

 

< 8.やがて開場 >

 

私が周辺をうろうろしていると、一人の女性が声をかけてくれた。

彼女は他から、車でここに着いたばかりのようでした。

彼女はこの屋敷の管理人で、今から開場するが、中に入りますかと聞いた。

私は時間が無いのでと断り、外から矢継ぎ早に写真だけを撮らせてもらった。

彼女の親切な応対に恐縮した。

 

上外: 玄関の様子。

立派な玄関でした。

 

 

 

< 9. 囲炉裏と鎧 >

 

 

< 10. 屋根裏 >

 

茅葺の裏側がよくわかる。

 

 

* 旧喜多家について

この屋敷は1763年の建築で、祖谷地方では最も大きい上層階級の屋敷です。

安土桃山時代、蜂須賀家の命によりこの地を鎮圧した人物の息子が、この地を任され、後に喜多家と名乗り、明治維新まで続いた。

従って、喜多家は平家の史跡ではありません。

 

屋敷の玄関には式台(階段状)や書院風の座敷があります。

部屋の中央には囲炉裏があり、自害するための部屋「入らずの間」もあります。

 

 

 

< 11. 旧喜多家の前 >

 

絶景が広がる。

しかし納得出来ない。

祖谷に暮らす人の中には、平家を祖先とする家系図を持っている人がおり、位の高かった家格ほど、高い場所にあると聞いていた。

しかし、この高さは尋常ではない。

非常に暮らしにくい、祖谷川に下りるのに途方もない労力がいる。

 

そこで管理人に聞いた。

「いくらなんでもこの高所の屋敷は考えられない」と。

彼女は答えた。

「実は、この屋敷は以前、この下にあったのですが、鉾杉がここにあるので移築しました」と。

移築は1990年のことでした。

 

 

下: 鉾杉に向かって進み、振り返ったところ。

確かに、鉾杉は直ぐ近くでした。

 

 

 

< 12. 鉾杉と鉾神社 >

 

上: 鉾神社

安徳帝の所持していた鉾を納めたと伝えらている神社。

直ぐ左裏側に鉾杉がある。

 

下: 鉾杉

直径2.5mほど、高さ35mの巨木が立っている。

 

壇之浦の合戦で死去したとされる猛将、平経教(たいらののりつね)が、この木の下に、平家再興を願い、平家守護神の鉾を埋めたと言い伝えられている。

彼はこの地で名を国盛と替え、この大枝の地から南の対岸にある阿佐の地に移り住み、阿佐氏として現在に至る。

その地に平家屋敷、阿佐家がある。

 

 

 

< 13. 下り始める >

 

上: 南側、対岸の峰が低く見える。

 

下: 東側、祖谷川の上流側を望む。

山腹に数件の集落が見える。

 

 

 

 

< 14. 下りの路より >

 

 

< 15.祖谷平家伝説 史跡図 左半分 >

 

「祖谷平家伝説」 https://nishi-awa.jp/heike/html/

「パンフレット」 https://nishi-awa.jp/heike/pdf/heikenaka.pdf

 から借用。

 

今回紹介したのは、この図の六と七と喜多家です。

次回は、九と十を紹介します。

 

 

 

< 16.祖谷平家伝説 史跡図 右半分 >

 

この左右の地図の範囲を、概ね今回旅しています。

 

次回に続きます。

 

 

 

20201211

中国の外縁を一周して 58: 中国と北欧、そして日本 3: 食文化について

  

 

< 1. 成都の麻婆豆腐 >

 

 

今回は、食文化にスポットを当てます。

日々の生活が反映される食文化から、北欧、中国、日本の違いが見えて来ます。

私の北欧旅行は貧乏旅行だったので、残念ながら安い食品の比較に過ぎませんが。

 

 

 

< 2. 定番料理 スモーブロー >

 

上: ストックホルムの中央駅コンコースのレストランにて

 

フロアでは、弁当のような手軽な食事も販売していたのですが、ストックホルムを離れるにあたって、最後にまともなランチを食べることにしました。

一度はバルト海に面した漁師町で海鮮料理を食べる予定でしたが、交通トラブル(線路不通)の為に行けなかった。

 

選んだ料理は、下の写真のようなオープンサンドでした。

このスモーブローは、スウェーデンやデンマークで多く見かけました。

彩が綺麗で、肉や魚介をパンに乗せたものです。

料金はペッボトル飲料込みで約1900円でした。

 

 

下: クロンボー城のある町ヘルシンゲルのレストランで

 

クロンボー城近くのレストランは開いていたが、街で地元の食事を探そうとした。

ところがこの日、街で祭りのイベントがあり、多くのレストランが休んでいた。

たまたま営業していたレストランでは、数種類の料理しかなかった。

それでまたスモーブローを選んだ。

おそらくこれは作り置きが出来るからです。

 

これは美味しいのですが冷たいので、涼しい6月初旬のテラスには合わないかもしれません。

料金はビール込みで約2300円でした

 

 

 

< 3.コペンハーゲンにて >

 

共に屋内マーケット、トーベヘルネKBHの写真です。

ここは地下鉄駅Nørreportの近くのイスラエル広場にあります。

 

この手のマーケットに、ストックホルムでも訪れたのですが、食品が高いので一度も食べずじまいでした。

 

北欧の料理価格は日本の1.5倍以上高いと思った。

このようなマーケットやオスロのレストラン(ウインドウディスプレー)も同様でした。

私の昼食と夕食のほとんどは、結局、コンビニでホットドッグやサンドイッチで済ました。

それでもペッボトル1本と食材で600円から1200円が必要でした。

 

ここで物価を比較します。

 

*4

 

指数の値は異なりますが、食料品が高いことは明かなようです。

 

 

 

< 5. ストックホルムで知った変化 >

 

Hop On Hop Off のバスで、中心部を周遊していた時です。

日本語の説明をイヤホーンで聞いていると、驚きの情報が入って来ました。

それは下の写真、フムレ公園の横を通過した時でした。

最近、近くに夜の飲食街が出来て、賑わっていると言うのです。

 

私が1984年11月にストックホルムを訪れた時、最も大きくカルチャーショックを受けた一つに、男の夜の繁華街が無いことでした。

当時、現地の人から話を聞いたところによると、仕事を5時に終え、家族の待つ家に真直ぐ帰るのだそうです。

彼はスウェーデンでは共稼ぎの妻と子供達と、週末などに一緒に出かけると言っていた。

当然、この地では日本の男性がくだまく赤提灯は必要無いことになります。

 

それが最近出来たようなのです。

2018年、北欧を旅した時、スウェーデンの40歳男性に質問しました。

日本人は北欧に暗いイメージを抱いているが、一言で母国を説明するとしたらと聞くと、以下の答えをくれました。

「税金が高い、娯楽が少ない」

彼が言ったのは、おそらく男だけの娯楽で、家族や友人が自然に触れて楽しむ所は多々あります。

スウェーデンも徐々に軟化しているようです、まだアルコール販売は厳しいようですが。

 

 

* 北欧の暮らしの一端が見えた

 

私は、北欧旅行中、午後6時以降、疲れて町にほとんど出ていないが、日中の様子から察するに、今も変わらず人々は定時で直ぐ退社し、友人や家族と過ごすようです。

当然、夫婦で家事と育児を分担します。

そこには男女共に働く社会が今も根付いていおり、平等意識も定着している。

ちなみに専業主婦率はスウェーデン2%、日本38%です。

 

それでは高い食事をどう理解すればよいのだろうか?

日本とスウェーデンの指数を比較してみよう。

以下、すべて2015年のデーター。

 

 

*6

 

この表からわかるように日本の国民負担率は消費税が低くても、最も高いスウェーデンと比べて遜色がない。

結局、国民所得(GDP)の高い分だけ、重税でもスウェーデン国民は自由に使える金額が多い。

尚、デンマークとノルウェーの一人当たりGDPは日本の1.8~2倍ぐらいです。

 

さらにスウェーデンでは教育費は大学まで含めてすべて無料。

医療は18歳以下は無料、成人も自己負担が年間で約1万3000円、薬代2万5900円までと安く抑えられている。

老人になれば誰でも少ない自己負担、上限が月約2万5600円で、介護サービスを受けられる。

 

結局、町歩きで閉口した高い食事は、一つには消費税の高さがあったのだろう。

 

スウェーデンなど北欧は経済的に豊かで、労働時間が少なく、格差も少ない。

ゆったりと暮らしている人々を見ると幸福度の高いことがうなづける。

私には、北欧が理想の国家に思える。

大戦後に生まれた北欧の高福祉社会の実験は、今も上手く機能しているようです。

 

だが娯楽が少ないとか、格差是正のしわ寄せを負担に感じる高所得の人はいるだろうが。

 

 

 

 

< 7.中国らしい食事 >

 

上: 麗江のフードコート

このような店は古城エリア内には幾つもある。

多くは一皿300円から500円です(観光地値段?)。

料理は変化に富んでおり、温かい料理が直ぐ出来るのが嬉しい。

 

下: 蘭州の牛肉麺の店

この店はチェーン店で蘭州に数ヵ所ある。

凄いのはラーメン一杯が100円から140円で、美味しくてボリュームがあることです。

残念ながら牛肉はほとんど入っていなかったが。

日本語ガイドの話では、牛肉麺と言っても、牛肉は入っていないそうです。

副菜を足しても一人300円もあれば充分です。

 

 

 

< 8. 食文化の今昔 >

 

上: 昆明の老街

古風な趣を残した小さな飲食店が並んでいる。

皆、小綺麗な店舗になっている。

しかし提供している料理は様々で、昔ながらの中華料理ではない。

 

下: 廈門の开禾路

ここは昔ながらの商店街で海鮮市場でした。

廈門では、他にもう一つ商店街を訪れたが、开禾路の方が規模が大きく、店舗も大きく衛生的に優れているようでした。

 

中国には、生鮮食品を扱う大型スーパーが至るところにあり、衛生管理は日本と遜色が無いように思える。

しかし、一方でこのような市場が今もまだ利用されている。

 

 

 

 

< 9. 向上した食文化 >

 

上: 廈門で

 

宿舎の朝食ブッフェ会場の様子。

料理の種類も多く、味も良い。

それにもまして皆さんのマナーが良い。

 

海外旅行先で見るマナーの悪さはなかった。

日本で言う、旅の恥はかき捨てなのだろうか。

 

下2枚: ここは廈門島北部にある海鮮レストラン(海鮮城)

 

私が驚いたのは、水産センターの隣に海鮮城が二十店舗ほど並んでいたことです。

さらに各店舗がまた巨大で、1階に水槽が並び、2階で食事をします。

また水曜日にも拘らず、お客さんは次から次と来て、席は見る間に一杯になった。

 

1階の水槽を見て、魚介類を選び注文します。

私は支払っていないのでよくわからないが、タラバガニに似たカニなどは500gで3000円ぐらいでしょうか。

日本より安いが、私には日頃縁のない食材です。

さらに一料理当たり400円から2000円を支払います。

 

15年前ほど、初めて廈門に来た時、川船で地元料理の海鮮料理を食べたことがありました。

この時は、食べると口に砂が残ったことを思い出します。

 

隔世の感があります。

人々の暮らしが格段に向上していることを思い知らされた。

ちなみに、一人当たりのGDPで、中国は日本の約1/4にまで急伸した(2019年)。

中国では農村部と都市部の所得格差が大きいので、廈門のような大都市の裕福な人々は、あまり日本と差がないのかもしれない。

 

 

 

< 10. 驚きの光景 >

 

上: 麗江の忠义市场にて、生肉を手に取るお客

 

ここは古城の隣にある大きな市場で、あらゆる食材が売られています。

中でも驚いた光景がこれでした。

15年ほど前、中国福建省の田舎を走っていると、道端でこのような肉の販売風景を見て驚いたことがあった。

今回さすがに、どこに行っても道端の屋台で生肉を扱っているのを見なかったが。

 

やはり衛生意識はまだ低いようです。

もっとも中国では、魚と肉を生で食べることは無いので、問題はあまりないのかもしれないが。

 

 

下: 廈門の内海の浜で

 

朝早く、宿舎を出て浜を散歩していると、ハゼ似た魚を獲っている漁師を見た。

この内海には大きな干潟が広がり、そこには一辺20mほどの四角に仕切られた浅い池が無数にあり、そこで漁をしているようでした。

写真に写っている川は、巨大な団地から内海に排出されている水流です。

 

魚は新鮮だろうが、不衛生極まりない(浄化槽を経ているかは不明)。

個人で食べるのなら良いが、状況から判断して彼はおそらく市場に持って行くのだろう。

 

こんなこともありました。

麗江の忠义市场で乾燥椎茸を、蘭州の大型スーパーで乾燥松茸を買った。

その後、半年ぐらい料理で使っていると、忠义市场で買った椎茸からは蛾が湧いたので捨てた。

スーパーで買った松茸は最後まで美味しく食べた。

 

残念ながら中国の食品は、まだ安心出来ないようです。

しかし中国の生活水準が急速に良くなっているので、いつまでも悪い状況が続くとは思えないが。

それにしても現地で食材を買うのが楽しみなだけに残念です。

 

 

 

< 11. 夜の賑わい >

 

上: 北京にて

下: 昆明にて

 

共に大都会の夜は、イルミネーションが輝き、若い人で溢れている。

ビルの中の飲食街の店舗は、料理や運営システムを日々革新させていると感じた。

けっして昔のままの姿ではない。

 

 

* 中国と北欧と日本

 

北欧人が求める暮らしとは、自然の近くで家族や友人と共に過ごすことであり、遅くまで仕事をして会社に滅私奉公をすることではない。

また多くの人は夜遅くまで町中で騒ぐことを楽しみにはしていないようです。

もっとも観光情報によれば、ストックホルムではナイトライフを愉しむレストラン街が増えているようでしたが。

 

中国では、精一杯働いて稼ぎ、夜、町中に出て愉しむことで英気を養っているように見える。

彼らには国が発展すると言う確信がみなぎっているように見えた。

これが活力を生んでいるのだろう、かつての日本もそうでしたが。

 

中国と北欧には似た所がある、それは共稼ぎであり男女平等と言えるかもしれない。

だが中国労働者の生活スタイル、労働と娯楽のパターンが日本と同じように思う。

自由経済と急成長がそうさているのかもしれないが。

 

では日本はどうだろうか?

30年ほど前に経済のピークを終え、豊かにはなったが、さりとて北欧のように、会社人間から家庭第一に切り替わる気配は無い。

また家事分担も含めて職場でも男女平等は大して進まなかった。

むしろ経済が停滞する中で、かつての栄光の余韻に浸り、昔ながらの愉しみを引き摺っているように思える。

 

ただ中国の一部の衛生観念の低さを見るにつけ、東アジアと北欧の違いが目に付く。

推測に過ぎないが、中国の報道機関が適正に働いていないことが、最大要因では無いだろうか。

報道機関が、日々の生活上の問題、例えば公害や衛生問題などを厳しく指摘するようになれば、社会は日常的に是正されて行くはずです。

この点に中国の弱さがあるように思う(将来の日本も)。

 

ちなみに報道の自由度では、北欧4ヵ国が世界トップ1~4位を20年間ほぼ維持し続け、中国は悪化傾向にあり現在177位で、180ヵ国中最悪に近い。

日本も悪化しているがかろうじて66位で、民主党政権時代は11位になったこともあった(政府次第です)。

 

 

次回に続きます。